武蔵正宗


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 武蔵正宗(むさしまさむね)


無銘 伝正宗
二尺四寸四分
重要美術品
日本美術刀剣保存協会所蔵(刀剣博物館展示)

  • 享保名物帳所載

    武藏正宗 磨上長二尺四寸四分半 代五千貫 御物
    光瑳名物帳に紀伊中納言殿御道具の内に有之、亜相公未だ黄門の御時也、異名の仔細は吟味有之候へ共、聢(しか)と不相分、前宮本武藏所持故と察申候、光察は家康公より進ぜられ候共申候也、又光澄は紀州大納言殿江戸にて召上られ候故武藏と申候との事也、中切先恰好直なり。

  • 詳註刀剣名物帳

    武藏の由來區々なり、此刀維新後山岡鐵太郎君へ徳川公爵より贈られ、山岡君より岩倉右府へ進上、今同家に在りと云ふ。
    「補」先年岩倉家より拂に出たれど、價折合す、定て今同家にあるべし

    岩倉右府は岩倉具視。「價折合ず」は親引きした上で親族が3500円で引き受けたことを言っている。

  • 反りは四分二厘(1.3cm)で、真の宗、大切先、表裏に棒樋をかきとおし、樋先下がる。
  • 鎺元近くに切り込み1箇所、中心は八寸四分五厘磨上。目釘孔2個。
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 由来

  • 諸説ある。将軍家の御腰物台帳では宮本武蔵所持とする。
    1. 宮本武蔵所持にちなむ

      是ハ宮本武蔵所持

    2. 紀伊家中から出たが、武蔵江戸にて紀伊徳川家に召し上げられたため

      紀州大納言殿江戸にて召上られ候故武藏と申候との事也

 来歴

 宮本武蔵

  • 伝承によれば、天正~正保ごろに宮本武蔵所持という。

    是ハ宮本武蔵所持

 将軍家→紀伊徳川家

  • 秀忠が紀州光貞に与え紀伊徳川家に伝わったという。
  • ただし実紀では貞享二年(1685年)3月、将軍綱吉の息女鶴姫が紀州徳川家徳川綱教(紀州藩3代藩主)に輿入れする際に、光貞に贈られている。

    ○六日紀伊邸に阿部豐後守正武御使し。(略)。御盃下さるゝ時。綱教卿へ御引出物とて。義弘の御刀。朱判正宗の御脇差たまひ。光貞卿に當麻の御刀。武藏正宗の御脇差たまふ。

 将軍家

  • 紀州家にあるときに金百五十枚の折紙
  • 再び将軍家に入り五千貫に値上がる。
  • 享保2年(1717年)の「継平押形」に「武蔵押形」とするものが載るが中心が短く、目釘孔も1個で樋先や鋩子の形も現存刀と同一視されない。
  • 寛政2年(1790年)4月に上覧。

     四月廿四日、左之御道具
       上覧ニ相廻ル、御名物御道具、是者帳面ニ而、
     
      一、武蔵正宗
        是ハ宮本武蔵所持、後紀伊中納言殿御
        所持、貞享ニ丑年三月六日御入輿之時
        被献、

 山岡鉄舟→岩倉具視

  • のち幕末に江戸城の無血開城が行われた際に、山岡鉄舟の手を経て岩倉具視へと渡ったという。以下順番に見ていく。
  • まず慶応4年(1868年)、山岡鉄舟が将軍慶喜の命を受けて3月9日に静岡に赴き、征東軍の本営に西郷隆盛を訪ね、後の薩摩藩江戸藩邸における3月13日~14日に行われた西郷勝会談に向けた周旋を行った功により慶喜から拝領したという。
    1. 川田剛の「正宗鍛刀記」によると、徳川家達が鉄舟に贈り、鉄舟はそれをさらに岩倉具視に贈ったという。
      鉄舟随感録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

         川 田 甕 江 名剛字毅卿備中人
      右相岩倉公召剛示名刀一口。(略)
      已而六師止征東。封慶喜族人家達於駿河。徳川氏不絶祀。府下百萬人家亦免兵弱火。後十餘年。家達追思鐵舟功。報以此刀。鐵舟曰此非我功。廟謨寛仁所致。携來示余。遂見贈焉。剛聞此語起拝曰。有是哉。公愛其人並愛其器也。
      刀身長二尺四寸四分。廣九分一釐。脊厚二部弱。兩面各有四漕。起自莖及鋒尖者一寸九分。利刄切玉。凛平秋霜。使人魂悖膽寒。莖長五寸七分二釐。廣九分强。下豊上殺。穿二孔。下者徑二分。上者一分六釐。其■(木偏に覊)與室用白木。題武藏正宗 代五千貫 貞享二年三月六日紀伊中納言上云云三十余字。相傳。此相州刀工藤原正宗作。而武帥宮本武藏所佩家達十四世祖。大將軍秀忠遣之紀伊藩主徳川頼宣。頼宣子光貞。復獻於幕府。當時武臣秉政。尤崇兵器。五體贈遺列用名刀。命工人辯眞贋。記價格以定品位。今曰五千貫。則品位尊可知矣。抑正宗者曠古良工。生在元弘建武際。此時王室中興未幾。天下後亂。所造利刄往々爲叛臣用公苟鑑於い覆轉。今日治平猶不忘。戊辰東征兵馬艱難時。則此刀非獨爲公家家寶器。則天下之寶器。嗚呼其可不愛重乎哉。
         明治十六年紀元節
                       宮内文學従五位川 田  剛謹 記

      鉄舟随感録によれば、明治政府が三等勲章を与えようと井上馨を遣わした際に、鉄舟はそれを断ってしまうが、その際この正宗の話が岩倉公に伝わり、感心した岩倉公が川田剛を招いて「正宗鍛刀記」を書かせたのだという。なお最後の日付については、いくつかある写しによっては「明治十六年紀元節」ではなく「明治十六年紀元後三日」となっているものもある。
    2. 江戸開城の10年後に慶喜が鉄舟を介して岩倉に贈ったともいう。明治15年(1882年)、11月20日付の岩倉から香川敬三宛の書簡に次のように書かれているという。

      (前略)又同人(山岡鉄舟)云ク、徳川家ノ事ニ付而者種々御配慮被下候間、為御礼正宗之刀一振進呈仕度趣申居候、右ハ寸志ヲ表候まてのものニ付、御請被遣下候、是も雖有トノ事申居候、右夫々本人より可申上候間、宣敷奉願候

      岩倉は同年10月19日にイギリス留学から戻ったばかりであり、武蔵正宗の贈与は10月19日~11月20日の間に行われたとする。(CiNii 論文 -  山岡鉄舟の功績を称えた「正宗鍛刀記」の考証 アンシン・アナートリー)
      ただし「正宗之刀一振」と書かれているだけで特定は難しい。
  • いずれにしろ、徳川家より岩倉具視に伝わったということになる。

 岩倉家

  • 岩倉具視の孫にあたる公爵岩倉具張は、北海道の土地投機に失敗して300万円(現在の貨幣価値で数百億円)もの損害を受けて多額の負債を背負うことになり、大正3年(1914年)親族会議の結果、長男の岩倉具栄が家督および爵位を継承している。
  • 本刀は同大正3年(1914年)岩倉家の売立に出されるが、1190円の札しか入らず、引取り親族が3500円で引き受けている。
  • 昭和12年(1937年)8月28日に重要美術品指定。このときも岩倉具栄公爵名義。

    刀 無銘(名物武蔵正宗) 一口 公爵岩倉具栄
    (昭和12年文部省告示第三〇六號)

    岩倉具栄の父方の曾祖父は岩倉具視、母方の祖父は西郷従道。

            【播磨明石藩】
          松平直韶──松平慶憲─┬松平直致
                     └松平直徳──松平直頴 ┌松平尚次郎
                             ├───┴松平脩次郎
岩倉誠子  ┌増子(岩倉具綱夫人)          ┌岩倉初子
  ├───┴静子(久世通章夫人、吉田良義夫人)   ├岩倉具栄(英文学者)
  │                        ├岩倉具実(言語学者)
岩倉具視───具義、道倶  西郷従道──桜子     ├岩倉具方(洋画家)
  │                  ├─────┴岩倉靖子(赤化華族事件で逮捕後自殺)
  ├─────┬─岩倉具定       │
岩倉槇子    │   ├─────┬岩倉具張
    澤為量─│──久子     ├周子(東伏見宮依仁親王妃)
        │         ├豊子(侯爵西郷従徳妻)
        │         └岩倉具顕───┬岩倉具憲
        ├─岩倉具経(男爵)        └岩倉具子(小桜葉子)
 【東本願寺】 │  ├──┬岩倉具明(子爵)      ├──池端直亮(加山雄三)
   大谷光勝─│─梭子  ├八千代(中島久万吉妻) 池端清亮(上原謙)
        │     └鮫島具重
        ├─極子(戸田氏共夫人)
        └─寛子(有馬頼万夫人、森有礼夫人)

 藤沢乙安

  • 昭和40年頃には株式会社ぎょうせいの中興の祖、藤沢乙安氏蔵となっている。
    この間のことは不詳だが、「明石国行」についても同様の経路で子爵松平直頴から藤沢乙安氏蔵となっている。本刀「武蔵正宗」も、岩倉具栄から松平直頴を経て藤沢乙安氏蔵となった可能性があるのではないかと思われる。
  • 藤沢乙安氏の死後、日本美術刀剣保存協会に寄贈されている。

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