生駒左文字
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生駒左文字(いこまさもんじ)
刀
二尺三寸九分
生駒左文字
- 左文字の作
- 駿府御分物帳の中之御腰物に記載。
左文字 生駒讃岐
- 享保名物帳所載
生駒左文字 磨上二尺三寸九分 代三千貫 不知有所
生駒讃岐守所持、表裏三つ棟、松平弾正殿へ尾張殿より御入輿の刻進せらる又小笠原遠江守へ安芸守殿より御入輿の刻被進、不吉第一不出来なる道具にて御気に入らす御道具替になさるるなり
由来
- 生駒讃岐守一正所持にちなむ。
来歴
- 生駒一正(生駒親正の長男)から、徳川将軍家に伝わる。
中之御腰物 左文字 生駒讃岐
(駿府御分物帳)
- 尾張徳川家に伝わり、慶安四年(1651年)までは尾張家。
生駒左文字 代金五十枚
(慶安四年卯三月 御腰物帳)
- 延宝4年(1676年)11月、安芸広島藩第4代藩主浅野綱長(松平弾正少弼)の正室として、富姫(馨香院貴姫。尾張藩主徳川光友の三女、兄徳川綱誠の養女)が輿入れする際に浅野家に伝わるという。
- 元禄16年(1703年)に本阿弥家に鑑定に出され、千貫の折紙がつく。
- 第2代藩主浅野光晟(綱長祖父)の娘久姫(長寿院)が、豊前小倉藩の第2代藩主小笠原忠雄に輿入れした際に小笠原家に伝わったとする。
- しかしこれでは時代が逆転するため、宝永頃(1704年頃)に小笠原忠雄の長男小笠原忠基(小倉藩3代藩主)に浅野綱長の娘梅が輿入れした際に贈られたものかと思われる。
- 小笠原家では、小笠原忠雄が浅野家から光晟娘の久姫を迎え入れ、さらに嫡男忠基が浅野家から綱長娘の梅姫を迎え入れていることになる。
- この刀は不吉の事があるということで、本阿弥家に渡し別の刀と交換した。
不吉第一不出来成る道具にて、御気に入らず、道具替え成られ
- 寛永17年(1640年)の生駒騒動が原因ともされるが、それであれば浅野家とも揉めそうでありよくわからない。そもそも浅野家も事件後に将軍家から拝領しているため、そちらにもケチがつくことになりかねない。
- その後本阿弥家から他家に売買され、所在がわからなくなってしまったという。
別の生駒左文字
- 戦前に「生駒左文字」と金象嵌の入った刀があったという。
- 二尺一寸九分で、名物の左文字とは別物と思われる。
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