鶴丸国永


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 鶴丸国永(つるまる)

太刀
国永名物 鶴丸)
2尺5寸9分半(78.6cm)、反り2.7cm
御物
山里御文庫 御剣庫蔵(宮内庁管理)

Table of Contents
  • 山城の刀工、五条国永の作
  • 享保名物帳所載

    鶴丸国永 在銘長二尺五寸九分半 代三千貫 松平陸奥守殿
    北条傳来の太刀なり。信長公へ傳る、三枝勘兵衛へ下さる。貞享の頃か光的次男出家一条院伏見藤森にて取出す、神事并に借太刀に致候由なり。古き拵へ傳来の書付にも出る鶴丸と云仔細不知。

  • 詳註刀剣名物帳」所載

    北條相模守貞時の太刀なり秋田城介へ傳り其後轉々して織田信長公の手に入る、一説にこの太刀鶴丸にあらず國永曾て朝廷の命を奉じて御劔を鍛ふ其太刀鶴丸と號す鶴丸の作者が打し太刀と言傳え遂に鶴丸と直にこの太刀を稱するに至れるなりと是もさる事なる可れど仙臺にありし時鶴丸と云紙札を付たる儘あり其札慶長頃の時代も見ゆと云ば今更鶴丸ならずとも言難し、先年伊達家より獻上して帝室御物となる、此太刀の由來は伊達家にあり煩はしければ大略を記す。
    (大正2年本)

    北條相模守貞時の太刀なり、もとは餘五將軍維茂の太刀秋田城介へ傳り、其後轉々して織田信長公の手に入る、三牧勘兵衛へ賜ふ、本阿彌益忠の紹介にて貞享の頃伊達家にて求められしと云、先年伊達家より獻上して帝室御物となる、此太刀の由來は伊達家にあり煩はしければ大略を記す。
    (大正8年本)

    この本阿弥「益忠」とは本阿弥光徳の諱だが、光徳は元和5年(1619年)7月没。「貞享」は1684年から1687年までなので時代が異なる。また本阿弥宗家12代光常の諱が「忠益(・・)」で、こちらは宝永7年(1710年)8月に68歳で没なので時代的には合うことになる。

  • 反りは八分八厘。
  • 鎬造り、庵棟、腰元からなかごにかけて踏ん張り付く、小鋒。
  • 中心はうぶ、先細くなり栗尻。目釘孔1個、佩表目釘孔上、棟寄りに「国永」二字銘。
    • 国永の国は、くにがまえの中に×一となる。

 国永

  • 五条国永は平安時代の刀工で五条兼永の子。天喜年間に京都五条に住したため名乗る。
  • 有銘作は太刀3口、剣1口。
  • 三条小鍛冶宗近の弟子と伝わる。

 由来

  • 鶴丸の号の由来は不明。
  • 失われてしまった太刀拵に「鶴」の文様があったからとも言われている。
    鶴に丸の文様は日本で古くから使われてきたもので、日本航空がロゴに採用しているのは有名。また古来有名な「鶴丸」という名の別の剣(三条宗近作という)もあるため、本阿弥折紙享保名物帳、伊達家腰物由緒書などにおいては、本刀は「鶴丸国永(、、、、)」と記載され区別される。文化財登録などでは国永作ということが併記されるため「号 鶴丸」とだけ記される。Wikipediaでは「鶴丸」は刀剣の世界では本刀しか無いかのように書かれているが、正確ではない。

 来歴

 余五将軍所持

  • 元々は余五将軍と呼ばれた平維茂が所持し、その後秋田城介に伝えたという

    北条相模守貞時の太刀なり、もとは余五将軍維茂の太刀秋田城介へ伝り、其後転々して織田信長公の手に入る
    詳註刀剣名物帳 増補版)

    ただし秋田城介はこのしばらく後、安達景盛(貞泰の高祖父)が任じられるまで約150年の間絶えていたとされ、また安達氏は藤原北家魚名流小野田氏の後裔を自称しており桓武平氏との繋がりはない。鶴丸の作者である国永は天喜年間(1053~58)に五条に住したとされていることもあり、平維茂の活躍時期とはずれている。高名な平維茂を持ち出し「秋田城介」のみで繋がりをつけたものではないかと思われる。

  • この鶴丸国永とは別に、梶原景正が使ったという「鶴丸剣」がある。この鶴丸剣がのち「蝶丸」さらには「石動丸」と呼ばれたともいい、古剣書により三条宗近または備前友行の作という。坂東平氏の越後での逸話の混同が有るのではないかと思われる。
  • なお大正2年(1913年)詳註刀剣名物帳(初版)でも、次のように記している。

    一説にこの太刀鶴丸にあらず、国永曾て朝廷の命を奉じて御劒を鍛ふ其太刀鶴丸と號す、鶴丸の作者が打し太刀と言傳え、遂に鶴丸と直にこの太刀を称するに至れるなりと、是もさる事なる可れど、仙臺にありし時鶴丸と云紙札を付たる儘あり其札慶長頃の時代も見ゆと云ば、今更鶴丸ならずとも言難し

    つまり、一説には本刀「鶴丸国永」は鶴丸ではなく、元々「あの有名な鶴丸を打った国永という刀工が作った別の太刀」とされていた太刀がいつしか「鶴丸」と呼ばれるようになってしまったのだという。しかしながら仙台にあったときからすでに鶴丸という札が付けられており、その札が慶長頃のものに見えたために今さら鶴丸ではないとも言い難いという。この説は大正8年(1919年)の増補版ではすっぱり消され、代わりに「もとは余五将軍維茂の太刀」「本阿弥益忠の紹介にて云々」という文言が入る。
     仮にこの説が正しいとすれば、「保元之頃村上太郎永守帯之、其後清野三郎入道相伝、其後城太郎持之」というように、国永作の太刀が村上太郎から清野三郎入道へ、さらに安達氏(安達義景が城太郎と称した)へと伝わったところから話が始まることになる。しかし当時村上氏は都で崇徳院判官代を務めており、こちらのほうが信ぴょう性は高く感じる。

 安達氏から北条氏

  • 鎌倉頃には安達貞泰が所持。
  • 鎌倉時代後期、弘安8年(1285年)11月に起こった霜月騒動(秋田城介の乱)で安達一族が滅ぼされた際に、第9代執権北条貞時が入手した。一説に、貞時はこの刀欲しさに貞泰の墓を暴いたという
    この霜月騒動により、北条一門宗家である得宗家による支配が強まり得宗専制が成立する。
    この時に安達泰盛は、源氏将軍に伝えられる「髭切太刀」を京都のある霊社から探し、法華堂の御逗子に納めていた。髭切りの太刀は、霜月騒動で行方不明になったのち12月5日に探し出され、北条貞時によって「赤字の錦袋」(平氏を称する北条氏は赤旗)に包まれ再び法華堂に奉納されたという。

    Wikipedia安達宗景の項に、「子の貞泰は安達一族と親しい金沢流北条氏に庇護され、正中2年(1325年)7月18日、慶珊寺富岡八幡社に大般若経を奉納している。」という記述がある。しかし奉納者は「宇都宮貞泰」の間違いと思われる。宇都宮貞泰は藤原北家道兼流の藤原宗円の後裔を称する下野宇都宮氏の出身。初名景泰。藤原貞泰。元徳3年(1331年)に伊予、のち豊後仲津に移り、筑後宇都宮氏の祖となる。
     なお宇都宮泰綱の父・宇都宮頼綱は歌人としても知られ、藤原定家との交流が知られる。また娘を定家嫡男の為家に嫁がせている(後妻が阿仏尼で、二条家・京極家・冷泉家に分裂する発端となった)。下野宇都宮氏は鎌倉幕府の有力御家人であり北条時政の女婿にもなっていたが、牧氏の変で疑われると献髪して出家し、実信房蓮生(じっしんぼうれんじょう)と号して法然の弟子証空に師事、京嵯峨野の小倉山麓に庵を設けて隠遁した。この山荘の障子和歌を定家に選定してもらったものが小倉百人一首であるともされる。
      北条時氏[得宗家]
        ├──┬北条経時
     ┌松下禅尼 └北条時頼──北条時宗
     │             ├──北条貞時
     │     ┌──────覚山尼    ┌名越殿(北条時如室)
     │     │        金沢顕時 ├顕弁、顕実、貞顕
     │     │          ├──┴釈迦堂殿
     └安達義景─┼安達泰盛─┬─安達千代野    ├───足利高義
      (城太郎)│(城九郎)│  足利家時──足利貞氏
           │     │          ├──┬足利尊氏
           │     │  上杉頼重─┬上杉清子 └足利直義
           │     │       └日静
           │     ├安達宗景(秋田城介)──安達貞泰
           │     └安達盛宗(城次郎)
           │
           ├安達顕盛──安達宗顕──安達時顕──安達高景
           │            (秋田城介)(秋田城介)
           └娘
            ├───┬宇都宮貞綱─┬高綱(公綱)──氏綱──基綱
      宇都宮泰綱─景綱  │      ├高貞          氏広
                │      └冬綱
                └宇都宮泰宗─┬武茂時綱
                       └宇都宮貞泰(藤原貞泰)
    
    【秋田城介】
    安達景盛─義景─泰盛─宗景─時顕─高景─(葉室光顕)─(源泰長)─(織田信忠)
    
  • この墓を暴いたという説は、どうも「喜阿弥銘尽」の次の記述がどんどん膨らんだ結果ではないかと福永酔剣は推測している。名刀と名将 (名将シリーズ) - 国立国会図書館デジタルコレクション

    臨刀トナヅク、サヤニスカスユヘナリ。又ハミササギトモ云、ホリイタスユヘナリ。

  • この後半の”ホリイタス”を”掘り出だす”と読めば墓から掘り出したと読め、それが暴いたという話になるのだという。しかしこれを”彫り致す”と読めばそれは臨刀(竜胆)の彫り物の話になるという。
    しかし竜胆の彫り物があったとしても、何故”ミササギとも言う”のかについては触れていないので謎。

 織田信長から御牧氏

  • のちに織田信長御牧勘兵衛景則(家臣三牧勘兵衛とも)に与えた。
    後北条氏でもない北条執権家所蔵であったという太刀が、いかなる経緯で信長の手に入ることになったのかはまったく不明。
  • 御牧景則は信長亡き後は秀吉に仕え、1700石を給わる。景則の子信景(四田井清庵)が関ヶ原敗戦で没落する。
  • この時に手放したのか鶴丸国永は、いつの頃よりか伏見藤森神社にあった。
    御牧勘兵衛は山城久世郡御牧村を領したため、手放すときに付近の伏見藤森の某家が引き受けたとも。

 藤森神社

  • 本阿弥光温の弟光的の次男は出家して一乗院と称しており、それが貞享(1684~1687)ごろに藤森の某家から取り出して藤森神社の神事に貸し出していた。
    この頃からようやく来歴らしい来歴となってくるが、掘り出した人物も本阿弥家の一族であり、それ以前の来歴は伝承レベルであってよくわからないのが実情。

    藤森神社は、同社の縁起によれば3つの社が合祀されて現在の藤森神社になったという。そのうち舎人親王と天武天皇を祀る東殿(東座)は、もともと伏見山のふもと付近にあったが、永享10年(1438年)に後花園天皇の勅により足利義教が山頂にあった稲荷の祠を山麓の藤尾の地に移し、それまで藤尾の地にあった藤尾大神(藤尾社)を藤森の地に移したことに始まるという。藤森祭(深草祭)は、遷座する以前の貞観2年(860年)に清和天皇の践祚に際して奉幣の神事が行われたことに由来するという。
  • 貞享元年(1684年)に本阿彌三郎兵衛が国永作の鶴丸と極め、代三千貫の折紙を出している。
  • 貞享2年(1685年)に前田綱紀が見た刀の中にこの鶴丸(鶴麿)が入っており、その経緯が残っている。
  • 元禄6年(1693年)8月3日付、本阿弥光忠による金二百枚の折紙が付く。

        鶴丸国永太刀
    正真 長寸貳尺五寸九分半
        有之
        代金子貳百枚
     元禄六年末八月三日
       本阿(花押)

  • その後、本阿弥六郎左衛門の添え状を付け、森田左衛門という刀屋が「鶴丸国永」という触れ込みで伊達家に納めた。
    貞享ごろの説として、御牧勘兵衛に男子がなく娘がこの刀を持って松田家に嫁いだというものがあるが、勘兵衛には信景がおりこの子孫は公家花山院家の公家侍となって続いているため偽説となる。

 仙台藩伊達氏

  • 伊達家伝来では、次のように初入国の際に世継ぎに贈られている。
    1. 4代綱村から5代吉村へ:宝永元年(1704年)5月27日
    2. 5代吉村から6代宗村へ:延享元年(1744年)
  • 伊達家ではこれに定紋である引両入りの金具を付け、鞘にもおなじ紋を蒔絵にした太刀拵えを付けた。

 明治天皇

  • 明治34年(1901年)11月の仙台行幸のおり、伊達家では本刀を本阿弥成善(琳雅)に研ぎに出した後、仙台藩14代藩主伊達宗基から明治天皇へ献上した。
  • 献上年は、記録により明治9年(1876年)と明治34年(1901年)の2説がある。
  1. 【明治9年(1876年)6月2日】
    ・「皇室・将軍家・大名家刀剣目録」:禁裏伝来御剣目録、奥州仙台伊達家刀剣目録、刀剣と歴史「刀剣年表稿」
    なお6月2日という日付は赤坂仮皇居から奥羽巡幸に出発(発駕)した日付であり、仙台に着いたのは同月25日、翌26日には青葉城(仙台城)本丸にも立ち寄っている。恐らく”仙台巡幸の折に献上された”ということから初回の奥羽巡幸の出発日を記載したものではないかと思われる。仮に明治9年献上であれば、正確には6月25日または26日(あるいはこの前後の)献上ということになると思われる。この明治9年献上説はすでに大正頃にも広がっていたようである。一部で誤解されているようなのではっきり書いておくと、こちらは誤り
  2. 【明治34年(1901年)11月7日】
    ・「御物調書
    ・「明治天皇紀」

    是の日伯爵伊達宗基、太刀一口・和漢朗詠集二巻を獻る、太刀は五條國永の作にして、長さ二尺五寸九分半、鶴丸國永と號す、朗詠集は藤原公任の筆にして、後西天皇の宸翰二葉を添ふ、共に伊達氏累世家寶として傅ふる所のものなり、天皇之れを嘉納したまひ、還幸の後、特に御紋附銀製花瓶一對・蒔繪手箱一合を宗基に賜ふ、

    ・「日本刀大百科事典」:※献上年については出典記載なし
    この明治34年の仙台行幸は、11月6日に東宮御所を出発、日本鉄道(現東北本線)の上野停車場を午後2時に発車、午後5時25分に宇都宮に到着している。ここで1泊した後、翌7日午後4時40分に仙台に到着している。11日に仙台発、宇都宮で1泊した後、12日の午前11時10分に上野停車場に到着し還御。
     デジコレ公開の「明治天皇行幸年表」(昭和8年、大行堂刊)では、すべての行程が11月ではなく7月になってしまっているが、官報の宮廷錄事を追う限りでは、11月で間違いないと思われる。同書巻末でも訂正が入っている。
  • 後に示す御物調書では明治34年(1901年)献上となっている。なお、ちょうど献上の翌日にあたる明治34年(1901年)11月8日には伊達政宗の正三位の追贈が行われている。

    策命使差遣 故權中納言従三位伊達政宗位階追陞ニ附キ昨八日策命使トシテ侍従子爵北條氏恭ヲ瑞鳳寺墓所ヘ差遣サレタリ
    (明治34年11月9日 官報)

    なお献上をおこなった伊達宗基自身も、明治36年(1903年)12月11日に従三位へと叙されている。
     伊達家は、宗基の父・伊達慶邦が奥羽列藩同盟の盟主になったために罰され、62万石であった所領を28万石相当へと減封されており、明治17年(1884年)に旧大名家も叙爵した際には(旧所領相当の)侯爵ではなく伯爵に抑えられた。伊達家ではこれを不満として宗基時代に明治26年(1893年)、明治27年(1894年)、大正4年(1915年)と陞爵の請願運動を繰り返した。しかしこれらは叶わず、宗基は大正6年(1917年)に没。弟で跡を継いだ邦宗も大正8年(1919年)に請願しているがこれも不許可。請願運動はさらに邦宗の子・興宗に受け継がれたが、昭和3年(1928年)に4度請願するも不許可となり、伊達家の悲願は達成されることなく終わっている。



 仙台伊達家に伝わる来歴(竜胆丸)

  • 伊達家に伝わった「伊達家腰物由緒書」によれば次のような伝来であるという。

    鶴丸国永御太刀 元禄十六年八月 金二百枚
     銘有 長二尺五寸九分半
    獅山様(伊達吉村)御入国為御祝儀、宝永元年(1704年)六月二十七日、従肯山様(伊達綱村)太田将監を以被進之、忠山様(伊達宗村)初而御入国の節獅山様為御祝儀被進之
     覚書
    保元之頃村上太郎永守帯之、其後清野三郎入道相伝、其後城太郎持之、弘安合戦の時失ひしを北条貞時禅門祟圓尋出して所持、其後信長公より三牧勘兵衛に賜ふ、其後出家所持云々、鎺に輪膽を鋤す依、利不動と名付く、又鶴丸と号す云々
     右本阿弥家の書物に之有由、本阿弥六郎右エ門覚書あり
    東京国立博物館デジタルライブラリー / 御宝物之部仙台家御腰物之帳《仙台家御腰物元帳;伊達家御宝物御太刀由緒書》 49頁

    伊達宗家:4代伊達綱村[肯山]──5代吉村[獅山]──6代宗村[忠山]
    5代吉村は宝永元年(1704年)5月21日に初入国したとされ、その際に養父である4代綱村が太田将監を通じて「鶴丸国永」を贈り、さらにその後6代宗村が初入国した際に父である5代吉村が贈ったとする。元禄16年(1703年)8月に200枚の極め。その後の覚書については、「刀剣談」での記述通りである。貞享のころに求めたとも言われており、ちょうど4代綱村の治世にあたる。その後は代々初入国の際に先代から世継へと伝えられたことがわかる。
     本阿弥宗家本阿弥光温の長男は、一度廃嫡された後別家(光達系本阿弥)を興している。この光達系の二代目本阿弥光順は「六郎右衛門」を名乗りとして元禄16年(1701年)に死んでいる。これが”覚書”を残している「本阿弥六郎右エ門」のことではないかと思われる。その後森田左衛門という刀屋が「鶴丸国永」という触れ込みで伊達家(4代綱村)に納め、伊達家では金具と拵えを新調し、世継(5代吉村)へと伝えたと考えると時期的にもしっくりと来る。
     なお元禄16年(1703年)に200枚の極めがあるにも関わらず享保名物帳では「代三千貫」となっているが、理由は不明。

  • ※「刀剣談」での記述(上記「伊達家腰物由緒書」の"覚書"以後と同じ)

    京鶴丸国永の太刀は、保元の頃、村上太郎永守これを帯び、其後清野三郎入道に伝わり、其より越後の城太郎に伝わりて之を所持す、弘安の合戦に紛失して行方不明になったのを鎌倉の執権北条貞時訪ね出して所持す、其後伝来詳らかならずして、元亀の頃織田信長の手に入り、公より三牧勘兵衛に賜る、其のち出家某の所持となり転じて伊達家に収まりし云々

  • この保元の頃に所持したという「村上太郎永守」なる人物は、長盛または長時ともいう。初め近国と称したとも。「保元物語」に登場する村上判官基国の甥に、村上仲盛(村上経業の子)がおり、これが長盛(永守)ともされる。
              藤原信西娘
     源仲宗─┬唯清   │
         ├顕清─┬源為国────┬源道清
         ├仲清 │(村上判官代)├村上基国(村上判官代)
         └盛清 │       ├源宗実  ┌村上頼時、頼澄、業賢、経光
             └宗清     ├村上経業─┴村上仲盛…[屋代氏]
                     ├村上信国──村上信実
                     ├源惟国…[清野氏]
                     ├村上世延(安信)[村上嫡流]
                     └源宗信
    
    源為国は白河院呪詛事件に連座し信濃国へ配流された大叔父顕清(村上顕清)の養子となり、崇徳院判官代、村上判官代と呼ばれる。子に源道清、村上基国、源宗実、村上経業、村上信国、源惟国、村上世延(安信)、源宗信らがある。この基国が「保元物語」に登場する村上判官基国であり、法住寺合戦で法皇方につき、義仲軍と戦って討死している。
  • また「清野三郎入道」はその一族という。清野氏は信州埴科郡清野村に住し、村上家の代官を務めた。
    日本刀大百科事典」では、村上氏清野氏ともに村上源氏であり、その紋である竜胆の紋を太刀の鞘または金具または鎺に入れた。このために「利無動(利不動)」と呼ぶという。としているがこれは誤りで、信濃科野評(更級郡村上郷)を領した信濃村上氏は清和源氏頼清流であり、家紋は「丸に上の字」である。村上氏または清野氏が竜胆の文様を入れたとすればそれは家紋ではなく別の理由からということになる。
    • 鞘が螺鈿になっていたために竜胆丸と呼ばれたともいう。
  • この来歴は森田左衛門という刀商の書付、さらに本阿弥六郎左衛門の添え状などにも書かれているという。

 異説

  • ただし、この竜胆丸が鶴丸国永と同物かどうかについて説がある。
  • 古剣書において、まず竜胆丸を載せ、その後に「同(国永)作の太刀」として城太郎が所持したという鶴丸国永を挙げる。これは五条国永作の刀が「竜胆丸」と「鶴丸国永」の二本あるという意味で書かれている。この場合、村上氏・清野氏蔵の「竜胆丸」と「鶴丸国永」とは別の太刀ということになる。
  • また「鍛冶名字考」では、村上氏・清野氏蔵の太刀と、城太郎・北条貞時所持の「竜胆・ミササギ(陵?)・鶴丸」と号した太刀を載せる。この場合も別物と解釈したほうが自然である。詳細は国永項の鍛冶名字考を参照のこと。
    この「龍膽丸(りんどうまる)(竜胆丸)」と「利無動(りんどう)」が同一のものかどうかについても不明である。


 安達一族の最期

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  • 霜月騒動で安達一族は誅殺されたと書かれているが、具体的に誰が殺されたのかはわからない。

    弘安八年十一十七、城陸奥入道一族被誅了泰盛法名覚真、同城介宗景、美濃入道長景、舎弟弥九郎已上輩
    (武家年代記)

  • ただ播磨の地誌「峰相記」(ほうそうき、みねあいき)に次のような記述がある。

    マノアタリ見タリシ事ヲ語リ申ヘク候。弘安八年十一月十七日、城入道景盛法師、誅罰セラレ候シ時、彼息親不考太郎入道修道房山ノ里ニ住スル間。守護并地頭御家人押寄スル處ニ、兼テ心得タル間、館ニ火懸テ落畢ヌ、美作ノ國八塔寺ノ山ニ迯ケ懸テ籠ルヲ、渋谷一族搦取テ六波羅ヘ進ス。関東ノ計ヒニテ八歳ノ子息相共ニ一ツ籠ニ入レテ尼ヶ崎ノ沖ヘ沈ラレ畢ヌ

  • 霜月騒動の際、安達景盛(泰盛の祖父)息子の安達義景が修道房山ノ里に住んでいたが、館に火をかけて落ち延びた。美作の八塔寺に逃げるところを、渋谷一族が捕らえて六波羅探題に連行した。鎌倉の判断により、8歳の息子とともに1つのカゴにいれて尼ヶ崎の沖に沈めたという。
    • 景盛(城入道)──義景(太郎入道)──泰盛(陸奥入道覚真)──宗景(秋田城介)──貞泰
  • 安達景盛〔宝治2年(1248年)没〕も安達義景〔建長5年(1253年)没〕も霜月騒動の頃には故人であり、恐らく泰盛とその子宗景のことだろうと思われるが、その宗景が8歳の息子と共に(八歳ノ子息相共ニ)沈められたということになる。宗景の享年27から考えると、8歳の息子だとすれば19歳か20歳頃に生まれた子供ということになる。
  • 「峰相記」の記事の信頼度などには疑問が付くものの、安達一族の孫世代の幼い人物も誅殺されたという参考にはなるのではないかと思われる。
    もっとも、父安達宗景の享年から考えると、いくら早くに産んだ子供だとしても子の貞泰は騒動当時に10歳前後だと思われる。本刀「鶴丸国永」が安達一族に伝わったとしてさらに安達貞泰に相続していたとしても、それは元服時などに形式的に贈られたものではないかと思われる。
     なお安達宗景は、18歳時の建治3年(1277年)に検非違使に任官され、弘安4年(1281年)に引付衆、弘安5年(1282年)には評定衆となり、同年10月16日に秋田城介、そして騒動の前年の弘安7年(1284年)には、泰盛が出家したのに伴い家督を継承したと見られている。

    安達一族であっても、泰盛の異母弟の顕盛の子孫の系統は生き残っている(顕盛の妻が北条政村の娘で、宗顕は政村の外孫)。永仁元年(1293年)の平禅門の乱で平頼綱が滅ぼされた後に安達一族の復帰が認められると、のち孫の安達時顕が遅くとも徳治3年(1308年)までに秋田城介を継承する。さらに時顕の子である安達高景も秋田城介を名乗っており、これが安達氏最後の秋田城介となる。高景は元弘3年(1333年)の東勝寺合戦で自害したとされる。
    安達泰盛──安達宗景
    │            北条貞時  ┌北条泰家  ┌北条時行
    │              ├───┴北条高時──┴北条邦時
    ├安達景村──大室泰宗──覚海円成    │
    └安達顕盛              ┌─娘
       ├───安達宗顕        ├安達顕高
     北条政村娘   ├───安達時顕──┴安達高景
           山河重光娘   │
                 金沢政顕娘
    

 前田家書による伝来

  • 前田家に伝わった書によれば次のようになっている。

    北條家伝來鶴麿の太刀
    五月十日、往昔北條家傳來鶴麿と號し候太刀入御覧候。此太刀は京師の良冶國永作也。二尺四寸九分半二字銘也。初め餘吾将軍維茂(平維茂)帯之、其支流城家爲重代。其後北條貞時得之。至後代織田信長公得之。信長公三牧勘兵衛が忠孝を賞して賜之。三牧氏無嗣子、有女松田氏へ嫁す、其子僧と成て號素懐傳來之。然共鶴麿なる事を不知。貞享元年本阿彌三郎兵衛益忠看之、初て鶴麿なる事を知る、則證文を出す。代三千貫に極む。明智日向守光秀答三牧勘兵衛書簡一通添之。則國永の太刀勘兵衛拝領の事、謝辭の報書なり。當代儒者人見友見(※友元)其由來を記す。鞘は薪繪あり、鱗形と瓜との紋なり。金物は皆赤銅也。
    (可観小説 巻三十六)

    なお御牧勘兵衛に男子なく、娘が松田氏に嫁ぎ、その子が僧侶となり素懐と名乗ったという。その勘兵衛の孫まで鶴丸が伝わり、「本阿彌三郎兵衛益忠」に見せると人目で鶴丸だと見抜き、証文を出したという。

  • 前田家書の該当項には年数の記載がないが、前後の記事から恐らく貞享2年(1685年)のことであると思われる。これは「大日本刀剣史」の「名物鶴丸国永一名不動」の内容とも矛盾しない。しかし同書では”蝶夢散人”に依頼して由来を書かせているが、可観小説では”儒者人見友見”(友元)となっている。人見友元=蝶夢散人ではないかとも思われるが、詳細は不明。なお「御覧」になったのは4代藩主前田綱紀であると思われる。
    人見友元(人見竹洞(ちくどう))とは江戸時代前期の儒学者で漢詩人。本姓小野氏で、寛永14年(1637年)山城の医者・人見玄徳賢知の三男として京都に生まれる。儒学者人見卜幽軒(ぼくゆうけん)(水戸頼房の侍講)の甥にあたる。
     人見友元は、寛永14年(1637年)の生まれ。名は節、字は宜卿、通称又七郎。幼年から江戸に出て林羅山に学び、正保2年(1645年)世子家綱の御伽役として三の丸御殿に上り、同年将軍家光に拝謁。初め医をもって仕えたが、寛文元年(1661年)家綱の命により幕儒に任ぜられる。羅山の編纂した「本朝通鑑」の延喜以降(続本朝通鑑)の編纂に林春斎、林鵞峰らとともに参画し、のち法眼に叙せられる。木下順庵とともに当代きっての学者であった。友元は能書家でもあったため重んぜられたという。家綱の棺の銘を揮毫したのは人見友元だったという。号竹洞、鶴山。元禄9年(1696年)1月14日没。妻ははじめ建部丹波守政長の女・種。夫に先立って死んだため、玉井氏の沢を娶り、長男・行充が生まれた。沢も延宝2年(1674年)に死んだため、小幡氏の作を娶った。次男・楷(玄徳行高)、三男・勲ただし勛にレッカ(保氏)、四男・坦(道乙)、五男・鏗(友徳)、二女夭折。
    人見友徳──┬安次
          ├壹(卜幽軒)
          ├勘
          ├玄徳賢知─┬長太郎
          └慶安   ├人見友元─┬行充
                ├必大   ├楷(玄徳行高)
                └陸    ├勛(保氏)
                      ├坦(道乙)
                      └鏗(友徳)
    
  • これを整理すると、まず貞享元年(1684年)に代三千貫に極められ、その後元禄16年(1703年)に金二百枚に極められたということになる。
  • 発見から伊達家お買い上げまでの時系列。
  1. 貞享元年(1684年):「盛夏六月下旬」に代三千貫極め、由来書
  2. 貞享2年(1685年):5月10日に前田綱紀拝見
  3. 元禄16年(1703年):8月に金二百枚極め
  • 明智光秀が三牧勘兵衛に宛てた書簡が附いており(「明智日向守光秀答三牧勘兵衛書簡一通添之。則國永の太刀勘兵衛拝領の事、謝辭の報書なり。」)、それがために本阿彌でも鶴丸国永であるとしたとするが、肝心の光秀の書簡については記載されておらず、現在は失われているものと思われる。
    明智の書簡も勘兵衛が信長から拝領したことを示すのみであり、信長が「鶴丸国永」をどこから手に入れたのかはわからない。その明智書簡もわからない現在となっては、結局貞享に本阿彌が極めた以前の来歴については不透明なままである。ただしこの可観小説の記述により、伊達家に入る前の状況が少し明らかになる。

 元禄以前の来歴について

「史実」が気になる方への断り書き
  • いちいち絡む人がいて面倒くさいので書いておきますが、正直なところ、「伊達家腰物由緒書」に記載される「保元之頃村上太郎永守帯之」からが信憑性の有無が論じられる程度であり、確実な来歴は、元禄期に本阿弥折紙が付いて以降のみということになるかと思われます。
    これ以降も(明治以前については)第三者文献などで検証できるようなものが少なく、疑いがまったくないというわけではないが、日本刀の世界でここすら疑い始めるとキリがない。
  • 確実な来歴を簡単に述べると、貞享に伏見で見つけ出された「国永」銘の太刀が、「鶴丸」という触れ込みで元禄ごろまでに伊達家に入り、明治になって献上されたという事になります。気になる方向けに確実と思われる来歴をまとめると次のようになります。これらは文書も残っていますし、第三者の文献にも載っていることなので、史実厨の方も安心して使うことができるかと思います。これより前はばっさりと切り捨てて忘れてしまいましょう。
  1. 貞享元年(1684年):本阿彌が国永作の太刀を掘り出し「盛夏六月下旬」に代三千貫極め、由来書
  2. 貞享2年(1685年):5月10日に前田綱紀拝見
  3. 元禄年間:この頃までに伊達家にてお買い上げ
  4. 元禄16年(1703年):8月に金二百枚極め
  5. 宝永元年(1704年):5月27日4代藩主伊達綱村から5代伊達吉村へ譲渡
  6. 延享元年(1744年):5代藩主伊達吉村から6代伊達宗村へ譲渡
  7. 明治34年(1901年):11月、伊達家より明治天皇に献上。現在も御物(宮内庁管理)。
  • 要するに、神社?→伊達家→天皇家という実にシンプルな来歴です。元禄より前の来歴については、それが記される古剣書の信憑性が不十分である以上、史実重視の立場からすればどこまでいっても詳細不明となります。 信長や御牧氏などの伝承も伝説の域を超えませんし、余五将軍や秋田城介、安達氏北条氏などについては、現在確認できる資料を見る限りにおいては正直言って眉唾レベルの話です。そういうものにロマンを感じたり感じなかったり、信じたり信じなかったりはあなた次第です。
  • とはいえ、詳註刀剣名物帳で「もとは余五将軍維茂の太刀秋田城介へ伝り」と記述されている以上、無視するわけにはいかないので記載しておこうというのが当サイトのスタンスです。高瀬羽皐自身が初版と増補版で記述を変えているくらい伝承に揺れがあるのは事実です。
    当サイトのスタンスについては、「このサイトについて>記載内容について」に記述しているとおりです。ご確認ください。

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