三条小鍛冶宗近(刀工)
三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)
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生涯
- 公家出身であるが刀を打ったという。
- 粟田口三条坊栗田神社鳥居の北の竹林のほとりに住したという。現 京都府京都市東山区粟田口鍛冶町。青蓮院門跡の東北、ウェスティン都ホテル京都の西側。
傳へ云ふ、小鍛冶の宅阯は天王社鳥居の北竹林の所なりと、天王社は愛宕郡青蓮院村の東山腹にあり(山州名跡志)
鍛冶池は今粟田に天王社の東、良恩寺の傍にあり、土人小鍛冶の池と云ふ(山城名勝志)
小鍛冶宗近の水は、佛光寺墓所門前の西、石垣の下にあり、此地いにしへ宗近が宅阯なりとぞ(拾遺都名所圖繪)
この「天王社」は現在の粟田神社のこと。明治の神仏分離以前は「粟田口天王社」「感神院新宮」などと呼ばれていた。※なお一説に三条東洞院西入の六角堂の近くに住したともいう。
- 出生については諸説あり
- 定近という鍛冶が北野天満宮に子授け祈願をして授かった子
- 備前住為吉の子で永延(987)年中に上京し三条小鍛治と称した
- 河内有成と同人であり、天元5年(982年)に上洛、永延元年(987年)に宗近と改名した
- 橘氏説:後述。埋忠系図にも書かれる。
- 粟田神社の末社に鍛冶神社というのがあるが、これは昭和初期に建立されたもの。
銘
- 本来は三條だが「三条」と略体で切る。
- 在銘で現存するものは少なく、「宗近」ときられているものと「三条」ときられているものがある。
著名作
- 御物
- 銘「宗近」 刃長78.5cm、反り2.8cm。明治42年(1909年)9月、北陸巡行の際に、若狭小浜藩の酒井忠道から東宮(後の大正天皇)に献上され、さらに東宮から天皇に献上されたものである。
- 御物
- 銘「宗近村上」 元は「近村上(たてまつる)」とあったものに「宗」の一字を加えたもの。近村は古備前の刀工。
- 小狐丸
- 能「小鍛冶」、摂関家伝来。
- 三日月宗近
- 天下五剣、国宝。
- 海老名宗近
- 享保名物。徳川美術館所蔵。「海老名小鍛冶」
- 鷹の巣宗近
- 島津家伝来、享保名物。「鷹巣三条」
- 南宮神社所蔵
- 銘「三條」長二尺五寸八分(78.2cm)。鎬造り庵棟、表裏に棒樋かき流し。鋩子小丸。目釘孔2個。目釘孔下に二字銘。昭和初期に赤坂矢橋家から奉納されたもの。重要文化財
- 若狭彦神社蔵
- 太刀 銘 宗□(伝宗近)。寛政7年(1795年)11月1日に小浜藩の城代家老酒井内匠介忠為が若狭一の宮に病気平癒祈願で本復の御礼で奉納したもの。長79.1cm、反り3cm。銘の一字が不明だが、宗近と伝わる。なかご磨上、先栗尻。目釘孔3個。明治45年(1912年)2月8日重要文化財指定。小浜市遠敷の若狭彦神社所蔵、東京国立博物館寄託
太刀 銘 宗□ 傳宗近
長さ二尺六寸〇一厘 反り一寸〇六厘
表に大振の二字銘があり、上は「宗」の字、下は「近」の字を略判讃されるが、半ば穴にかゝり、朽込んでゐる。
作者を宗近と傳ふるごとく、名物三日月宗近と比較検討して、作風相通じ古調である。
- 蝶丸(鶴丸)
- ちょうまる/つるまる。鎌倉五郎景政所持の太刀でこのときは「鶴丸剣」と呼ばれたという。景政7代孫の長江八郎左衛門景近(景通)に伝わる。号は鎺に金の蝶文様があったためという。「てうし丸」
- 石動丸/不動宗近
- いするぎまる。不動丸、不動宗近とも。越後城太郎貞重所持。越後奥山館の不動明王本体と崇めて伝わっていたものを、和田次郎左衛門尉義盛が宝殿を造りかえ畠地三段を永代寄進するのと代わりに取り出し「不動丸」と名付け用いた。※蝶丸と同物だともいう。
- 野干丸
- やかんまる。城家の所蔵で三尺二寸。越後長岡の牧野家の所蔵となり、戊辰戦争で紛失するが、その後長岡の商家が買い取ったという。※野干とは狐の異名。
- 半月丸
- 尼子家家臣の山中鹿之介の佩刀。三条宗近在銘。二尺二寸八分。少し乱れた直刃に半月形の打ち除けがあったための名。
- 前田家の小太刀
- 宗近作の小太刀。長一尺五寸ほど。秀吉から宇喜多秀家へ伝わる(秀吉から直接豪姫に与えたともいう)。秀家の正室豪姫は実は利家の娘(秀吉養女)であり、関ヶ原の後に秀家が八丈島に流されると、夫人は兄である前田利長を頼って加賀前田家に戻った。夫人は小太刀を左京という帰化人に与えるが、のち前田家の御殿医であった堀部養叔の弟堀部養佐が左京の養子となっていた関係で養佐の子の養壽に伝わった。元禄2年(1689年)5月18日に堀部養壽が主家に献上し、その後は加賀前田家に伝わったという。
- 水戸家
- 二尺八寸二分。家康より水戸頼房へ伝わる。連枝の松平大学頭松平頼貞に伝わったもので、頼之が磨上て二尺五寸とした。
- 宗近の刀
- 水戸徳川家。寛永16年(1639年)夏に頼房が子の光圀を連れて隅田川へ赴き、光圀が見事河を渡りきったために与えたという。銘「三条宗近」、表樋倶利伽羅、裏樋に剣の打物。一尺五寸六分。家康より拝領という。
- 宗近の太刀
- 備後福山藩阿部家伝来。長三尺五寸。加藤清正所用で、清正の長女・あま姫(本浄院)は、のち阿部正次の嫡男・政澄へと再嫁している。その時に持参したという。昭和初期まで阿部家に伝来している。
- 波潜り宗近
- 波くぐり宗近。小早川隆景の佩刀。刃長二尺二寸五分。差表に腰樋。「宗近」二字銘。周防吉敷郡上宇野令村の高橋家所蔵。
- 狐丸
- 小笠原若狭守所持所持。
- 鷹之巣丸小太刀
- 元は(甲府)城中の八幡宮に納められていたもので、三条小鍛冶作という。明治45年(1912年)に東宮殿下(大正天皇)が山梨を行啓された際に、村松甚蔵が所持していた刀剣類が台覧に供される中に含まれている。この時、他に武田家伝来獅子王太刀なども供している。※村松甚蔵(1870-1945)は実業家で衆議院議員。甲府城跡を払い下げを受ける資金として山梨県に1万1622円を寄付した。南塘文庫を設け、のち私設図書館・汲古館を建設して文庫を移した。
- 愛宕山蔵
- 白河楽翁(松平定信)が集古十種を編纂するときにとった押形が残る。二尺四寸九分。
- 富士大石寺蔵
- 日蓮上人への寄進刀。宗近作二尺一寸の太刀と、久国作九寸五分の短刀。詳細は「数珠丸恒次」の項参照
- 熱田神宮蔵
- 王子稲荷
- 二尺三寸五分八厘。宗近の二字銘。越後新発田藩主の溝口出雲守の家臣江口源吾左衛門栄明が享保20年(1735年)2月17日に奉納したもの。
溝口氏は伯耆守または出雲守を受領。出雲守は3代宣直、7代直温、9代直侯。直温は享保17年に末期養子となり家督を継ぐ。同年従五位下出雲守に叙任。
- 太刀
- 湯浅作兵衛が徳川家康から拝領した宗近。ただし三条小鍛冶ではなく、伊賀の刀工宗近(伊賀国宗近)の作とされる。湯浅作兵衛とは大黒常是(だいこくじょうぜ)のことで、元は堺の南鐐座の銀吹き職人であったが、のち家康に認められ御銀吹役・御銀改役を命じられる。この時、同時に「大黒」の姓と宗近を拝領したという。この年月に異説があり、天正10年(1582年)の本能寺の変後(伊賀越えの功)、あるいは慶長3年(1598年)であるともいう。
なお秀吉が伏見指月に城を築き始めるのは文禄元年(1592年)であり、天正10年(1582年)の功に対して伏見で拝領とするのは、やや無理がある。家康は関ヶ原の勝利後の慶長6年(1601年)5月に伏見に銀座を開いており、この時に湯浅作兵衛こと大黒常是は銀吹役及び銀改役を仰せつけられ、鋳造した貨幣には極印方の大黒姓にちなんで大黒像の極印が打たれることとなった。のち銀座は、駿府を経て江戸京橋、および京都に分かれるが、常是の長男作右衛門の家系が京座を、また次男長左衛門の家系が江戸座の銀改役を世襲した。宗近 二字太刀銘 直刄二尺三寸
三條宗近傳来書
家祖湯浅作兵衛橘常是、天正十年六月本能寺の變に際し、東照神君に奉侍し、泉州堺より伊賀路山越に功あり、因りて伏見城に於て姓を大黒と賜ひ、御左右の御刀を拝領せしもの卽ち之なり。 鬼神戸 宗近- 長一尺二寸五分。ただし元の銘を削った上での偽銘。
- 薙刀・槍
- 薙刀
- 小鍛冶作の薙刀。静御前が所持したという。家康から家光まで伝わり、家光が板橋辺で鷹狩をした際にこれで雁を追いかけた時になかご元より折れてしまう。越前鍛冶山城国清に命じて継がせ、その後は大玄関獅子の間の床飾りとなった。将軍御成の際に御打物と称して籠の先に出るのはこの薙刀であるという。
- 前田家の薙刀
- 静御前所持という薙刀で、前田家では将軍家のものといずれが本物かと話題になった。すると3代利常が静御前たるもの薙刀も1本ではなかったろうといなしたという。
白鳥 の槍- 家康の外孫である奥平忠昌は幼名千福と名乗っていた。元和2年(1616年)3月、8歳のとき家康の病気見舞いにいき、その時拝領した白鳥毛鞘の槍。同家で代々持槍にした。穂は三寸の短槍で三条宗近作。源為朝所持の伝来。
伝承される作刀
刀剣本
- 「観智院本銘尽」によれば、「子狐」、後鳥羽院(在位:1113年~1198年)の太刀「うきまる(鵜丸?)」、「てう丸(蝶丸)」などが三条小鍛冶宗近という。
宗近 三条のこかちといふ、後とはのゐん(後鳥羽院)の御つるきうきまるといふ太刀を作、少納言しんせい(信西入道 1106年~1160年)のこきつねおなし作也
宗近 てう丸作
- 「鍛冶名字考」…享徳元年(1452年)
一条院御作トモ打也。一条院御宇(在位:986年~1011年)永延年中作者。京東三条ノ住小鍛治ト号ス。同鶴丸釼(鶴丸剣)ヲツクレリ。此作太刀鎌倉ノ権五郎景正(梶原景正、景時の曽祖父)帯也。仍七代ノ孫ノ長江ノ八郎左衛門景近コレヲ傅テ蝶丸ト名ツク。ハバキニ金蝶ヲホリツケタル故ナリ。
又彼ノ作太刀越後国城太郎貞重(城貞重)次資持。当国奥山ノ館ニ不動明神トアカメテ最後ノ時帯也。其後四十餘年ヲヘテ宝殿ノ中ニスコシモサヒスシテアリケルヲ和田ノ次郎左衛門尉(和田義盛 1147~1213年)宝殿ヲ造カエ畠地三段永代令寄進此太刀ヲ申ウケテ不動ト名ツケテヒサウス。
又此太刀源氏ニ重代シテ、平治ノ乱(1160年)ノ時、義朝常禁ニ鎖ヲキ、源氏チリヂリニナル時フカク此太刀カクシ、義朝死去ノ後、牛若殿ニワタサル。義経コレヲ持、二尺七寸ノ金作太刀コレ也。此太刀ニハ本一寸上テ竜瀧ト云字アサヤカニアリ。最後ノ御時御中間愛王丸ト申カ此太刀ヲトリ奥州ヨリイデテ、伊勢太神宮ニコメ申。當代マテ此太刀ハ宇治ニアルヘシ。
- 「長享銘尽」…本文中に「長享二年(1488年)」の記載。
宗近 三条小鍛治、寛和元乙酉御即位御門ヲ一条ノ院ト申、神武ヨリ六十六代也。此作中子ツチ目也峯少丸ヤウナリ。後鳥羽院御釼鵜丸造之。少納言入道信西所持ノ釼同。釼名ノ打ヤウ三条宗近トモ打。只三条トモ打。三日月ト云太刀造之。寺丸ト云釼也。又畠山庄司次郎重忠太刀三尺一寸造之。又弁慶長刀岩融三尺五寸造之。
- 「刀剣鑑定歌伝」文政10年(1827年)中島久胤
元來旨には家業の鍛冶にあらず、依之世に稀也、是迄堂上方貴家に於て宗近之太刀四振拝見するに、何れも乍恐眞之物に非ず、その外にも數本見ることなれども、眞成者未見、亦本阿彌親俊之曰、宗近の正眞は御物の外には薩州侯の鷹の巣宗近より外に未見と云置たり、又曰く、古刀銘盡大全巻の七宗近の押形三振あり、巻八に忠押形五振有、しめて八振なり、之れ不審にあらずや、親俊曰鷹の巣之外希なる由を思可合
長刀
- 現存しないが、伝承では源氏の宝刀である今剣、薄緑、静御前の薙刀についても宗近の作という。武蔵坊弁慶が振るったとされる薙刀「岩融」についても、宗近の作という伝説がある。
- 加賀前田家の小薙刀:静御前所持と伝えられる。志津三郎兼氏作ともいうが時代が合わない。将軍家にも伝わっていたため、いずれが正真かという噂が出たが、3代利常は義経の思い女だ、長刀の2・3本もってなくてどうする(つまりすべて正真だ)といなした。
- この長刀は前田家の重宝であるため藩主の寝室の長押に掛けることになっており、奥女中たちは月の障りのあるものは入ってはならぬとされた。ある女中がうっかり忘れて入ると、長刀が突然落ちてきたため、それ以来奥女中たちの恐怖の的になった。
長刀鉾の長刀
- 祇園祭の山矛巡行の先頭をきる長刀鉾(なぎなたぼこ)の長刀は、もともとは宗近が娘の疫病治癒を感謝して鍛造し祇園社(八坂神社)に奉納したものであった。その後、大永2(1522)年には三条長吉作のものと取り替えられ、さらに延宝3(1675)年には和泉守来金道作(日本鍛冶宗匠の項参照)のものとなった。現在は竹に銀箔をはった模造品を使用している。
- 詳細は「長刀鉾の長刀」の項を参照のこと。
系統
宗近─┬─吉家[寛弘] │ ├─有国[寛弘]─兼永[長元]─┬─国永[天喜] │ ├─兼次[永承] ├─宗則 └─兼安[永承] │ ┌─眞國[延久] ├─眞利[長久]─┤ │ └─宗永 ├─宗利───宗忠 助宗[平治] │ 宗親 └─近村[長久] 守家 ※諸説あり。[]は推定活動年間 ※古刀期の刀工の相互関係については、年紀銘などからの類推が多くほとんどわかっていない。
- 兼永の子五条国永を弟子とする説もある。
- 「鍛冶名字考」では備前国住鍛冶の項に記載がある。
宗近 為吉子也。始ハ備前国ノ住一条院御宇永延年中ニ平原ニ上洛シ三条ニ住シ三条小鍛治ト号スル也。鶴丸ト云剣の作者云々。
宗近に関する伝承
小鍛冶
- 「小鍛冶」宗近の由来についてはよくわかっていない。
- 「三条ノコカチ宗近」
- 「三条小鍛冶助宗 平治元二月日」 ※平治は4月20日改元のため偽銘の指摘あり
- すでに室町3代将軍足利義満(在位1368年~1394年)の頃には宗近を小鍛治と称したことがわかっているが、なぜ刀工のうち宗近だけが小鍛冶と呼ばれているのかは伝わっておらず、不明。
明応四年秋(1495年) 二百文 三條小かぢ
文明十五年(1483年)六月 此内に三條のこかぢむねちかがもの二百文あり
(祇園社地子算用帳)
- 南北朝期(1336~1392年)ごろの成立と見られる「新札往来」にも粟田口鍛冶の次に登場している。
太刀刀之身。昔天國以後、得其名鍛冶。雖蕈數百人、記新太夫舞草、中比後鳥羽院番鍛冶、御製作以菊為名、此外粟田口、藤林、國吉、々光已下、三条小鍛冶、了戒、定秀、千手院、尻懸、一文字、仲次郎。此等者其振舞大略如劍候。近來、来國俊、國行、新藤五、藤三郎(行光)、五郎入道、其子彦四郎(貞宗)、一代之名人候。御所持候者、少々可拝領候。
- そもそも小鍛冶とは大鍛治の対語。
- 大鍛冶が踏鞴(たたら)全般を指すのに対し、小鍛冶は刀鍛冶など刀、薙刀を打つ人を指す。
- 大鍛冶が蹈鞴を吹いて砂鉄から鉄を製する製鉄業者であり、小鍛冶はその鉄を用いて種々の鉄製品を作る者であり、刀鍛冶も小鍛治の中に含まれている。鉈、鎌、鋤や鍬、釘や鎹などをつくる全ての鍛冶細工に任ずるのが小鍛冶である。
- 「巧鍛冶」でこかじ、または「古鍛冶」でこかじと読むという説もあるが、否定されている。
能「小鍛冶」
- 能五流における五番目物。切能(きりのう)とも呼ばれ、最後に演じられる演目の中の一つ。
- 成立時期
- 作者も成立時期も不明。
- 足利義政のころにはまだなかったという。義政主宰の寛正5年(1464年)、京の糺河原にて4月5日から三日間行われた勧進猿楽で能狂言が四十九番演じられているが、この中に小鍛冶はない。(45番とも)
- 文献に登場するものでは、天正6年(1578年)2月に石山本願寺で金剛太夫が演じたものが初出とされる。
これらのみで考えれば、能「小鍛冶」義政以降信長以前に作られたということになるが、詳細は不明。
- 登場人物
- シテ:童子、稲荷大明神
- ワキ:三条宗近
- ワキツレ:橘道成(架空の人物)
- 話の筋は、一条天皇の勅命を受けた橘道成が、宗近に鍛刀を命じ、宗近が稲荷明神に神助を乞うために参詣する途中、童子が現れ相槌を申し出る。さっそく帰宅すると稲荷大明神が現れ相槌を打ったため、見事な出来に仕上がる。宗近は表に「小鍛冶宗近」、裏に「小狐」と打つ。
- 能「小鍛冶」の内容については、滋賀県立大学能楽部の能楽「小鍛冶」で非常にわかりやすく解説されている。
橘氏説(橘仲宗)
- 三条宗近が「橘氏」であるという伝承がある。
- 埋忠系図:従四位下播磨守橘仲遠の次男
- 大右記:橘仲遠の子で法興院藤原兼家に仕え、罪を得て薩摩に流罪となる
- 梅忠明寿家の系図によれば、宗近は従四位下播磨守橘仲遠の次男という。初名仲宗、従六位上信濃掾に任じられ長元6年(1033年)2月15日没。70歳。ここから逆算すると生まれは応和3年(963年)となる。
- さらに、「慶長以来新刀弁疑」(蒲田魚妙著 安永6年/8年刊)の「剣工略系」にある”三条小鍛冶宗近嫡流埋忠明寿門葉系”の宗近の注記でも次のようになっている。
橘宗近 父は従四位下播磨守橘仲遠ト云 宗近始ハ仲宗ト云信濃大掾ニ任ス 法興院兼家公ニ仕フ
ただし橘仲遠には一男一女のみで、男子は近江掾道文という。
- また藤原俊家(大宮右大臣、中御門流の祖)の「大右記」の孫引きとして、宗近ははじめ「橘仲宗」と名乗り法興院藤原兼家(御堂関白藤原道長の曽祖父)に仕えていたが、流罪にあい九州で鍛冶の修行をしたという。
- また白尾國柱著の「麑藩名勝考」薩摩国谿山郡谷山郷福元村の項には次のように記されている。
橘太仲宗、法興院に仕へ、天元二(九七九)年木工寮の仕丁稲丸を闇打にせんとする科に因て、薩摩国へ流罪す、かくて三重野に居て、谿山の刀鍛冶正國(正国、波平行安)に師とし、鍛冶を業とし、名を宗近と改む、永祚二(九九〇)年赦免ありて帰京し、洛東白川に住みて名剣多く造れり。
- つまり橘氏説によれば、父が従四位下播磨守橘仲遠、宗近は初名仲宗で法興院藤原兼家(東三条大入道殿)に仕え信濃大掾に任ぜられたということになる。その後、天元2年(979年)9月29日に稲丸との闘争の科により、同年11月に薩摩国へ流罪となる。三重野に住し、波平正国に師事し刀鍛冶を学び、永祚2年(990年)に許されて都に戻り、洛東白川に住したということになる。「三重野」がなまって「三条」となったともいうが、三重野は「みしげの」と読むため、こじつけに誤りがある。
これは薩摩鍛冶波平派の始祖正国の弟子が高名な三条小鍛冶宗近であるという文脈で語られていることであり、真偽はわからない。薩摩には室町期に宗近が2人もおり、それと橘氏を結びつけたとも。
仮にこれが事実であるとすると、兄妹に、従三位に至り「橘三位」と称された橘徳子がいることになる。
小鍛冶鑢盤石
- 知恩院(東山大谷寺)には小鍛冶鑢盤石があったとされる。
山門石壇下西南方ニアリ。側ニ井有。此水則刃ニ用ヒシト。是土人の口説ニテ、實記未考。圓山僧ノ云、此石昔ハ圓山吉見ずノ傍ラニアリシト、昔ヨリ釼刀を鏦時、神社佛閣ニ祈リ、清浄ノ地ニ居シテ是ヲナス事、今ニ亘レル例也。但此所鍛冶宗近ガ宅地也ト云フハ非也。
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