島津正宗
島津正宗(しまづまさむね)
刀 無銘
名物 島津正宗
長さ二尺二寸七分(磨上)
京都国立博物館所蔵
- 無銘で相州正宗の極め
- 享保名物帳所載
島津正宗 磨上二尺二寸七分 代金二百枚 松平加賀守殿
紀伊国殿御隠居の時上る、松平加賀守殿へ常憲院様御成の刻下さる、表裏樋あり島津正宗 磨上長二尺二寸七分半 代金二百枚 松平加賀守殿
紀州御隠居の刻上る、其後松平加賀守殿宅へ常憲公御成の刻下さる、表裏樋有之
(享保名物帳:名物追加)- 常憲院とは5代将軍徳川綱吉のこと。
- なぜか名物追加の部にも重複記載されている。
- 江戸時代の「継平押形(つぐひらおしがた)」にも刃紋が記載されている。
由来
- 号である「島津」の由来についてはわかっていない。
来歴
島津義弘
今後於朝鮮泊川表、大明及朝鮮人催猛勢相働候處に、父子仕及一戦、卽切崩、敵三萬八千七百餘討捕之段、忠節無比類候。依之爲御褒美、薩州之内御藏入給人分有次第一圓被宛行畢。目録別紙在。並息又八郎被任少將、其上御腰物長光、父義弘に御腰物正宗被爲御拝領候。猶當家御名誉之至也。仍如件。
将軍家
- 同様に本刀との関係はわからないが、寛永15年(1638年)に島津光久が亡父島津家久(忠恒、初代薩摩藩主)の遺物として正宗を献上している。
十三日松平薩摩守光久襲封を謝して、國行の太刀、銀千枚、繻珍五十卷獻じ、父中納言家久卿遺物正宗の刀、貞宗の脇差、唐物肩付、三幅の書、後鳥羽院宸翰の御懷紙をさゝぐ
(大猷院殿御實紀)
紀州徳川家
- その後「島津正宗」は、家康が紀伊頼宣に与えたと思われる。
- 貞享元年(1684年)、紀伊徳川家から本阿弥家に鑑定に出され、二百枚の折紙をつけている。
紀伊大納言
金貳百枚 島津正宗
二尺二寸七分半、樋あり中、切先つまる裏中程より一寸五分ばかり刄の上菖蒲あり、忠短し貞享元年同所より來り右 御極めなり此度證文殘遣す、享保八年松平肥前守より來り三百枚に上る
(留帳)
将軍家
前田家
- 元禄15年(1702年)4月26日、将軍綱吉が前田綱紀邸に御成の際に拝領。
けふの賜物。 綱紀に備前國宗の御太刀。 銀三千枚。時服百。 繻珍百卷。 天鵞絨五十卷。 御盃のとき。 島津正宗の御刀。 吉光の御さしぞへ 。
四月十六日、加賀守宅へ御成之節、被下候品々、
眞太刀備前国国宗、代三百五十貫、二尺五寸五分半、
御刀島津正宗、代金二百枚、二尺二寸七分半、
御腰指吉光、代金三百五十枚、代七千貫、九寸五分
右松平加賀守(前田綱紀)拝領、
眞御太刀長光、代金十三枚、二尺二寸、
御刀貞宗、代金七十五枚、二尺四寸五分、
右松平又左衛門(前田吉徳)拝領、加賀守惣領也
(御当代記)
- 享保8年(1723年)5月に本阿弥家に鑑定に出し、三百枚の折り紙がつく。
将軍家
- 同年8月22日に加賀藩の前田綱紀が家督を四男の吉徳に譲って隠居した際に将軍家に献上している。
廿二日致仕松平肥前守綱紀使して島津正宗の刀を奉り。長福君に正宗の刀。小次郎君に來國光のさしぞへ。小五郎君に當麻のさしぞへを奉る。
- 寛政2年(1790年)4月に上覧。
四月廿四日、左之御道具
上覧ニ相廻ル、御名物御道具、是者帳面ニ而、
一、島津正宗
是ハ嶋津家所持、後松平加賀守所持、
享保八卯年八月廿二日隠居御礼之時松
平肥前守上、
延宝八申年六月廿九日 厳有院様ゟ 浄徳院
様江御遺物、
浄徳院は徳川徳松(5代綱吉の長男)のこと。
天皇家
- 大正8年(1919年)発行の「刀剣名物帳」によると、文久2年(1862年)の和宮様降嫁の際、徳川将軍家がこの「島津正宗」に金千両を添え天皇家に献上したと伝わる。
(万延元年12月25日)征夷大将軍徳川家茂の使者酒井忠義・差添横瀬貞固、参内し、物を進献して和宮の降嫁を奉祝す。また和宮に参候して物を献ず。
今度別段被進候御刀之儀ハ關東ニテモ格段詮議之上御傳來之内島津正宗ト唱候名物之御品被進候事ニ候
- しかし、献上後まもなくして行方不明となっていた。
その後
- その後、昭和44年(1969年)大阪で蕎麦屋を営む奥田米佛門(べふもん)氏が、天皇家に近い近衛家から譲り受けたという。
- 平成25年(2013年)にその個人から京都国立博物館に寄贈され、同館にて調査したところ、由来、押形との比較などから島津正宗と確認され、「150年ぶりに確認」とニュースになった。
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