明治天皇


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 明治天皇(めいじてんのう)

第122代天皇
諱は睦仁(むつひと)、御称号は祐宮(さちのみや)
孝明天皇の第二皇子
生母は権大納言中山忠能の娘中山慶子

Table of Contents

 概要

  • 嘉永5年(1852年)9月22日13時頃、京都石薬師の中山邸にて生誕。安政3年(1856年9月29日)に宮中に移るまで中山邸で育つ。
  • 万延元年(1860年)7月10日、儲君(皇太子)と定められ、准后・九条夙子の実子とされる。9月28日、親王宣下を受け、睦仁という諱名を賜る。

 孝明天皇崩御と践祚

  • 慶応2年(1866年)12月25日、第121代孝明天皇の崩御を受け、儲君睦仁親王が翌慶応3年(1867年)1月9日に践祚して皇位を継承し、第122代天皇となった。
    当初、同年11月に即位礼を行う予定であったが、徳川慶喜による大政奉還など時勢が急速に変化していく中で、国事多難を理由に見送られた。

 即位礼

  • 慶応4年(1868年)1月15日、元服し同年8月21日からの一連の儀式を経て、8月27日(新暦10月12日)、京都御所にて即位の礼を執り行い、即位を内外に宣下した。※明治4年の大嘗祭は東京。
    この際、岩倉具視は津和野藩主で神祇官副知事の亀井茲監をして「御即位新式取調御用掛」に任命し、唐風儀式の撤廃と古式復興を命じている。唐風とみなされた装束や装飾は全廃されたため、礼服は廃止され、平安時代以来礼服に次ぐ正装であった束帯が使用されるなど、新時代にふさわしい新しい即位式が挙行された。

 年表

  1. 孝明天皇崩御:慶応2年(1866年)12月25日
  2. 践祚:慶応3年(1867年)1月9日
  3. 元服:慶応4年(1868年)1月15日
    ※後にさかのぼって改元されたため、慶応4年1月1日より明治元年となる。
  4. 伊勢神宮へ勅使発遣の儀:慶応4年8月21日
  5. 神武天皇陵・天智天皇陵・前三代天皇陵へ勅使発遣の儀:同年8月22日
  6. 紫宸殿・清涼殿御殿洗:同年8月23日
  7. 即位礼:同年8月27日
  8. 改元の詔書:明治元年9月8日
    ※改元は慶応4年1月1日に遡る
  9. 江戸行幸:明治元年9月~10月
    ※9月20日京都出発、10月13日江戸城着。同日”江戸”を”東京”に、”江戸城”を”東京城”に改称した(東京奠都)。
  10. 京都還幸:明治元年12月
    ※12月8日東京発、12月22日京都着。
  11. 東京再幸:明治2年3月
    ※3月7日京都発、3月28日東京城着。”東京城”を”皇城”と称することとした。同年10月25日皇后も東京に行啓。この時、大嘗祭は翌年3月に京都で行うと発表していたが還幸は延期され、明治4年3月になって大嘗祭が東京で行われることが発表された。
  12. 大嘗祭:明治4年11月17日
  13. 太陽暦導入:明治5年11月9日
    ※明治5年12月2日(1872年12月31日)の次の日(1873年1月1日)を「明治6年1月1日」と定めた。明治五年太政官布告第三百三十七号(改暦ノ布告)
  14. 皇城焼失:明治6年
    それまで皇居としていた旧江戸城西の丸御殿が、失火により焼失。新宮殿造営は見送られ、旧紀州藩江戸藩邸であった青山御所が仮皇居となった。紀伊徳川家の江戸藩邸
  15. 明治宮殿完成:明治21年10月7日
    旧江戸城西の丸跡に、京都御所を模した和風の外観に、椅子やシャンデリアのある洋風の内装という和洋折衷の様式の木造建築として建造された。以降「宮城」と称する。
  16. 大日本帝国憲法発布式:明治22年
    皇室典範で「即位の礼」と「大嘗祭」は京都で行うと規定。これに従い、大正天皇の即位礼及び大嘗祭、昭和天皇の即位礼及び大嘗祭は京都で行われた。東京・皇居で即位礼が行われたのは、新皇室典範が施行された後の第125代天皇からである。
  17. 京都御所を京都皇宮と改称:明治24年

 伏見桃山陵

  • 明治天皇の陵は、京都市伏見区の桃山にある。
  • 陵の敷地はかつて豊臣秀吉の築いた伏見城(木幡山伏見城)の本丸跡地であり、京都、奈良、大阪が一望できた。生前、この地をお気に召された天皇は、遺言によりこの地に埋葬することを望まれたという。
  • 大正天皇以降、皇室の陵墓は武蔵陵墓地(多摩御陵)に造営されており、京都(畿内)の地に埋葬された最後の天皇となった。

 愛刀家

  • 明治天皇は愛刀家で知られ、数々の逸話が残る。

     陛下御愛好の随一なるは、御刀劔にして、内外の御政務に大御心を勞らせ給ひしを、光芒一閃の御刀劔を眺めさせて、御鬱を晴らさせ給ふと承りては、誰か感激せざらんや。從て皇室御所藏の御刀劔は、數百口の多數に上り、毎月二三回宛交代に、御取寄せ遊ばされ、御座所の御守刀に置かせらるゝ中に、徳川家達公より、御献納参らせしは、中國に武威を振ひし名將毛利輝元、秘藏の宗瑞正宗と稱ひ奉る短刀にして、稀代の逸品なれば、殊の外御愛好あらせられしと拝承す。
     又往年侍講たりし元田永孚より、奉りたる名劔は、往昔後鳥羽の院が親しく鍛はせたれたる御品なれば、菊の御紋章を鏤め、黄金作とせさせ給ひ、日常御身近く佩かせ給ふ。
     今其御作裝の御模様を承るに、特に陛下の思召を以て、加納夏雄、香川勝廣の名匠に、御用仰付けられしは明治二十六年の春なりしと。之を以て兩匠は身に餘る光榮となし、齋戒沐浴十有三年間の苦心を積んで、作成し奉れり。而して其作裝に用ひられし地金は、佐渡の金山より、採掘洗練せし物を、更に大阪に送り、同所の造幣局に於て、再び洗練せられたるものなりと拝承す。

 愛刀

  • 古刀新刀を含め、業物300余振に及んだという。
  • 菊の御作を始め、鬼切丸、蜘蛛切丸、鵺丸、霜降丸、小雨丸、千種丸、隼丸などが由緒ある刀と伝わり、これらを御宝物庫に蔵置した。

     陛下は刀劔に就ては、特に多大なる御趣味と御鑑識とを有たせ給ふより、其御秘藏の寶刀寶劔は蒐集殆ど至らざるなく、苟くも世に聞へたる程のものは一も御秘藏中に存せざるはなけれども、就中正宗、義弘、宗近、國貞、安綱包平、氏房、氏廣、高平、助平、友成、義光、兼重、國次、國廣、忠廣、祐定忠吉、吉道、虎徹等の新古刀の業物三千餘振に及び、菊の御作を初め、鬼切丸、蜘蛛切丸、鵺丸、霜降丸、小雨丸、千種丸、隼丸等は何れも由緒ある名刀なり。而して是等は御寶物倉庫の一部に藏置せられ、平常係員の外竹中、野口、石川、安川、今井、堀田等の今代一流の研師は絶えず御用を承りて、其手入に鞅掌しつゝあると云ふ。
     今陛下が常に御側近く置かせらるゝ御守刀と御劔とを漏れ承るに、其御守刀は、御番鍛冶和泉守國貞の菊一文字、若狭守氏房、飛騨守氏廣、粟田口藤四郎の鬼丸造り等は太刀造にて、又御劔には信濃守國廣、武藏大掾忠廣、近江守忠綱、和泉守兼重、丹波守吉道、山城守國次等の作は、陸軍の指揮刀風に御拵へあり、何れも當代の名匠が丹誠を凝して作り上げたる希世の逸品なりと云ふ。

 御枕刀

  • 御内儀御寝の間には備前長船長光作で黄金造りの太刀が置いてあった。
  • 奥の御座所には、昼御座剣が備え刀であった。
  • 表の御座所には、多くの名刀が置かれていたという。この中には、元田永孚献上の菊御作、徳川家達献上の名物宗瑞正宗、加納夏雄・香川勝広作の黄金拵えの大小が含まれていたという。

    表御座所と申すは、天皇陛下が日日公に御政務を御親裁あらせらるる御殿なり、十間四方の御建物を四間に御劃あり(略)、御床の間に、先帝陛下(明治天皇)御在世の御時は御愛の御刀劔を幾十振となく飾らせられしが、今上陛下(大正天皇)におかせられても御昔を偲ばせ玉ふ思召にや、常に鹿の角の御刀臺に四五振の御太刀を掛けさせ給ふと承る。

 献上品

  • 愛刀家で知られた明治天皇には、巡幸のおりなどに各家から名物が献上されている。
徳川家達
銘 正宗(明治2年10月14日)
正倉院北倉
水龍剣(聖武天皇御剣、明治5年)
加藤明実
正宗短刀(明治5年8月20日) ※近江水口藩
大岡忠貫
粟田口国久太刀(明治3年閏10月) ※岩槻藩
大久保一翁
小竜景光(明治6年、山田浅右衛門家)
徳川宗家
鬼丸国綱本阿弥家、明治14年) ※明治4年か
佐竹東家
佐竹より義寿長宗・吉元合作太刀(明治14年9月17日)。秀吉から佐竹義久。
上杉家
徳用守家(明治14年)
備前国宗(明治14年)
前田家
平野藤四郎(明治15年)
篭手切正宗(明治15年)
北野江(明治43年)
宗義達伯爵
小烏丸(伊勢家伝来。明治15年)
土岐頼近
獅子王(明治15年)
有栖川宮熾仁親王
会津正宗(明治18年)
徳川家達
若狭正宗(明治20年)
宗瑞正宗(明治28年)
侯爵池田家
毛利藤四郎(明治24年)
浮田志津(明治24年)
田中光顕
鶯丸友成(明治40年)
土岐家旧蔵一文字助宗(明治28年1月14日)
広島浅野家
一文字則宗(明治27年)
福山阿部家
綾小路定利(明治28年)
仙台藩伊達宗基
鶴丸国永(明治34年)
福岡黒田家
菊一文字(明治35年)大日本帝国陸軍・福岡佐賀演習行啓の折、明治天皇に献上。現御物
姫路藩酒井家
古備前友成(明治36年)
伊藤侯爵家
(明治42年伊藤博文暗殺後)豊後行平、古備前正恒、備前順慶、備前長光、保昌貞吉、相州行光、筑前左など。
小浜藩酒井家
三条小鍛冶宗近太刀(現御物
尾張藩徳川慶勝
一期一振大和丸岡山藤四郎 ※文久3年(1863年)孝明天皇への献上
益田孝
岡田切 ※東宮時代の大正天皇へ献上
南部利淳
道誉一文字 ※昭和3年(1928年)昭和天皇への献上

 常用刀

  • 前田侯爵家より献上の篭手切正宗、田中光顕子爵献上の福岡一文字助宗、阿部侯爵家より献上の綾小路定利、天皇ご下命による月山貞一作など。
  • 中でも、和泉守国貞井上真改)の菊紋入り、若狭守氏房、飛騨守氏広、粟田口吉光の鬼丸造などを太刀拵にして常用したという。
  • また国広、武蔵大掾忠広、近江守忠綱、和泉守兼重、丹波守吉通、山城守国次などを軍刀拵にしていたという。

 その他の逸話

  • 乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。蹴鞠も好み、自身でも蹴鞠をし、教えもした。当時の最新の技術であったレコードをよく聴き、唱歌や詩吟、琵琶歌などを好んでいた。
  • 奈良時代に聖武天皇が肉食の禁を出して以来、皇室ではタブーとされた牛肉と牛乳の飲食を自ら進んでし、新しい食生活のあり方を国民に示した。
  • 和歌についてはおよそ十万首の御製があると言われる。

    そもそも御製の総数は九萬三千三十二首 もとより数の上で和歌市場の記録であるが、その総てを収めたものを御全集と称し、そのうちから前記の如く撰出、公刊されたのである。
    (類纂新輯明治天皇御集)

 巡幸(じゅんこう)

  • 明治天皇の巡幸は、明治元年(1868年)に始めリ、97回を数えた。
    • うち地方巡幸は60回、即日還幸が37回となる。

 六大巡幸

  1. 【大阪・中国・西国】:明治5年(1872年)5月23日~7月12日
    8日目京都到着
    大阪から海路で下関に向かい、丸亀・神戸は帰路へ変更
    下関
    長崎
    熊本
    6月22日:鹿児島港入港
    6月22日:島津久光天機伺
    6月28日:島津久光天機伺
    7月1日:
  2. 【奥羽・函館】:明治9年(1876年)6月2日~7月21日
    赤坂仮皇居-草加-幸手-小山-宇都宮-日光-宇都宮-佐久山-蘆野-白河-須賀川-桑野-二本松-福島-白石-岩沼-仙台-松島-塩釜-仙台-吉岡-古河-築舘-磐井-水澤-花巻-盛岡-沼宮内-一戸-三戸-五戸-七戸-野辺地-青森-函館-(明治丸)-横浜
    ※秋田・山形は含まれず
  3. 【北陸・東海道】:明治11年(1878年)8月30日~11月9日
    本来は明治10年(1877年)の予定だったが、西南戦争のため延期。当初三重が含まれていたが疫病が流行していたため13年に延期
  4. 【山梨・三重・京都】:明治13年(1880年)6月16日~7月23日
  5. 【山形・秋田・北海道】:明治14年(1881年)7月30日~10月11日
    7月30日:東京発駕(赤坂仮皇居)
    草加にて宿泊、幸手、小山、宇都宮、佐久山、芦野、須賀川、二本松、福島、白石、岩沼。
    8月12日:仙台 ※ここまでのルートは明治9年(1876年)奥羽巡幸とほぼ同じ。
    8月27日:青森着。御召艦扶桑(甲鉄艦)にて北海道小樽へ渡り、札幌行在所。千歳、白老、室蘭と移動し、御召艦迅鯨(初代・軍艦)で森港、函館~青森
    9月7日:青森。9日に出発、弘前、蔵館、大館、二ツ井、能代、一日市、土崎港。
    9月16日:秋田、境、角間川、湯沢
    9月21日:下院内
    9月22日:新庄行在
    9月23日:新庄~清川行在(庄内、清川小学校)
    9月24日:清川~鶴岡行在(西田川郡役所)
    9月25日:鶴岡~酒田行在(渡邉作左衛門家)
    9月26日:酒田~清川行在(清川小学校)
    9月27日:清川~新庄
    9月28日:新庄~楯岡行在
    9月29日:楯岡~山形行在所に御着。「舊米澤藩主上杉斉憲…御門外に奉迎す」
    9月30日:山形
    10月1日:山形~高畠行在
    10月2日:高畠~米澤行在
    10月3日:米澤~福島行在
    10月11日:東京還御
  6. 【山口・広島・岡山】:明治18年(1885年)7月26日~8月12日
    横浜より御召艦横浜丸での海上移動。






孝明天皇

  • 明治天皇については、様々なところで刀剣好きであったことが語られているが、その父であった孝明天皇についても刀剣好きであったという。
  • 本間薫山が著書の中で語っている。

     孝明天皇が明治天皇におとらぬ非常な御刀好きであらせられたことは、知らない人が多いんですね。やはり非常にお好きです。明治天皇は中身がお好きでしたがとくに御拵をおつけになったというようなものはあったかどうか。総金具の加納夏雄の拵は、ありましたがね。もちろん刀そのものもお好きなんです。ところが明治天皇のお時代と違って、お手元は不如意なんですね。だから近衛家、あの当時の近衛忠煕公にあてて刀を御入手のためにいろいろと御無心をされております。その御無心をされた御宸翰がいくつかあるのですよ。それからあの刀を本願寺に買わせて健常させるようにとか、そういう意味の御宸翰もあるのです。いわゆる女房奉書ではなく御自筆の御宸翰です。

  • ※この宸翰は、「薫山刀話」に影印が釈文とともに掲載されている。

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