美濃屋正宗
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美濃屋正宗(みのやまさむね)
刀
無銘正宗
刃長一尺六分
- 平造り
由来
- 「美濃屋」は、京都小川町の商人の美濃屋とされる。
美濃屋小四郎の親類か
来歴
美濃屋
もとは京都の町人美濃屋の所持。
伊予西条松平家
- 江戸時代には伊予西条松平頼謙の長女、鑑姫所持となっている。
松平頼謙(まつだいら よりかた)
松平頼謙は伊予西条藩の6代藩主。紀州藩7代藩主徳川宗将の6男で、母は江戸幕府の御書院番を務めていた前田氏の妹・於安。安永4年(1775年)に紀州藩主を継いでいた次兄の徳川重倫が隠居するが、子の岩千代が未だ幼少であったために、叔父にあたる伊予西条藩5代藩主であった松平頼淳が徳川治貞として紀州藩9代を継いだ。これに伴って、重倫の弟である金十郎が松平頼謙として伊予西条藩の6代藩主となった。鑑姫はこの松平頼謙の長女。
- 鑑姫は寛政年間に丹波の園部城主小出英筠に輿入れするが、本刀は上記経緯のためか紀伊家に伝来した。
紀州徳川家
- 紀州徳川家伝来。
- 昭和8年(1933年)同家の売立に出品され、188円で落札された。
美濃屋小四郎(みのや こしろう)
- 美濃屋小四郎は常哲の子
- 亀之介とも。
此龜介は上京小川の住人に。 簑屋の小四郎入道して常哲と云ものゝ子なり。先祖より何某の筋にて歴々のものゝ子なりしが。 學文のぞむによりて鹿苑院殿へあづけしかば。(室町殿日記)
- 足利義輝の弟にあたる鹿苑寺周暠の近習として仕えた。
- 永禄8年(1565年)5月19日、将軍義輝を殺害した松永久作は、平田和泉守を差し向け鹿苑寺周暠も殺害しようとする。この時小四郎は16歳だったが、怒って和泉守を斬り、自らも自害して果てた。都で評判になったという。
同じく三番日の御舎弟鹿苑院殿へも平田和泉を討手にさし向け、同じ刻に御生害。御伴衆こと
悉 く逃散候 。其の中に、日頃御目を懸けられ侯美濃屋小四郎、未だ若年十五、六にして、討手の大将平田和泉を切り殺し、御相伴仕り、高名比類なし。誠に御当家破滅、天下万民の愁歎これに過ぐべからず、云々
(信長公記)小川の住人美濃屋の小四郎生年十六、
容貌 世に勝れしかば、御寵愛浅からで、常々左右に侍りしが、其時も間親く御供申しければ、得たり賢しと、三條吉則二尺五寸抜ば玉散計 なるを以 、和泉が細頸露もためず打落し、手もとに廻る者共、五六人迄切ふせ、是までと云儘に、腹十文字に掻切て、名を後代に止たり。誠若年として、立所に主の恩を報ぜしとて、世皆感之 。其比 の狂歌に、
くるぶしもぬれぬ小川のみの亀に、和泉は命取れぬる哉
(信長記)たがひにねん頃あさからざりしが。 後世まで御供申ける手柄のほどこそ在がたけれ。 洛中の貴賤上下其頃ほめぬ人はなかりしが。ゑびす川の辻に翌朝かくよみて立にける。
たぎりたるいづみといへど簑龜が只一口に呑干しぞする
(室町殿日記)
美濃屋の小四郎(亀之介)は京都小川に住したという
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