伴大納言絵詞
伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)
紙本著色伴大納言絵詞
3巻
国宝
出光美術館所蔵
- この「伴大納言絵詞」および、「源氏物語絵巻」「信貴山縁起」「鳥獣人物戯画」を「四大絵巻」と呼び、すべて国宝指定を受けている。
- 「伴大納言画詞」、「伴善男画巻物」、「伴善男物語」。「とものだいなごんえことば」とも。
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概要
- 「伴大納言絵詞」は、歴史上の出来事である応天門の変を題材にした平安時代末期の絵巻物。「伴大納言絵巻」ともいう。
- 作者は、土佐派の祖とされる常盤光長(土佐光長)とされている。
- 上中下三巻構成になっている。
- なお上巻の詞書はすでに後崇光院が取り寄せた時点で失われてしまっている(「詞之端破損不見、古弊絵也」)が、詞書については「宇治拾遺物語」に同様の内容が書かれておりそれにより補われる。
謎
- 登場する人物で特定されていない人物がいる。
- 清涼殿の前庭で應天門を眺めているような後ろ姿の人物
- 清涼殿で清和天皇に面会している人物
- 清涼殿広庇に控えている人物
- これらについて、伴善男、源信、藤原基経などの諸説が提示されているが、いずれも定説とはなっていない。
- また、絵巻の一部で切り取られている箇所があり、それについても、いつ誰がなんの目的で切り取ったのかについて議論がある。古い時代に作られた模写に合わせて復元したほうが良いのではないかという議論も行われている。
来歴
- 12世紀後半、後白河院の周辺で制作されたと見られている。
宝蔵流出
- 蓮華王院宝蔵に収蔵されていたが、その後流出した。
新八幡宮
- 15世紀には、若狭国松永庄新八幡宮に伝来していたことがわかっている。
- 「看聞御記」の嘉吉元年(1441年)4月26日条にこの絵巻を新八幡宮より取り寄せたことが記されている。
廿六日、雨降、公方へ岩梨一合、紫竹六束進之、内々被進、御返事悦奉、抑若州松永庄新八幡宮ニ有繪云々、浄喜申之間、社家ヘ被仰て被借召、今日到來、有四巻、彦火々出見尊繪二巻、吉備大臣繪一巻、伴大納言繪一卷金岡筆云々、詞之端破損不見、古弊繪也、然而殊勝也、禁裏爲入見参召上了、典侍殿泊瀬下向願書奉納、其刻有吉端云々、珍重也、
この時、後崇光院は本絵詞のほか、「吉備大臣入唐絵巻」、「彦火々出見尊絵巻」も取り寄せている。
松永庄は若狭国の地名。古代には小丹生評と書かれていたが、好字令で「遠敷(おにゅう)」と改められた。国府も置かれるなど古代・中世と同国の要所であった。中世には松永保・松永庄に属しており、室町院(暉子内親王)の所領であった。女院の没後は伏見宮家に伝領されており、この時代には後崇光院の所領となっていた。後崇光院が絵巻を取り寄せた「新八幡宮」もここにあった。
酒井忠勝
- 江戸時代初期には、若狭国小浜初代藩主であった酒井忠勝の所蔵となっていた。忠勝が三巻に分断したとされる。
折紙
伴善男画巻物者、
昔より遠敷ニ有し
品ニ而、
空印様(忠勝)江同所より
上ヶ候而、牛込
御成之節、錺り付ニ
御用ひニ成りし品也折紙
伴善男画巻物
紙中ニ所々手之入り
有之箇所候得共、
右も中々ニ三百年
前ニ成し候物ニ而遠
敷より
空印様江上候頃も
今之通故、此儘手之
付ぬ方宜し事
最初の「同所より上ヶ候而」の同所については、別の手紙などには書かれていたかと思われるが、現在では不明となっている。
- 忠勝は、明暦2年(1656年)5月26日に行われた将軍家綱御成の際にこれを飾っている。忠勝はかねてより致仕を申し出ており、この日、四男・修理大夫忠直に家督を譲り隠居することが認められた。
明暦二丙申五月廿六日五ッ半頃
家綱公御成初中之口ヲ被為入先元御広間江被為成於此所御祝儀之御礼有之
(略)
元御成書院上段之床
(略)
一、伴大納言殿軸物三巻
武久家
- 忠勝ののち、いつ頃からかは不明だが、寛政8年(1796年)までは酒井家家臣の武久家が所持したとされている。
巻紙 議奏方苦行連署状
伴善男絵巻物
(略)
浦松入道固禅言上
酒井修理大夫僕従所蔵之
古画図、
- 江戸時代の古書にも、武久家所蔵であったことを記すものが複数確認されている。
武久平蔵所伝
若狭侯ノ士臣ノ珍蔵ナリ。大内ニ召云々
武久庄兵衛昌扶所蔵
酒井忠貫
- 寛政8年(1796年)に当時の小浜藩主9代藩主であった酒井忠貫が、武久家から召し上げて城内に秘蔵させたという。
- これを遡る天明8年(1788年)1月8日、「天明の京都大火」が発生し御所、二条城、京都所司代などの要所を含め京都市街の約8割が消失した。
- のち御所再興の参考として、ちょうど制作が進んでいた裏松固禅の「大内裏図考證」が用いられたが、本絵詞についても内裏に提出され参考にされた経緯がある。上記引用の「浦松入道固禅言上」はそれを指している。
- そしてこのやり取りのあと、寛政8年(1796年)に武久家より「永預かり」となっていた本絵詞は、正式に藩主家に召し上げられることとなったとする。
折紙
伴善男画巻物、是迄、
武久内蔵助より永預りニ
成し置候処、以後者、差上
切りニ相成、宝物之内江
加へ、外同様、永々城外
不出之品と成し置く候事。
是迄之箱類・盆・写書付
等者、不用ゆえ、内蔵助方江
遣候。盆も琉球物ニ而、下品故、
相止見立候。盆を添置事。
- つまり、江戸初期に酒井忠勝の所蔵物であった本絵詞は、経緯は不明ながら武久家の物となっていたが、理由は不明ながら藩主家で「永預かり」になっていた。それを寛政8年(1796年)に正式に召し上げたのだという。
- この酒井忠勝→武久家→酒井家への伝来経緯について、小松茂美氏は酒井忠勝に仕えた武久庄兵衛に下賜されたものを、その死後に子の内蔵助が再び藩主に献上したのではないかとする。(「日本絵巻類聚稿」)
しかし仮に藩主より下賜されたものをすぐに再献上したのであれば、なぜ箱類や盆などがそのまま用いられなかったのかに疑問が残る。御成の際にそうしたものも整えたはずであり、下賜の際にも付属していたのではないかと思われる。やはり何らかの理由で武久家が困窮し、数代後に藩主家に献上されたものではないかと想像される。
- 岡田為恭(冷泉為恭。1823-1864)が学んだ古絵巻を列挙する中で、この伴大納言絵詞を挙げており、そこでは「若狭國矢代家」にあるとする。
酒井家代々
- その後は門外不出が守られたのか、小浜藩主酒井家に代々伝わった。
- 寛政7年(1795年)の藤貞幹「好古小録」にも載る。
三十五伴大納言繪詞三巻畫者姓名闕
畫力精絶事々古ヲ徴スベシ首巻詞逸ス
- 黒川春村「考古画譜」にも載る。※デジコレ収録の黒川真頼 増補版による
同繪詞 一名應天門繪詞 三巻
[補]圖畫一覧下巻云、伴大納言焼應天門圖三巻現存ノ本二巻アリテ一巻ハ既ク紛失セリトイヘリタヽシ住吉家ニハ摹本三巻トモニアリ紛失以前ニウツセシナラントイヘリ又按ニ嘉吉元ニ廿六看聞御記ニ金岡筆伴大納言絵一巻トアルモノハ別物ニヤ考フベシ
好古小録云。三巻畫者姓名闕、畫力精絶事々古ヲ徴スベシ首巻詞逸ス
類聚目録云。伴大納言繪、小濱酒井家人、武久某藏詞参議雅經卿
倭錦云、春日光長伴大納言草子詞雅經卿
[補]異本土佐系圖云、光長云云頭注云伴大納言善男焼應天門圖之筆者
[補]本朝畫圖品目云、伴大納言繪巻三巻畫光長在若狭國小濱領農家
[補]古畫目録云、伴大納言繪三巻詞書参議雅經卿(略)
[補]真頼曰、伴大納言繪詞模本三巻文詞注一巻すべて四巻博物館にあり奥書云古土佐筆本寫松平越中守にて來る文化八年未年六月廿一日玉川養信寫とあり
[補]又曰、明治十三年四月上野公園の美術會に酒井忠道此の畫巻を出て三巻あり一巻紛失といへることいかにぞや
- 明治13年(1880年)上野の博物館(現、東博)にて行われた展覧会に出品され「観古美術出品目録」に記載されている。
一、古画巻 土佐光長筆 伴大納言絵詞 三巻 酒井忠道
伯爵酒井忠道は旧小浜藩主酒井家16代当主。小浜藩12代・14代藩主であった酒井忠義の長男。明治7年(1874年)に父の死に伴い家督を相続し、明治17年(1884年)伯爵を叙爵した。
- 明治43年(1910年)の「酒井伯爵家什宝目録酣古帳」の1番目に所載。
伴大納言繪詞三巻 土佐光長筆
紙本著色
第一巻 全長二丈七尺三寸
第二巻 仝 三丈一寸
第三巻 仝 三丈五寸
幅各一尺四分
詞書は飛鳥井雅經にして外題は尊純親王なり
- 大正12年(1923年)6月14日酒井家が遺産分与のために東京美術倶楽部で開いた売立では、大名物・国司茄子(藤田美術館所蔵)、吉備大臣入唐絵巻(ボストン美術館所蔵)、大名物・北野肩衝茶入(三井文庫所蔵)など名だたる名物が出品され、売上総額は240万円(当時)という巨額な売立となった。しかしこの「伴大納言絵詞」については、秘蔵が貫かれ出品されていない。
「吉備大臣入唐絵巻」は18万8900円で落札されたが、現在の価値に換算すると約2億円と計算されている。
- 昭和6年(1931年)旧国宝指定。当時、伯爵酒井忠克所持。
繪畫 紙本著色伴大納言繪詞 三巻 伯爵酒井忠克
酒井忠克は酒井忠道の次男で家督相続者。酒井家17代当主。
- 昭和26年(1951年)6月9日新国宝指定。
絵 紙本著色伴大納言絵詞 三巻 酒井忠博
出光美術館
- 昭和58年(1983年)5月2日、酒井家所蔵の国宝件大納言絵詞が、32億円で前年度に出光美術館に売却されていたことが明らかとなった。※つまり譲渡は昭和57(1982年)年度ということになる。
史実の応天門の変
- 「伴大納言絵詞」に描かれる応天門の変は、清和天皇治世下の貞観8年(866年)に実際に起こった出来事である。※だからといって「伴大納言絵詞」に描かれている内容が史実というわけではない。
言うまでもなく実際に起った出来事及び事の経過はその同時代でしかわからず、すでに1000年以上を経た現在となっては、当時の公式記録である「日本三代実録」、及び「宇治拾遺物語(宇治大納言物語)」により語り継がれてきたもので想像する他無い。
應天門
- 應天門は平城京及び平安京にあった門で、平安京では大内裏の内側、朝廷内での政務や重要な儀式を行う場であった朝堂院(八省院)の正門である。朱雀門のすぐ北にあり、朱雀門・会昌門と並ぶ重要な門であった。
大元はこれらが倣った中国洛陽にあった門を模したもので、洛陽では605年に建造された。当初は"則天門"や"紫微宮門"と呼ばれていたが、王世充により"順天門"と改められた。唐代初期に再建され"則天門"と改められたが、その後、睿宗(684-690, 710-712)の代に、母・武則天の「則」字を避諱して、現在の名の"応天門"となった。
平安京での創建時の扁額は空海によるものとされ、「弘法にも筆の誤り」ということわざは、この扁額を書いた際に「應」の一画目の点を書き忘れてしまった(まだれをがんだれにしてしまった)が、空海は掲げられた額を降ろさずに筆を投げつけて書き足したという伝承に由来する。ただしその後、藤原敏行により改められており、変で焼けたのは藤原敏行による扁額である。藤原敏行は平安貴族で書家。三十六歌仙のひとりで、小倉百人一首にも採録(18番すみの江の)されている。
政界の動き
- 当時の政界は、文徳天皇が崩御した後に外祖父・藤原良房の後見を受けて生後8ヶ月で皇太子となっていた惟仁親王がわずか9歳で清和天皇として即位しており、成年前の即位は史上初であった。このため、外戚として藤原良房が政治の実権を握ることになった。
┌平城天皇 ┌光孝天皇──宇多天皇──醍醐天皇 桓武天皇──┴嵯峨天皇─源信 │紀静子 ├──仁明天皇 │ ├──惟喬親王 橘嘉智子 ├──┴文徳天皇 │ ├──清和天皇 藤原冬嗣 │ │ ├──陽成天皇 ├────┬藤原順子 │ │ 藤原美都子 ├藤原良房─┰藤原明子 │ ├藤原良方 ┗藤原基経 │ ├藤原良輔 │ ├藤原良相 ┌─────藤原高子 └藤原長良─┴藤原基経─┬藤原時平 ├藤原忠平 ├藤原穏子(醍醐天皇中宮、朱雀・村上生母) ├藤原温子(宇多天皇中宮) ├藤原頼子(清和天皇女御) ├藤原佳珠子(清和天皇女御) └藤原佳美子(光孝天皇女御) 皇位:──仁明──文徳──清和──陽成──光孝──宇多──醍醐──
さらに、嵯峨上皇が内裏を退去して嵯峨院に移居して以降、太上天皇が宮外へ退去する際には天皇の生母であったとしてもすべて宮内から退去するのが慣習であったが、清和帝の皇太后明子は幼帝を理由に宮内に留まり続けた。これにより内裏内部での権力構造が大きく変化することになった。
- いっぽう事件の首謀者とされた伴善男が本姓・大伴氏(大伴連、大伴朝臣)であったことは広く知られており、かつて大和朝廷では物部氏とともに軍事を管掌していた一大勢力であったとされる。しかしその後、中央政界での政争が激化するのに伴って徐々に勢力を衰退させていった。
【大伴氏系図】 大伴安麻呂─┬旅人───家持───永主 ├田主───┐ └宿奈麻呂─┴古麻呂?─継人──伴国道─┬伴善男──伴中庸 └伴河男 ※大伴古麻呂の父については、旅人の弟・田主など諸説ある。
長屋王の変(729年、大伴旅人)、橘奈良麻呂の乱(757年、大伴古麻呂、大伴古慈悲、大伴家持)、氷上川継の乱(782年、大伴家持)、藤原種継暗殺事件(785年、大伴家持、大伴継人ら)、承和の変(842年、伴健岑)など。
- 平安時代初期には、大伴国道(種継暗殺事件で処刑された大伴継人の子。自らも佐渡流罪を受けていた。)が桓武天皇の恩赦を受けて戻っており、参議にまで昇っていた。
伴氏への改姓は、弘仁14年(823年)淳和天皇(大伴親王)の即位にあわせて、その諱を避けて行われたもの。
- さらに大伴国道の子である伴善男は、仁明天皇の知遇を受けて頭角を現し、文徳朝では従三位と順調に昇進し、皇太后宮大夫・中宮大夫を兼ねている。清和朝の貞観6年(864年)には伴氏としては大伴旅人以来130年振りに大納言に昇った。この累進出世には、仁明天皇女御である藤原順子の引き立てがあったためとされる。
伴善男は、文徳朝で嘉祥3年(850年)に従四位上、皇太后宮大夫(皇太夫人・藤原順子)、仁寿3年(853年)に式部大輔、仁寿3年(853年)に正四位下、中宮大夫(中宮・藤原明子)。仁寿3年(853年)に従三位。さらに清和朝で天安2年(858年)に皇太后宮大夫(皇太夫人・藤原明子)、天安3年(859年)に正三位。貞観2年(860年)に中納言、貞観6年(864年)に大納言、皇太后宮大夫民部卿如元。
事件の経過
- 事件発生時(貞観8年(866年)閏3月10日)の主要人物の官位は次のようになっていた。
- 従一位・太政大臣:藤原良房
→8月19日摂政 - 正二位・左大臣:源信
- 正二位・右大臣:藤原良相
- 正三位・大納言:伴善男
- 従四位上・参議:藤原基経(左近衛中将・伊予守)
→3月23日に正四位下、12月8日に従三位・中納言
- 従一位・太政大臣:藤原良房
- 閏3月10日の夜、應天門が放火され炎上する事件が発生する。ほどなく伴善男は、右大臣・藤原良相に対して、左大臣・源信が犯人であると告発する。応天門は大伴氏(伴氏)が造営したもので、源信が伴氏を呪って火をつけたものだとされた。※これまでにも伴善男は度々源信と対立していた。
- 藤原良相は左大臣・源信の捕縛を命じて兵を出し、源信邸を包囲する。参議・藤原基経がこれを父(養父)の太政大臣・藤原良房に告げると、驚いた良房は清和天皇に奏上して源信を弁護した(天皇は出兵自体を知らなかったという)。源信は無実とされ、邸を包囲していた兵は引き上げた。
- この後8月3日に、備中権史生・大宅鷹取が応天門放火の犯人は伴善男・伴中庸の親子であると訴え出たことから事件が大きく動いた。鷹取は応天門の前から伴善男と伴中庸、雑色の紀豊城の3人が走り去ったのを見て、その直後に門が炎上したと申し出た。鷹取の娘が伴善男の従僕生江恒山に殺されたことを恨んでいたとされている。
- 8月7日に行われた伴善男に対する鞫問では伴善男は無罪を主張した。さらに8月19日には、藤原良房が人臣初の摂政に任じられた。
これは、左大臣・源信が自宅で籠居し、右大臣・藤原良相も病気で出仕が滞り、それに次ぐ大納言である伴善男に嫌疑がかかったことで政務が滞るという名目で、本来名誉職であった良房に太政官の政務に関与させる意図があったとされる。
- 8月29日には伴善男の従者である生江恒山・伴清縄らが捕らえられ厳しく尋問され、その結果鷹取の件のみならず応天門の放火についても自供を始めてしまう。さらに否定を続ける伴善男に対し「伴中庸が自白した」と偽りを言って自白を迫ったところ、伴善男は観念して自白したという。
- 9月22日、朝廷(太政官)は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪して死罪、罪一等を許されて流罪と決した。首謀者として、伴善男は伊豆国、伴中庸は隠岐国、紀豊城は安房国、伴秋実は壱岐国、伴清縄は佐渡国への流罪となった。
朝廷政治への影響
- この処分から程無く、源信・藤原良相の左右両大臣が急死したため、藤原良房が朝廷の全権を把握する事になった。さらに12月には兄・良房の養子である藤原基経が末席参議から一挙に中納言に昇進した上に、基経の同母妹・高子が清和天皇女御として入内しており、良房の後継が基経であることが明確になった。
源信は邸宅を取り囲まれるという事態に衝撃を受け、以後は閉門して蟄居していた。貞観10年(869年)閏12月に気分転換のために摂津国河辺郡に狩猟に出かけるが、その最中に落馬して深泥に陥った。意識不明のまま数日後の28日に薨去。享年59。初代源氏長者。北辺大臣。
藤原良相は兄の良房の後を追うように出世を重ね、良房の病状が悪化した時期には、太皇太后・藤原順子、太皇太后宮大夫を兼ねる大納言・伴善男らと共に政権中枢を牛耳る動きを見せていた。また清和天皇の元服に伴って娘の多美子を入内させ女御とすることに成功しており、もし皇子が誕生すれば天皇の外祖父で太政大臣であった兄・藤原良房の立場を継ぐことが可能となっていた。しかし応天門の変後に病気で出仕が滞る中で兄・良房が摂政に就任したことで伴善男の扱いは兄・良房に委ねられることになり断罪されると、良相ー伴善男ラインによる太政官領導体制は完全に崩壊した。変後も失脚はしなかったが、政治的影響力は既に失われており、貞観9年(867年)10月初めに倒れ、そのまま薨去した。
- 清和天皇は、信頼していた大納言伴善男が失脚すると藤原良房-藤原基経ラインの勢力に押される。事件の10年後の貞観18年(876年)に貞明親王(陽成天皇)に譲位すると、2年後の元慶3年(879年)に出家。同年10月より畿内巡幸の旅に入った。翌年3月丹波国水尾(現、京都市右京区嵯峨水尾清和。愛宕山の南麓)の地に入り、絶食を伴う激しい苦行を行った。水尾を隠棲の地と定め、新たに寺を建立中、左大臣源融の別邸棲霞観にて病を発し、粟田の円覚寺に移されたのち崩御。円覚寺に近い粟田山で火葬され、遺骨は生前の希望により水尾の地に埋葬された。
- 事件としてみれば、藤原良相と伴善男が源信との対立から応天門炎上を政争化したものを、結果的には藤原良房・基経がうまく利用して自らの系統の権力を決定づけた動きと見ることができる。良房はこの事件を契機に人臣初の摂政となり、さらに基経は宇多天皇の代に史上初の関白となった。
しかし基経と高子(陽成母)との仲は険悪であり、陽成天皇も即位7年で退位に追い込まれる。その後の皇位は陽成祖父の異母弟・時康親王が55歳で即位し光孝天皇となった。3年後に光孝が病になると、即位時に臣籍降下させた皇子の一人である源定省を皇籍復帰させて践祚する(宇多天皇)。その後も醍醐、朱雀、村上とこの光孝の系統が継いでいき、文徳、陽成の系統に戻ることはなかった。
いっぽう上皇となった陽成は長命で、光孝、宇多、醍醐、朱雀、村上の5代を見届けた後、天暦3年(949年)9月に崩御した。上皇歴65年は歴代最長である。
模本
中野幸一氏所蔵
伴大納言絵巻
冷泉為恭復元模写
中野幸一氏蔵
- 中野幸一早稲田大学名誉教授が1980年代前半に東京の古書店で購入した新たな模写の存在が、2010年に明らかにされた。
- 収められていた桐箱の張り紙の記述から、幕末の絵師冷泉為恭(岡田為恭)もしくは彼の一門が手がけたとみられている。
異説:最上家→武久家
- 「伴大納言絵詞」は、江戸時代に一時的に武久家に所蔵されていたことがわかっているが、この経緯がよくわかっていない。一説によれば、武久昌勝は最上家から拝領したのだという。
- 大田南畝が編纂した「三十輻」には、津田かみはやという者が著したという「若紫(若むらさき)」が撰ばれており、緒言にその経緯が書かれている。
津田かみはや撰、若狭小浜の城主酒井修理大夫の家臣武久昌扶の家に、伴大納言の繪巻を傳へたるが、宮殿の圖様古制に協ひたるものなるを以つて、久我家に召し出され、天明八年正月内裏焼亡の後、寛政の御造営の折、此繪巻によりて古制を失はざるを得しより、叡感斜ならざりし由を久我家より申し傳られたるを以て、寛政十年此等の由を記し留めしものなり、若紫の名は、序文に「久我の前内大臣殿の妹君は、頼み奉りし殿の北の方にてわたせ給ふゆかりあれば」とあるに基けるなり、視聴草・閑窓自語等に、寛政の御造営に古制を存したる所以を記されたれど、猶此若紫に記されたる事も與つて大なるが如し、故に貴重なる一資料として南畝に収蒐せられたるものなり、著者につきては、「若狭の國の御あるじの史、つだのかみはや」とある外知ることを得ず。
- さらに本文には「武久家系」なる家系図が示されており、その「昌勝」の欄には、「繪巻物者賜二於最上家一焉、」と書かれている。これを元に、かつて最上家にあったものが武久に下賜され、それが酒井家に伝わった可能性があるとする説もあり、Wikipediaでも2015年からそのように記述されている。
- 仮にこの説に従うと、次のような伝来過程となると思われる。
新八幡宮─?─最上義光─武久庄兵衛─(酒井忠勝)─武久家─酒井家
- なお武久庄兵衛が酒井家で重用され、藩主忠勝にも厚く信頼されていたことは事実で、庄兵衛死の際には息子に対して懇ろな処置が行われていることを示す文書が残っている。
- しかし肝心の最上家への伝来過程が不明で、さらに酒井忠勝が致仕を認められた大事な御成の場で家臣所蔵の巻物をわざわざ飾り付けるとは考え難い。やはり上記引用に示すように、寛永11年(1634年)に酒井忠勝が若狭小浜へと加増転封された後に、その時の所蔵者(新八幡宮か)より献上されたものではないかと思われる。
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