高橋箒庵


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 高橋義雄(たかはしよしお)

日本の実業家、茶人、新聞記者、著述家
号 箒庵(そうあん)

Table of Contents

 概要

  • 大正期を代表する茶人の一人。
  • 水戸藩士の父母のもとに生まれ、のち慶應義塾に学んだ後に時事新報記者になり、さらに欧米を視察した後に三井へと入り実業界で活躍した。

    余は水戸藩士の家に生れ、少小藩學に在りて漢籍を修め、後慶應義塾に學んで出世の初め時事新報記者と爲り、更に轉じて實業社會に入りし
    大正名器鑑

 生涯

 水戸にて

  • 水戸藩士高橋常彦の四男として生まれる。

    私の家は父の四代前より水戸家に仕へた者で、祖父彦左衛門は拙翁と號して一廉の人物であつたらしい、父は常彦と云ひ武家氣質の正直者だけに、格別出世もせぬ代り彼の黨人等に憎まれもせず、維新前水戸藩主が京都守護を命ぜられた時は之に扈従して同地に赴き、暫く滞京した事があつて、私は父より毎度當時の物語を聞かされた、
    (箒のあと)

  • 実家は明治維新後に困窮しており、13歳で相田村の呉服店「福田屋」に丁稚奉公に出され3年奉公している。

    私をば桑名氏の世話で茨城縣下多賀郡相田村の福田屋と云へる呉服荒物小賣店の丁稚小僧に住み込ませる事となつた。是が明治六年私の十三歳の年であつたが、(略)此福田屋と云ふのは三代前の主人が水戸上市福田屋の番頭で事情あつて此村に土着し、本店の暖簾を分けて貰つて營業を繼續し、今は多賀郡中の資産家と爲るに至つたが、其頃の主人は近藤忠兵衛と云つて、五十餘歳でデツプリと肥つた風采の立派な人物であつた。

    私は相田村の福田屋に十三歳より十六歳まで足掛四年、正味三年丁稚奉公をして居た

 慶應義塾・時事新報社

  • 明治11年(1878年)水戸上市師範学校内に中学予備校が新設されたのを受けて、同校に入学。翌年、同校は茨城中学校となり高橋義雄は第一期生となっている。
  • 茨城中学卒業後は地元で就職するつもりだったが、福沢諭吉が新聞事業のため文章のうまい学生を探しているという話を聞き、上京。明治14年(1881年)6月に慶應義塾に入学して約1年間学んだ。

    明治十四年は私が二十一歳で丁年に爲つた年で、然も身上に大變化の起つた年である。卽ち足かけ四年間在學して最早や三四ケ月で卒業する筈であつた中學校を退學して上京の上、慶應義塾に入學する事となつたからである。此上京の端緒は全く松木直巳氏に依つて開かれたのであるが、其仔細は此頃福澤先生は在朝の大隈、伊藤、井上三参議と協議して、立憲政體を樹立するに先ち民間の政治思想を開發すべく、先生が主筆として一大新聞を發行せんとする計畫を立てられた。
     是に於て先生は新聞記者に適黨なる文章家を養成する必要を感じ、松木氏が水戸の中學に文章を能くする青年が四五人あると申出でたのを聞いて、(略)處で先生は松木氏に向つて、水戸の學生に夫れ程能文者があるならば其學生を慶應義塾に入れて、卒業の後新聞事業に就かしめては如何、其間の學費は自分が支給して遣つても宜いと言はれたので、松木氏は大悦びで水戸に歸り、先づ之を私と渡邉治に傳へられたので、私と渡邉は二つ返事で承諾した。是れと同時に松木氏より石河幹明、井坂直幹兩氏にも同様の相談を爲したので、私と渡邉よりも稍後れて兩氏も亦上京して、福澤先生庇護の下に慶應義塾に入學する事と爲つた。

    松木直巳(直己とも)は茨城師範学校長。中津出身。中津藩士松木守衛の長男で、慶応義塾の事実上の分校であった中津市学校の卒業。明治11年(1878年)に茨城師範学校に赴任。師範学校一等教師から教頭、校長を務め、明治19年(1886年)には茨城縣学務課長も兼任した。

    渡邉治は明治期の政治家、新聞記者、経営者。渡辺台水。茨城縣出身。慶應義塾を修了後、時事新報社入社。明治21年(1888年)大阪毎日新聞に主筆として招かれ、株式会社に改組後に初代社長。都新聞(みやこしんぶん)の経営も行った。

    石河幹明はジャーナリスト。時事新報主筆、茨城県会議員、慶應義塾理事及び評議員、交詢社常議員長。徳川家評議員。千代田生命取締役。従妹が松木直巳の妻。号は碩果生(せきかせい)

    井坂直幹は木材実業家。石河、高橋らと慶應義塾入学。時事新報に入社。その後大倉喜八郎、藤田伝三郎の共同事業日本土木会社に参加し大倉組庶務課長となる。大倉組と久次米商会の資本金による林産商会へ移り、秋田杉の集積地にして加工場であった秋田県能代市の林産商会能代支店長となった。そして林産商会が解散後も能代にとどまり、独立を決意。能代木材合資会社、能代挽材合資会社、秋田製板合資会社をおこし林業に従事し続けた。自らが興した3社を合併して秋田木材株式会社を設立し全国に支店を設置したほか、関連産業として電気、鉄工事業も手がけ事業を拡大し、能代市の木材産業の発展に大きな役割を果たし、能代市は東洋一の木都(もくと)と呼ばれるまでになった。

  • 明治15年(1882年)5月に友人の石河幹明、井坂直幹らとともに、福澤率いる時事新報の記者になった。当時の社長は中上川彦次郎。

    私は明治十五年四月に渡邉治と共に慶應義塾を卒業して、翌五月直様時事新報に入社したが時事新報は同年三月一日に初號を發行したばかりで創立日淺い時であつた。
    (略)
    私は明治十五年より二十年まで時事新報記者として、職務柄日々福澤先生に接近し、又初掲後二十年間に亘つて種々の場合に先生より聽聞した談話中、今尚ほ耳底に殘つて居る者は數限りないが、今思ひ出づるまゝ其二三を記録する事としやう。

    福沢にも評価されていた高橋だが、高橋自身は「新聞記者としての売文生活」に前途を見いだせず、傍らで著書を出版しながら箔をつけるために洋行を目論んでいた。

 渡米・渡欧

  • その後、生糸売買で成功した前橋の商人下村善太郎の息子・下村萬太郎(後の下村善右衛門)と知り合い、実業視察のための洋行話を取り付け、下村の援助で明治20年(1887年)9月に渡米する。

    上州前橋の下村善右衛門氏は私と同年輩で、明治十七八年頃東京に遊學中、正式に慶應義塾には入學せぬが、折々福澤先生方に出入して、學校外の弟子として其教を請ふ事があつた。當時は萬太郎と云ひ、嚴父善右衛門氏は、前橋の生絲製造業者で、

    親友の下村萬太郎の父善右衛門(善太郎)氏が明治十九年事生絲商賣で巨額の利を占め、當時の懸案であつた生絲直輸出を計畫せんとするに當り、先づ米國の狀況を視察すべく、適當の人物を選んで、彼の地に派遣しやうと云ふ折柄、萬太郎は父に向つて私を推薦したのであつた。(略)私が餘りに熱中して、矢も楯も堪らぬ様子なのを見て、到頭許可を與へられたので、明治二十年五月時事新報社を退き、渡米に先ち日本の生絲産地視察の爲め、上州の前橋、富岡を始めとして信州の上田、松本、諏訪等の製絲工場を歴訪し、更に横濱の生絲取引實況をも視察などして、九月中旬に一應調査が終つたので同月末、其頃米國通ひの汽船三千五百噸のゲーリツク號に乗り組み、前途春海の如き希望を抱いて、渡米の途に上つたのである。

    下村善太郎(1827-1893)
    前橋出身の生糸貿易商。父は下村重右衛門で小間物屋「三好善(みよぜん)」を営んでいた。幼名定之丞。17歳の時に家業を継いで善右衛門と称した。生糸商として成功し、川越藩主の前橋帰城に伴う前橋城再建に多額の寄付金を納め、慶応2年(1866年)には永年苗字帯刀を許される。明治後も前橋の発展に貢献し、明治25年(1892年)市制施行に伴い初代前橋市長となる。しかし翌明治26年(1893年)5月、上京の途中に発病し、辞職。6月4日に死去、享年67。葬儀は市葬で行われた。
     下村萬太郎(善右衛門)(1863-1934)
    この善太郎の長男が下村萬太郎(善右衛門)で、明治から昭和初期の実業家、政治家。幼名萬太郎。福沢諭吉から個人教育を受けており、高橋義雄とも繋がりがあった。前橋市会議員、群馬県会議員、衆議院議員を2期務めた。実業界では下毛板紙会社を設立して社長に就任、横浜漆工会社取締役、上毛物産会社取締役、第三国立銀行取締役、東京交詢社員などを務めた。
     ※家業「三好善」を継ぐ際に「下村善右衛門」を名乗るため名前が被っているが、一般に「善右衛門」の名で記されるのは息子の萬太郎であり、(初代前橋市長である)父は「下村善太郎」の名で記される。

  • 明治20年(1887年)よりニューヨーク郊外の商業学校に学び、デパートなど商業視察を行なったのち、明治21年(1888年)5月には渡英。ロンドン、リバプールに滞在中にパリ、ブリュッセルも視察し、明治22年(1889年)に帰国。ブリュッセルでは、後に親交を結ぶことになる益田孝の長男・益田太郎と出会っている。

    米國の商習慣を調査するの必要を感じ、先づ米國商業學校に入つて、其原則を考究して置くのが捷徑であらうと思つたので、紐育より七十哩を隔つるホドソン河上流のポーキブシーと云ふ處に在る、イーストマン商業學校に入學して、翌年三月迄同地に滞在し、同月同校卒業後、紐育に移つていよいよ米國の商業狀態を視察する事と爲つた。

    私が明治二十年十月、渡米後未だ一年ならざるに、日本に於ては私の後援者たる下村氏が生絲の相場に失敗して、私に調査せしめつゝあつた生絲直輸出の計畫を實行する能はざる事となつたに就ては、誠に氣の毒であるが、此手紙一覧次第歸國して貰ひたいと云ふ事であつた。(略)扨て下村氏の送金が絶え、福澤先生の補助を斷はつた上は、何とかして今後の海外滞在費を才覺しなくてはならぬので、百方考慮の末、當時全権公使として伊太利に駐剳中であつた、舊水戸藩主徳川篤敬侯に一書を送つて、救助を請ふた處が、侯は直に之を快諾せられたので、私の悦びは天にも昇らんばかりで、此上は日本と大に國情を異にする米國に滞在せんよりも、一般商業視察を目的として歐州に赴き、英國を中心として諸國を歴訪しやうとするに決し、同年四月末紐育より七千噸のアンブリヤ號に乗込み、英國リバープール港に入港したのが實に倫敦シーズンの始まる五月一日であつた。(略)私は英國到着早々此光景を面白く記述して、福澤先生の許に送つた處が、先生は早速之を時事新報に掲げ、爾後外國滞留中は、時事新報記者として通信して貰ひたいとて、若干の通信料を贈られたので、重ねゞの恩恵に浴し、爾後約二年間不自由なく英國に滞在する事を得たのは、誠に望外の仕合であつた。

    私が明治二十二年の九月、印度洋を經由して神戸港に着するや、(略)斯くて私は、當分客員の資格で時事新報に執筆する事と爲つたが、此時私の新人振に大に秋波を送つたのは、日本郵船會社副社長であつた吉川泰次郎氏であつた。(略)處が私は明治二十三年に入つて、横濱貿易新聞を主宰する事と爲つた。

    帰国時期は、別の箇所で「二十二年の八月」と書いておりブレがある。この後、吉川泰次郎に様々な人物への紹介をされており、さらに井上馨や山縣らの知遇を得ている。

    吉川泰次郎(よしかわたいじろう)は実業家、教育者。紀伊の生まれでのち慶應義塾に学び、宮城師範学校校長に就任する。明治11年(1878年)には郵便汽船三菱会社に入って神戸支配人・東京支配人を歴任し、明治27年(1894年)に2代目の社長となった。明治24年(1891年)には佐久間貞一と日本吉佐移民会社設立しており、明治28年(1895年)肺結核で死去。
     日本郵船はもと九十九商会。国策会社日本国郵便蒸気船会社として設立され、解散後に郵便汽船三菱会社と改称。明治8年(1875年)には三井系の国策会社である共同運輸会社と合併し日本郵船会社を設立。明治26年(1893年)には株式会社日本郵船株式会社が誕生している。

 三井入り

  • その後、明治24年(1891年)1月に三井銀行に入社した。

    私が三井入りの端緒は、明治二十三年の十月頃から開かれた。是れより先井上馨侯は、私が歐米商業視察後、商政一新と題する新著に、日本の商業組織革新を説き、當時に於ては、可なり尖端的なる實業論を發表したのを見て、頗る共鳴する處あり、屢々私を自邸に招いで、我が國財政に關する既往の経験やら、將来の方針やらに就て、談論せらるゝ事があつた(略)其頃侯が三井家主人より、同家財政革新の事を以来されたのを幸ひ、私を此革新の急先鋒として、同家に採用せしめんと決意せられた者であらう。(略)左らば其旨三井と深い關係がある澁澤榮一と、三井物産會社の益田孝に傳へて置くから、其中兩人と會見したら宜からう、と云ふ事で、茲に私の三井入りが決定した次第である。

    二十三年十二月二十日頃であつたか、兩人は焼失前の帝国ホテルに小宴會を催し、三井關係の實業家連中十數名を會合した席上に私を招き、歐米商業視察談を請はれたので、(略)押し詰まつた二十七日の午前十時事であつたか、澁澤子は、私を兜町の澁澤事務所に招ぎ、君の三井入りが愈よ決定したから、是れより拙者が同道して紹介する事にしやうとて、用意してあつた馬車で、當時東京第一の西洋館でハウスと呼ばれた、駿河町の三井銀行に同伴せられ、其二階大廣間で總長三井高喜、副長西邑乕四郎、幹事石川良平、今井友五郎、支配人齋藤専藏等と會見した。

    私は明治二十四年一月元日、三井銀行に出勤して重役連に年始の祝詞を述べ、同六日より日々勤務する事となつたが、當時の三井銀行は、東京で建築せられた最初の木造西洋館で、駿河町の表通りより、少しく入り込んだ正面より營業部に入れば、其奥の方に大元締の役場があつた。(略)明治二十四年私は三十一歳で三井の人と爲り、爾後二十一年間同家に奉公したから、先づ此三井の家柄に就て一言して置かう。

  • 明治28年(1895年)には三井呉服店(三越)の理事に就任し、様々な経営改革を行う。洋服部を廃止して呉服専業とした他に、大福帳をやめて簿記会計を導入したり、住み込み・年季奉公の店員を通勤・給料制と改めたり、高学歴者を採用するなど、経営の近代化に努めた。特にショーウィンドーを設けて商品を陳列するアメリカ式の販売法を導入したことは特筆される。
  • 高橋が大正4年(1915年)に出版した「実業懺悔」には益田孝が序を寄せているが、そこで益田は「予が最も感服したるは、君が三井銀行より呉服店に轉じ、所謂越後屋傳來の商賣に大革命を加へたるに在り、(略)店舗全部を開放して陳列場となし、客の好む所に從ひ、選擇するに任せ、自他共に愉快にして便利なる商賣となしたるは、實に君が新工夫にして破天荒と云はざるべからず、三越呉服店が氣運に乗じて、今日の「デパートメント・ストア」を成したるは、爾後、日比翁助君等の經營に俟つこと多しと雖も、其端緒は高橋君の創意によりて拓かれたる也」と記している。
    また「三越治革史」では、その他、呉服事業への復帰、夫人晴着に新風をもたらしたとし、更に様式朝暮(簿記)の採用、学卒者の採用、従業員の住み込み制度を廃止して通勤させるようにした上で年季制度を廃止して給料制を採用したこと、仲買人を廃止して直接買い付けを行ったことなどが評価されている。
     高橋の経営改革は、同窓(慶應)の日比翁助に引き継がれる。1904年(明治37年)、三井呉服店は三井家から独立して株式会社化し、日比が経営責任者(専務取締役)となって、さらに改革が進められることになる。
  • 高橋は三井鉱山などの経営にも関わって三井家の重役のなかでもとくに勢力があり、贅沢な暮らしぶりで知られた。明治44年(1911年)、51歳の時に王子製紙の専務(事実上の社長職)を最後に実業界を引退し、以降は茶道三昧の生活を送っている。

    私は前項に述べたやうな次第で、明治二十四年より、身を實業界に投じて、三井銀行に入り、同二十八年より、更に三井呉服店の改革に當り、三十二年、三井鑛山會社理事を兼勤し、三十七年、三井呉服店が株式會社三越と爲るや、私は程なく三井鑛山會社理事専任と爲り、同四十二年、三井營業店組織變更後、三井を代表して王子製紙會社長を引受け、四十四年、同社苫小牧工場完成の機會を以て、豫期の通り引退の決心を爲し、同年初冬、藤原銀次郎氏に後任を譲つて、愈よ實業社會に告別したのである。

    ただし実際には順調な辞め方ではなかったことが「王子製紙社史」に記される。それによれば、苫小牧工場設立後の決算取締役会において、高橋が井上馨の意志を受けて5%配当復配を提案するも、鈴木梅四郎及び前山久吉、大橋新太郎らの強力な反対を受け8%配当に変更されてしまう。これに井上は怒り、第75期株主総会において取締役全員を任期満了とし鈴木、前山両名を改選させない方針を打ち出す。総会当日は波乱含みで始まり、会長であった朝吹英二が円満に解決させることを優先して全取締役の改選重任を決してしまう。井上は相当な荒れ具合で遂に高橋を切ると言い出したため、朝吹は自ら王子製紙会長だけでなく三井関連全職を投げ打つ代わりに鈴木・前山両名にも辞任を迫り、明治44年(1911年)10月20日に臨時取締役会を開き、高橋をも含めた取締役全員が辞任することになった。
     なおこの王子製紙とはWikipediaでは「王子製紙 (初代)」として記される会社である。昭和8年(1933年)には王子・富士・樺太工業が合併して所謂「大王子製紙」が誕生する。第二次大戦後の財閥解体で解体され苫小牧・本州・十條の各製紙会社となるも、この苫小牧製紙がのち王子製紙(2代)となり数々の合併を経て新王子製紙となり、さらに本州製紙を合併して王子製紙(3代)となった。これが分裂して王子ホールディングスと王子製紙(4代)となったのが現在の状況である。十條製紙の方は、日本製紙となっている。

 著述家として

  • 大正名器鑑」、「東都茶会記」など茶道に関する書籍を多数著しており、その他随筆「箒のあと」、「萬象録 高橋箒庵日記」なども出版した。新聞記者であったためか、著作は一種独特の調子で、簡潔でありながら論理的で実証主義に基づいた文章を書く。これらの著作により、当時の茶道界や古美術界の動きを詳細に知ることができる。これは高橋が「箒のあと」に記した狙い通りである。彼の著述により、21世紀に生きる我々が約100年前、大正前後の斯界の活き活きとした動きを知れることは喜びでしか無い。

    私は明治四十五年初より閑散の身となるや、第一茶會記録を作る事と、第二感想日記を認むる事を思ひ立つた。(略)明治時代も四十四年を過ぎ、今やいよいよ文化の熟爛期に入らんとして居るから、文學、美術、工藝、茶事風流の諸道とも、今後一層複雑頻繁に成り行くであらう。此時に方つて、身自から其方面に直接する者が、其實狀を記録して置いたなら、後世より今日を覲察せんとする者の爲、極めて有力なる材料となるであらう。(略)然るに私等が今日遭遇して居る明治の時代も、後世より振り反つて見たらば、太閤時代に於けるが如き人物に乏しからず、別して茶人は知識階級に屬し、一代の風雅を背負つて立つ人々が多いから、此等の人々に關する寫眞的記録を作つて置いたら、後人をして據つて以て、現代の半面を推想する事が出來るであらう。(略)
    第二感想日記は、明治四十五年五月中旬より執筆し始めたが、之に就き私の考は、凡そ時代の事相は、彼の活動寫眞の如く、朝暮眼前に展開して行くが、幻影去つて又留め可からず、目撃者にして之を記述し置かざれば、天下後世何に據つて之を追跡する事を得やう。左れば日々の事相を有のまゝに筆記し、後人をして當時の實況を知らしむるは、各時代を通じて學者の本分である筈だが、日々見慣れ聞き慣れた事件は、其時にあつて別に珍しいとも思はず、わざわざ筆記して置く程の價値もなからうと思つて、之を等閑に付するのは、各時代を通じての常弊である。茲に人あり、日々見聞の事實を採録して置いたならば、其人の位置見識如何に依つて、此記事が事實を反證する資料と爲り、現代に於ては、左まで重要視されざる迄も、後世に至りては、據つて以て其時代を判斷するの金科玉條とならぬとも限らぬ。(略)近代に至つては、新聞雑誌が盛に行はれて、日常萬般の事相を報道する事とはなつたが、此等の記事が、悉く事實の眞相を傳ふる者であらうか、中には爲にする所あつて、曲筆する者がないにも限らぬから、之に據つて時代の眞相を窺はんとするは、頗る危険で、茲に最も公平にして、最も思慮ある目撃者の感想日記が必要なる所以であらうと思ふ。

 茶人として

  • 高橋義雄の雅号「箒庵(そうあん)」は、元々は明治31年(1898年)に麹町に構えた自宅に茶室を建設し、それに「箒庵」と名付けたことによる。

 茶室「寸松庵」

  • なお高橋義雄が最初に手に入れた茶室は「寸松庵」である。この茶室は元々佐久間将監実勝が元和7年(1621年)に大徳寺龍光院内に建てた三畳台目の茶室である。
  • 明治12年(1879年)にこれが維持困難となったために売りに出され、茶室については華族・石山基文(姉小路公遂の二男、石山基逸の養子。宮内省で侍従まで進み、子爵を叙爵。)が買い取り新宿御苑の借地内一角に移築する。これを石山の邸宅に移り住んだ由利公正が譲り受け、その後井上馨の友人である杉孫七郎の紹介で高橋が四千圓で買い取ることになった。

 茶室「箒庵」

  • この「寸松庵」を購入した数年後には、麹町邸内の西南に三百余坪の空き地があるのを利用して、三畳敷きのわび茶席を供えた茶室「箒庵」を建てている。淀川の景色を眺める藤村庸軒の「淀看席」を模し、箒川の景色を写さんとして樹木の合間から水流を見せる趣向にしたため箒川を庵号にしようとするが座りが悪いため、川を取ってしまい茶室名を「箒庵」としている。のちこの庵号を雅号とした。
  • この茶室「箒庵」は、「寸松庵」と共に中井新右衛門(中井銀行)に譲っており、のち関東大震災で焼けている。
  • 明治44年(1911年)に実業界を退いた高橋は、2年後の大正2年(1913年)には四谷伝馬町に自宅を移し、茶室には「白紙庵」と名付けている。
    「萬象録」によれば、新宅地の検分は明治45年(1912年)7月。その後伝馬町の邸宅建築に関する記述が続き、大正2年(1913年)9月に移転している。
  • さらに大正6年(1917年)には、赤坂在住の按摩の談話を参考にして赤坂区一ツ木町に新宅を建てて転居し、前庭に伽藍石を敷き詰めた「伽藍洞」と名付けた広間に続き茶室「一木庵」を建てている。
    一木庵には、大正11年(1922年)11月29日にアルベルト・アインシュタインが茶室見学のために訪れている。この一ツ木町の邸宅は空襲により焼失し、敷地は現在TBSホールディングスの本社敷地に組み込まれている。

    大正十一年十一月二十九日午前十時、アインシユタイン博士が、茶式見學の爲め、夫人同道で、我が伽藍洞一木庵を訪はれたのは、本庵に取りて誠に光榮の至りであつた。

 護国寺檀徒総代

  • 経済的な苦境に陥っていた護国寺の檀徒総代を務め、境内の整備に努めた。茶道の総本山にしようと考えていたことから、護国寺への松平不昧公の分墓、園城寺日光院客殿の移築、茶室の整備などを行い、茶道振興に尽力した。益田孝、原三渓らと交友関係にあった。
  • 昭和12年(1937年)12月12日、77歳で死去。

 その他の逸話

 水戸徳川家評議員

  • 水戸藩士の生まれであり、明治25年(1892年)以降水戸徳川家の評議員となっており、財産の処分について助言を行っている。→ 「水戸徳川家の江戸藩邸

 美術品への嗜好

  • 明治22年(1889年)渡欧中に、現地で私設の日本美術館(ボウズ美術館)を開いていたジェームズ・ロード・ボウズの知遇を得、そこで日本美術を研究したことから愛好家になったと述べている。

    私は倫敦滞在二ヶ月許の後、當時倫敦で相識となつた河上謹一氏の紹介で、リバープール市の羊毛商で、日本名誉領事であつたゼームス・ロード・ボーズ氏の賓客となつた。ボーズ氏は非常な日本好きで、日本人と云へば、歡んで之を優遇する人であつたが、其頃五十五六歳で、美貌の夫人との間に一男三女あり、同地のプリンセス・ロードと云へる處に廣大なる邸宅を構へ、後庭に私立日本美術館を設け、日本の七寶陶器等に關する大部の著述もあつた。

    私は英國リバープール府に滞在中、名譽領事ボーズ氏の日本美術館で、偶然にも日本美術を研究する機會を得て、是れより大に美術愛好者と爲り、倫敦を始め大都市に入れば、必ず其美術館を訪問して、油繪だの彫刻だのを見るのが無上の樂みとなつた。

    ジェームズ・ロード・ボウズ(James Lord Bowes, 1834-1899)はリヴァプールで羊毛商として財を成した人物で、慶応3年(1867年)に開催された第2回パリ万国博覧会で目にした日本の展示品をきっかけとして日本美術への関心を持ち、コレクションを開始している。明治21年(1888年)にはリヴァプールの初代日本名誉領事に就任、明治23年(1890年)にボウズ美術館を開館している。陶器や七宝に関する研究書を出版するなどイギリスにおける日本美術受容に大きな役割を果たしたが、その死後、美術館は閉館されコレクション全点も競売にかけられ散逸した。

 三十六歌仙絵巻切断

  • 佐竹本三十六歌仙絵巻」を切断せざるを得なくなった際には、買い取り手が現れないという状況に対して、「我國寶中に於て屈指の珍品」ながらも「玩弄品たる繪巻物」(という当時の扱い)に大金をはたいては笑いものになるのだと言わんばかりの富豪たちに対する怒りを込めた文章を残している。

    然るに近來日本人の國寶觀に於て甚だ其意を得ざるものあり、舊蠟佐竹侯爵家所藏、信實筆三十六歌仙の入札賣却に附せらるゝや、日本國中の新舊富豪、手を束ねて之を傍觀し、進んで之を買収せんとする者なきにぞ、札元十數名暫く之を引受けて取敢ず當座の始末を附け、歳を超えて猶ほ之を買収する人なきに於ては已むを得ず二巻に纏まりたる三十六歌仙を、一片々々に分離して引受け原價を償却するの外なかるべしと決心せし由、抑も此信實歌仙巻が我國寶中に於て屈指の珍品たるべきは何人も異議を挟まざる所なるに、然るに我が新舊富豪が此絶體絶命の場合に臨み、國家の爲めに之を保護せんとする者なきは果して如何、是れ其價格の三十五萬餘圓と云ふに辟易せしが爲めかと云へば、必ずしも然らず、熟ら彼れ富豪等の心理を解剖するに、玩弄品たる繪巻物に對して斯かる大金を投じては世間の思惑も如何あらん、家の子郎黨の手前も亦考慮せざる可からず云々とて、相率ゐて趦趄逡巡せしものなるべし、嗚呼奚ぞ其思はざるの甚しきや、國寶は固より玩弄物に非ず、國家の存立上國民全般が相共に保護せざる可からざる者なり、然るに今我が國寶中の有數品が危くも分離滅裂せんとするを見て、進んで之を守護せんとする者なきは、畢竟我が新舊富豪の國寶に對する非常識に歸せざるを得ず、惟ふに今後も我が國寶の市場に出で來りて、同一の運命に陥る事なきを期せざれば、此機會に於て余は我が國寶觀を延べ、以て聊か大方の猛省を乞はんと欲するなり。

    結局「吉備大臣入唐絵巻」と同じで、言ってしまえば(元々の上下2巻の巻子装では)茶道具としては使えない(使いづらい)と考えたのだ。出せないことはないが出さなかった。「誰も買わなかったから買ったのだ。」という富田幸次郎の言葉が思い出される。分割され額装になった後は茶道具としての価値が高まったのか、茶人に評価されることになったのは皮肉なことだと言う他無い。

 著作

東都茶会記
国立国会図書館デジタルコレクション - 検索結果

最初は東都茶會記と題し、其後大正茶道記と改めて、大正十五年末まで、引續き時事新報に掲載し、昭和二年以後は、昭和茶道記と改題して、之を國民新聞に掲げ、同七年六月末まで繼續し、前後二十一年間、記録して置いたから、後人をして此間の消息を知るに多少の参考と爲るだらうと思ふ。

※第1輯上中下、第2輯、第7輯上がインターネット公開、第3輯上下、第4輯上下、第5輯上下、第6輯は送信限定
大正茶道記
昭和茶道記
昭和茶道記 - 国立国会図書館デジタルコレクション
茶道実演録
茶道実演録 - 国立国会図書館デジタルコレクション
大正名器鑑
高橋義雄による茶器辞典。

然るに明治大正の昭代と爲りては、交通機關の發達と共に、諸國に散財する銘物拝觀の便宜が増進したので、是れぞ千載一遇の好機會なりと思ひ、余は明治四十五年多年没頭したる實業界引退後間もなく直に名器鑑編纂の準備に着手し、大正六年頃より、全國銘器の國勢調査を實行し始めたが、此頃よりして舊大名家の藏器が續々市場に賣出され、銘器實見上非常の都合を得たので、其後数年間、調査と編纂とを継續し、大正十五年末に至りて、全部完成する事を得たのである。

近世道具移動史
昭和4年(1929年)出版。幕末以降の茶道具の移動履歴が記されている貴重な書籍。近世道具移動史 - 国立国会図書館デジタルコレクション
萬象録

私は右様の趣旨を以て、感想日記を作り始めたが、普通日記の如く、寒喧晴雨、起居音問の事を記すに止まらず、學者、政治家、實業家、文人、藝人等と應對した談話、其他目に触れ耳に聞いた事件を、悉く其中に記載したので、之を萬象錄と名附け、明治四十五年五月より、大正十年六月まで、足掛十年間繼續した處が、其日記が尨然として殆んど等身に達したから、斯くては折角骨を折つても、何人も之を讀む者がなからうと思ひ、本錄は此時を以て絶筆し、其後は普通の日記を認むる事とした。

※淡交社の「淡交」に昭和41年(1966年)4月~10月まで連載形式で掲載されているが、これは国会図書館限定資料。
※「万象録抄」として現代日本記録全集. 第7に抄録されており、これは個人送信資料。
思文閣から一括して出版されており、全部を読むことができる。
箒のあと
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趣味ぶくろ
趣味ぶくろ - 国立国会図書館デジタルコレクション

 刀剣

  • 刀剣にも興味を示しており、「風雷神虎徹」を所持したことが知られている。

 参考

  • 「文人実業家高橋義雄の生涯」 中川清
  • 「明治大正期における茶の湯と茶人 ──高橋箒庵と茶室の蒐集」 小山玲子

 関連項目


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