源清麿(刀工)
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源清麿(みなもときよまろ)
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生涯
上田
江戸
- 天保5年(1834年)、23歳の時に養家を飛び出して江戸に上り、幕臣の軍学者で剣術家でもある窪田清音(くぼたすがね)の門を叩く。窪田清音はその腕前に驚き、早速屋敷の片隅に専用の鍛冶場を用意する。
- 天保10年(1839年)に窪田清音が「三両払えば1口作る」という”武器講”を募集したところ、あっという間に三百両100口の応募が集まったという。この時、最初に仕上げたとされるのが「山浦環正行天保十年八月日武器講一百之一」と銘のある刀であり、現在は重要美術品に指定されている。
茲に於て先生(窪田清音)は門弟に頼み、一人三両掛けの無盡を始め、其金を以て師(源清麿)に刀を造らしめ、籖(くじ)を以て順次一本ずつ渡すの定めとせり、これ一方には修行の功を積ましめ、一方には安直に刀を得しむる、双方便宜の方法を設けられたるなり
(門人清人による)
- しかし天保13年(1842年)清麿は、武器講の全てを仕上げることなく長州藩家老村田清風の誘いに応じ長州藩に旅立ってしまう。この頃の作を「長州打」と呼ぶ。年紀銘から、長州駐槌は天保13年8月~天保14年8月までの1年間とみられる。
- その後、天保15年(1844年)小諸城下に数ヶ月駐槌したのち、江戸に戻る。
- 若年のころからの深酒がたたり、軽い脳震盪にかかったのを悲観し、嘉永7年(1854年)11月14日、42歳で突如として自害。
- 剣術の腕前も高く、清音の道場では代稽古もつとめていた。
銘
- 初期文政末ごろ~天保10年(1839年)ごろ:一貫斎秀寿、山浦内蔵正行、秀寿
- 天保10年(1839年)~弘化3年(1846年)8月:山浦正行、源正行
- 弘化3年(1846年)8月~嘉永7年(1854年):山浦環源清麿、源清麿
- 当初は「正行」を名乗っていたが、33歳の時に師匠である窪田清音(くぼたすがね)より「清」の一字をもらい「清麿」を名乗る。本来は「すがまろ」だが、現在は「きよまろ」で広く名が通っている。
- 寡作で知られ、一説に生涯鍛えたのはわずか130振り前後であったという。
江戸三作
四谷正宗
義侠心
- 清麿は義侠心のある人として知られており、ある時江戸取締りに出てきていた庄内藩士が、庄内藩では鈍刀を持つ者は罰せられるため名刀が欲しいと切々と語り、しかしながら足軽の身ではお金がなく入手できないと嘆息したという。すると清麿は数打ちで良ければ作ってやると言って早速作ってくれてやったのだという。するとその噂を聞きつけた庄内藩士が続々と頼みに来てしまったという。
- 幕末、奥羽越列藩同盟の中心勢力の一つとなった庄内藩ではこの清麿作の刀で思う存分戦うことができたと古老が語ったという。
著名作
- 脇指
- 銘「天然子完利 二十七歳造之/一貫斎正行十八歳造之 文政十三年四月日」。兄との合作
江戸(正行銘)
- 刀
- 銘「山浦正行於海津城造之 天保三年八月日」
- 脇指
- 銘「信濃國正行/窪田清音佩刀 天保癸巳歳秋八月」※天保3年
- 刀
- 銘「山浦内蔵之助源正行/為鹽野入氏作之 天保五甲午歳二月」長二尺三寸四分、反り五分。
- 刀
- 銘「山浦環正行天保十年八月日武器講一百之一」長二尺三寸五分。重要美術品
- 刀
- 銘「山浦環正行/武器講一百之一/天保十年八月日」昭和16年9月24日重要美術品指定、木村貞造氏所持。
- 短刀
- 銘「まつよい/天保十年正行造」
長州打
- 刀
- 銘「於萩城山浦正行造之/天保十三年八月日」
- 薙刀
- 銘「於長門國正行製/天保十四年二月日」
- 短刀
- 銘「恭呈 西涯礀先生/於長門國正行製」西涯は長州萩藩の家臣で画家。礀(はざま)西涯。
- 刀
- 銘「於信州小諸城製源正行/天保十五年八月日」長州を出た後に信州小諸に戻った際の作。
帰江後(清麿改銘)
- 太刀
- 銘「為窪田清音君 山浦環源清麿製/弘化丙午年八月日」昭和16年9月24日重要美術品指定、木村光生所持。刃長80cm、反り1.9cm。表裏に二筋樋の彫物、なかご生ぶ。目釘孔1個。伊東巳代治旧蔵。昭和40年1月14日長野市指定文化財。昭和45年時点では松本市の江原正一郎氏蔵。長野県宝。個人蔵
- 十文字槍
- 銘「源正行/弘化二年八月日」
- 短刀
- 銘「源正行/弘化三年二月日」
- 短刀
- 銘「源清麿/弘化丁未年二月日 依鳥居正意好造之」長28cm、反り0.4cm。おそらく造り。昭和52年11月17日長野市指定文化財。長野県宝。
- 刀
- 号 一期一腰の大 銘「源清麿/嘉永元年八月日」 「一期一腰の大・小」
- 不明
- 「源清麿/嘉永二年二月日」
- 短刀
- 銘「源清麿謹造/忠孝貞守護」
- 脇差
- 銘「蛮夷窺邉烈士廃眠 在朝斬奸富敵無前/源清麿」土浦市立博物館所蔵
- 「源清麿/正明佩之血痕錆也」二尺五寸四分。清河八郎所持
系譜
- 山浦真雄は実兄。兄の子・山浦兼虎は清麿の元で学んだ。
山浦真雄(やまうらさねお)
- 源清麿の兄。
- 完利、寿昌などと銘し、のち正雄、真雄、さらに晩年は寿長と銘した。
清麿の弟子にも源正雄がおり、読みが被るために清麿兄を「真雄(さねお)」、「山浦真雄」と呼び、清麿弟子の源正雄を「正雄(まさお)」、「江戸正雄」と呼ぶ。
- 詳細及び著名作は「山浦真雄」の項参照
山浦兼虎(やまうらかねとら)
弟子
- 弟子には栗原信秀、鈴木正雄、斉藤清人(藤原清人)などがいる。
藤原清人(ふじわらのきよんど)
- 源清麿自刃の際、多くの門人たちは離散するが、その中で藤原清人が一人残り、清磨の残した三十余口の刀債を完済して師の恩義に報いたという。
- 詳細は「藤原清人」の項参照
源正雄(まさお)
- 本名は鈴木次郎。美濃の鈴木飛騨守の子孫という。
清麿の弟子にも源正雄がおり、読みが被るために清麿兄を「真雄(さねお)」、「山浦真雄」と呼び、清麿弟子の源正雄を「正雄(まさお)」、「江戸正雄」と呼ぶ。
- 美濃から江戸に出て清麿に師事する。嘉永5年(1852年)4月に斉藤清人が入門した時には独立していた。
- 下谷御徒町に開業。嘉永6年(1853年)の年記銘が残る。
- 安政4年(1857年)から幕府は函館五稜郭の築城と亀田郡尻岸内村古武井に製鉄所の建設を初めており、そこに招かれている。道中、奥州盛岡や三戸で刀を打っている。安政5年に函館につくと、「於函館山麓」と刀銘を切っている。2年ほど函館におり、万延元年(1860年)には江戸に戻っている。文久3年(1863年)には宇賀浦の砂鉄で作った刀に「むさし野」と異名を付けている。
- 美しい草書体で銘が切られている。
- 短刀
- 銘「源正雄/安政五年八月日 以蝦夷地沙鉄造之」
栗原信秀(のぶひで)
- 越後西蒲原郡月潟村の栗林某の長男。文化12年(1815年)生まれ。
- 通称謙次。7歳で父を失い、母が呉服行商人と再婚したため、南蒲原郡三条町に移る。
- のち清麿に入門。天保の末には独立とみられる。元治元年の第一次長州征伐で大坂の今宮で盛んに鍛刀した。
- その後も大坂に残り、金ができたため慶応元年(1865年)5月2日付で筑前守受領。同年暮れには、14代将軍家茂に一尺一寸七分の平造りの脇差「差表に草の剣巻き竜」裏「君万歳」を献上している。
- 慶応2年(1866年)7月20日に幕府軍が引き上げた後も大坂に残り、翌3年正月も大坂にいた。このころ高野山の奥の院への参道に、師匠である山浦清麿(源清麿)の墓碑を立てている。
- 明治後に新政府に呼び出され、湊川神社への奉納刀のほか、天国や正倉院宝刀の模造、ウィーンの万国博覧会出品刀などを作っている。また鉄鏡の製作も行い、郷里の三条市、八幡宮や弥彦神社奉納の鉄鏡などを作っている。
窪田清音(くぼたすがね)
清麿の後援者
幕府講武所頭取・兵学師範役
- 詳細は「窪田清音」の項参照
斉藤昌麿(さいとうまさまろ)
源清麿の後援者
国学者
江戸末期の志士
- 享和2年(1802年)下総国小浜で生まれる。
- 幼名寅之助、のち源助。雲根斎と号す
- 江戸に出て神田左衛門河岸の御用札差笠倉鐵之助の養子となる。橘守部冬照について国学を修め、和歌を能くした。
- 勤王の志篤く直接運動もしたため、安政の大獄で検挙され改預けとなる。翌年町役人に預けられるが、出入りの諸侯の運動で釈放されている。
- 著作に、獄中で著した「夢の浮橋」、後年編集された「昌麿歌集」がある。
- 清麿はこの昌麿と深く交流したという。一説に清麿の名は、清音と昌麿から一字ずつもらったともいう。源清麿の墓碑も斉藤昌麿が建てたものである。
参考
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