飯塚藤四郎
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飯塚藤四郎(いいづかとうしろう)
短刀
足利藤四郎、飯塚藤四郎
長九寸三分
由来
- 駿河大納言徳川忠長の家臣、飯塚半次郎忠重というものの所持にちなむ。
- 飯塚忠重はこの短刀を愛蔵し、いつも枕の下に入れていたという。
来歴
- 忠長の家臣、飯塚忠重の所持。
- 徳川忠長が召し上げている。
- 寛永2年(1625年)2月に秀忠が忠長邸に御成の際に、忠長から秀忠に献上する。
五日駿河中納言忠長卿邸に大御所渡御あり。尾張中納言義直卿。水戸宰相頼房卿も御相伴としてわたらせらる。(略)けふの賜物。忠長卿に行平の御太刀。郷の御刀。米澤吉光の御脇差。(略)献物貞宗の太刀。郷義弘の刀。飯塚吉光の脇差。
- 明暦3年(1657年)の明暦の大火で焼けてしまう。
「足利藤四郎」
- 本刀「飯塚藤四郎」は、別名「足利藤四郎」ともいわれるが、その由来は飯塚忠重が下野国足利の出身であったためとする。
- 忠重の父、民部少輔綱重は佐野氏の重臣であった。佐野家の滅亡後に佐竹家に仕え、さらにのち徳川家に従属する。
綱重
兵部少輔 生國下野佐野。
慶長七年に本多佐渡守をもつて大権現につかへたてまつり、大坂御陣の時、土居大炊頭組に属し供奉。
六十八歳にて病死。
忠重
半次郎 生國同前。
慶長八年、十二歳にて青山因幡守をもつて台徳院殿につかへたてまつり、大坂御陣の時、土居大炊頭組に属し供奉。
翌年御陣には水野監物組に属す。
元和二年、台徳院殿の鈞命をかうふり忠長卿につかふ。三十九歳にて病死。
正重
半次郎 生國武蔵江戸。
寛永十一年より將軍家につかへたてまつる。
家の紋 九曜星 添紋違柏
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