石灯籠切虎徹


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 石灯篭切虎徹(いしどうろうぎりこてつ)


銘 長曽根興里入道乕徹/石灯篭切
名物 石灯籠切
磨上二尺一寸二分

  • 目釘孔4個、上から2番目を埋める

 由来

  • 五千五百石の旗本、久貝因幡守というものが長曽根虎徹に刀を注文したが、打ち終わったところで虎徹が代金として百両を要求すると旗本が出し渋り、値切ったという。
  • 虎徹は怒り「私は何百両出しても打たぬものは打たぬ。その代わり切れ味はご覧のとおりだ」といって庭の松の太枝を切ってみせたところ、勢い余ってそばにあった石灯籠まで切り込んだという。
    • 湯島天神の石灯籠ともいう。
  • のち旗本が百五十両もってきたが、頑として売らず別の人間に渡してしまったという。

 来歴

  • 明治期には細川子爵家の所有となっている。
  • 戦前、細川利文子爵が所持しており、昭和10年(1935年)の「高島屋名刀展覧会」に出品されていたが、その後は不明。
    細川利文は公家園家(羽林家)の園基祥の子で、のち肥後高瀬藩(熊本新田藩)の10代藩主細川利永の娘同子と婚姻し養嗣子となった。園基祥の娘、園祥子が明治天皇に嫁した関係で、常宮昌子内親王(竹田宮恒久王妃)や周宮房子内親王(北白川宮成久王妃)の御用掛、御歌所参候を務めた。従二位。名物熊野三所権現長光」も所持していた。昭和19年(1944年)79才で歿。
     跡は長男の細川利寿が継いだ。利寿の妻は周防徳山毛利家10代当主の娘艶。

 久貝因幡守

  • この逸話に登場する「久貝因幡守」についてはよくわからないが、旗本に藤原氏支流の久貝氏がいる。先祖である藤原民部卿時長の息子左衛門尉時兼が越前乙訓郡を受領し久貝氏を名乗ったという。
  • 久貝正俊(法名道無)は、天正9年(1581年)生れで慶安元年(1648年)没。はじめ武蔵で千五百石、元和2年(1616年)に千五百石加増し与力同心を預けらる。寛永2年(1625年)に従五位下因幡守を受領。寛永10年(1633年)に二千石加増(五千五百石)。慶安元年(1648年)76歳で没。
  • 久貝正世は慶安元年(1648年)に遺領を相続、五千石を知行し、弟頼母正偏に四百石を分与。慶安2年(1649年)に榊原忠次が姫路藩に転封する際に城引渡しの役を務めている。寛文9年(1669年)没。
  • 久貝正方は、慶長18年(1613年)旗本形原松平家の生れで、のち、先に養子となっていた実兄八兵衛の死により久貝正世の養子となる。養子となった年代は不明だが、43歳時の明暦2年(1656年)に徳川家綱に初御目見えしているためこの頃と思われる。56歳時の寛文9年(1669年)に遺領相続。延宝3年(1675年)定火消し、元禄9年(1696年)火付改役、元禄12年(1699年)に勘定奉行を務め、同年12月に従五位下因幡守。寛永7年(1630年)に五百石を加増され五千五百石を知行する。享保4年(1719年)没。
  • なお久貝正方にも嗣子なく、水戸家臣久貝太郎兵衛正武の子正順(法名閑更)が元禄11年(1698年)生れでのち正方の養子となっている。御書院番頭を務め元文元年(1736年)に従五位下因幡守。元文5年(1740年)に没。
           ┏正久
     宇佐美長元─┸娘
             ├────┬正久(長元養子)
     久貝正勝──因幡守正俊  ├正世────娘
                  └頼母正偏  ├──因幡守正方━━因幡守正順
                 松平家信──松平民部少輔氏信       
    
  • 初代乕徹が江戸に移り住み刀工に転向するのが50歳で承応4年(1655年)頃、没年は不明だが延宝6年(1678年)とされる。久貝正方が発注したと考えれば年代的には合う。ただし因幡守を受領するのは元禄12年(1699年)。
    久貝正俊:寛永2年(1625年)従五位下因幡守、慶安元年(1648年)没
    久貝正方:元禄12年(1699年)従五位下因幡守、享保4年(1719年)没
    久貝正順:元文元年(1736年)従五位下因幡守、元文5年(1740年)没
    寛政重脩諸家譜で因幡守になった旗本久貝氏はこの3名しか見えない。

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