金同丸
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金同丸(きんどうまる)
大太刀
六尺三寸
来歴
鎌倉時代の信濃国
- 信濃国は鎌倉時代を通じて北条氏が守護職を独占しており、鎌倉時代が終焉を迎えた後も北条氏の勢力が根強い地域であった。
- その中にあって、甲斐武田一族の加賀美氏から分かれ信濃各所に勢力を保持していた小笠原氏は、早くから足利氏に近づき、建武2年(1335年)に小笠原貞宗が信濃国守護に任命される。しかし中先代の乱で北条時行を擁する勢力に破られ、信濃国衙を襲撃される。
- 南北朝期も北朝に属して戦った小笠原貞宗の曾孫小笠原長秀が再度信濃守護に補任されたのは、応永6年(1399年)であった。
小笠原氏再入国
- 応永7年(1400年)に京都を発った小笠原長秀は北信の中心である善光寺に入り、信濃の国人領主達を召集して対面した。上記の経緯などから威圧的に対面した長秀は、その直後、川中島付近を守護支配地であると称して年貢の長州を開始し、これが川中島を支配地としていた村上氏を決起させることとなった。
村上為国─┬基国 ├経業─仲盛(永守) ├信国─信実 └世延(安信)─信村─胤信─信泰┬信貞─師国─満信 └義光
大塔合戦
- 村上氏のほか、中信の仁科氏・東信の海野氏や根津氏を始めとする滋野氏一族・北信の高梨氏や井上氏一族など大半の国人衆が反小笠原氏に回ってしまい、守護である小笠原氏についたのはわずか800騎ほどであったという。
- 危機的状況に追い込まれた小笠原長秀は、秘かに横田城を捨て一族の赤沢氏の居城である塩崎城への脱出を試みる。しかし途中で発見され、塩崎城に辿り着けたのは長秀以下僅か150騎のみで、300騎余りは途中にあった大塔の古城(古砦)に辛うじて逃げ込んだ。
- 大塔の古城は食料の備蓄など何の準備もしていなかったため、取り囲まれた末に全員が討死か自害をする。
- この時、小笠原方として大塔の古城に篭った坂西次郎長国は、この大太刀「金同丸」で奮戦したという。享年21。
その後
- 更に長秀が逃げ込んだ塩崎城も攻撃を受け、同族で守護代の大井光矩が仲介の手を差し伸べたことで辛くも窮地を脱し、長秀は京都に逃げ帰った。
- 小笠原氏は応永8年(1401年)に信濃守護職を取り上げられ、信濃は室町幕府の直轄領となった。
- その後、小笠原氏が再び信濃守護職に復帰するのは、長秀の弟である小笠原政康が任命された応永32年(1425年)のことである。
小笠原貞宗┬政長─長基─┬長将…(府中小笠原氏)…秀政─忠真[豊前小倉藩] │ ├長秀 │ └政康┬光康(松尾小笠原氏) │ └宗康(鈴岡小笠原氏) └坂西宗満─由政┬長由 └長国
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