膝丸


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 膝切(ひざきり)


銘 ■忠(一字判別できず)
2尺7寸
膝切、膝丸
重要文化財
京都大覚寺所蔵

  • 作者については、筑前正応、筑後光世、奥州文寿、宝寿など異説が多い。
  • 筑前国三笠郡土山の鉄の細工師(異国鍛冶)ともいう。

    筑前国三笠郡土山といふ処にこそ異朝より鉄の細工渡つて数年侯ふなれ。彼を召さるべく侯ふやらん

  • 異名が多く、名前が次々と変わった事で知られる。
    1. 源満仲・源義家「膝丸(膝切)」
    2. 源頼光「蜘蛛切丸」
    3. 源為義「吼丸」
    4. 熊野別当→源義経「薄緑
    5. 箱根権現→曽我兄弟→源頼朝

しかしこれらは「平家物語」剣巻などによって世に広まった伝承である。現在確認できる事実としては、膝丸と呼ばれた刀が大覚寺に所蔵されるが、それには「□忠」という銘しか確認できないということである。仮に「□忠」銘が源満仲の時代からあったとすれば作者のブレは出てこない。つまり、源氏伝説の名剣「膝丸」と現存する大覚寺所蔵刀とは別物ということになる。

 由来

  • もとは多田源氏の祖、源満仲が作らせたという。刃長2尺7寸。
  • 以後、源氏重代の刀として相伝する。
    【清和源氏】
    清和天皇──貞純親王──経基王──満仲─┬頼光────┬頼国───頼綱──仲政──頼政
                (源経基)   │(摂津源氏)└頼家、頼基、頼平、頼範、相模
                        │
                        ├頼平(柏原氏、檜坂氏、匂当氏)
                        │
                        ├源賢法眼
                        │
                        ├頼親────頼成、頼房、頼遠、頼基
                        │(大和源氏)
                        │
                        └頼信────頼義─義家─義親=為義─義朝─頼朝─頼家
                         (河内源氏)頼清、頼季、頼任、義政

 来歴

  • 源氏の名剣「鬚切」「膝丸」は源満仲が作らせた二振りの刀とされる。

    源家に二つの剣有り。「膝丸」「鬚切」と申しけり。人皇五十六代の帝、清和天皇第六の皇子、貞純の親王と申し奉る。その御子経基六孫王、その嫡子多田の満仲、上野介たりし時、源の姓を賜はつて、「天下の守護たるべき」よし、勅諚有りければ、まづよき剣をぞもとめられける。

    筑前の国御笠の郡出山といふ所より鍛冶の上手を召されけり。彼もとより名作なる上、宇佐の宮に参籠し、向後、剣の威徳をぞ祈りける。南無八幡大菩薩、悲願あに詮なからんや。他の人よりもわが人なれば、氏子をまぼり給ふらめ、しからばかの太刀を剣となし、源氏の姓の弓矢の冥加長くまぼり給へ」と深く丹心をぬきんで、御社を出でにけり。

    やがて都へのぼり、最上の鉄を六十日鍛ひ、剣二つ作りけり。いづれも二尺七寸なり。人を切るにおよんで、鬚一毛も残らず切れければ、「鬚切」と名づけらる。今一つは、もろ膝を薙ぎすましたりとて、「膝丸」と申すなり。
    平家物語 剣巻)

 膝切

  • 罪人で試し切りをした際、一度に両膝を切り離したために「膝切」と号したという。
  • 一説に、罪人で試し切りをしたのは満仲ではなく源義家であるとする。
    しかしこれでは、源義家「膝切」から源頼光「蜘蛛切」へと時代が逆転している。別の逸話が混同したと思われる。源頼光は治安元年(1021年)没、源義家は長暦3年(1039年)生まれ

 蜘蛛切り

  • また源頼光が瘧(おこり、三日熱)を患って床についていたところ、身の丈7尺(約2.1メートル)の怪僧が現れ、縄を放って頼光を絡めとろうとした。頼光が病床にもかかわらず名刀・膝丸で斬りつけると、僧は逃げ去ったという。
  • 翌日頼光が四天王を率いて僧の血痕を追うと、北野神社裏手の塚に辿り着き、そこには全長4尺(約1.2メートル)の巨大グモがいた。
  • 頼光たちはこれを捕え、鉄串に刺して川原に晒した。頼光の病気はその後すぐに回復し、土蜘蛛を討った膝丸は以来「蜘蛛切り」と呼ばれた。

 為義「吼丸」

  • その後為義の代に、二つの剣が終夜吼え、「蜘蛛切丸」(膝切)は蛇の泣くに似ていたため、「吼丸」と号したという。

 熊野別当

  • 鳥居禅尼が熊野別当家と婚儀を行った際に、源為義から熊野別当行範へ引き出物として与えられ、熊野権現へ奉納したという。鳥居禅尼の娘は熊野別当湛増の妻となり刀を伝えた。

 義経「薄緑

  • 熊野別当田辺湛増は源義経の出立に際し吼丸を送ったといわれ、源義経は、「熊野より春の山分けて出でたり。夏山は緑も深く、春ほ薄かるらん。されば春の山を分け出でたれば(平家物語 剣巻)」、「薄緑(うすみどり、うすべり)」と名附けたという。
  • 源義経は、源氏の宝刀の片振りを自分が所持することに恐れを抱き、西国に出陣する際、箱根権現に戦勝祈願のため参拝をし奉納したという。
    奉納は西征の際ではなく、寿永4年(1185年)5月の腰越状の際に、兄頼朝との和睦を祈願してのものだとも言う。

 曽我兄弟

  • その後、曽我兄弟の仇討ちで弟の五郎時政に使われ、囲まれた曾我兄弟が10数人を切り伏せたというが、結局は源頼朝の元に集まることになる。
    • 曽我物語では、北条時政に贈られたのは「友切(髭切)」であるという。

 その後

  1. その後の来歴は不明だが、現在京都大覚寺で所蔵する刀が「膝切」であるとされる。
  2. また、島津家の祖忠久が、文治2年(1186年)薩摩大隅日向の地頭職に任じられ薩摩に下る際に、源頼朝より「小十文字太刀」を与えられる。これが「膝切」であるとする。
  3. 江戸期の紅葉山宝蔵にも「膝丸」「髭切」「友切丸」「薄緑」などという源氏ゆかりの太刀が納められていた。またこれらは来膝丸、来髭切、来友切丸などと来の字を冠しており黄金造りであったという。


 多田神社「鬼切丸」

  • 多田神社(兵庫県川西市多田、多田院)にも「源家宝刀 鬼切丸」と称する太刀が収められている。


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