山伏国広
山伏国広(やまぶしくにひろ)
太刀
表銘 天正十二年二月彼岸 日州古屋之住國廣山伏之時作之
裏銘 太刀主日向国住飯田新七良藤原祐安
刃長二尺五寸五分
重要文化財
個人蔵
- 表に不動明王、梵字、爪棒樋。裏に「武運長久」、梵字、爪棒樋を彫る。※時は日偏に乏。
- 目釘孔2個
- 室津鯨太郎著「刀剣雑話」(1925年 南人社)
日州古屋之住國廣山伏之時作之
天正十二年二月彼岸
裏 太刀主日向国住飯田新七良藤原祐安
長さ二尺五寸五分五の目亂刄、表不動の上棒樋、裏武運長久の文字の上棒費の彫
「室津鯨太郎」とは川口陟のペンネーム。
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由来
- 日向古屋で山伏鍛冶であったころの国広が打ったもので、銘に刻まれた山伏の文字にちなむ。
来歴
- 天正5年(1577年)の暮れ、島津家に攻められ国広の主家である日向伊東家は国外に逃れる。
- 伊東氏の10代当主伊東義祐は、次男義益の正室阿喜多の叔父である豊後国の大友宗麟を頼ることにするが、途中、新納院財部城主落合兼朝も島津氏に迎合して挙兵したため、西に迂回し米良山中を経て、高千穂を通って豊後に抜けるルートを取らざるを得なくなる。
次男義益の正室阿喜多は、土佐一条氏の四代目当主一条房基の娘。一条房基の正室は大友義鑑の娘で、義鑑の嫡男が大友宗麟となる。宗麟からいうと姪(阿喜多)の婿が伊東義益で、その父が伊東義祐。┌─吉川元春 ├─小早川隆景 毛利元就─┼─毛利隆元 │ ├────毛利輝元 │┏尾崎局 └┃──────毛利秀包 ┌毛利元鎮 ┌─大内義隆━┻大内義長 ├───┴毛利元貞 │ ↑ ┌桂姫マセンシア 大内義興─┼──娘 ┌大内義長 │ │ ├───┼大友宗麟─┼大友義統 │ 大友義鑑 │ ├大友親家 │ │ └田原親盛 │ └─娘 ├──娘 ├───┬一条兼定 │ ├───一条房基 └阿喜多 ┌伊東義賢 │ 一条房冬 ├───┴伊東祐勝 │ 伊東義祐─┬伊東義益 ├──娘 ├伊東祐兵──伊東祐慶 │ ├────足利義栄 └町上 │┌足利義維 ├──伊東マンショ │└足利義晴─┬足利義輝 伊東祐青 │ └足利義昭 └──娘 │ 細川持隆 ├────細川真之 小少将 ├───┬三好長治 三好実休 └十河存保
- 猛吹雪の中、険峻な山を通るルートは過酷で、当初120~150名程度だった一行は、途中崖から落ちた者や足が動かなくなって自決したものなどが後を絶たず、豊後国に着いた時はわずか80名足らずになっていたという。
- この時、田中國廣(国広)も伊東万千代(マンショ、義祐の娘
町上 の子)のお供をして豊後に落ち延びており、当時8歳だった万千代を背負って逃げたという。 - 万千代は司祭を志し肥前有馬の神学校(セミナリヨ)に入学したため、国広は主を失う。
飯田祐安
- この頃に、同じく流浪中であった飯田新七良祐安の求めに応じ主家再興に備えて打った刀が本刀である。
飯田氏は工藤左衛門尉祐経の子・伊東祐時が、七男の祐景を領地である日向・門川に下向させたのに始まるという。伊東氏の一族は、13に分かれて地域を支配し門川党と呼ばれており、その一つが飯田氏である。飯田氏については後述。
永野静雄
- 大正14年(1925年)の「刀剣雑話」では永野静雄氏所蔵となっている。※永野の野は異字体の「𡌛」。なお本阿弥光博氏によれば、遅くとも大正の初期には永野氏の所蔵だという。
佐賀市 永野静雄氏蔵(巻頭第一図)
此稿を終らんとするに際して、第一圖の刀の所蔵者永野氏より太刀主飯田新七良藤原祐安が略歴及び國広山伏となりし理由として左の一文を寄せられたり。
(刀剣雑話 國廣本國作の刀に就て)天正八年(或は五年とも云)日向の伊東三位入道が、薩軍と戦ひ大敗没落し日向を脱走せし時、伊東家の勇将児湯郡三納の城主飯田祐恵は、下事倉率に發し三位入道に従ふ能はず、自ら割腹して死す、祐安は其子なり、祐安は爾来潜匿常に吊ひ合戦を企たてんと苦慮しつゝあるとき、此刀を國廣に鍛はしめたるものなり、當時薩軍が伊東家の遺臣を追求追捕すること甚だ急なり、國廣も當時伊東家の臣籍に在り、一時の難を遁る爲め山伏となり隠遁す。卽ち銘に在る如く此刀は國廣が山伏之時鍛ひしものなり
肥前鹿島藩最後の藩主鍋島直彬は明治維新後の明治12年(1879年)4月に初代の沖縄県令に任じられるが、その時の随従員に永野静雄がいる。のち日本勧業銀行。明治42年(1909年)の衆議院議員補欠選挙、佐賀県郡部で当選。
伊東祐夫
- 大正15年(1926年)6月「国広会」に出品される。伊東祐夫氏所持。
伊東祐夫は明治~昭和期の銀行家。明治6年(1873年)生まれ。日本勧業銀行に入り、佐賀・熊本・高知・長野の各支店長を歴任した。昭和7年(1932年)の金融恐慌後に日向興業銀行の頭取となる。昭和17年(1942年)4月退任。昭和23年(1948年)3月21日、76歳で死去。
- 永野氏から伊東氏への譲渡については、両者が共に日本勧業銀行にいたことが知られており、この縁によるものではないかと思われるが、詳細不明。後に入手する本阿弥光博氏によれば、「先祖のものであるという故にという理由で他の御希望者を差し置いて伊東家に此の刀が還」ったのだという。
落合周平、広瀬久政の両氏山梨県地方顧問に、永野静雄、石井次郎の両氏佐賀県地方顧問に任命さる。
(日本勧業銀行四十年志 大正10年9月22日の項)
- 伊東祐夫が日向興業銀行の頭取となるのは、当時の馬場鍈一勧銀総裁の推薦による。
此際當行として忘れてならないことは當時の馬場勧銀総裁(馬場鍈一)が並々ならぬ援助を與へられたことである。其の一は當行経営主腦者の人選は大蔵省に一任することは設立計畫の主要項目であつたが総裁は大蔵省の依頼により當時勧銀長野支店長であつた伊東祐夫氏を初代頭取として推挙されたことであり
(日向興業銀行十年史)
馬場鍈一は大蔵省から法制局長官、大正11年(1922年)に貴族院勅選議員。昭和2年(1927年)~昭和11年(1936年)まで日本勧業銀行総裁。226事件の後、広田内閣で大蔵大臣。さらに第一次近衛内閣で内務大臣を歴任。
伊東祐夫が(宮崎県の)日向興業銀行の頭取に指名された理由はわからないが、旧主であった伊東氏と何らかのつながりがあった可能性もある。しかし詳細は不明。
- 昭和17年(1942年)12月16日重要美術品認定
刀 銘 日州古屋之住國廣山伏之 作之
天正十二年二月彼岸
太刀主日向国住飯田新七良藤原祐安
一口
宮崎縣宮崎市 伊東祐夫
(昭和17年文部省告示第六百四十二號)
本阿弥光博
- 昭和26年(1951年)に本阿弥光博氏が入手している。永野氏以後の由来も書かれているので引用する。
最近私の処へ何の巡り合わせでしょうか、兎に角とんでもない名品が舞い込んできたのです。此の刀は勿論ご存知の方も多いでしょうが、国広の日向打、飯田新七良藤原祐安の注文打で山伏之時と銘のある例のあの刀なのです。
(略)
之を大正の初期頃に佐賀の勧業銀行の頭取をされて居られました永野静雄という人が預かって居られました。此の頃は未だ大して世評も高くなかったのでしたが、それを研師の故石川周八氏が初めて九州で見られ、次に小倉陽吉氏(※網屋)が見られて絶賛される頃になって大分評判に成って来たのです。その次に見たのが私の父(本阿弥光遜氏)で、(略)永野氏宅でこの刀を拝見したのだそうです。
(略)
それから以後先祖のものであるという故にという理由で他の御希望者を差し置いて伊東家に此の刀が還り、この六月私の手に参りましたという訳です。この伊東家にあります頃に、永野氏、国分氏、現在勧業銀行に居られます今道氏等の尽力でこの刀に天正風の太刀拵をつける事になり、網屋さんにお願いして三年程かかって御太刀ができたのだそうです。
- なお本刀は、この頃中央の刀剣界隈でも注目されており、大阪の木村巳之吉氏(号 夢庵)も入手しようとしていたが、話が流れたことを書いている。
たれしも釣り逃した魚は大きい。最初逃したのは、銘太刀主日向国住飯田新七良藤原祐安、天正十二年二月彼岸日州古屋之住國廣山伏之時作之二尺五寸五分、当時宮崎の朝日新聞支局長柳島勃君の案内で拝見した。その後同君を通じて金千円で話がすすみ、なんでも銀行関係で辯護士と相談するというところまで来た。私が行けば持ち歸ったのであるが、電話で交渉一切を柳島君に一任した。ついに終局ではうやむやになった。十八九年前の事である。
- この木村氏の話が流れたのが昭和一桁の頃なので、伊東祐夫氏が所持していた頃となる。伊東祐夫氏は昭和23年(1948年)3月に亡くなっているため、本阿弥光博氏は伊東氏遺族より譲渡されたものではないかと思われる。
田口儀之助
- 昭和42年(1967年)時点でも田口儀之助氏
- 昭和55年(1980年)には松本高氏所持。
- 本刀「山伏国広」は現存し、個人蔵。
- 国広作の刀には、この後天正14年(1586年)ごろまで「日州古屋住」の銘があり、天正18年(1590年)8月には足利学校での在銘が残る。
伊東万千代(マンショ)
- 伊東万千代は、永禄12年(1569年)ごろに日向伊東氏の家臣である伊東祐青と母である伊東義祐の娘(通称「町の上」)の間に生まれた。
- セミナリヨに入った伊東万千代を含む4人の少年は、その頃邦人司祭育成のため、キリシタン大名の名代となる使節をローマに派遣しようと考えていた巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの目に止まり、大友宗麟の名代として送り出される。
本来は伊東義益の子で宗麟と血縁関係にある伊東祐勝が派遣される予定であったが、当時祐勝は安土におり出発に間に合わなかったために、宗麟の姪(一条房基子女)の夫である伊東義益の妹の子という遠縁の関係にあるマンショが選ばれた。伊東祐堯─┬伊東祐国─┬伊東尹祐──伊東祐充 │ ├伊東祐梁─┬伊東義祐─┬伊東義益─┬伊東義賢 │ └伊東祐武 └伊東祐吉 │ └伊東祐勝 │ ├伊東祐兵【飫肥藩】 │ └町の上 └前田祐岑──伊東祐良─┬新納伊豆守 ├──伊東マンショ └──────伊東祐青
- 伊東マンショは、大友宗麟の名代・主席正使として天正10年(1582年)1月28日長崎港を出港。2月にマカオ着、翌年11月にはインドゴア着。天正12年7月にはポルトガルの首都リスボンに到着。同年10月23日にはスペインの首都マドリードでスペイン国王フェリペ2世の歓待を受ける。
- その後、ピサでトスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチに謁見、ローマでローマ教皇グレゴリウス13世に謁見、グレゴリウス13世の後を継いだシクストゥス5世の戴冠式に出席するなどして天正18年(1590年)6月20日に長崎に帰港する。
- しかし大友宗麟は天正15年に死去、同年7月には豊臣秀吉によるバテレン追放令が発布されていた。
- 翌天正19年(1591年)、聚楽第で豊臣秀吉と謁見する。この時秀吉は彼らを気に入りマンショには特に強く仕官を勧めたが、司祭になることを決めていたためそれを断っている。
- その後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続け、文禄2年(1593年)7月25日、他の3人と共にイエズス会に入会した。
- のち徳川幕府による禁教政策の影響を受け、マンショは慶長16年(1611年)に領主細川忠興によって追放されて中津へ移り、さらに追われて長崎へと移った。長崎のコレジオで教えていたが、慶長17年(1612年)11月13日に病死した。
生年が明らかではないため不明だが、没年齢は43歳前後と見られる。
飯田氏
- 鎌倉期に、工藤左衛門尉祐経(曾我兄弟に討たれた人物)の子である伊東祐時が、七男の祐景(門川祐景)を領地である日向門川へ下向させている。
工藤祐経──伊東祐時─┬早川祐朝 ├稲用祐盛 ├三石祐綱 ├田島祐明(田島伊東氏) ├長倉祐氏 ├伊東祐光──┬祐宗──貞祐─┬祐持──氏祐──祐安──祐立──祐堯→ │ └工藤光頼 └佐土原祐藤 ├門川祐景(門川伊東氏) ├木脇祐頼(木脇伊東氏) └稲用祐忠 伊東祐堯─┬伊東祐国─┬伊東尹祐──伊東祐充 │ ├伊東祐梁─┬伊東義祐─┬伊東義益─┬伊東義賢 │ └伊東祐武 └伊東祐吉 │ └伊東祐勝 │ ├伊東祐兵【飫肥藩】 │ └町の上 └前田祐岑──伊東祐良─┬新納伊豆守 ├──伊東マンショ └──────伊東祐青
- 祐景は門川殿と呼ばれ、その一族は13に分かれ地域を支配し門川党と呼ばれた。日向伊東宗家は宇津氏が受け継ぎ、他に小松、日知屋、宮崎、曽井、山之城、
飯田 、平賀、石塚、池尻、清武、穆高、村角の諸家が門川党であったとされる。 - 伊東祐持の時、足利尊氏より日向領への下向を命じられ日向伊東氏は、都於郡城を拠点に国富庄・諸県庄・穆佐院などを支配して日向における地歩を固めている。
- 永禄年間、この飯田氏の当主飯田肥前守祐恵は三納城主となっている。天正5年(1577年)に伊東氏が日向を離れた後も籠り、島津方に捕らえられ切腹したという。
- 永野静雄氏によれば、この飯田肥前守祐恵の子が飯田祐安であるという。
模造刀
- 前掲の木村巳之吉氏が本刀山伏国広の代わりに入手したもの。
- 幕末の薩摩の刀工、奥大和守元平が模造したものだという。
その代に元平が文化元年に作ったこの太刀の模作で刃長一尺二寸で造った「武運長久」の文字のかわりに額中に元平が生首掲げた武者を彫っている、あとは全部同一であるもの、これを愛撫している。
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