鶴丸国永

鶴丸国永(つるまる)  

太刀
国永名物 鶴丸)
2尺5寸9分半(78.6cm)、反り2.7cm
御物
山里御文庫 御剣庫蔵(宮内庁管理)

Table of Contents
  • 山城の刀工、五条国永の作
  • 享保名物帳所載

    鶴丸国永 在銘長二尺五寸九分半 代三千貫 松平陸奥守殿
    北条傳来の太刀なり信長公へ傳る三枝勘兵衛へ下さる貞享の頃か光的次男出家一条院伏見藤森にて取出す神事并に借太刀に致候由なり古き拵へ傳来の書付にも出る鶴丸と云仔細不知。

  • 詳註刀剣名物帳 増補版」では、伊達家が本阿弥益忠より買い求めたとする。

    本阿弥益忠の紹介にて貞享の頃伊達家にて求められしと云

    この本阿弥「益忠」とは本阿弥光徳の諱だが、光徳は元和5年(1619年)7月没。「貞享」は1684年から1687年までなので時代が異なる。また本阿弥宗家12代光常の諱が「忠益(・・)」で、こちらは宝永7年(1710年)8月に68歳で没なので時代的には合うことになる。

  • 反りは八分八厘。
  • 鎬造り、庵棟、腰元からなかごにかけて踏ん張り付く、小鋒。
  • 中心はうぶ、先細くなり栗尻。目釘孔1個、佩表目釘孔上、棟寄りに「国永」二字銘。
    • 国永の国は、くにがまえの中に×一となる。

国永  

  • 五条国永は平安時代の刀工で五条兼永の子。天喜年間に京都五条に住したため名乗る。
  • 有銘作は太刀3口、剣1口。
  • 三条小鍛冶宗近の弟子と伝わる。

由来  

  • 鶴丸の号の由来は不明。
  • 失われてしまった太刀拵に「鶴」の文様があったからとも言われている。

来歴  

余五将軍所持  

  • 元々は余五将軍と呼ばれた平維茂が所持し、その後秋田城介に伝えたという

    北条相模守貞時の太刀なり、もとは余五将軍維茂の太刀秋田城介へ伝り、其後転々して織田信長公の手に入る
    詳註刀剣名物帳 増補版)

    ただし秋田城介はこのしばらく後、安達景盛(貞泰の高祖父)が任じられるまで約150年の間絶えていたとされ、また安達氏は藤原北家魚名流小野田氏の後裔を自称しており桓武平氏との繋がりはない。鶴丸の作者である国永は天喜年間(1053~58)に五条に住したとされていることもあり、平維茂の活躍時期とはずれている。高名な平維茂を持ち出し「秋田城介」のみで繋がりをつけたものではないかと思われる。

    いちいち絡む人がいて面倒くさいので書いておきますが、正直なところ、「伊達家腰物由緒書」に記載される「保元之頃村上太郎永守帯之」からが信憑性の有無が論じられる程度であり、確実な来歴は、元禄期に本阿弥折紙が付いて以降のみということになるかと思われます。簡単に述べると、元禄に伏見で見つけ出された「国永」銘の太刀が、「鶴丸」という触れ込みで伊達家に入り、明治になって献上されたという事になります。 とはいえ、詳註刀剣名物帳で「もとは余五将軍維茂の太刀秋田城介へ伝り」と記述されている以上、無視するわけにはいかないので記載しておこうというのが当サイトのスタンスです。高瀬羽皐自身が初版と増補版で記述を変えているくらい伝承に揺れがあるのは事実です。

  • この鶴丸国永とは別に、梶原景正が使ったという「鶴丸剣」がある。この鶴丸剣がのち「蝶丸」さらには「石動丸」と呼ばれたともいい、古剣書により三条宗近または備前友行の作という。坂東平氏の越後での逸話の混同が有るのではないかと思われる。
  • なお大正2年(1913年)詳註刀剣名物帳(初版)でも、次のように記している。

    一説にこの太刀鶴丸にあらず、国永曾て朝廷の命を奉じて御劒を鍛ふ其太刀鶴丸と號す、鶴丸の作者が打し太刀と言傳え、遂に鶴丸と直にこの太刀を称するに至れるなりと、是もさる事なる可れど、仙臺にありし時鶴丸と云紙札を付たる儘あり其札慶長頃の時代も見ゆと云ば、今更鶴丸ならずとも言難し

    つまり、一説には元々「あの有名な鶴丸を打った国永という刀工が作った別の太刀」とされていた太刀がいつしか「鶴丸」と呼ばれるようになってしまったのだという。しかしながら仙台にあったときからすでに鶴丸という札が付けられており、その札が慶長頃のものに見えたために今さら鶴丸ではないとも言い難いという。この説は大正8年(1919年)の増補版ではすっぱり消され、代わりに「もとは余五将軍維茂の太刀」「本阿弥益忠の紹介にて云々」という文言が入る。
     仮にこの説が正しいとすれば、「保元之頃村上太郎永守帯之、其後清野三郎入道相伝、其後城太郎持之」というように、国永作の太刀が村上太郎から清野三郎入道へ、さらに安達氏(安達義景が城太郎と称した)へと伝わったところから話が始まることになる。しかし当時村上氏は都で崇徳院判官代を務めており、こちらのほうが信ぴょう性は高く感じる。

安達氏から北条氏  

  • 鎌倉頃には安達貞泰が所持。
  • 鎌倉時代後期、弘安8年(1285年)11月に起こった霜月騒動(秋田城介の乱)で安達一族が滅ぼされた際に、第9代執権北条貞時が入手した。一説に、貞時はこの刀欲しさに貞泰の墓を暴いたという
    この霜月騒動により、北条一門宗家である得宗家による支配が強まり得宗専制が成立する。
    この時に安達泰盛は、源氏将軍に伝えられる「髭切太刀」を京都のある霊社から探し、法華堂の御逗子に納めていた。髭切りの太刀は、霜月騒動で行方不明になったのち12月5日に探し出され、北条貞時によって「赤字の錦袋」(平氏を称する北条氏は赤旗)に包まれ再び法華堂に奉納されたという。

    Wikipedia安達宗景の項に、「子の貞泰は安達一族と親しい金沢流北条氏に庇護され、正中2年(1325年)7月18日、慶珊寺富岡八幡社に大般若経を奉納している。」という記述がある。しかし奉納者は「宇都宮貞泰」の間違いと思われる。宇都宮貞泰は藤原北家道兼流の藤原宗円の後裔を称する下野宇都宮氏の出身。初名景泰。藤原貞泰。元徳3年(1331年)に伊予、のち豊後仲津に移り、筑後宇都宮氏の祖となる。
      北条時氏[得宗家]
        ├──┬北条経時
     ┌松下禅尼 └北条時頼──北条時宗
     │             ├──北条貞時
     │     ┌──────覚山尼    ┌名越殿(北条時如室)
     │     │        金沢顕時 ├顕弁、顕実、貞顕
     │     │          ├──┴釈迦堂殿
     └安達義景─┼安達泰盛─┬─安達千代野    ├───足利高義
      (城太郎)│(城九郎)│  足利家時──足利貞氏
           │     │          ├──┬足利尊氏
           │     │  上杉頼重─┬上杉清子 └足利直義
           │     │       └日静
           │     ├安達宗景(秋田城介)──安達貞泰
           │     └安達盛宗(城次郎)
           │
           ├安達顕盛──安達宗顕──安達時顕──安達高景
           │            (秋田城介)(秋田城介)
           └娘
            ├───┬宇都宮貞綱─┬高綱(公綱)──氏綱──基綱
      宇都宮泰綱─景綱  │      ├高貞          氏広
                │      └冬綱
                └宇都宮泰宗─┬武茂時綱
                       └宇都宮貞泰(藤原貞泰)
    
    【秋田城介】
    安達景盛─義景─泰盛─宗景─時顕─高景─(葉室光顕)─(源泰長)─(織田信忠)
    

織田信長から御牧氏  

  • のちに織田信長御牧勘兵衛景則(家臣三牧勘兵衛とも)に与えた。
  • 御牧景則は信長亡き後は秀吉に仕え、1700石を給わる。景則の子信景(四田井清庵)が関ヶ原敗戦で没落する。
  • この時に手放したのか鶴丸国永は、いつの頃よりか伏見藤森神社にあった。
    御牧勘兵衛は山城久世郡御牧村を領したため、手放すときに付近の伏見藤森の某家が引き受けたとも。

藤森神社  

  • 本阿弥光温の弟光的の次男は出家して一乗院と称しており、それが貞享(1684~1687)ごろに藤森の某家から取り出して藤森神社の神事に貸し出していた。
  • 元禄6年(1693年)8月3日付、本阿弥光忠による金二百枚の折紙が付く。

       鶴丸国永太刀
    正真 長寸貳尺五寸九分半
       有之
       代金子貳百枚
     元禄六年末八月三日
       本阿(花押)

  • その後、本阿弥六郎左衛門の添え状を付け、森田左衛門という刀屋が「鶴丸国永」という触れ込みで伊達家に納めた。
    貞享ごろの説として、御牧勘兵衛に男子がなく娘がこの刀を持って松田家に嫁いだというものがあるが、信景がおりこの子孫は公家花山院家の公家侍となって続いているため偽説となる。

仙台藩伊達氏  

  • 伊達家伝来では、次のように初入国の際に世継ぎに贈られている。
    1. 4代綱村から5代吉村へ:宝永元年(1704年)5月27日
    2. 5代吉村から6代宗村へ:延享元年(1744年)
  • 伊達家ではこれに定紋である引両入りの金具を付け、鞘にもおなじ紋蒔絵にした太刀拵えを付けた。
  • 明治34年(1901年)11月の仙台行幸のおり、伊達家では本刀を本阿弥成善(琳雅)に研ぎに出した後、仙台藩14代藩主伊達宗基から明治天皇へ献上した。




仙台伊達家に伝わる来歴(竜胆丸)  

  • 伊達家に伝わった「伊達家腰物由緒書」によれば次のような伝来であるという。

    鶴丸国永御太刀 元禄十六年八月 金二百枚
     銘有 長二尺五寸九分半
    獅山様(伊達吉村)御入国為御祝儀、宝永元年(1704年)六月二十七日、従肯山様(伊達綱村)太田将監を以被進之、忠山様(伊達宗村)初而御入国の節獅山様為御祝儀被進之
     覚書
    保元之頃村上太郎永守帯之、其後清野三郎入道相伝、其後城太郎持之、弘安合戦の時失ひしを北条貞時禅門祟圓尋出して所持、其後信長公より三牧勘兵衛に賜ふ、其後出家所持云々、鎺に輪膽を鋤す依、利不動と名付く、又鶴丸と号す云々
     右本阿弥家の書物に之有由、本阿弥六郎右エ門覚書あり
    東京国立博物館デジタルライブラリー / 御宝物之部仙台家御腰物之帳《仙台家御腰物元帳;伊達家御宝物御太刀由緒書》 49頁

    伊達宗家:4代伊達綱村[肯山]──5代吉村[獅山]──6代宗村[忠山]
    5代吉村は宝永元年(1704年)5月21日に初入国したとされ、その際に養父である4代綱村が太田将監を通じて「鶴丸国永」を贈り、さらにその後6代宗村が初入国した際に父である5代吉村が贈ったとする。元禄16年(1703年)8月に200枚の極め。その後の覚書については、「刀剣談」での記述通りである。貞享のころに求めたとも言われており、ちょうど4代綱村の治世にあたる。その後は代々初入国の際に先代から世継へと伝えられたことがわかる。
     本阿弥宗家本阿弥光温の長男は、一度廃嫡された後別家(光達系本阿弥)を興している。この光達系の二代目本阿弥光順は「六郎右衛門」を名乗りとして元禄16年(1701年)に死んでいる。これが”覚書”を残している「本阿弥六郎右エ門」のことではないかと思われる。その後森田左衛門という刀屋が「鶴丸国永」という触れ込みで伊達家(4代綱村)に納め、伊達家では金具と拵えを新調し、世継(5代吉村)へと伝えたと考えると時期的にもしっくりと来る。
     なお元禄16年(1703年)に200枚の極めがあるにも関わらず享保名物帳では「代三千貫」となっているが、理由は不明。

  • ※「刀剣談」での記述(上記「伊達家腰物由緒書」の"覚書"以後と同じ)

    京鶴丸国永の太刀は、保元の頃、村上太郎永守これを帯び、其後清野三郎入道に伝わり、其より越後の城太郎に伝わりて之を所持す、弘安の合戦に紛失して行方不明になったのを鎌倉の執権北条貞時訪ね出して所持す、其後伝来詳らかならずして、元亀の頃織田信長の手に入り、公より三牧勘兵衛に賜る、其のち出家某の所持となり転じて伊達家に収まりし云々

  • この保元の頃に所持したという「村上太郎永守」なる人物は、長盛または長時ともいう。初め近国と称したとも。「保元物語」に登場する村上判官基国の甥に、村上仲盛(村上経業の子)がおり、これが長盛(永守)ともされる。
              藤原信西娘
     源仲宗─┬唯清   │
         ├顕清─┬源為国────┬源道清
         ├仲清 │(村上判官代)├村上基国(村上判官代)
         └盛清 │       ├源宗実  ┌村上頼時、頼澄、業賢、経光
             └宗清     ├村上経業─┴村上仲盛…[屋代氏]
                     ├村上信国──村上信実
                     ├源惟国…[清野氏]
                     ├村上世延(安信)[村上嫡流]
                     └源宗信
    
    源為国は白河院呪詛事件に連座し信濃国へ配流された大叔父顕清(村上顕清)の養子となり、崇徳院判官代、村上判官代と呼ばれる。子に源道清、村上基国、源宗実、村上経業、村上信国、源惟国、村上世延(安信)、源宗信らがある。この基国が「保元物語」に登場する村上判官基国であり、法住寺合戦で法皇方につき、義仲軍と戦って討死している。
  • また「清野三郎入道」はその一族という。清野氏は信州埴科郡清野村に住し、村上家の代官を務めた。
    日本刀大百科事典」では、村上氏清野氏ともに村上源氏であり、その紋である竜胆の紋を太刀の鞘または金具または鎺に入れた。このために「利無動(利不動)」と呼ぶという。としているがこれは誤りで、信濃科野評(更級郡村上郷)を領した信濃村上氏は清和源氏頼清流であり、家紋は「丸に上の字」である。村上氏または清野氏が竜胆の文様を入れたとすればそれは家紋ではなく別の理由からということになる。
    • 鞘が螺鈿になっていたために竜胆丸と呼ばれたともいう。
  • この来歴は森田左衛門という刀商の書付、さらに本阿弥六郎左衛門の添え状などにも書かれているという。
  • ただし、この竜胆丸が鶴丸国永と同物かどうかについて説がある。
  • 古剣書において、まず竜胆丸を載せ、その後に「同(国永)作の太刀」として城太郎が所持したという鶴丸国永を挙げる。これは五条国永作の刀が「竜胆丸」と「鶴丸国永」の二本あるという意味で書かれている。この場合、村上氏・清野氏蔵の「竜胆丸」と「鶴丸国永」とは別の太刀ということになる。
    この「龍膽丸(りんどうまる)(竜胆丸)」と「利無動(りんどう)」が同一のものかどうかについても不明である。

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