髭切


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 髭切(ひげきり)

太刀
髭切

 刀工

  • 「髭切」の作者については、様々な伝承があり、判然としない。
    伝承では、「髭切」と名付けられた太刀源氏嫡流に伝わり、「鬼切」と呼ばれる。しかし現在北野天満宮に収まっている鬼切の銘は「國綱」と切られている。しかも、これは元々「安綱」銘であったものに字画を足し國綱に改められたものである。安綱は伯耆国大原の刀工で大原安綱ともいう。
     しかしもし安綱銘のものが「髭切」であるとすれば、後述するような作者のブレは出てこない。つまり源氏伝説の名剣「髭切」と、現存する「鬼切安綱」は別物ということになる。

    なお「平家物語」の剣巻では、源氏重代の「髭切」が(鬼切ではなく)「鬼丸」へと変化したと伝える。このため「鬼丸」と「髭切」(鬼切)は混同されることが多い。しかし上述したように「髭切」と「鬼切」の関連は薄く、さらに国綱作の「鬼丸」では時代がまったく合わなくなる。「鬼切安綱の諸伝説との混同」の項参照。
  • 一説には奥州舞草鍛冶文寿という鍛冶の作とも、また三条派の小鍛冶宗近の高弟有国の作ともいう。平家物語 剣巻では、「筑前国三笠郡の出山というところに住む唐国の鉄細工」となっているが、この刀工の詳細はわかっていない。
  • 詳細は下記。

 由来

  • 「髭切」名の由来は、罪人を試し切りした際に、髭も一緒に切った事が由来である。

    八幡殿、貞任・宗任をせめられし時、度々にいけどる者千人の首をうつに、みな髭ともにきれければ、髭切とは名付たり。

歌舞伎「戻橋」では渡辺綱の佩刀として登場する。愛宕山の鬼女が小百合という扇折りに化けていたのを頼光四天王渡辺綱が堀川戻橋で見破り、髭切丸で片腕を斬り落とす。これは天徳2年(958年)閏7月7日に狂女が現れ人の肉を食ったという事実を脚色したものとされる。

 来歴

 源満仲

  • 源氏の名剣「鬚切」「膝丸」は源満仲が作らせた二振りの刀とされる。

    源家に二つの剣有り。「膝丸」「鬚切」と申しけり。人皇五十六代の帝、清和天皇第六の皇子、貞純の親王と申し奉る。その御子経基六孫王、その嫡子多田の満仲、上野介たりし時、源の姓を賜はつて、「天下の守護たるべき」よし、勅諚有りければ、まづよき剣をぞもとめられける。

    筑前の国御笠の郡出山といふ所より鍛冶の上手を召されけり。彼もとより名作なる上、宇佐の宮に参籠し、向後、剣の威徳をぞ祈りける。南無八幡大菩薩、悲願あに詮なからんや。他の人よりもわが人なれば、氏子をまぼり給ふらめ、しからばかの太刀を剣となし、源氏の姓の弓矢の冥加長くまぼり給へ」と深く丹心をぬきんで、御社を出でにけり。

    やがて都へのぼり、最上の鉄を六十日鍛ひ、剣二つ作りけり。いづれも二尺七寸なり。人を切るにおよんで、鬚一毛も残らず切れければ、「鬚切」と名づけらる。今一つは、もろ膝を薙ぎすましたりとて、「膝丸」と申すなり。
    平家物語 剣巻)

 青墓の長者→平氏

  • 平治元年(1159年)、平治の乱に敗れた源頼朝が東国へ落ちる途中、美濃の青墓の長者にこの髭切を預ける。その後頼朝は捕らえられ、髭切の所在も白状したために使者が取りに行くと、青墓の長者は泉水の太刀を髭切と偽って提出した。(平治物語)
    青墓とは岐阜県大垣市青墓町にあったとされている古代・中世の東山道の宿駅。「吾妻鏡」の建久元年10月29日条に、上洛途中の源頼朝がここで宿泊して現地の長者大炊とその娘を召したこと、合わせて頼朝の祖父源為義が大炊の姉を妾としていたこと、頼朝の父源義朝が東国と京都の往復の際に大炊の家に宿泊したことが記されている。
  • 古剣書では青墓の長者は外藤(とふじ)に偽作させたものを髭切と偽り提出したという。また建久元年(1190年)に頼朝が上洛する際に外藤に命じてたちを打たせたともいう。

 源頼朝

  • 建久元年(1190年)、頼朝は上洛して権大納言と右近衛大将に任じられるが、すぐに両官を辞任し院に挨拶して鎌倉へ下向する。この時、後白河法皇は袋に入った髭切を取り出し、頼朝へ与えている。

    十二月一日右大将を兼てしゆくし申さるゝ事有。(略)両官ともに辞して、すでに関東へ下向せんとて、ゐんの御所へ参給ひけるに、法王(後白河法皇)仰られけるは、朝敵(平家)をほろぼす事、その功たとへをとらんに、其たぐらへなし。今はなんののぞみかありけると勅諚ましゝけるに、頼朝も、此上何ののぞみもおはしまさざりしむね、勅答えせらる。
    其時、御前より、物ふりたる袋に入し太刀を出し給ひつゝ、是や見しれることもやあると仰られければ、ひざまづゐてたまはるに、かたじけなくも源氏重代のひげきりと申太刀にておはします。平治のむかし、平家のためにとられて、三十よねんのへて、今はじめて見給ふ。かつは君の御心ざしのかたじけなき、かつは昔の事、ただいまのやうにおぼえ、涙うちにもよをし候とて三度拝して出られけり。
    太刀は一とせ頼朝尾張國にしてめしとられし時、あるみだう(御堂)の天井にあげをき給へるを、太上入道(平清盛)とりて持たりき。そののち西八でう(西八条)の宿所を造り、ゐんを入まいらせて、種々の珍宝数をつくしてまいらせけるに、院の仰にひけ切(髭切)といふ太刀の候なる、所望の御心ざし有と仰られければ、入道わが家のてうほう(重宝)といへども、しさいにおよばんやとて、悦でまいらせらる。其時に重盛計ぞ色かはりて見へられける。余人はさらにおもひよる事なし。いまこそかねてよりおぼしめさるゝ事のありて、さもありてんげりとおもひ合られてふしぎなり
    (保暦間記)

    頼朝が尾張で捕縛された際に、髭切をある御堂の天井に隠しておいたが清盛の手の者により見つけ出され、清盛の所持するところとなる。その後治承3年(1179年)3月に後白河法皇が清盛の西八条邸に御幸した際に珍宝の中からこれを所望し入手していたという。

 その後

  • 曽我兄弟の仇討ちの際、頼朝は髭切を抜いて出ようとするが、一法師丸(大友能直、大友氏初代)に留められる。
  • この後、異説が多い
  1. 【安達泰盛・法華堂】:頼朝から安達泰盛に伝来、弘安8年(1285年)11月北条貞時に攻められ安達泰盛が死んだ時に焼身になった。北条貞時は行次に焼き直させるが将軍の願いにより法華堂に納めたという。
    ※ただし、髭切は建久6年(1195年)の頼朝上洛時に京都に流れ、とある霊社にあったものを安達泰盛が探しだし、法華堂の御厨子に納めていたともいう。霜月騒動で行方不明になるが、北条貞時によって「赤字の錦袋」(平氏を称する北条氏は赤旗)に包まれ再び法華堂に奉納されたという。

    御劔入状公朝状
    右大将家(頼朝)御劔<号鬚剪、>後御上洛之時(建久6年)、依或貴所御悩為御護被進之、其後被籠或霊社之処、陸奥入道真覚(安達泰盛)令尋取之云々、去年十一月合戦之後、不慮被尋出之間、於殿中被加装束或作、為被籠法花堂御厨子、以工藤右衛門入道杲禅(工藤時光)、昨日被送之、<入赤地錦袋、>仍令随進、奉籠御堂之状如件
       弘安九年十二月五日    貞時
         別当法印公朝
    (相州文書所収法華堂文書)

    頼朝は建久6年(1195年)の上洛時、2月に鎌倉を発し、京都で岩清水八幡宮、六条左女牛八幡に詣でた後に東大寺で大仏供養を行う。さらに京都に戻って御所に参内した後、私的に岩清水などの霊地を巡礼する。その後鞍馬寺に御剣を納め「將軍家被奉御釼於鞍馬寺」、さらに巨椋池から船に乗って大坂へ下り、天王寺を詣でここでも御剣を納め「其後被奉御釼〔銀作蒔柄作〕」ている。6月には暇乞いをして京都を発し、鎌倉へ戻っている。
    この法華堂とは大倉御所にあったとされる頼朝の持仏堂で、死後頼朝はこの持仏堂に葬られ、正治2年(1200年)より「法華堂」と呼ばれるようになった。安永8年(1779年)に薩摩藩主島津重豪が石塔を建てている。明治に入り廃仏毀釈により石塔の前にあった法華堂は壊され、その跡に白旗神社が建てられた。石塔は昭和2年(1927年)に「法華堂跡(源頼朝墓)」として国の史跡に指定されている。

    法華堂阯ハ西御門ニ在リテ頼朝墓ノ下西側ニアリ、始メ頼朝ノ持佛堂ニシテ其ノ薨去後其ノ廟所トナレリ 江戸時代ニハ八幡宮供僧坊ノ管理ニ属セシカ維新後廃セラル
    今地域内ニ白旗神社ノ小祠ヲ祀ル
    法華堂阯ノ背後ナル丘陵ノ中腹ニアリ長方形ニ石疊ヲ敷キ土鏝頭ノ上ニ高サ七尺ノ多重塔一基ヲ建テ石玉垣ヲ周ラセリ

    法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓) 文化遺産オンライン
  2. 【吉良氏・御剣八幡宮】:また頼朝と義理の甥にあたる足利義氏(1189-1255)に伝わり、庶長子である吉良長氏が三河吉良庄に居住し、八幡宮に「友切丸」(髭切)を奉納する。そのため御剣八幡宮と呼ばれたという。長氏の子孫にあたる今川了俊(1326-1420)が、建徳2年(1371年)鎮西探題となり九州へ下向する時、髭切の目貫を申し受け以後同家の家宝となる。慶長(天正か)の頃、西条城(西尾城)を築く際に八幡宮も鎮守として城内に移築され、のち西尾城が破却された後も八幡宮だけはその地に残った。吉良家では髭切を守るために同社に禰官を16名付けていたが追々に退散してしまい大正頃には新家某だけが残っていたという。髭切の方は明治24年(1891年)~25年頃までは確かにあり古備前刀のようであったと言うが、その後盗難に遭い、大正には剣八幡宮から失われていた。
    江戸期にも西尾にあったとする。

    源氏重代友切丸 いまハ三州西尾に社へこめ。神軀とせり。変事ある前にハ必ず鳴動せり。其社作り直すことならず、いやがうへに作りかける由。

  3. 【吉良氏・今川氏】:愛知県西尾市にある養寿寺蔵の吉良氏系図(下矢田養寿寺蔵吉良系図)では、吉良長氏(1211-1290)の長男・吉良満氏(-1285)は友切丸、次男・今川国氏(1243-1282)は髭切丸を授けられたとする。
  4. 【室町幕府足利将軍家】:足利将軍家に伝来したともいう。「南朝紀伝」によれば、嘉吉元年(1441年)3月23日、足利義教が伊勢神宮に参拝する際に袋に入れて携行した。しかし折悪しく大雨落雷があったため、髭切を忘れていったという。

    同廿三日、将軍参宮伊勢、大雨物怪有、先輿被入剣髭切袋ニ入錯入別物至草津見之驚、使飯尾肥前守、歸洛取之、至水口奉之、此太刀将軍家常不放身□()之事、不審将軍忝宮後、勢州被相改堺目䓁也是将軍参宮已先年雖有之國司若隠大覺寺殿有逆心歟思然則自身爲退治國司也云々、同廿八日還御巳刻歸京

    この話は新井白石の「読史余論」にも同様の記事が載る。

    嘉吉元年三月廿三日、義教、伊勢参宮、大雨ナリ、物怪多シ、輿ニ入レラレシ剣ヒゲ切リ、アヤマリテ異剣ナリ。草津ニテ是ヲ見ツケテ飯尾肥前守ヲカヘシテ誠ノ剣ヲ召スニ、水口ニテ之ヲ奉トアリ、コノ年六月廿四日義教、赤松ニ殺サル

    つまり別物にすり替えられていたことに近江草津にて気づき、飯尾肥前守を京都に遣わして真の髭切と取り替えさせ水口で献上されたとする。
    伊勢への往路の話で、草津で露顕、近江水口で取り戻している。大日本史料でも23日に京都を発ち、28日に伊勢神宮に参宮したことが記録されている。なお大覚寺云々は、足利義満の子で大覚寺義昭と呼ばれた人物(15代将軍とは別人)に謀反の疑いありとされた事を示す。
           ┌坊門姫(一条能保室)
     源義朝   ├源希義
      ├────┴源頼朝
    ┌由良御前    ├──源頼家、源実朝
藤原季範┤      ┌北条政子
    │      └北条時子
    └藤原範忠─娘  ├──足利義氏─┬足利泰氏
          ├─足利義兼     └吉良長氏
         足利義康

※藤原範忠の娘は、祖父藤原季範養女として足利義康に嫁いだ。
足利義氏─┬足利泰氏─┬足利頼氏──足利家時──足利貞氏─┬足利尊氏
     │     └斯波家氏             └足利直義
     │      
     ├吉良長氏─┬吉良満氏──吉良貞義──吉良満義
     │     └今川国氏─┬今川基氏──今川範国─┬今川範氏
     │           └今川常氏(関口氏)  └今川了俊
     │      
     └吉良義継──吉良経氏──吉良経家(東条吉良氏)

源頼朝の直系子孫は、千鶴丸が伊東祐親に殺され、大姫は源義高婚約者となるも早世、頼家は二代将軍となるも修善寺で暗殺、三幡(乙姫)も早世、源実朝は三代将軍となるも頼家の次男・公暁に暗殺された。さらに頼家の娘・竹御所は北条政子に保護され、政子の死後はその実質的な後継者となり御家人たちの尊崇を集めた。竹御所は29歳時に13歳の4代将軍藤原頼経に嫁ぎ、4年後に懐妊するも男児を死産し本人も産褥死した。これで河内源氏の棟梁である頼朝の直系子孫は完全に断絶し、御家人たちは源氏棟梁の血が途絶えたことに激しく動揺したと伝わる。
 しかし同母姉妹である坊門姫が一条能保室の室となって父・源義朝の血脈を継いだ。坊門姫の娘・全子は西園寺公経に嫁ぎ西園寺実氏及び掄子を産み、九条良経に嫁いだもう一人の娘は九条道家を産んだ。この九条道家に掄子が嫁いで生まれたのが後の4代将軍・藤原頼経である。頼経の息子・藤原頼嗣は5代将軍となった(いわゆる摂家将軍)。
 ここでまた血脈が途絶えるが、次は近衛兼経に嫁いだ九条仁子(頼経の兄)が産んだ近衛宰子が嫁いだ宗尊親王(後嵯峨天皇の第一皇子)が鎌倉入りし6代将軍となった。この系譜が皇族将軍と呼ばれ9代将軍の守邦親王まで4代続いた。この頃倒幕運動(元弘の乱)が起き、守邦親王は鎌倉幕府滅亡の3か月後に薨去したと伝わる。こうして坊門姫の継いだ河内源氏・源義朝の血脈は、鎌倉時代を通じて受け継がれた。




 保科家「髭切」

太刀
長船元重
上総飯野保科家伝来

  • 天文14年(1544年)信州高遠城主仁科氏は武田信玄に降伏するが、佐久郡志賀の志賀平六左衛門は降伏しないため、仁科家の家老保科筑前守正俊が平六左衛門と面識のあることを利用し、殺害を命じる。
  • 保科筑前守は志賀に入り、角屋の蔀陰に隠れる。馬に乗ってやってきた平六左衛門を保科筑前守家来の北原彦衛門が躍り出て薙刀で馬の腹を突いて、馬から飛び降りるところを保科筑前守が兜の錣から首、さらに平六左衛門の自慢の卑下まで斬り落とした。
  • これを信玄に報告すると、その太刀を「髭切」と命名してくれたという。
  • 以後保科家は信玄の直臣に取り立てられ、武田家滅亡後は家康に仕え、明治まで上総飯野で二万石を食んだ。


 髭切丸


長運斎綱俊
銘 髭切丸ヲ写長運斎綱俊造之/天保十三年二月日

  • 長運斎綱俊の天保13年(1842年)作、小烏丸写しの刀に「髭切丸を写」と添銘がある。
    長運斎綱俊は江戸時代後期の刀工。本名は加藤八郎、号は長運斎。加藤和泉守国秀の三男で、山形藩工で濤瀾刃の名手であった加藤綱秀の実弟。
     水心子正秀に学び、さらに大坂で鈴木治國に師事したのち、西国を遊歴、熊本に駐槌する。当時備前伝の第一人者と称えられた名工。甥に石堂是一、弟子に固山宗次、高橋長信、青竜軒盛俊など数多くの優れた門人がいる。備前伝では水心子一門を凌ぐ勢いであったと言う。
  • 本家の所在はわかっていない。




 髭切伝承

  • 源氏重代の太刀とされ、刀に詳しくない人でも名を目にしたことがあるような有名な太刀だが、刀工に関する伝承はバラバラである。
  • また恐らくこの原因となっている「平家物語 剣巻」についても、古くより信憑性がないとの指摘がある。

    塙保己一曰劒巻の信用し難きことは前巻にもいひしかごとし。此書蜘蛛切丸吼丸薄緑を膝丸の又の名とし鬼丸獅子子友切を髭切の又の名として奇怪の説ともを牽強附會して作れる物なればもとより引用するに足らざる書なり。しかれども世に流布すること久く一條禪閣の作といふなる榻鴎僥筆に見えたるも全く此書に本づきて書れし程なれば或は人を疑惑することもやあらん。今他書と照し覧て妄誕を辯し疑惑を絶んが爲に斷章して條々に附す。只膝丸髭切と名付し故の保元平治物語と聊たがひたるは別による所ありとしも知るへし

  • 享徳4年(1452年)の奥書がある「伯耆国住鍛冶等」によれば実次作という

    実次 号伯耆権守ト。天武天皇の御宇、慶雲年中ノ作也。此作ノ太刀源氏伊予守帯之、子息筑後守、是ヲツタエ畢、嫡子コレヲ伝タリ。コゝニ後冷泉天皇ノ御宇天喜年中ニ、奥州五十四郡、出羽国十二郡管領ノ時、安倍ノ貞任、宗任ツイハツノタメニ、義家八万騎ニテ相向。十二年ノ合戦ニ、奥州金崎クリヤ河ノ城セメヲトシ、貞任召取テ頚ヲキリスヘテ、アマル太刀ニテヒケ(髭)ヲキリ落シケル間、ヒケキリ(髭切)と名付タリ

    髭を切り髭切と名付けた人物は源義家となっている。十二年ノ合戦とは、源頼義が奥州に赴任後から奥州安倍氏滅亡までに12年要した戦いのことを指している。伊予守源頼義の嫡子が八幡太郎源義家。

  • その後人口に膾炙するきっかけとなった平治物語でも、版により記述が異なる。成立が古いと見られている陽明文庫本では髭切伝承の記述がないが、その後徐々に増幅していく。

    八幡殿奥州にて貞任を責られし時、度々の間に生取千人の首をうち、ひげながら切てんげれば、髭切とはなづけたり。
    (平治物語 金毘羅本)

    さて髭切とは申は、八幡殿、貞任・宗任をせめられし時、度々にいけどる者千人の首をうつに、みな髭ともにきれければ、髭切とは名付たり。奥州の住人に文寿といふ鍛冶の作也
    (平治物語 流布本)

    ここでも源義家が奥州で振るった剣が髭切と号したことが記述される。平家物語剣の巻において、なんらかの伝承を盛り込むために3代前の源満仲まで時代を遡ったということになる。

  • 最古の銘尽には、髭切は複数の作者に記述がある

    文寿 むつの国住人んけんしちう代(源氏重代)ひけきり(髭切)といふ太刀のつくりなり

    諷誦 ひけきりお作

  • その他の刀剣本でも同じで、混乱が見られる。
  • 実次作

    実次 源氏重代の髭切・膝丸・鬼丸と同作なり。別所家あり。かの髭切は城奥州禅門合戦の後相模守師時尋ね出して所持しぬ。其後最勝寺禅門宗宣の許におくりしを、大将法華堂に納められ畢。一は陸奥守宗誼がもとにありしとなり。かのひげ切は筑紫より一人の鍛冶上洛してうつといえども、誠は八幡大菩薩人と現じて打ち給うと云う。よくよく口伝あるべし
    (喜阿弥本銘尽 不知在国鍛冶次第不同)

    実次 大同年中ノ鍛冶也、平城天皇御宇者也、源氏重代のヒケ切ト云太刀作之(長享銘尽

    源氏重代ひけきりこのさくといふせつもあり(三好下野守本能阿弥銘尽

    「城奥州禅門」とは安達泰盛のこと。城九郎・陸奥守であったために「城奥州」、入道後は「城奥州禅門」と呼ばれた。

  • 文寿作

    けんしちうたい(源氏重代)のひけきり(髭切)さくしやといふりゃうせつ(三好下野守本能阿弥銘尽

    文武天皇御宇 或源氏重代髪切(髭切)作者云事在之(佐々木本銘尽

    みちのくにのちう人 けんしちうたいのひけきりといふ太刀 これかつくり(鍛冶銘集)

    「舞種カ」と傍書 陸奥国住人げんじちう代のひけきりといふ太刀これをつくる。から人なり。ひけきり満中のうたせらる、ひさ丸といふ太刀おなし時にうたせらるゝなり 口伝在之
    (利永本銘尽

  • 諷誦作

    諷誦 平家ニ小烏ト云太刀作者也、コノ小烏ハカマクラノ法華堂厨子ニコレヲヲサメラル、又切居ト云太刀ノ作者トモ云、ヨロイ武者ヲキリスヘケルユエニキリスヘト名付タリ、又源氏重代ノヒケ切ノ作者シラスト云ヘトモ実ニハ諷誦之作ト云々
    (鍛冶名字考)

  • 宝珠作

    宝珠 源氏ノヒケ切作者也(芳運本銘尽


  • これ以外にも、泉水、元寿、行重、美濃の外藤、備前四郎兵衛尉、筑前の正応などが挙げられるが、どれが真実なのかは、現代ではすでにわからなくなっている。
  • しっかりした事実としては、髭切の別名とされる「鬼切」は北野天満宮に所蔵するものが現存し、それは「安綱」銘を「國綱」と切り直したものであるということのみである。

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