徳川忠長
徳川忠長(とくがわ ただなが)
江戸時代前期の大名
通称 駿河大納言
秀忠の次男、家康の孫、母は崇源院小督(お江)
- 3代将軍家光の実弟。保科正之は異母兄。
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生涯
- 慶長11年(1606年)6月1日、秀忠の三男として江戸城西の丸にて誕生。
- 幼名は国千代。
九条完子(豊臣完子)は異父姉、千姫・珠姫・勝姫・初姫は実姉、徳川家光は実兄、保科正之は異母弟、東福門院(和子)は実妹にあたる。
- 実兄の家光は、幼少期に病弱で吃音があったために容姿端麗・才気煥発な国千代(国松)は両親より寵愛されたという逸話が有名である。この寵愛は後継争いへと発展するも、家光の乳母であった春日局の直訴により、家康が後継を指名することになり決着したという。
甲府藩主
- 元和4年(1618年)、甲斐甲府23万8000石を拝領し、甲府藩主となる。
九月十三日
新知二十萬石 甲斐國 松平國丸忠長卿御事この藩主就任に際して、朝倉宣正(附家老)や郡内地方を治めていた鳥居成次ら附家老を中心とした家臣団が編成され(『武徳編年集成』)、後に武田遺臣や大久保長安配下の代官衆らがこれに加えられた。※元和2年(1616年)とも - 元服前かつ幼少の国千代が実際に入府することはなく、藩の運営はこれら家臣団や代官衆により行われた。
- 元和6年(1620年)1月23日江戸に屋敷地を拝領する。
駿河大納言忠長卿別館は、代官町御門の外御堀前也。その時の石垣元文の頃まて少計其舊述の廣小路の角に在りし。
寛永板江戸繪圖今の代官町植溜鉄炮場の邊に、駿河大納言様と載りし。正保中大久保酉山二年乙酉なるべしといふ江戸繪圖にハ、御藏と記せり。是ハ寛永七年忠長卿甲斐國へ蟄居し給ひしかば、後御藏地と成しなるへし。
徳川忠長館址徳川綱重及天樹院館址
麹町區代官町竹橋内ニアリ。徳川忠長此ニ居ル。寛永八年辛未忠長甲斐ニ幽セラレ、後倉庫地トナス。正保圖 慶安二年己丑其地ヲ徳川綱重ニ賜ヒ、同年十一月九日之ニ移シ、寛文元年辛丑櫻田門外ニ移ル。天樹院千姫ノ館ハ其北隣ニアリ。又明暦ノ災ニ罹リ之ヲ再營ス。後皆再ヒ倉庫地トナリ、明治ノ初近衛兵營ニ屬ス。駿河大納言殿藏屋鋪址
寛永板江戸繪圖、今の箱崎田安殿御屋鋪を駿河大納言様御藏屋鋪と記たり- 国立歴史民俗博物館所蔵の江戸図屏風(林家本)には「駿河大納言」の名前で載る。※左隻第一扇上。
江戸図屏風左隻 〔高精細画像版〕
元和8年(1622年)3月18日移徙。現在の皇居外苑北の丸公園の代官町料金所の南側一帯。なお天樹院館は、現在の科学技術館の南西あたり。
- 国立歴史民俗博物館所蔵の江戸図屏風(林家本)には「駿河大納言」の名前で載る。※左隻第一扇上。
- 元和6年(1620年)8月22日従四位下参議左近衛中将。
従四位下右近衛権少将徳川頼房を正四位下に叙し、参議に任じ、左近衛権中将を兼ねしむ、明日、甲斐府中城主徳川国松「忠長」を従四位下に叙し、参議に任じ、右近衛権中将を兼ねしむ、
- 元和6年(1620年)9月6日元服、従四位下参議兼右近衛権中将。金地院崇伝の選定により諱を忠長とした。
秀忠、世子竹千代、次子国松に元服を加へ、竹千代を家光、国松を忠長と名く、是日、勅使伝奏広橋兼勝、三条西実条、江戸城に臨み、家光に正三位権大納言忠長に従四位下参議兼右近衛権中将の位記宣旨を授く、
- 元和8年(1622年)1月10日に江戸城本丸を拡張することになり、本丸東北梅林坂辺りの二ノ丸にあった屋敷が取り壊されたため、北ノ丸にある榊原忠次の屋敷に移り、その後3月18日に完成した同じく北ノ丸の新築した屋敷に移った。
江戶城北丸修築ニ依リ、甲斐甲府城主德川忠長、假ニ上野館林城主榊原忠次ノ江戶ノ亭ニ移ル、
甲斐甲府城主徳川忠長の江戸城内北丸の新亭竣る、是日、忠長、之に移る、
- 元和8年(1622年)3月3日忠長は、父・秀忠、兄・家光に扈従し、水戸頼房邸に臨む
- 同年8月、仙石忠政移封後の信濃国佐久郡6万石と小県郡の一部(合わせて6万12石余)を与えられる。小諸城城代は屋代秀正と三枝昌吉が務めた。
常陸松岡城主戸沢政盛を出羽新庄に移し六万石を、信濃上田城主真田信之を同国松代に、信濃小諸城主仙石忠政を同国上田に移し、加封す、戸沢政盛の旧領松岡三万石を常陸水戸城主徳川頼房に、仙石忠政の旧城小諸を甲斐甲府城主徳川忠長に与ふ、是日、忠政、山形に着す、
ただし寛永元年(1624年)に松平忠憲が転封したため、一時的に佐久郡の忠長領は2万6540石のみとなった。
- 元和9年(1623年)7月、家光の将軍宣下に際し、従三位権中納言に任官。
従四位下徳川忠長を従三位に叙し、権中納言に任ず、
- 同年11月7日に織田信良の娘・昌子(松孝院)と婚姻。
父の織田信良は織田信雄の四男。生母は木造具政の娘。数え10歳で忠長に嫁いだ。忠長が自害した後は、竹橋御殿(天樹院屋敷)にて、忠長の乳母、朝倉清(昌清尼)とともに落飾。落飾後は北の丸殿と号した。元禄3年(1690年)没。
駿河大納言
- 寛永元年(1624年)7月に駿河国と遠江国の一部(掛川藩領)を加増され、駿遠甲の計55万石を知行した。
秀忠、次子甲斐甲府城主徳川忠長に駿遠の地を加へて五十五万石と為し、駿府に治せしめ、其老臣鳥居成次を遠江浜松城に、朝倉宣正を同国掛川城に置く、是日、出羽米沢城主上杉定勝、忠長に之を賀す、
- 寛永2年(1625年)2月大御所秀忠、御成。
(5日)秀忠、駿河駿府城主徳川忠長の江戸の亭に臨む、
五日駿河中納言忠長卿邸に大御所渡御あり。尾張中納言義直卿。水戸宰相頼房卿も御相伴としてわたらせらる。(略)けふの賜物。忠長卿に行平の御太刀。郷の御刀。米澤吉光の御脇差。(略)献物貞宗の太刀。郷義弘の刀。飯塚吉光の脇差。
- 御相伴衆
- 尾張義直、水戸頼房
- 将軍家光御成。
- 寛永2年(1625年)10月11日帰国の暇を賜る。※12日に発駕、駿府に入部という。
幕府、駿河駿府城主徳川忠長に、初めて入部の暇を与ふ、明日、忠長、江戸を発す、
- 同年12月17日参覲。
十七日、駿河侯徳川忠長、始めて江戸に参覲す。初め家康遺言して曰く、「國松成長の後は、予が隠居料駿河并に甲州は、悉く之を宛て行ふべし。但し、駿府に在城して参覲交代することは、他の大名と異なることなかるべし」と。此の参覲は、蓋し遺言に從ふなるべし。
- 寛永3年(1626年)正月、日光に社参し、帰国。
- 寛永3年(1626年)大御所、將軍の上洛。5月27日に令達あり。
- 5月28日江戸発、6月5日秀忠駿府宿泊。6・7日雨。8日秀忠田中泊。9日島田より大井川を越し、掛川。10日掛川発。20日入洛。
- 家光の上洛が決まった際に、大井川に船橋を掛けるが、幕府の防衛線において重要拠点の場所である大井川に無許可で施工したことが問題視され、家光の不興を買ってしまうこととなる。
- 将軍家光6月12日江戸発、7月16日伊豆三嶋。17日三嶋滞留。18日清水。19日清水を出て久能山に上って東照宮の廟を拝す。のち駿府城。中納言忠長、これを饗応する。20日家光田中城、饗応同じく。21日掛川同。22日浜松城、城主高力摂津守忠房饗応。23日浜松を出て三河吉田城へ。8月2日入洛。
- 寛永3年(1626年)8月19日従二位権大納言。この頃より隣国の諸大名等からは「駿河大納言」という名称で呼ばれるようになる。
駿河駿府城主権中納言従三位徳川忠長・尾張名古屋城主同徳川義直・紀伊和歌山城主同徳川頼宣を並に権大納言に任じ、従二位に叙し、常陸水戸城主参議徳川頼房・加賀金沢城主同前田利光「利常」・陸奥仙台城主同伊達政宗・薩摩鹿児島城主同島津家久を並に権中納言に任じ、従三位に叙し、越前北荘城主侍従松平忠昌・備前岡山城主同池田忠雄・陸奥会津若松城主同蒲生忠郷を並に参議に任じ、正四位下に叙す、其他諸大名の任叙、差あり、
- 9月6日~8日二条行幸。
- 寛永3年(1626年)9月11日、小督危篤の報を受け、江戸に戻る。
秀忠、室淺井氏ノ危篤ノ報ニ依リ、次子駿河駿府城主德川忠長及ビ常陸眞壁城主稻葉正勝·今大路親清等ヲシテ、江戸ニ歸城セシム、
- 寛永3年(1626年)9月15日生母崇源院小督、西の丸にて死去。享年54。この時夫・秀忠、子の家光・忠長は上洛中であった。
- 秀忠及び家光は江戸歸城を延期している。※また16日には大坂城の普請を見た後、翌日二条城に戻っている。京都を発ったのは25日、秀忠が京都を発ったのは翌10月6日。※家光は江戸に10月9日、秀忠が10月6日着ともいう。
十八日、秀忠室淺井氏ノ訃報ニ依リ、家光、江戸歸城ノ期ヲ延引シ、書院番組頭三浦正次ヲシテ、江戸ニ歸ラシム
- 秀忠及び家光は江戸歸城を延期している。※また16日には大坂城の普請を見た後、翌日二条城に戻っている。京都を発ったのは25日、秀忠が京都を発ったのは翌10月6日。※家光は江戸に10月9日、秀忠が10月6日着ともいう。
- 寛永4年(1627年)3月、秀忠及び家光御成
寛永四年三月二日、秀忠、駿河駿府城主德川忠長ノ江戶ノ亭ニ臨ム、
九日、家光、駿河駿府城主德川忠長ノ江戶ノ亭ニ臨ム、
- 同年7月御成
秀忠、駿河駿府城主德川忠長ノ江戶ノ亭ニ臨ム、
- この月、忠長は亡母崇源院の石塔を高野山に建立している。
駿河駿府城主德川忠長、亡母崇源院ノ塔ヲ紀伊高野山ニ建ツ
- 寛永4年(1627年)10月御成。
十二日、秀忠、駿河駿府城主德川忠長ノ江戶ノ亭ニ臨ム、
廿二日、家光、駿河駿府城主德川忠長ノ江戶ノ亭ニ臨ム、
- 寛永5年(1628年)3月秀忠は、西の丸で能を催し、家光、紀伊頼宣、駿河忠長、水戸頼房、伊勢藤堂高虎らを饗応している。
秀忠、江戸城西丸ニ能ヲ張行シ、家光及ビ紀伊和歌山城主德川賴宣·駿河駿府城主同忠長·常陸水戶城主同賴房·伊勢安濃津城主藤堂高虎等ヲ招キテ饗宴ス
- 同年4月、将軍御成。
六日、家光、駿河駿府城主德川忠長ノ江戶ノ亭ニ臨ム、
- 寛永5年(1628年)6月
二日、駿河駿府城主德川忠長、歸國セントシ、家光ニ辭見ス、
- 寛永5年(1628年)12月22日、織田信良娘との婚約。
廿二日、秀忠、駿河駿府城主德川忠長ヲシテ、故織田信良ノ女ヲ娶ラシム、
- 寛永6年(1629年)2月秀忠御成。
(13日)秀忠、駿河駿府城主德川忠長ノ江戶ノ亭ニ臨ム、
- 寛永6年(1629年)6月将軍御成。
廿三日、家光、駿河駿府城主德川忠長ノ江戶ノ亭ニ臨ム、
- 寛永6年(1629年)6月1日秀忠御成。
秀忠、駿河駿府城主德川忠長ノ江戶ノ亭ニ臨ム、
- 寛永7年(1630年)3月帰国の暇
五日、幕府、駿河駿府城主德川忠長ニ歸國ノ暇ヲ與フ、
- 寛永7年(1630年)9月、安養寺で猿狩。
駿河駿府城主德川忠長、同國安養寺ノ山ニ於テ猿狩ヲ爲ス、
- 寛永8年(1631年)正月、秀忠は白鳥を尾張義直、忠長、水戸頼房、島津家久に贈る。
秀忠、狩獲セシ白鳥ヲ、尾張名古屋城主德川義直·駿河駿府城主同忠長·常陸水戶城主同賴房及ビ薩摩鹿兒島城主島津家久ニ與フ、
- 寛永8年(1631年)2月、鷹狩に出かけた際に、寺で休息した所、小姓・小浜七之助が薪に火を付けれなかった事に癇癪を起こし手打ちにしてしまう。これを小姓の父が幕府に訴えでたため幕府の知るところとなった。
十四日、駿河駿府城主德川忠長、狂疾ニ罹リ、屢、近臣ヲ手刄スルニ依リ、秀忠、其謁見ヲ停ム、是日、家光、年寄上野厩橋城主酒井忠世・同下総佐倉城主土井利勝ヲ遣シテ、訓戒セシム、
- 寛永8年(1631年)6月28日
廿八日、幕府、駿河駿府城主德川忠長ノ狂疾寛永八年六月治癒セザルニ依リ、其封甲斐ニ就キテ、療養セシメ、目付ヲ遣シテ、之ヲ監セシム、
蟄居
- 甲府への蟄居を命じられた。
十五日、駿河駿府城主德川忠長、秀忠ノ病ヲ候センコトヲ、金地院崇傳以及ビ南光坊天海ニ請フ
十六日、駿河駿府城主德川忠長、參覲ヲ許サレザルニ依リ、重ネテ、南光坊天海及ビ金地院崇傳ニ頼リテ、罪ヲ謝センコトヲ請フ
- 寛永9年(1632年)正月、秀忠不例、形見分け、薨去
金地院崇傳、秀忠ノ薨去ヲ駿河駿府城主德川忠長ニ報ズ、
改易・幽閉
- 寛永9年(1632年)10月20日に安藤重長に預けられる形で上野国高崎へ逼塞の処分が下される。忠長は改易となり、領国すべてを没収され、また、その際に御附家老の朝倉宣正、鳥居成次も連座して改易されている。
十二日、幕府、駿河駿府城主德川忠長ノ、狂疾アルニ依リ、其封ヲ收メ、之ヲ上野高崎城ニ幽シ、駿·甲·遠在番ヲ定ム、
十五日、幕府、前駿河駿府城主德川忠長ノ家臣二十餘人ヲ諸大名ニ預ク、
- 甲府を出立した時には、勝山という馬一匹、槍1本、近習を数人従えるのみであったという。笹子を越えて黒野田(大月市)に泊、武蔵府中に至った。ここで家老朝倉宣正と別れて配流地である上野高崎へと向かった。
- 寛永10年(1633年)12月6日、高崎城中において切腹。享年28。
六日、前駿河駿府城主德川忠長、上野高崎ニ自殺ス、
初め重長の、忠長を預けらるるや、庭前廣く竹柵を設け、其内にて在て、自由に遊歩せしめ置きつるが、月を越えて、十二月六日に至るや、朝まだき、急に忠長の幽居を守護する侍に命じ、其の殿縁を距ること、僅に二尺許の處に、嚴しく鹿垣を結び渡さしむ。忠長内より見て、怪み問うて曰く「如何なれば、斯くはするぞ」と。侍謹み答へて曰く、奴も亦その故を知らず、量るに、江戸より上意の達したるにもあらんか」と。忠長忽ち障子を閉ぢて、奥に入りしが、其後は、再び縁に出づることもなかりき。卽にして日暮れぬれば、近侍の女房三人あるをば、悉く暇を與へて下局に出だし、僅に側に殘る女の童二人に命じ、共に出でて酒を温めしむ。暫くして
提子 持ちて來たれば、杯を取て、飲むこと二たびにして曰く、「今少しく温めよ」と。一女は立て出でぬ。又一女に謂て曰く「汝は肴を取て來たれ」と。又出づ。少時にして、二少女酒と肴とを持ち至れば、忠長は、白小袖の上に、黑の紋つきたるを打掛けて、臥し居たり。近づき見れば、衣服悉く朱に染みて、呼吸は已に絶えてけり。二少女は大に驚き、我を忘れて馳せ廻り、叫び廻りければ、配所に侍せし人人、馳せ至て見るに、差添の刀にて、喉の半つき貫き、前の方へおし切り、俯伏に倒れたりけり。年廿八。思へば今より五七日前より、忠長は寶物等は之を長持に納れしめ、徒然の書すさびは、之を庭に出だし、焼棄てければ、此頃已に覺悟せられけるにやといふ者ありしとか。八日、家光、六人衆小性組番頭某邑主阿部忠秋ヲ上野高崎ニ遣シテ、前駿河駿府城主德川忠長ノ死ヲ檢セシム、
將軍家光、卽ち安部豊後守忠秋に命じ、高崎に赴かしむ。忠秋命を受くる卽、馳せて高崎に赴く。検使の任を奉じたるなり。忠秋已に高崎に到る。先づ旅宿に入て入浴し、麻長袴を着し、重長に導かれて、忠長の居室に至り、敷居一間を隔て、遥に其の屍骸を拝し、卽日江戸に還り、具に其狀を述べて、自殺の紛なきを白す。
死後
- 43回忌にあたる延宝3年(1675年)、忠長の墓が大信寺に建立された。硯箱・切腹に用いた短刀・自筆の手紙などが位牌とともに保存されている。周囲に玉垣をめぐらし鎖で繋がれていたために「鎖のお霊屋」と呼ばれたという。大信寺には、姉の千姫から贈られたという遺品も残る。愛用という葵紋入の硯箱、水晶の壺、仏舎利塔、秀頼の陣羽織を袈裟になおしたもの、自刃に用いた短刀、婚礼時に使用した金色の長柄の銚子、自筆の手紙。昭和41年(1966年)高崎市指定史跡に指定。
- 忠長が自刃した部屋は、享保年間に高崎城が改築する際に高崎の長松寺に移築されており、現在も書院として残る。
- 江戸屋敷の建物は林道春に与えられた。また屋敷地は、倉庫地となり、さらに後に堀田正盛(加賀守)、安部忠秋(豊後守)、溝口重長(半左衛門)等に賜ったという。
寛永十一年道春駿河大納言德川忠長が舊邸の一宇を賜り忍岡に移して書院を建てたり。
幕府、侍読林信勝「羅山」に、故徳川忠長の亭中の大厦一宇を与へ、江戸忍岡先聖殿の傍に移し、講堂と為さしむ、
- 遺物のうち、趙子昂の屏風、蝦蟆硯は江戸城に戻されたという。※自害した時ではなく、甲府に逼塞となった際だともいう。
御寶物之內子昂石摺之御屏風蝦蟆硯此兩種は御重代之御相傳之由にて江戶へ小納戶衆持參上納云々
御三家
- 現在、御三家といえば尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家の三家を指すが、江戸初期においては定まってなかった時期があり、この徳川忠長が一時的に御三家の位置づけに居た時期があった。
- 松平忠輝が元和2年(1616年)に改易され、結城秀康の子・松平忠直は元和7年(1621年)に豊後に配流された。これにより将軍近親は御三家及び徳川忠長のみとなった。
- 元和9年(1623年)に忠長は従三位権中納言に叙任され、これで尾張家、紀伊家と並び、水戸家(当時正四位下権中将兼参議)を越している。
- さらに将軍家光が従一位左大臣へと進み、大御所秀忠が太政大臣となった寛永3年(1626年)時点で、忠長は尾張義直、紀伊頼宣と並んで従二位権大納言に叙任されている(水戸頼房は従三位権中納言)。
そもそも義直は慶長5年(1600年)生まれで、頼宣はその2年後(1602年生)、さらに年子で水戸頼房(1603年生)が生まれているが、(秀忠の子)家光は慶長9年(1604年)、忠長は頼房の3年後(1606年生)に生まれておりほぼ同年代である。
- しかし寛永8年(1631年)に忠長は甲府への蟄居を銘じられ、秀忠が没すると上野高崎へと幽閉された。その約1年後に忠長は自害している。これにより将軍宗家の長子相続(家光→家綱)が固定化し、御三家はそれを守護する大名としての位置づけへと変化した。
ただし長子相続したのは家綱までであり、その後は綱吉、家宣と、新たに設けた分家である御両典から輩出することになった。それが尽きると紀伊家の吉宗による相続が行われ、さらなる分家である御三卿を創設するなど、常に将軍継嗣問題が起こることになる。
刀剣
- 飯塚藤四郎
- 忠長の家臣・飯塚忠重の所持で徳川忠長が召し上げている。のち寛永2年(1625年)の秀忠の御成の際に、秀忠に献上した。
五日駿河中納言忠長卿邸に大御所渡御あり。尾張中納言義直卿。水戸宰相頼房卿も御相伴としてわたらせらる。(略)けふの賜物。忠長卿に行平の御太刀。郷の御刀。米澤吉光の御脇差。(略)献物貞宗の太刀。郷義弘の刀。飯塚吉光の脇差。
- 黒田正宗
- 伝来に混乱があるが、黒田家所蔵であった正宗は、忠長に贈られ、その後「家康」に献上したとされる。ただし家康が薨去した時、忠長は数え12歳でしかなく、秀忠の誤りであろうとされる。
- 福島「切刃貞宗」
- 福島正則が死去した際に、子の正利は幕府の許可無く火葬したため咎めを受け、お家取り潰しの危機に陥る。正利は取りなしを願い、大御所・徳川秀忠に正宗の刀・青木来国次の脇差・木亘肩衝を、将軍・徳川家光に大光忠の刀・大森義光の脇差・あふら茶入を、家光の弟・徳川忠長(駿河大納言)にこの「切匁貞宗」の刀・義光の脇差・修理肩衝をそれぞれ献上している。
但し正則が遺物とてあふらの茶入、大光忠の刀、大森義光の脇差を献じ、大御所(秀忠)にきのめ肩衝、正宗の刀、青江国次の脇差を捧げ、甲府中納言忠長卿にも切刃貞宗の刀、たゝがう吉光の脇差、修理肩衝を進らせしとぞ
- たたかう吉光
- 上記「切刃貞宗」と同時に贈られた藤四郎吉光。
- 米沢藤四郎
- 秀吉から上杉景勝、秀忠に献上され、寛永2年(1625年)の御成の際に忠長へ贈られた。のち将軍家光に献上する。
- 来国俊
- 慶長18年(1613年)に池田輝政が没した際に、形見分けされている。当時数え8歳。
一、来国俊ノ御腰物 御國様(徳川忠長、駿河大納言)
- 鄙田青江
- ※忠長所持ではない。
日向(鄙田)半兵衛政成は、駿河大納言徳川忠長の家臣。忠長が蟄居となった際に日向も横須賀藩にお預けとなり、寛永13年(1636年)には赦免され3080石を拝領した。寛永20年(1643年)に没するが、その3年前に本阿彌に鑑定に出しており、この頃売りに出されたものと思われる。のち小笠原忠真の娘市松姫(宝光院)が黒田光之の嫡子光之に嫁いだとき、婿引出として本刀を光之に贈っている。
関連項目
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