紀伊徳川家の江戸藩邸
紀伊徳川家の江戸藩邸
- 紀州藩徳川家の江戸屋敷の成り立ちと贈答品のまとめ。
特に紀州家は、「どこ」の屋敷地を拝領したのかが記録漏れしている事が多く(屋敷地を拝領とのみ記載)、特定できていないところが多数あります。
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概要
- 元和5年(1619年)に浅野家37万6千石が広島50万石に転封されると、家康の十男頼宣が駿河50万石から加増転封されて入り、紀州徳川家が成立した。
徳川頼宣は慶長8年(1603年)に常陸水戸20万石、慶長11年(1606年)に元服、慶長14年(1609年)12月に駿府50万石へと転封されている。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で初陣。元和5年(1619年)に紀伊国和歌山55万5千石に転封し、紀州徳川家の祖となった。
阿部政澄 ├───阿部正能【大多喜藩→武蔵忍藩】 ┌本浄院あま(初榊原康勝室) ├加藤忠正(早世) 加藤清正─┴加藤忠広(改易)──加藤光広(高山藩お預け) ├───瑤林院八十姫 清浄院かな │ 養珠院お万 │ ┌徳川吉宗 ├──┬──────徳川頼宣 ├徳川頼職 徳川家康 └徳川頼房 │ ├──徳川光貞─┴徳川綱教 │ 中川氏 │ │ 鶴姫(綱吉娘) │ ├────┬松平頼純【伊予西条藩初代】 越智氏 └因幡姫(茶々姫) 池田忠雄 ├─────┬池田綱清【鳥取藩2代】 ├───池田光仲 └池田仲澄【鹿奴藩初代】 小笠原秀政─┬三保姫 └蜂須賀忠英
- 5代藩主吉宗は、7代将軍家継のあとを継いで8代将軍となり御三卿を創設した。これにより吉宗以降の歴代将軍は、紀州家あるいは連枝の一橋徳川家に連なる者で占められることになった。
- 幕末、13代藩主の徳川慶福が13代将軍家定のあと将軍家を相続して第14代将軍家茂となっている。
- 14代藩主徳川茂承は第二次征長軍の先鋒総督に任命されるが、戊辰戦争以後新政府軍に恭順して軍資金15万両を献上した上、勅命により京都警備の一翼を担った。明治2年(1869年)の版籍奉還により和歌山藩知事となるが、明治4年(1871年)の廃藩置県で再び東京在住を命じられている。
- 明治17年(1884年)7月7日、華族令により侯爵を叙爵。
歴代藩主
代 | 藩主 | 院号 | 在任 | 理由 |
初 | よりのぶ 頼宣 | 南龍院 | 元和5年(1619年) 寛文7年(1667年) | 致仕 |
2 | みつさだ 光貞 | 清渓院 | 寛文7年(1667年) 元禄11年(1698年) | 致仕 |
3 | つなのり 綱教 | 高林院 | 元禄11年(1698年) 宝永2年(1705年) | 薨去 |
4 | よりもと 頼職 | 深覚院 | 宝永2年(1705年) 6月~9月 | 卒去 |
5 | よしむね 吉宗 | 有徳院 | 宝永2年(1705年) 正徳6年(1716年) | 将軍就任 |
6 | むねなお 宗直 | 大慧院 | 正徳6年(1716年) 宝暦7年(1757年) | 薨去 |
7 | むねのぶ 宗将 | 菩提心院 | 宝暦7年(1757年) 明和2年(1765年) | 薨去 |
8 | しげのり 重倫 | 観自在院 | 明和2年(1765年) 安永4年(1775年) | 致仕 |
9 | はるさだ 治貞 | 香嚴院 | 安永4年(1775年) 天明9年(1789年) | 薨去 |
10 | はるとみ 治宝 | 舜恭院 | 天明9年(1789年) 文政7年(1824年) | 致仕 |
11 | なりゆき 斉順 | 顕龍院 | 文政7年(1824年) 弘化3年(1846年) | 薨去 |
12 | なりかつ 斉彊 | 憲章院 | 弘化3年(1846年) 嘉永2年(1849年) | 薨去 |
13 | よしとみ 慶福 | 昭徳院 | 嘉永2年(1849年) 安政5年(1858年) | 将軍就任 |
14 | もちつぐ 茂承 | 慈承院 | 安政5年(1858年) 明治2年(1869年) | 版籍奉還 |
竹橋上屋敷
竹橋内
坪数不明
元和4年(1618年)~明暦3年(1657年)5月
屋敷地拝領前の頼宣の動き
- 慶長8年(1603年)頼宣は2歳にして常陸水戸20万石を与えられる。水戸には入らず、駿府の家康のもとで養育された。
- 慶長11年(1606年)上洛して元服。
- 慶長14年(1609年)、頼宣は肥後熊本藩主加藤清正の五女・八十姫(瑤林院)と婚約。
- 慶長15年(1610年)8歳のときに駿府50万石(駿河・遠江・東三河)に転封。
水戸は弟の頼房が25万石で拝領し、初代水戸藩主となっている。
- 慶長16年(1611年)家康と秀頼の二条城会見が行われた際には、秀頼を大坂城まで送り届けている。
四月二日尾張宰相義直卿。遠江宰相賴宣卿を大坂につかはされ。右府上洛せられ御對面有しを謝せられ。御太刀一振。馬一疋。銀千枚。淀殿へ銀二百枚。綿三百把。北方へ銀百枚。綿二百把。紅花三百斤をくらせたまふ。
義直卿より右府へ國宗の太刀。賴宣卿より友成の太刀。共に銀二百枚そへて進らせらる。淀殿幷に北方へ。兩宰相より銀百枚。綿二百把。紅花三百斤づゝ進らせらる。
右府より義直卿へ高木貞宗の太刀。吉光の刀。緞子百卷。小袖。道服幷に小鼓の筒。賴宣卿へ二字國俊の太刀。松浦信國の刀。小鼓の筒。申樂の裝束(半臂三。狩衣三。半切三。大口 三。)をくられ。
供奉せし竹腰山城守正信へ信國の刀。成瀨隼人正正成左文字の刀。安藤帶刀直次に助眞の刀。水野對馬守重仲へ一文字の刀。三浦長門守爲春に長光の刀をたまひ。饗有て兩卿伏見へかへりたまふ。
- 元和2年(1616年)4月17日家康薨去。駿府御分物として下記拝領。※形見分け時点では頼宣は駿河藩主。
記載名 分与 名物 名物
帳備考 【中之御腰物】 とうおち三原 駿河 斎村(政廣) 包永 駿州 井伊右近大夫(直勝) 左文字 駿州 名物 生駒左文字 ○ 生駒讃岐 とうおち三原 駿州 二字國とし 駿州 松平筑前 【中之御脇指】 無銘行光 駿州 かいきりよし光 駿州 櫂切り吉光 京極若狭守(京極高次) 正宗 駿州 建部内匠 京にてめさせられ候志津 駿州 「中之御腰物」および「中之御脇指」のみを記す。全体は「駿府御分物刀剣元帳」の項を参照のこと。
- 元和3年(1617年)正月22日、頼宣は加藤清正の八十姫(瑤林院)と結婚。この時、八十姫が持参したのが「加藤国広」で、婿引出として頼宣に贈られたのが「肥後江」。
この時、すでに家康も清正も亡くなっていたが、将軍秀忠の肝いりで婚儀が執り行われた。八十姫は生母清浄院の兄で福山城主水野勝成の養女として当時駿府藩主であった頼宣の元に嫁いでいる。
屋敷地拝領
- 元和4年(1618年)、竹橋邸の屋敷地を拝領。
是頃、府中城主徳川権中納言「徳川頼宣」、邸地を江戸城北郭に賜ふ、
竹橋邸
元和四午年御拝領。同六申年十二月邸館落成、御成門宏麗を盡す。
右の御殿、明暦三ノ大火ニ焼殘り、同年比邉御屋敷上り御壊し取、其後元禄の初、綱教卿に鶴姫様御入輿ノ時、糀町ニ御屋敷ニ過半建之。六年閏十二月ニ至リ邸第ノ構造成ル。天覧日記、台徳院殿御実紀等左ノ如ク見ユ。
徳川義直・徳川頼宣・徳川頼房三家は、是より先未だ江戸に邸宅有らざりしが、元和六年閏十二月江戸城内の新邸成る、
- 元和5年(1619年)頼宣は紀伊和歌山55万5千石に加増転封。頼宣は「大広丸」にて和歌山入り。この時正室の八十姫も和歌山入りしており、寛永10年(1633年)に江戸藩邸に移るまで14年間を和歌山城で過ごした。※大広丸は慶長14年(1609年)完成。頼宣のお召船。
大広丸、徳川頼宣の紀州入部のため、紀州に移動す、
- 元和10年(1624年)正月23日大御所秀忠御成。27日將軍家光御成。
寛永元年甲子正月二十三日、將軍家台徳公始渡御于頼宣館。同二十七日大猷公始渡御于同館。
前将軍徳川秀忠、和歌山城主徳川頼宣邸に臨み、廿七日将軍徳川家光之に臨む、
- 寛永3年(1626年)2月27日に秀忠御成、3月7日に家光御成
秀忠、紀伊和歌山城主徳川頼宣の江戸の亭に臨む、
- 御相伴衆
- 水戸黄門頼房、藤堂高虎
家光、紀伊和歌山城主徳川頼宣の江戸の亭に臨む、
- 寛永3年(1626年)12月11日、嫡男長福丸(後の2代光貞)和歌山城で誕生。
- 寛永5年(1628年)3月4日秀忠御成、3月14日家光御成。
秀忠、紀伊和歌山城主徳川頼宣の江戸の亭に臨む、
- 御相伴衆(秀忠)
- 水戸黄門頼房、藤堂高虎、立花宗茂
家光、紀伊和歌山城主徳川頼宣の江戸の亭に臨む、
- 御相伴衆(家光)
- 駿河亜相忠長、水戸黄門頼房、藤堂高虎、丹羽長重
- 寛永7年(1630年)2月20日に秀忠御成、2月23日に家光御成。
秀忠、紀伊和歌山城主徳川頼宣の江戸の亭に臨む、
- 御相伴衆(秀忠)
- 駿河亜相忠長、水戸黄門頼房、藤堂高虎、丹羽長重
家光、紀伊和歌山城主徳川頼宣の江戸の亭に臨む、
- 御相伴衆(家光)
- 駿河亜相忠長、水戸黄門頼房、藤堂高虎、丹羽長重
- 寛永10年(1633年)7月5日、瑤林院江戸入り。
七月五日、夫人加藤氏、移居江戸
按スルニ十五代史寛永十年十二月ノ記ニ曰ク此頃大名ノ婚禮ハ江戸邸ニテ行フ事三家ノ室モ皆國ヲ發シテ江戸邸ニ移ルトアリ
- 寛永10年(1633年)9月5日、長福丸元服し、将軍家光の偏諱を授かり光貞を名乗る。従四位下・常陸介に昇叙任官される。
- 寛永15年(1638年)9月23日頼宣、邸地を拝領する。※場所は不明。
和歌山城主徳川頼宣に別墅賜の命を伝ふ、
- 寛永17年(1640年)3月4日光貞、従三位参議右近衛権中将に昇叙転任。
乙酉、従四位下徳川光友・光貞、並に参議と為し、右近衛権中将を兼しめ、左衛門督徳川光圀を以て右近衛権中将と為す、
徳川光友・徳川光貞を参議に、同光圀を右近衛権中将に任す、是日将軍徳川家光、若狭国小浜藩主酒井忠勝をしてこの旨を光友等に伝へしむ、
- 寛永17年(1640年)5月14日家光御成。
乙未、家光、徳川頼宣の邸に臨む、頼宣、猿楽・茗讌等を設けて之を饗す、
- 寛永17年(1640年)5月18日頼宣に帰国の暇を賜う。
己亥、家光、徳川頼宣に就封の暇を賜ひ、之を饗す、
- 寛永20年(1643年)12月28日因幡姫(芳心院。茶々姫)と池田光仲との婚約。
将軍徳川家光、徳川頼宣の女と松平光仲との結婚を聴許し、是日若狭国小浜藩主酒井忠勝を紀伊邸に遣し、この旨を伝へしむ、
正保2年(1645年)結婚。鳥取藩2代藩主池田綱清、鹿奴藩初代藩主池田仲澄を産んだ。
- 正保元年(1644年)7月28日頼宣に帰国の暇を賜う。
幕府、徳川義直・頼宣に、就封の假を賜ふ、家光、茗宴を支城に設け、之を饗す、
- 承応2年(1653年)3月26日頼宣、下屋敷地を拝領する。※場所は不明。
和歌山城主徳川頼宣、下屋敷を賜ふ
- 承応2年(1653年)8月12日、光貞は正三位・権中納言に昇叙転任する。
- 明暦3年(1657年)、明暦の大火で焼失。
- 同年正月23日、幕府の方針により麹町へと移転になった。
和歌山城主徳川頼宣・水戸城主徳川頼房・名古屋城主徳川光友、営に登る。老中旨を伝へて其甲第を場外に転せしむ。大災復旧計画に基く也
- 明暦3年(1657年)9月28日頼宣、邸地を拝領する。※場所は不明。
寄合松平清直屋鋪を転して、和歌山城主徳川頼宣に賜ひ、清直には、異日替地を給することとする
- 明暦4年(1658年)5月16日松平頼純、邸地を拝領する。
仙台城主伊達忠宗・福井城主松平光通・和歌山城主徳川頼宣子松平頼純、其他邸宅を賜ふ
尾張殿上屋敷四谷屋敷之内ニて被下 松平左京大夫頼純
麹町上屋敷
麹町五丁目(紀尾井町)
14万5381坪
明暦3年(1657年)5月14日~
- 紀州藩中(上)屋敷。
上屋敷を1つとする制限のためか、紀州藩では、麹町邸と赤坂邸を交互に上屋敷として利用している。「南紀徳川史」では麹町邸を”麹町五丁目上屋敷”、赤坂邸を”赤坂邸喰違外御中屋敷”と記す。
- 明暦3年(1657年)5月14日に替地として拝領。元は土岐山城守頼行、本多越前守利長の邸地。
- 寛文5年(1665年)8月26日、光貞の嫡男長光丸(のち長福丸、3代綱教)誕生。
- 寛文6年(1666年)正月24日、頼宣正室の八十姫(瑤林院)没。享年66。
正月廿四日、夫人加藤氏薨、諡瑤林、將軍使阿部豊後守忠秋、來弔、又使堀田備中守正盛、來賜賻銀二百枚、 二月護柩歸藩、葬於城南吹上要行寺 後改稱 報恩寺
三月十日江戸御下向、十五日松阪御着、両日御逗留、十八日白子に被爲入四月四日江戸御着 御病後ニ付御道中緩々ト被遊也御遺躰武州池上本門寺ニテ御火葬、尊骨二月廿三日酉下刻若山要行寺に御着
この頃には赤坂中屋敷に移動していたと思われる。
- 寛文7年(1667年)5月22日、頼宣は嫡男光貞に跡を譲って隠居した。「上杉瓢箪」を拝領している。
和歌山城主徳川頼宣致仕す、子光貞嗣く、
上杉瓢箪 唐物 南龍院(頼宣)様御隠居の御祝ひに、大猷院様(厳有院の誤なり)より御手つから御拝領なり、以来紀の御物となる
【2代徳川光貞】
- 寛文7年(1667年)父頼宣の隠居に伴い家督を相続する。
- 寛文8年(1668年)12月22日権中納言。翌1月10日従三位。
和歌山城主参議右近衛中将徳川光貞を以て、権中納言と為す、
従三位徳川光貞、正三位に叙す、
- 寛文10年(1670年)2月18日伊予西条松平家。
乙巳、幕府、徳川頼宣の三子松平頼純に、伊豫の地三萬石を賜ひ、西條に治せしむ、
- 寛文11年(1671年)正月10日頼宣薨去。享年70。
癸亥、和歌山城主権中納言従二位徳川頼宣、薨す、
- 延宝4年(1676年)世子綱教は従三位に叙される。
和歌山城主徳川光貞の子綱教、従三位に叙す、
- 延宝9年(1681年)世子綱教は、將軍綱吉長女の鶴姫と婚約する。
己巳、将軍綱吉、其女鶴姫を以て和歌山城主徳川光貞の子綱教に許嫁す、
- 貞享2年(1685年)世子綱教は、將軍綱吉長女の鶴姫と結婚した。3月6日、登城した綱教は将軍綱吉より「松井江」と「朱判正宗」を拝領した。光貞に当麻の刀と「武蔵正宗」の短刀が贈られた。
六日紀伊邸に阿部豐後守正武御使し。(略)。御盃下さるゝ時。綱教卿へ御引出物とて。義弘の御刀。朱判正宗の御脇差たまひ。光貞卿に當麻の御刀。武藏正宗の御脇差たまふ。
- 元禄2年(1689年)光貞の娘・育姫(徳川吉宗の姉にあたる)が出羽久保田藩3代藩主・佐竹義処の長男・修理大夫佐竹義苗へと嫁ぐ。この時、婿引出として「矢目行光」を贈っている。
育姫は元禄6年(1693年)19歳にて没、墓は池上本門寺の紀伊徳川家墓所にある。一回忌となる元禄7年(1694年)、佐竹家は育姫の法事に使者を送っている。「元禄七甲戌年七月十三日 一、来月十三日より十四朝江戸ニ而 霊岳院様御法事於池上ニ御執行依之 御名代之御使者ニ須田主膳今日被仰付候」
- 元禄3年(1690年)5月3日に権大納言に転任、5月12日に従二位昇叙。
甲午、名古屋城主権中納言徳川光友・和歌山城主権中納言徳川光貞、並に権大納言に任す、
- 元禄4年(1691年)麹町邸に添地を拝領する。元は菅沼摂津守・同民部の屋敷。
和歌山城主徳川光貞、麹町邸に添地を賜ふ
六千六百六拾八坪
- 元禄10年(1697年)4月11日将軍綱吉御成。
庚申、綱吉、和歌山城主権大納言徳川光貞の邸に臨む、綱吉、光貞の第三子頼職、第四子頼方に封地三万石を賜ふ、
- 元禄11年(1698年)4月22日光貞隠居。
丙寅、和歌山城主権大納言従二位徳川光貞、致仕す、参議綱教嗣く、是日、綱吉、親く周易を講説す、
┌徳川綱重───徳川家宣───徳川家継 ├徳川綱吉 徳川家光──┴徳川家綱───────明信院鶴姫 │ │ ┌顕子女王 │ 伏見宮貞清親王─┼邦尚親王 ┌邦永親王─│───増子女王 ├貞致親王──┴理子女王 │ │ 閑院宮倫子女王 └照子女王 │ │ │ │ │ ┌徳川吉宗─│──┬徳川家重─┬徳川家治 徳川頼宣─┬徳川光貞──┼───徳川綱教 ├田安宗武 └清水重好 │ └徳川頼職 └一橋宗尹──一橋治済──徳川家斉 │ └松平頼純──┬松平頼路(伊予西条世継) ├松平頼雄(伊予西条世継) ├徳川宗直(紀州藩6代) ├松平頼渡(伊予西条3代) └渡辺恭綱
【3代徳川綱教】
- 元禄11年(1698年)父光貞隠居に伴い、家督を相続する。
- 宝永元年(1704年)疱瘡のため鶴姫死去。享年27。
- 宝永2年(1705年)5月18日綱教薨去。享年41。子がなく、弟の頼職が跡を継いだ。
- 宝永2年(1705年)8月8日光貞薨去。
己亥、徳川光貞、薨す、
【4代徳川頼職】
- 宝永2年(1705年)5月に兄綱教の急死に伴い、兄の養子となり家督を相続する。
- しかし同年9月8日に急死する。跡は弟の頼方(吉宗)が継いだ。
【5代徳川吉宗】
- 兄達が相次いで亡くなったため、紀州藩5代藩主となる。その際、将軍綱吉から偏諱を授かり、吉宗と改める。
- 宝永3年(1706年)に伏見宮貞致親王の娘・真宮理子女王を正室に迎える。
紀州藩2代藩主光貞の御簾中照子女王は伯母に、4代将軍家綱の御台所顕子女王は叔母に、9代将軍家重の将軍世子時代の御簾中増子女王は姪に当たる。
- 宝永3年(1706年)4月に帰国。
- 宝永7年(1710年)5月27日、懐妊していた真宮理子女王が死産となり、また産後の肥立ちが悪かったため6月4日に死去。吉宗は二度と正室を迎えなかった。
- 正徳元年(1711年)12月21日、赤坂の紀州藩邸で吉宗の長男長福丸(後の將軍家重)誕生。
- 正徳5年(1715年)12月27日次男小次郎(後の田安宗武)誕生。
- 享保元年(1716年)将軍家継薨去。天英院や家継の生母・月光院など大奥からも支持され、吉宗は8代将軍となる。紀州藩主家の家督は伊予西条藩2代藩主の宗直が継いだ。
- 文政6年(1823年)に焼失したあとは、中屋敷となった。
明治後
- 明治3年(1870年)4月12日。
麹町元紀州藩邸に授産所を開き、明治3年4月15日製紙場を音羽町に開く、
- 明治末に李王家の屋敷となっている。建物は木造2階建の洋館で、宮内省内匠寮の北村耕造、権藤要吉らが設計し、清水組(当時)により施工された。
李王家は李氏朝鮮の歴代国王を出した家系で、韓国併合後は日本の王公族となり、皇族に準じる待遇を受けた。高宗の7男である李垠は、1907年(明治40年)の純宗即位と同時に韓国最後の皇太子となったが、幼少時より日本で教育を受け、のちこの東京赤坂邸に住した。皇族であった梨本宮守正王の第1女子方子女王と結婚している。
- 第二次大戦後には李垠も臣籍降下し、建物の大部分は参議院議長公邸などとして使用された。
- 昭和27年(1952年)に国土計画興業(後のコクド、及びプリンスホテル)がこれを取得した。客室35室が整備され、昭和30年(1955年)に「赤坂プリンスホテル」として開業、李垠邸は旧館(旧李王家邸)として使用された。
- 平成19年(2007年)「グランドプリンスホテル赤坂」と改称、平成23年(2011年)3月に閉館。同年に東京都指定有形文化財となり、敷地内で曳家されたあと修復工事が進められ、2016年に料飲施設や宴会場を備えた「赤坂プリンス クラシックハウス」としてリニューアルオープンした。
- 弁慶堀北詰に「紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡」の石碑がある。
- 明治11年(1878年)の紀尾井坂の変では、大久保利通はこの清水谷で襲われており、現在も「贈右大臣大久保公哀悼碑」が建つ。
- 屋敷の北西部は、現在千代田区立清水谷公園。
赤坂中屋敷
赤坂邸喰違外
14万5381坪
寛永9年(1632年)7月26日~
- 現在の赤坂御用地(迎賓館赤坂離宮及び東宮御所などがある)。赤坂御用地の略図 - 宮内庁
- 紀州藩中(上)屋敷。
上屋敷を1つとする制限のためか、紀州藩では、麹町邸と赤坂邸を交互に上屋敷として利用している。「南紀徳川史」では麹町邸を”麹町五丁目上屋敷”、赤坂邸を”赤坂邸喰違外御中屋敷”と記す。
- 紀州家はここに庭園「西園」を築き、尾張徳川家の「戸山園」、水戸徳川家の「後楽園」とともに徳川御三家の名園と称された。
和歌山城主徳川頼宣邸地を赤坂に賜ふ。後庭園を築造して西園と呼ぶ。
- 寛永9年(1632年)7月26日拝領。
和歌山城主徳川頼宣、中屋敷を赤坂に賜ふ、
赤坂邸
寛永九申年七月廿六日御拝領。
慶安三寅年五月御中屋敷へ御移徙。
承応ニ巳年三月廿五日田屋敷ニ御拝領。鮫ヶ橋田屋敷御門内の邉なるべし
元禄四未年三月九日御添屋敷御拝領
同八亥年三月九日青山御屋敷御拝領
同十五年二月御屋敷前明地御拝領。御守殿手狭に依て也。
寛永五子年正月廿五日鵜殿平八郎上地四百十二坪餘御拝領
文化八未年四月廿八日御本殿辰巳の方入込候町地貳千百坪、爲火除地御願之通圍込
天保八酉年十月廿九日赤坂御屋敷辰巳の方町地、貳百三十六坪餘爲火除地御願之通圍込
- 慶安5年(1652年)2月28日、瑤林院八十姫、中屋敷に移徙。
- 文政6年(1823年)に麹町屋敷が焼失したため、上屋敷となった。
此邸を御中屋敷と稱するは、明暦三酉年竹橋御上屋敷上ヶ地となり、代り、麹町邸御拝領、即ち御上屋敷たり。上邸は一ヶ所に限るの制たるか故、歴世麹町と交互御住居邸となりしも、名稱は御中屋敷と唱ふ。文政六年麹町邸焼之後ハ、維新ニ至る迄、本邸常に御住居邸たりし也。
- 寛文8年(1668年)~天保6年(1835年)まで9回も火災に見舞われた。
- 寛文8年(1668年)
- 2月4日、牛込ゟ出火で類焼。
- 天和2年(1682年)
- 11月28日、市ヶ谷川田窪ゟ出火にて類焼。天和3年(1683年)12月造営落成
- 元禄8年(1695年)
- 2月8日、四ツ谷傳馬町ゟ出火にて類焼。元禄9年(1696年)3月造営落成
- 元禄16年(1703年)
- 11月18日、四ツ谷より出火で類焼。寛永3年(1626年)9月同断
- 宝暦2年(1752年)
- 正月5日御臺處ゟ出火で全焼。宝暦13年(1763年)7月4日同断
- 明和3年(1766年)
- 3月5日、御守殿長局ゟ出火全焼。天明2年(1782年)より再築、同7年9月落成
- 文化8年(1811年)
- 2月11日市ヶ谷本村ゟ出火にて類焼。文化10年(1813年)7月造営
- 文政8年(1825年)
- 8月22日夜、御用部屋ゟ出火にて全焼。局ニノ側三ノ側殘ル。文政5年(1822年)5月9日同断
- 天保6年(1835年)
- 3月21日御廣座敷局ゟ出火にて全焼。天保6年(1835年)閏7月6日再建を命ず、天保11年(1840年)8月19日同断
- 元禄8年(1695年)3月8日邸地拝領。
和歌山城主徳川光貞、青山宿に邸地を賜ひ、是日受領す
青山宿 坪數貳萬七千七百九拾八坪。
- 青山御殿。2代藩主徳川光貞の正室は伏見宮貞清親王の娘・安宮照子女王(天真院)。
青山御殿
御本殿ゟ西庭園十數町を隔、青山の邉ニ在り、最初の造建不詳と雖、清渓公(光貞)御簾中の宮大夫人(安宮照子女王)元禄八亥年九月廿六日青山御殿へ御移徙とあれば、其已前なる知るへし。一ニ宮様御殿とも稱し來れり、享保十五年二月炎焼の後ハ、火災無之、御本殿焼失の際には御披キ御殿となり、又時に應し諸公子或は御生母等御住居殿ともなれり。明キ御殿たる時は、御殿番勤番近くは麹町御殿勤番の職名を以て當殿に勤番したる也。御本殿に比しては固ゟ狭隘と雖も、奥表御座敷御廣敷向諸役所、其他一切備具、明治四年東京御移徙の際、一旦御住居後、宮内省御用となり、當時皇太后英照陛下の皇居たる青山御所是也。
明治後(赤坂御用地・迎賓館)
- 明治維新後は徳川茂承夫妻がここに住んだ。
徳川茂承(とくがわ もちつぐ)
紀州藩14代藩主の徳川茂承は、伊予国西条藩第9代藩主松平頼学の六男として西条藩江戸藩邸で生まれた。安政5年(1858年)、紀州藩13代藩主の徳川慶福が13代将軍家定の跡を継いで14代将軍家茂となったため、同年6月に茂承が紀州藩14代となり家督を継いだ。明治維新後は明治17年(1884年)7月7日、華族令により侯爵を叙爵し、明治23年(1890年)10月から貴族院議員。明治39年(1906年)8月20日、麻布区飯倉町にあった本邸で死去。享年63。
則子女王(のりこじょおう)
徳川茂承の正室は、伏見宮邦家親王の第八王女、倫宮則子女王で、安政6年(1859年)12月6日に納采、12月21日に降嫁している。文久の改革の一環として参勤交代の制度緩和が行われたため、夫妻は帰国して文久3年(1863年)3月10日から翌元治元年(1864年)10月26日まで和歌山城本丸御殿に居住した。その後、禁門の変の結果を踏まえて参勤交代の制度を元に戻した幕府に従い、則子は再び江戸に出府した。慶応4年(1868年)4月、新政府から江戸藩邸の退去命令が下り、6月に江戸を退去した。明治2年(1869年)11月に和歌山城内で長男・長福丸を出産したが、夭折している。明治4年(1871年)7月の廃藩置県により東京府の赤坂邸へ移住。明治7年(1874年)11月14日に25歳の若さで病死した。
- のち、邸地は赤坂離宮あるいは青山御所として宮内省により収公される。現在、一帯は赤坂御用地と迎賓館となっている。
- 茂承自身は、明治6年(1873年)7月に、麻布飯倉にあった上杉伯爵邸(旧中屋敷)を購入して移っている。明治7年(1874年)11月14日、正室則子死去、25歳。
- 明治31年(1898年)、世子の徳川頼倫が麻布飯倉邸内に図書館「南葵文庫(なんきぶんこ)」を設立を計画。同年11月に着工し、翌明治32年(1899年)12月に竣工している。
- 明治32年(1899年)日本初の西洋式図書館として開庫。明治35年(1902年)4月に開庫敷を執り行っている。明治41年(1908年)10月10日に一般公開。蔵書は大正12年(1923年)12月、関東大震災により全焼していた東京帝国大学の附属図書館に南葵文庫所蔵本が寄贈され、南葵文庫は大正13年(1924年)5月31日に閉鎖された。
文庫の建物は東大図書館の分館として使用された後、明治32年(1899年)竣工の旧館を残して取り壊され、ルネサンス様式の洋館は昭和8年(1933年)に頼倫の子・頼貞の別邸があった大磯に移築され、「VILLA DEL SOL」と名付けられた。昭和54年(1979年)に改築されて熱海市伊豆山のホテルとなり、のち伊豆山温泉「蓬莱」の別館として移築。平成20年(2008年)には国の登録有形文化財に登録された。現在は星野リゾート所有のホテル「界 熱海」の別館ヴィラ・デル・ソルとなっている。
- 以下、赤坂中屋敷が現在の姿になるまでの経緯を以下に詳述する。
- 赤坂離宮→迎賓館
- 青山御所→東宮御所→仙洞御所(令和)
- 赤坂御用地にある他の皇族宮邸
- 赤坂離宮と青山御所の関係について
赤坂離宮→迎賓館
- 慶応4年(1868年)宗家に貸渡。
慶應四辰年七月御本殿向御宗家に御貸渡、右ニ付御宗家御家中往々山屋敷邉ニ居住、既に勝安房の如きも來り住せり
- 同年12月25日
同年十二月廿五日、麹町芝濱松町と共に三邸従前の通御拝領。
明治三午年八月十三日御本殿大奥向供御宗家ゟ御返還。
天璋院様本寿院殿実性院殿戸山邸へ御引移に付て也。一、同年九月晦日御本殿御廣敷局向
一ノ側 ニノ側 三ノ側同物置物 一ノ側ゟ三ノ側迄畳九百畳共。
右入札、代金七百六十壹兩貳匁一分ニて町人共に拂下。
一、同年十月廿一日
御本殿御廣敷役所向番所物置八ヶ所澁谷御殿
右入札、金貳百八十三兩貳分と銀十二匁ニて町人共へ拂下。
一、同四未年二月十八日東京府ゟ赤坂邸家咲く取毀の趣相聞へ、右ハ伺済ニ候。得共、御用邸の御都合も有之付、取拂差止有之度と和歌山藩應に達有之旨同所ゟ家令所に申來る。
一、同月廿九日大参事津田又太郎出京ニ付、青山御殿大奥の内、御廣敷御門ゟ御玄關向御客座敷諸役所向等拝領寓居す。
一、明治四未年三月十二日東京府ゟ最早御用無之付、本殿取毀之儀不苦旨達有之。
一、同月十四日御本殿表向左之高札者ヘ拂下。
本銀町二丁目 小林重助
南傳馬町二丁目 大住喜右衛門
大鋸町 大崎幸藏
惣金高七千四百兩
(略)
- 明治5年(1872年)仮皇居(赤坂離宮)とし、英照皇太后の住まいとなっている。
一、明治五年二月邸中九萬四千七百四拾五坪餘を宮内省御用地ニ上ル。假皇居となる。
明治維新後に旧江戸城西の丸御殿が皇居となったが、明治6年(1873年)の失火により、西の丸御殿は焼失した。直ちに新宮殿造営が政府により上奏されたものの、西南戦争の戦費等の財政負担も大きく、国内整備が先決との明治天皇の意向により、新宮殿造営は見送られた。このため、旧紀州藩江戸藩邸であった青山御所が仮皇居となった。明治宮殿は明治21年(1888年)10月7日落成。落成翌明治22年(1889年)の大日本帝国憲法発布式はこの明治宮殿で行われた。第二次大戦末期昭和20年(1945年)5月25日の空襲により類焼し全焼した。現在の宮殿は、昭和43年(1968年)にこの跡地に建てられたものである。
- 明治6年(1873年)徳川宗家に1万1755坪を譲渡する。
一、同六年五月七日同断赤坂裏三丁目一萬千七百五拾五坪餘を御宗家に譲地。
右ハ静観院宮御用地として邸中丸山口ゟ山屋敷御厩川を渡り譲地、地券状等も本日受相済。
静観院宮とは和宮親子内親王のこと。ただし和宮はここには住んでおらず、麻布市兵衛町にあった八戸藩主南部信順の上屋敷を明治政府が買い上げた場所に住んでいる。
- 明治6年(1873年)、皇居としていた西の丸が焼失したため、茂承はこの赤坂邸を献納した。3654坪+3万5187坪が宮内省御用地となる。これにより金2萬圓を賞賜された。
六日 天晴 本日五日御前一時宮内省より出火皇城炎上 聖上皇后宮御機嫌よく赤坂離宮へ御遷座有らせられ候御事東京より申來りし書付冩桂宮より廻る取敢す御機嫌伺の文出す正二位來られ
- 明治21年(1888年)10月10日に新皇居(明治宮殿)が完成するまで、この赤坂離宮が使用された。
明治六年五月五日皇城炎上せしを以て、(略)亜いで明治廿一年十月十日全く竣工したり。
この赤坂離宮の建物は、明治32年(1899年)に日光田母沢に皇太子の静養地が造営された際に移築されており、現在日光田母沢御用邸記念公園として公開されている。施設の紹介 | 日光田母沢御用邸記念公園
- 明治42年(1909年)、ジョサイア・コンドルの弟子にあたる宮廷建築家片山東熊の設計により東宮御所が建設される。
片山はこの東宮御所の建設に心血を注ぎ、完成の報告を明治天皇に行ったところ、一言「贅沢すぎる」と言われてショックを受け、病気がちとなったという。実際、皇太子時代の大正天皇も、華美すぎることや住居としての使い勝手が良くなかったことからこの御所を利用することはほとんどなかったという。
- 大正天皇即位。
- 大正13年(1924年)大正天皇の皇子皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)との婚儀が成ると、その後の数年間、この赤坂離宮は裕仁親王一家の住居たる東宮御所として使用された。
- 第二次大戦後、赤坂離宮の敷地や建物は皇室から国に移管され、国立国会図書館(1948–61年)、法務庁法制意見長官(1948–60年)、裁判官弾劾裁判所(1948–70年)、内閣憲法調査会(1956-60年)、東京オリンピック組織委員会(1961–65年)などに使用された。
- その後、昭和37年(1962年)に池田勇人首相の発意により、外国の賓客を迎える迎賓館として利用されることとなった。
- 平成21年(2009年)12月8日、旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)として、明治以後の建築物としては初めて国宝に指定された。
青山御所→東宮御所
- 明治6年(1873年)、皇居としていた西の丸が焼失したことで赤坂離宮に天皇が移徙することとなる。ここで茂承はさらに隣接する赤坂邸南西部も献納し、3654坪+3万5187坪が宮内省御用地となる。これにより金2萬圓を賞賜された。
- 明治6年(1873年)12月19日より、英照皇太后の青山御所として用いられた。
先般従三位徳川茂承獻上之青山邸假皇居御園込相成、修繕向相整候ニ付、來ル十九日
午前十時
皇太后同所へ 御移轉可被遊候旨仰出候。 依テ此段申進候也。
明治六年十二月十四日 宮内卿 徳大寺實則
右大臣 岩倉具視殿一、明治六年五月赤坂裏三丁目廿五番地三千六百五十四坪餘宮内省御用地に上る。
一、同年七月十五日青山御殿即チ赤坂表四丁目三万五千百八十七坪、宮内省御用地ニ御献上、今の青山御所是也。
右ハ去ル四日宮内省ゟ今般離宮假皇居處御手狭ニ付、右邸宅御用之筈、建坪圖面取調可差出旨達ニ付、同六日御献上被遊度旨御願之上、大畧圖添差出、尚七日ニ詳細提出の處、十二日ニ宮内卿同大輔御住居向表奥不殘見分、十五日左之通宮内省ゟ被仰出、
赤坂假 皇居御手狭ニ付、第三大區小十三區正三位徳川茂承宅献上之儀、願之通被聞食、爲其賞金貳万圓下賜候條、此旨可相達事。
明治六年七月十三日 太政大臣三條實美
但、右金高ハ先般炎上ニ付、諸向ゟ献金之内を以、可取計云々。
右ニ付即日金貳萬圓下付、外ニ壹萬五千圓赤坂御本殿御下ヶ金殘り之由ニて被相渡たり。
- 青山御所は、英照皇太后崩御後には青山離宮と呼ばれた。
宮内省告示第二號
青山御所ヲ離宮ト定メラレ自今青山離宮ト總ス
明治三十一年二月三日 宮内大臣
- この後御用地内にはその後も御殿が建てられている。
明治八年二月
一、梅御殿建築 二百四坪五合三勺
同七月
一、梅御殿續き建家取建
同十年
一、梅御殿修繕 皇子御降誕に付
同十三年
一、青山御産殿修繕假湯殿建増模様替等
同十七年四月
一、御産所修繕
同二十二年
一、御産所改築
同二十九年
一、御産所手入 泰宮御降誕に付 ※東久邇聡子
同三十八年五月
一、皇孫假御殿板屋根其他修繕
同四十一年十月
一、皇孫假御殿建増其他 四十三年十一月竣工
建増二百九十一坪二合三勺八坪
曳建 百五十坪
大正四年三月
一、皇子御殿調理所脇庖丁詰所増築 四月竣工
七坪二合
- 明治31年(1898年)12月、一時的に(後の大正天皇の)東宮御所となっている。
皇子御殿は元御降誕所として明治八年新築せられたるものにして、後改築又は増築を行ひたり。明治二十八年以降之を皇孫假御殿と稱せしが、大正二年以後 皇子御殿と稱す。
- 明治天皇崩御後、昭憲皇太后の御所となる。大正2年(1913年)7月21日、沼津御用邸より還啓し青山御所に入る。翌大正3年(1914年)3月26日、狭心症を発症し、4月9日崩御。
- さらに大正15年(1926年)12月25日に大正天皇が葉山御用邸で崩御、青山離宮は貞明皇太后の御所(大宮御所)となる。昭和26年(1951年)5月17日、狭心症により大宮御所※で崩御。享年66。
のち昭和天皇は貞明皇太后のため昭和5年(1930年)、皇居内に大宮御所を造営しておりそちらへ移っている。昭和20年(1945年)の空襲により焼失するが翌年に再建。昭和26年(1951年)の貞明皇太后崩御まで使われた。昭和天皇崩御後、香淳皇太后が住まいとし「吹上大宮御所」と呼ばれた。平成12年(2000年)6月16日に皇太后崩御により、吹上大宮御所は居住者が不在となっている。
- 昭和35年(1960年)4月、継宮明仁親王(第125代天皇)の御所として東宮御所が竣工。
- 昭和64年(1989年)正月7日に昭和天皇が崩御し第125代天皇が践祚(即位)するが、その後も当地に住み続けたために東宮御所は「御所」(赤坂御所)とされ、平成5年(1993年)12月に吹上御苑内の皇居半蔵門近くに新築された御所に第125代天皇・皇后美智子と紀宮清子内親王が転居した後は、徳仁親王の東宮御所となった。
紀宮清子内親王は、2005年(平成17年)11月15日に東京都職員の黒田慶樹氏と結婚式を挙げて皇籍から離脱し、黒田邸へと移っている。
- 2019年4月末までは、皇太子徳仁親王、皇太子妃雅子、敬宮愛子内親王の住まいとなっていた。
- 2019年5月1日に、皇太子徳仁親王が第126代天皇として即位することにともない、皇太子が空位となるため、以降は東宮御所は存在しなくなる。
実質的な東宮御所の機能としては、皇嗣となる秋篠宮文仁親王の邸宅である秋篠宮邸(増築が予定されている)と赤坂東邸を事実上一体として機能させる方針という。
東宮御所→仙洞御所
- 平成31年(2019年)4月30日までの東宮御所は、当初は、即位後の今上天皇(徳仁)の居住地としての「赤坂御所」とされ、その後今上天皇が本来の御所(皇居)へ正式に転居した後に改修が施され、上皇(昭仁)の宮廷である仙洞御所とされる。
- 令和2年(2020年)3月19日、上皇ご夫妻は皇居・吹上仙洞御所から退去し、神奈川県の葉山御用邸や栃木県の御料牧場に滞在後、31日に仮住まい先の東京都港区の仙洞仮御所(高輪皇族邸)に移られる。この間に、皇居のお住まいから身の回りの荷物が移される。仮住まいの期間は1年半程度の予定だったが、新型コロナウイルスの流行により改修工事が2022年(令和4年)まで続いたため、同年4月12日まで仙洞仮御所として使用された。同様に皇居でも工事が行われ、2021年9月6日に天皇ご一家が赤坂御用地から移られた。その後、天皇一家転居後の赤坂御所は改修され、2022年(令和4年)4月26日に上皇・上皇后が高輪皇族邸から再度転居し、正式な「仙洞御所」となった。
同様に、皇居にある上皇(昭仁)ご夫妻の住まいは、「高輪皇族邸」に移られるまでの間、「御所」から「吹上仙洞御所」に名称が変わる。さらに住まいが移るときから「高輪皇族邸」は「仙洞仮御所」と呼ばれる。その後、赤坂御用地に移られると、住まいの名称は、「仙洞御所」へと変わる。
- この間のそれぞれの建物の経緯を整理すると次のようになる。
- 【皇居】:
第125代天皇「御所」 → 上皇「吹上仙洞御所」 → 第126代天皇「御所」 - 【赤坂御用地現東宮御所】:
皇太子徳仁「東宮御所」 → 第126代天皇「赤坂御所」 → 上皇「仙洞御所」 - 【現高輪皇族邸】:
「高輪皇族邸」 → 上皇「仙洞仮御所」 → 皇族共用の邸宅
赤坂御用地にある他の皇族宮邸
- なお東宮御所を含む赤坂御用地一帯には、皇族の宮邸も建てられている。
- 【赤坂御所】:今上天皇(徳仁)ご一家の御所。平成31年(2019年)4月30日までは「東宮御所」。令和元年(2019年)5月1日より一時的に「赤坂御所」となり、今上天皇(徳仁)ご一家が皇居内「御所」に移った後、改修工事を経て2022年(令和4年)4月26日に上皇(昭仁)ご夫妻が転居され、その住まいである「仙洞御所」となった。
- 【秋篠宮邸】:今上天皇の弟宮である皇嗣文仁親王(秋篠宮家)の宮邸。旧秩父宮邸を改修し平成9年(1997年)3月より使用。令和元年(2019年)5月1日以降は赤坂東邸との一体運用が行われる。
- 【三笠宮邸】:三笠宮家の宮邸。崇仁親王妃百合子が使用。昭和45年11月からご使用。
- 【三笠宮東邸】(旧・寬仁親王邸):かつての寛仁親王の宮邸(寬仁親王邸)。寛仁親王妃信子、彬子女王、瑶子女王が使用。昭和57年12月からご使用。
2012年6月、寬仁親王の薨去に伴い、当主不在のまま寬仁親王家の構成員が居所はそのままに三笠宮本家に合流することになったため、2013年7月末に現在の「三笠宮東邸」に改められた。 - 【高円宮邸】:高円宮家の宮邸。現在の居住者は高円宮憲仁親王妃久子、承子女王、絢子女王。昭和61年12月からご使用。
- 【赤坂東邸】:過去一時的に利用されてきた建物で、南に秋篠宮邸が隣接する。令和元年(2019年)5月1日の徳仁親王即位後に皇嗣となった秋篠宮家の邸との一体運用が行われる予定。
従来赤坂東邸が担ってきた皇族共用の邸宅としての機能は、上皇が移られた後の旧高輪皇族邸へと移される。 - 【赤坂御苑】:赤坂御用地の中央に位置する回遊式庭園で、昭和38年(1963年)以降天皇主催の園遊会会場として用いられている。
赤坂離宮と青山御所の関係について
- 現在の迎賓館(赤坂離宮)と、赤坂御所(旧青山御所・大宮御所。平成31年4月末まで東宮御所)との関係について、詳細に述べている部分を引用する。
赤坂離宮と青山御所とは、外方より見れば全く分離せるが如しと雖も、敷地は相接續し、其の間明瞭なる區劃無きを以て、敷地に就ては茲に兩者總合して之を記せん。
敷地は東京市の西武赤坂區に在り。唯、東北部の一小地域、即ち離宮の正門附近のみ僅に四谷區に属す。敷地の廣袤は東西五百八十三間四分一厘、南北七百三十四間三分二厘、其の面積二十萬二千九百七十三坪七合九勺、内十八萬五千七百七十五坪を世傳御料とし、一萬七千百九十八坪七合九勺を普通御料とす。
右敷地の中央部十六萬三千三百九十餘坪は赤坂離宮に属し、殘餘の三萬九千餘坪は青山御所の所属たり。
(略)
赤坂離宮敷地の大半は舊紀州藩主なりし徳川茂承の苑囿たりしものにして、其の名を西苑と小したり。これ甞て尾張徳川家の戸山山荘及び水戸徳川家の後楽園と共に徳川三家の江戸に於ける三大名園と稱せられしものなり。
又青山御所に属する部分は、甞て徳川茂承並に青山下野守屋敷址たりしものなり。而して皇子御殿は同上並に玉宗寺等の在し所なり。
赤坂離宮の地は、明治五年二月以降帝室の有に歸し、三月赤坂離宮と稱することゝなり、亜いで同六年五月四日 皇居炎上せしより 皇居御造營完成迄假 皇居と稱せられたり。
青山御所の地は、明治六年十二月十九日 皇太后御移住ありて、翌七年一月二十八日以降青山御所と稱せらるゝに至れり。
皇子御殿は元御降誕所として明治八年新築せられたるものにして、後改築又は増築を行ひたり。明治二十八年以降之を皇孫假御殿と稱せしが、大正二年以後 皇子御殿と稱す。
八丁堀中屋敷
八丁堀(木挽町一丁目)
1万249坪
慶長12年(1607年)~
- 木挽町邸
- 慶長12年(1607年)拝領。
- 宝永5年(1708年)12月に切坪上地。
宝永五年十二月九日紀伊中納言殿上ヶ地八丁堀一九三五坪四合町奉行え
- 文政12年(1829年)3月21日に神田佐久間町より出火し類焼。6月28日に鉄砲洲築地の堀田相模守の中屋敷を拝領したため、代地としてこの八丁堀屋敷のうち7284坪を上地した。
- 翌文政13年(1830年)2月12日に相対替で残地を三方替地とし、山田奉行牧野長門守に譲渡した。
- 邸前の橋を「紀伊國橋」と呼ぶのは、橋を紀州藩のみで架けたためという。
- 現在のウィンズ銀座から築地川亀井橋公園に挟まれたエリア。
鉄砲洲中屋敷
南小田原町(鉄砲洲)
6320坪餘
文政12年(1829年)~
- 築地邸
- 文政12年(1829年)6月28日に拝領。
- 木挽町下屋敷が文政12年(1829年)3月の火災により焼失した後に、替地として拝領したもの。元は堀田家の中屋敷。
文政十二年丑年六月廿八日堀田相模守中屋敷御願之通り御拝領築地屋敷ト唱フ。八丁堀邸類焼ニ依テナリ云々。
幕末
- 安政3年(1856年)に講武所(旧名称は講武場)を設立した際に上地したものとされる。
- のち軍艦操練所となる。
- イギリス公使ハリー・パークスの要請により当地に外国人向けのホテル建設が行われ、慶応4年(1868年)8月10日に「築地ホテル館」として開業した。
明治元年 築地ホテル館成る。建坪八百三十一坪餘にして清水喜助の設計。
明治後
- すでに幕府は瓦解しており、築地居留地も発展しなかったためにホテル経営は苦しいものとなり、明治5年(1872年)1月に海軍の所有となり、翌月には銀座大火で焼失した。
- 海軍本省、兵学校、軍医学校、経理学校などが置かれていた。
- 波除稲荷神社の東側。
松涛下屋敷
中澁谷
2万9400坪
延宝4年(1676年)~
- 延宝4年(1676年)10月11日に5万坪を拝領。
和歌山城主徳川光貞、下屋鋪を渋谷に賜ふ
紀伊中納言光貞依願、於澁谷下屋敷五萬坪被遣之
澁谷邸 中澁谷村
延宝四辰年十月十一日御拝領
坪數貳萬九千四百坪。
享保二酉六月廿八日表御用部屋日記ニハ三萬坪トアリ。
一、御下屋敷也。元禄八亥年二月八日赤坂邸炎焼之時ハ清渓公當邸へ御引移、俄カニ御長屋等建設、翌九子年三月迄御滞在アリタリ。近時迄御殿存在スト雖モ至テ狭小、御茶亭ニ類ス。明治三年十月赤坂殿御廣敷役所向ト共ニ入札ニテ賣却。
一、明治元辰年諸藩邸員數被仰出ニ付、當邸之儀、當分拝借御願之處、同二巳年三月十三日允許。爾来地税半年分三拾六兩三歩ツヽ上納。後還付ノ儀、所轄品川縣へ紹介ノ處、可請取旨通牒ニヨリ、同四未年二月晦日和歌山藩員出張家令所ヨリモ立會之上、圖ニ照ラシ、同懸出張役員ヘ引渡シ、証書取替ス。
- 元禄8年(1695年)に御連枝の伊予西条藩松平家に2万坪を譲渡している。
- 明治5年(1872年)に鍋島家が払い下げを受け士族授産のために茶園を開いて「松濤」の銘で売り出した。
千駄ヶ谷邸
- 抱屋敷地として買い入れ。
明治後
- 明治10年(1877年)に徳川宗家の所有となる。
- 天璋院篤姫もこの邸に住み、宗家世子である田安亀之助(徳川宗家16代家達)を養育したという。
- 明治16年(1883年)11月13日天璋院篤姫没。享年49。
天璋院は自分の所持金を切り詰めてでも元大奥関係者の就職・縁組に奔走していたため、死後に確認された所持金は3円(現在の6万円ほど)しかなかったという。
- 昭和18年(1943年)に日本武道館の建設候補地となるが、戦争のあおりを受けて建設は中断。この地には葵会館が建った。
- 結局日本武道館は、昭和39年(1964年)に北の丸田安邸跡付近に建設され、この千駄ヶ谷の地には東京体育館が建設された。
- 現在は、JR千駄ヶ谷駅南側の国立能楽堂から東京体育館屋内プールあたりの一帯。東京体育館敷地内には「旧徳川家達邸跡」が建つ。
芝下屋敷
本芝一丁目
2839坪
- 宝永5年(1708年)12月28日拝領。
芝海手邸宝永五子年十二月廿八日八丁堀邸上ヶ替地トシテ出ル。享保二酉年六月廿八日表御用部屋日記ニ坪數貳千八百三拾九坪ト有之云々。
宝永五子年十二月廿八日渡、島田總右衛門上ヶ地并町地共本芝一丁目數貳千八百三拾九、紀伊中納言殿
明治後(芝離宮)
- 明治元年(1868年)下賜。
一、明治元辰十二月十七日赤坂麹町兩邸ト共ニ當邸御拝領之儀御願之處、同二十五日御願之通リ下賜。
一、同二巳年二月二十五日當邸之儀朝廷御用ニモ可相成哉之御沙汰ニヨリ、邸内建物等都テ直段積リ可差出トノ旨ニテ、左ノ通東京府廰ヘ申達ス。
建物等其儘之見積リ 金貳萬参千兩
建物等凡テ取崩シ外地面ヘ引移ノ見積リ 金貳萬六千五百兩
一、明治三年5月八十七坪鐵道御用地トシテ御差上
一、同年七月府下諸藩官私邸一ヶ所ツヽト被定、赤坂邸ヲ私邸ニ可相立段、東京府ヘ提出之處、致承知指令有之。
一、同年十一月芝濱松町藩邸兵部卿宮有栖川宮御借用被成尤御引移リ日取等御同家ヨリ掛合有之旨、於辨官谷森少史ヲ以被相達依テ該地一萬四千六百九十一坪差上
右谷森少史ヘ於藩差支有無取調可申上哉ト承タル處、右ハ斷然御達ニ相成候事、乍併故障有之ハ其品申立候儀ハ其通之事之旨申聞タリ。
- 明治3年(1870年)11月献納。
是より先、維新前後においては當地所は紀伊藩主徳川家斉の所有なりしが、明治三年十一月献納する所となり、同五年有栖川宮に賜はる。然るに同八年六月宮内省へ収め、皇太后非常御立退所と定めらる。翌九年二月更に芝離宮と稱せしむ。
- 明治5年(1872年)9月に有栖川宮邸となる。
熾仁親王は、旧高遠藩屋敷(神田小川町、現在の靖国通り「駿河台下」交差点付近)、旧島原藩屋敷(数寄屋橋御門内、現在の日比谷シャンテ付近)などを転々としたあと、明治4年(1871年)に芝浜崎町の旧紀州藩別邸を本邸とした。しかしここは明治8年(1873年)には宮内省に買い上げられたため、維新後に副島種臣が住んでいた霞が関の旧三田藩屋敷跡(現在の国会議事堂敷地南部から国会前庭南地区にかけての一帯)を購入して移転した。
- 明治8年(1875年)、英照皇太后の非常御立退所として宮内省買い上げ、明治9年(1876年)に芝離宮となった。
芝離宮は、芝區濱松町に在り。明治九年二月十日芝離宮と稱せらるゝ旨太政官より布告ありたり。
有栖川二品宮邸府下第二大區三小區芝濱松町二番地此反別四町九反二畝十八歩之場所、今般御貯蓄金之内ヲ以テ買収。
皇太后非常御立退所御用邸ニ相備皇宮地へ組込除税相成候様可及上申ト存候間、於御省御差支無之候哉、一應及御協議候條、否至急御回答有之此段及御掛合候也。
八年六月十九日 宮内省徳大寺實則
内務卿大久保利通殿一金貳萬五千圓 御貯蓄金之内ヨリ出方
右者今般
皇太后非常御立退所御備用トシテ芝濱松町二番地有栖川二品宮邸宅地所共悉皆御買上相成候事。
八年六月二十二日
- 明治24年(1891年)に迎賓館が建設される。着工は明治24年(1891年)5月、同年11月竣工。
明治二十二年十一月五日立案、同年十一月七日決裁ナリ。
芝離宮ヘ西洋館新築ニ付年繰着手方稟議然るに翌年に至りて、建築費に變更を來したるが如し。即ち明治二十三年五月二十三日立案、同年五月二十八日決裁。
- 大正12年(1923年)の関東大震災で焼失し、翌大正13年(1924年)1月に昭和天皇ご成婚記念で東京市に下賜され、恩賜庭園となった。
- 同年4月20日、旧芝離宮恩賜庭園として開園した。
万年橋邸
深川万年橋
安政6年(1859年)~
- 安政6年(1859年)に、松平遠江守の下屋敷を深川の新大橋向の屋敷地との相対替で入手したもの。
- 万年橋北詰
その他
- 蛎殻邸
- 日本橋蛎殻町。永久稲荷の北側
- 千駄ヶ谷
- 抱屋敷・添地。天保15年(1844年)3月24日、徳川斉順が7400坪拝領。元は三枝右近屋敷。
御抱入時代年月不詳、天保十三年屋敷改え書上ヶ面坪數壹萬五千六百拾八坪及三千九百坪合壹萬九千五百拾八坪云々。同所御添地七千四百坪弘化元年三月十四日千駄ヶ谷三枝右近上地割殘ノ分御願通り添地ニ被仰出、千駄ヶ谷屋敷ト唱フ。
- 小名木澤
- 安政3年(1856年)4月1日拝領。2300坪。
- 青山添屋敷
- 天保6年(1835年)12月27日拝領。3690坪。
- 四谷門外堀端
- 下屋敷。文化8年(1811年)9月12日。1241坪。
- 権田原下屋敷
- 天保14年(1843年)11月8日。2440坪。安政3年(1856年)12月8日相対替。
- 牛米原下屋敷
- 天保9年(1838年)8月26日、もと水野土佐守の屋敷地を拝領。507坪。天保13年(1842年)4月7日、四谷相之馬場大久保俤之丞弥敷地と相対替。
- 四谷相之馬場
- 下屋敷。800坪。赤坂喰違外邸とも。天保13年(1842年)4月7日に相対替で入手。
- 鮫ヶ橋北臺
- 下屋敷。天保15年(1844年)9月28日相対替で入手。700坪。文久元年(1861年)7月1日上地。
- 四谷南伊賀町
- 下屋敷。万延元年(1860年)8月17日相対替で入手。1372坪。
- 深川越中島
- 抱屋敷・抱地。9999坪。弘化4年(1847年)10月8日。
- 稲荷河岸
- 天保15年(1844年)10月21日、徳川斉順が神田川通稲荷河岸際蜜柑揚場を拝領。東西七間、南北十二間。
関連項目
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