鬼切安綱
Table of Contents |
|
鬼切安綱(おにきりやすつな)
- 伯耆国大原安綱の作。
作刀
- 多田源氏の棟梁である源満仲が刀鍛冶に打たせた双剣のひと振り。
由来
- 頼光四天王のひとり、渡辺綱の手によって一条戻橋の鬼の腕を落としたことから、「鬼切」の名で呼ばれることになったという。
- それによれば、渡辺綱が一条戻橋の上で一人の美女に出会い、夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれる。綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せた。
- すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行こうとしたため、綱は鬼の腕を太刀で切り落として逃げることができた。実は、女は茨城童子であり、酒呑童子の配下の鬼が化けた姿であったという。
- その切り落とした腕を摂津国渡辺の屋敷に置いていたが、綱の義母に化けた鬼が言葉巧みに腕を取り返して空へと消えたとされる。
- このときに使ったのは「髭切りの太刀」であったともいう。
来歴
- 元は坂上田村麻呂が伊勢神宮に奉納したものを源頼光が貰い受け、さらに渡辺綱に与えた。
- 頼光から八幡太郎義家、のち新羅三郎義光を経て、何らかの由来で新田家に伝わった。
- 南北朝騒乱の折、新田義貞がこの鬼切安綱を鬼丸国綱とともに佩いて奮戦したという。
最上家鬼切丸
- 新田義貞のあとが不明だが、出羽の豪族最上家にも鬼切丸が伝来しており、江戸期には五千石の旗本となっていた。
- 明治2年(1869年)に新政府に提出した調書によると、多田満仲から頼光に、さらに頼国に伝来したものを源義家が蝦夷征伐に赴く際に借り、そのまま義家の子孫に伝わった。一時箱根権現に奉納されていたが、それを頼朝が貰い受け、のち最上家に伝来したとする。
- 享保17年(1732年)11月21日、吉宗の命により最上義章が台覧に供している。
- 以後、当主が旅に出るときには駕籠の前に「鬼切太刀」と書いた立て札をたて、刀櫃に入れて担いでいったという。ただし中身は万一のことを考え模造した代剣であったという。本物は知行地である滋賀県八日市市大森の八幡宮に預けていたという。
- 明治2年(1869年)12月には明治天皇の叡覧も賜った(最上家によれば翌3年だという)。この頃、最上家の重臣・鳥越準左衛門というものが由来を調べ同年12月20日に提出した書類があり、それを摘写したものがある。
此太刀は就中源家累代の重器であるが鬼切丸と云ふ稱號は時代によりて同しからず或は友切抔とも稱したことがあり後復鬼切丸と唱へて今日に及んだものである、而して傳來は元祖満仲より頼光に傳はり八幡太郎義家が康平六年東夷征伐を命ぜられたる際名劍の威徳に非ざれば輙ゆく朝敵を討平ぐることは出来ないと云ふので頼光の正嫡頼國方より傳來の鬼切丸を強て借受けたもので其より義家正嫡の方へ傳はり一時箱根權現の神寶となり又源頼朝に傳はり其後再び現化に傳はり以來最上家に傳來したものである
一身長 二尺八寸
一ソリ 二寸二分八厘
一心 八寸一分 八寸
一銘 國綱と二字 但傳來は安綱と申居候
- 翌年に上覧という。
明治三年正月八日御召に依て最上の重臣鳥越準左衛門が非藏人口に出頭したる所大主典人見某の取次にて鬼切丸の太刀御覧に入れる様にとのことであつたから同十七日江州より取寄せて持参したが、其の際又人見の取次で
結構の品にて實に天下の重寶に候間猶此以上大切に守護可致旨被仰渡候
と云ふことであつた
- その時本阿弥光品は、銘「国綱」と読めるが伝来通り安綱であると鑑定している。
其際官に於ても夫々御評論も有つて本阿彌伊勢大丞も召し出され佩剣せしめたるに是は安綱の作であります國綱の作で鬼丸と申す刀を御預りしたことがありますが中々天地の違であります安綱に相違ありませんと言つたと云ふことである
- その後、最上家を出て転々としている。
維新後最上義連が京都に轉任し家政上の都合にて鬼切丸も各所に轉傳せられしが
- 明治13年(1880年)10月滋賀県令の籠手田安定の首唱で寄付を募って購入し、京都北野天満宮に奉納した。
明治十三年に至り當時滋賀縣權令籠手田安定氏が此の事を聞知し率先して廳内史員其他有志の寄附を募りて此の太刀を購入して京都なる官幣社北野神社に寄附したのである。自分が滋賀縣知事在職中最上義光の贈位を申請する際此の事を知り幸ひ鳥越準左衛門の子同親順君が縣廳の嘱託たりしを以て同君に命じて北野神社に就て取調べたる所同社の寶物臺帳に左の如く記載されて居た。
一太刀 (中心摺本別紙出)壹口
銘 國綱
長 二尺八寸二分
直鋼
白木鞘 鎺金着
紺地金襴袋添
桐箱 替蓋付
外箱 白木唐櫃大和錦覆
明治十三年京都府下住原静夫夫三十七人より寄附
明治四十三年三月十六日寶物に登録籠手田安定は平戸藩家臣の出身。山岡鉄舟の高弟となり、一刀流正統の証の朱引太刀を授けられている。明治8年(1875年)4月27日に滋賀県権令、明治11年(1878年)5月15日に滋賀県令。明治17年(1884年)7月9日まで務め、元老院議官に転任、のち島根県知事、新潟県知事を歴任。さらに明治29年(1896年)2月4日~明治30年(1897年)4月7日の間も滋賀県知事となっている。奉納は一度目の滋賀県令時代となる。明治32年(1899年)3月30日死去、満58歳。死後男爵の爵位を贈られている。
小泉八雲ことラフカディオ・ハーンを島根県尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校)と島根県尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師に任じたのが当時県知事であった籠手田である。小泉八雲の「英語教師の日記から」にはハーンの目に映った籠手田の姿が、また「知られぬ日本の面影」には籠手田の娘が登場する。「實際、私の力では買ふことは出来なかつたらう。日本の最良なる淑女の一人なる、出雲の知事の令嬢(原注:縣知事籠手田安定氏令嬢を指す)が、外人教師が一寸した病氣の間、淋しく感ずるだらうと思つて、この珍奇な小鳥を見舞品として贈つてくれたのだ。」
- 日本国宝全集にこの北野天満宮への奉納の経緯が書かれている。
この名工の手に成つた此太刀は古来源頼光所用の鬼切丸といふ傳説を有し出羽の最上家累代相傳の寶刀となつてゐたが明治の初年に至つて同家の手を離るることとなり、同十三年十月に及びて京都大阪及滋賀の二府一縣の有志の肝煎によつて本社(北野天満宮)に奉納せらるることとなつたのである。
(日本国宝全集 第29輯)
この間の経緯には異説があり、それによれば明治元年(1868年)に質流れとなり、明治13年(1880年)に籠手田らにより買い戻されて最上家に戻したが、同家では北野天満宮に奉納したとする。しかしこれでは明治2年(1869年)12月に明治天皇の叡覧を賜ったという話と齟齬がおきてしまうため、恐らくその後の転々としていた頃の逸話が混じったものではないかと思われる。少なくとも質流れは明治2年(1869年)末以降でなければならない。
江戸時代最後の当主最上義連は陸奥棚倉藩2代藩主で老中の井上正春の子で、安政4年(1857年)に最上義偆の養子となり最上家を継いだ。戊辰戦争では官軍に資金や糧食を提供して本領安堵を受けている。明治3年(1870年)の版籍奉還後に京都府貫属士族となって近江大森陣屋を離れて京都に移り住み、同年12月には御陵衛士を仰せつかっている。明治5年(1872年)8月に依願免職、11月には隠居して子の源五郎義和が家督を相続している。恐らくこの頃に同家を出たのではないかと思われる。
- なお現在北野天満宮に残る太刀箱は二重になっており、内箱の表側には「鬼切丸
銘安綱 従五位籠手田安定謹書之」と記されている。さらに外箱の内側には「太刀銘国綱 」に続いて「二府一縣の有志」と見られる40名弱の氏名が列記されている。つまり、内箱と外箱で銘が異なる。※ただし籠手田の名が入る内箱には「粟田口左近将監国綱作長貳尺八寸貳分」とも書かれている。
これを見ると、まず籠手田が買い戻した際に内箱を作成し、その後「二府一縣の有志」が奉納した際に外箱を作成したのではないかとも思われるがよくわからない。なお籠手田が従五位となった年月が不明だが、早くとも滋賀県権令になった明治8年(1875年)4月27日、恐らくは滋賀県令となった明治11年(1878年)5月15日以後ではないかと思われる。
- 長く国宝などには指定されていなかったが、堀田赤城なる人物が大正13年(1924年)に北野神社宮司である山田新一郎氏に面会した際にその旨を伝えた上で明治二年の鬼切丸傳來を送った所、一木宮内大臣が京都に来た際に申し出、これにより松平賴平子爵による調査を経て、昭和2年(1927年)2月に認められたという。なおこの指定の際に、鎺を金無垢に取り替えたと書かれている。「鬼切丸國寳の由來 / 堀田赤城」刀剣と歴史205号
- 昭和2年(1927年)4月25日に重要文化財(旧国宝)指定。
丙種 刀劔
太刀(鬼切)銘安綱
附 太刀箱 一箇
京都府京都市上京區北野馬喰町北野神社
(昭和2年文部省告示第二一七號)
諸伝説との混同
鬼丸国綱との混同
- 北野天満宮所蔵のこの鬼切安綱は、大原安綱の作だが現在は銘が改変されており、「國綱」と切り直されている。鬼切"丸"国綱。
- 北野天満宮によれば、「鬼切と号する太刀で、当初「安綱」と刻銘してあったが、後代に安の字に字画を加えて「國綱」にしたと伝えられる。源氏の重宝として最上家に伝来し、のち有志者より当宮へ奉納された。」という。
- 「童子切」「鬼切」「鬼丸」はすべて差異はあれ「鬼を切った」ために名付けられている。さらに平家物語剣巻では、髭切は渡辺綱の伝説以後、「鬼丸」と呼ばれたとする。
- このため髭切こと鬼切は、国綱作の鬼丸国綱と混同される場合がある。
号 | 作者 | 所持者 | 補足 |
童子切安綱 | 安綱 | 天下五剣 / 国宝 / 東京国立博物館 | |
鬼切安綱 | 安綱 | 新田義貞 | 重文 / 北野天満宮所蔵(國綱改銘) 「髭切」 |
鬼丸国綱 | 国綱 | 新田義貞 | 天下五剣 / 御物 / 山里御文庫 |
膝丸 | ■忠 | 源義経 | 膝丸→蜘蛛切→吠丸→薄緑(長円作) 「髭切」と対で作らせたという |
髭切との関係
- 平家物語剣巻によれば、「髭切」と「膝丸」は源満仲が作らせたとされる伝説の刀であるとする。二振りの片方「髭切」は、渡辺綱が一条戻橋で鬼を斬ったという逸話により「鬼丸(正しくは鬼切)」と呼ばれることになる。
- しかし「髭切」の作者が刀剣書でバラバラなことでわかるように、古来より伝承した源氏伝説の名剣「髭切」と、安綱作の銘が残る現存刀「鬼切安綱」とは別物ということになる。ましてや鎌倉時代の国綱が鍛えたという「鬼丸」では時代がまったく合わない。
- 同様に膝丸についても、大覚寺に現存するものは「■忠」と銘が入る。仮に伝来が正しいとすれば、髭切とともに作られたという伝説はこれにより否定される。逆に伝来がおかしいとすれば現存刀との繋がりはないということになる。
別の鬼切り
島津家
- 薩摩島津侯爵家に伝来
肥後阿蘇北里家
脇差
銘 安綱
北里幸夫氏蔵
- 目釘孔3個
- 肥後阿蘇郡小国郷の豪族、北里家にも鬼切丸が伝来していた。
- 北里氏は、源頼光の弟である左兵衛尉源頼親の子、次郎左衛門尉信義に始まるとし、頼光には実子がなかったために甥にあたる信義に「鬼切」を与えたという。
- この鬼切を守るため、北里家では代々の長女はそのお守りをするため家に残り、次の代の長女(つまり姪)が産まれるまで嫁に行けない掟があったという。
- 現在は鎺上三寸ほどのところから折られ、先は一尺八寸七分の脇差になっている。
- 折った理由は、秀吉が島津討伐の際に三成を使者にして献上するよう求めてきたために、北里三河入道は頼光より伝来の宝刀を草履取り上がりの秀吉ごときに渡せぬと叩き折ったとも、また朝鮮出陣か島原の乱の際に脇差にするために磨上たとも伝わる。
- ただし、史実では源頼光には源頼国や源頼家を始めとして実子が多数おり、なぜあえて頼親の子に「鬼切」を渡したのか?という疑問が残る。
- 北里氏はその後、北里惟経が肥後北半国19万5,000石で入国した加藤清正に250石で召し出され、寛永10年(1633年)に小国郷の惣庄屋に任命された。加藤氏改易後は移封してきた細川氏に臣従し、加藤氏時代から11代にわたって北里伝兵衛を称し惣庄屋を世襲した。
- 細菌学者の北里柴三郎はこの惣庄屋家の支流に当たる。北里氏一族の棟梁である惣庄屋家の気位は高く、柴三郎が男爵に列せられて帰郷した際、「あんたも私達ぐらいになったつな?(あなたも私達に匹敵する位、お金持ちになって地位も上がったのか?)」と、惣庄屋家筋の者から嫉妬と羨望を込めて尋ねられたという逸話が残っている。
実盛作
大原実盛作
- 伯耆の鉄山に伝わった伝説では、大原実盛が日野郡俣野の鉄で造ったという。実盛は真守のこと。
大和行平作
大和行平作
- 渡辺綱が一条戻り橋または村雲の橋で鬼を切ったという刀。
河内有国作
河内有国作
- 渡辺綱が鬼を切ったとする。
多田神社蔵「鬼切丸」
相州正宗作
- 大内義長が自害の時に、杉民部大輔が大内家重代のこの太刀で介錯したという。
槍「鬼切丸」
槍
服部半蔵所用
西念寺所蔵(新宿歴史博物館保管)
- 鬼半蔵と恐れられた服部正成の槍。
- 三方ヶ原の戦いの戦功により、徳川家康より半蔵に与えられたと伝わる。
- 東京四谷の西念寺に伝来。
- 子孫の服部勘助が、万延元年(1860年)に描いた図によれば、半蔵が姉川合戦に用いたもので、明暦3年(1657年)の丸山火事の際に先一尺四寸一分ほど折れたため、三尺二寸八分になってしまったという。
- 昭和63年3月4日新宿区の有形文化財に指定
- 西念寺所蔵、新宿歴史博物館保管。通常は非公開
その他
関連する項目
Amazonファミリー無料体験