足利義輝

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足利義輝(あしかがよしてる)  

室町幕府第13代将軍
剣豪将軍
従五位下、正五位下左馬頭
従四位下征夷大将軍
参議、左近衛中将
従三位
贈従一位左大臣

生まれ  

  • 第12代将軍・足利義晴の嫡男として生まれる。母は関白近衛尚通の娘である慶寿院。
  • 幼名菊童丸
  • のち外祖父近衛尚通の猶子となる。この頃の幕府では父・義晴と管領の細川晴元が対立し、義晴はそのたびに敗れる。

将軍宣下(13代将軍)  

  • 天文15年(1546年)12月、菊童丸(義輝)はわずか11歳にして父から将軍職を譲られる。なお父義晴もかつて11歳で元服・将軍宣下を受けている。
  • 将軍就任式は亡命先である近江坂本の日吉神社(現日吉大社)祠官樹下成保の第で行われ、六角定頼を烏帽子親として元服し、義藤(よしふじ)と名乗る。
  • ところが、晴元の家臣で、畿内に一大勢力を築きつつあった三好長慶が晴元を裏切って細川氏綱陣営に転属する。

三好長慶との和睦  

  • 天文21年(1552年)1月、細川氏綱を管領にするという条件で三好長慶と和睦し、京に戻った。ただし将軍とは有名無実で、長慶とその家臣松永久秀の傀儡であった。翌年(1553年)に晴元と協力して長慶との戦端を開くも敗退。再び近江朽木へ逃れ、以降5年間をこの地で過ごした。なお、亡命中の同23年(1554年)2月12日、名を義輝に改めている。
  • 永禄元年(1558年)11月、六角義賢の仲介により長慶との間に和議が成立したことに伴って、5年ぶりの入洛が実現し、幕府政治を再開する。この年の12月28日には、伯父である近衛稙家の娘を正室に迎えている。

将軍親政  

  • 義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。伊達晴宗と稙宗(天文17年(1548年))、武田晴信と長尾景虎(永禄元年(1558年))、島津貴久と大友義鎮、毛利元就と尼子晴久(同3年(1560年))、毛利元就と大友宗麟(同6年(1563年))、上杉輝虎(長尾景虎改め)と北条氏政と武田晴信(同7年(1564年))など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行い、将軍の威信を知らしめた。
  • また懐柔策として、大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、三好長慶・義長(義興)父子と松永久秀には桐紋使用を許した。さらに自らの名の偏諱(1字)を家臣や全国の諸大名などに与えた。例えば、「藤」の字を細川藤孝(幽斎)や筒井藤勝(順慶)、足利一門の足利藤氏・藤政などに、「輝」の字を毛利輝元・伊達輝宗・上杉輝虎(謙信)などの諸大名や足利一門、藤氏・藤政の弟である足利輝氏などに与えた。また島津義久、武田義信などのように足利将軍家の通字である「義」を偏諱として与える例もあった。
    上杉謙信は二度上洛しているが、いずれも義輝に拝謁している。二度目の上洛の際には、国綱太刀(藤林国綱重要美術品)を下賜している。
  • 永禄年間には信濃国北部を巡る甲斐国の武田信玄と越後国の長尾景虎(上杉謙信)との川中島の戦いが起きており、義輝は両者の争いを調停し、永禄元年(1558年)には信玄を信濃守護に補任するが信玄はさらに景虎の信濃撤退を求め、義輝は景虎の信濃出兵を認め、永禄4年には信玄に駆逐され上方へ亡命していた前信濃守護・小笠原長時の帰国支援を命じている。また相伴衆を拡充し、毛利元就、毛利隆元、大友義鎮、斉藤義龍、今川氏真、三好長慶、三好義興、武田信虎らを任じた。

最期  

  • 永禄7年(1564年)7月に長慶が病死。長年の政敵が消滅した義輝はこれを好機として、いよいよ中央においても幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。
  • しかし、長慶の死後に幕政を牛耳ろうと目論んでいた松永久秀と三好三人衆にとっては、そのような義輝は邪魔な存在であった。久秀と三人衆は足利義稙の養子・足利義維(義輝の叔父)と組み、義輝を排除して、義維の嫡男・義栄(義輝の従兄弟)を新将軍の候補として擁立する。一方で義輝が頼みとする近江六角氏は永禄6年(1563年)の観音寺騒動以降、領国の近江を離れられなくなっていた。
  • 永禄8年(1565年)5月19日、久秀と三好三人衆は主君・三好義継(長慶の養嗣子)とともに義栄を奉じて謀叛を起こし、二条御所(二条御所武衛陣)を軍勢を率いて襲撃した(永禄の変)。義輝は名刀を振るって奮戦したが衆寡敵せず、最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり、殺害された。 享年30(満29歳没)。

    公方様午前ニ利釼ヲアマタ立ラレ度々トリカヘ切崩サセ給フ御勢ニ恐怖シテ近付申ス者ナシ御太刀ヲ抛テ諸卒ニトラサシムル體ニテ重而御手ニカゝル敵數輩也サスカ武将ノ御器量コソ勇々シケレト奉譽聲タウゝタリ
    (足利季世紀)

    十九日急に二條の第を圍み、矢砲を縱發す。義輝、左右に謂つて曰く、敵は誰と爲すと。沼田上野介馳せて門樓に登り、呼んで曰く、夜撃する者は誰ぞ矣、與に須らく名を掲ぐべきなりと。一兵前んで曰く、君の陰謀已に發覺し、爲めに三好の代官松永弾正來り攻む。更に漏るる路有るべからず、疾く應に死を決すべきなりと。沼田入りて報ず。義輝の母、慶壽太夫人涕を酒ぎ謂つて曰く、變慮に至る、將軍須らく菟るべし、渠等の訟獄する所、枉げて其の意に應じ、以て社稷を保つべし矣と。
    (略)
    義輝親自ら眉尖刀(なぎなた)を揮ひ、出でて𢫵戰す。藤道・福阿彌・輪阿彌・武田信景・杉原晴盛・朝日新三郎・摂津絲丸・谷口民部丞・西川新右衛門・匹田彌四郎・松井新次郎・西面左馬允・心藏主金阿彌等先んで進み、禦戰撃闘し、死傷する者多く、賊の一隊を郤く。尋いで義輝將に再戰せんとす。隆是・兵部・荒川晴宣・二宮彌次郎・寺司與三郎・飯田頼次・木村小四郎・松原小三郎・栗津甚三郎・同仙千代・台阿彌・松阿彌・慶阿彌・竹阿彌等諌めて之を止め、各進撃して戰ひ、多く賊兵を斬殲せり。
    義輝猶ほ將に出でんとす、太夫人袂を控へて强ひて抑止するも、揮つて出で奮撃す。賊辟易す。久秀衆を励まして縱射せしめ、肉薄して登る。義輝自ら金銀資材を庭上に投げ散らすに、賊先を争うて奪略す。其の際に乗じて複た電撃し賊百餘人を斬る。賊猶ほ前み逼る。命じて火を營裏に縱ちて寝殿に自裁す。時に歳三十。
    太夫人所在亦た火を縱つ。(あるひと)避け去るを勤むるも聴かず、自ら火中に投ず。侍衛殉ずる者十八人。

  • この時、義輝の生母である慶寿院も殉死している。

    十九日卯乙三好左京大夫義繼。松永右衞門佐久通率兵圍二條御所。將軍家奮戰之餘御自殺。慶壽尼公同投火。其餘從臣多戰死。

    五月十九日午時大樹有事。御母儀慶壽院殿。御舍弟鹿苑寺殿同時。討手三好左京大夫義繼。松永右衞門佐久通以下也。

    みよし(三好)ぶけ(二條武衛陣)をとりまきて。ぶけ(足利義輝)もうちじににて。あとをやきくろづち(黒土)になし候。ちかごろちかごろことのはもなき事にて候。

  • 辞世の句

    五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで

  • この時、相国寺の塔頭鹿苑院の院主になっていた弟の周暠も松永らの命令を受けた平田和泉守に誘い出され、小姓とともに京都へ行く途中で殺害された。なお、小姓は周暠が殺害された直後に平田を殺害した。(美濃屋正宗
  • 法号光源院融山道圓

    六月七日申壬此日。
    從四位下源義輝。左中將。征夷大將軍。五月十九日有事。同六月七日贈左大臣從一 位。陣宣下。號光源院。法名融山道圓。上卿帥中納言。奉行職事重通朝臣。

    ぶけぞうくわんのせんげあり。左大臣。じやうけい山しな。ぶ行頭中將。辨右中弁なり。

剣豪将軍  

  • 剣術をよくし塚原ト伝から「一ノ太刀」の伝授を受けたという。
  • 剣豪将軍と渾名される

小説に見る義輝  

関連項目