篭手切江


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 篭手切江(こてぎりごう)

脇差
無銘
表 金象嵌コテ切義弘 本阿(花押) 裏 銀象嵌稲葉丹後守所持
名物 籠手切郷
1尺5寸7分(47.6cm)
公益財団法人黒川古文化研究所所蔵

  • 「コテ切」「小手切」「籠手切」「籠手斬」とも
  • 享保名物帳所載

    コテ切郷 象嵌銘長一尺五寸七分 代金二百枚 稲葉石見守殿
    忠(なかご)表に「コテ切義弘」と本阿弥金象嵌入、裏に稲葉丹後守所持と銀象嵌入、寛文二年百枚、其後ち細川越中守殿へ行き、細川殿より来る百三十枚に成り、また稲葉殿へ戻り享保四年に二百枚になる

  • 金象嵌は本阿弥光温によるもの。
  • 鎬造り、庵棟の中脇差。磨上のために不動の梵字がなかごに入る。
  • 目釘孔2個
  • 三枚の本阿弥折紙が附く。
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 由来

  • 所持銘を入れたのは従五位下、丹後守であった稲葉正勝。
    稲葉正勝は春日局の実子。春日局が家光の乳母となった関係から幼少より小姓となり、家光が将軍になると側近として仕えた。子飼いの年寄候補として家光の期待を一身に背負っていたが、若くして病に倒れてしまう。

 来歴

 細川幽斎

  • 寛永2年(1625年)以降に細川家に伝わり、その後再度稲葉家に戻る。
    • 一説に幽斎所持で、その後稲葉正勝が入手ともいう。後述するように、稲葉家と細川家を何度も往復している。
      周知されているように、細川藤孝は慶長15年(1610年)没なので、所伝が確かならばそれまでに所持したことになるが不明。

 稲葉家(稲葉正勝)

  • 稲葉正勝は、本阿弥に命じて象嵌を入れさせている。正勝は寛永11年(1634年)死亡のため、象嵌入れは寛永2年~11年までの間となる。

    コテ切 義弘 本阿(花押) 稲葉丹後守所持

  • 寛文2年(1662年)に百枚の折紙

 細川家(細川忠利)

  • その後熊本藩細川忠利に移っている。
  • 稲葉正勝の弟内記正利が、寛永8年(1631年)に駿河大納言忠長の重臣であった関係で細川家にお預けになっている。この謝礼の意味で贈ったものと思われる。
    稲葉正勝の外祖父(春日局の実父)の斎藤利三は、細川忠利(生母がガラシャ)の外祖父である明智光秀の親族であり重臣でもあった。
     寛永10年(1633年)12月、兄である家光の命で高崎に流されていた徳川忠長が自害させられると、その旧臣であった稲葉正利も配流が決まる。正勝は同年夏頃から吐血するなど体調を崩していたが、この知らせを聞くと弟のために死の床から這い上がって幕府に懇願し、親戚筋にあたる肥後熊本細川家への流刑を求め容れられている。正勝は忠利にあてて50貫目を託し、正利が赦免されるまでの保護を依頼しつつ約1ヶ月後の寛永11年(1634年)1月に死去。享年38。弟の正利は3月に高崎から肥後国へと移され細川家の預かりとなった。
  • 細川家から本阿弥家に鑑定に出され、百三十枚に値上げ。

 稲葉家

  • のち稲葉家に移っている。稲葉正勝嫡孫の正往が元禄14年(1701年)に老中に就任したお祝いで贈ったものと思われる。
  • 享保4年(1719年)に二百枚の折紙
  • 大正7年(1918年)3月18日に稲葉子爵家の売立に出品され、新潟の円山琢左衛門が3238圓(3338圓とも)で落札。

    一七七 名物 郷義弘小刀 銘籠手切江
    (稲葉子爵平岡家御蔵品入札)

    この時「鳥飼来国次」も同時に出品されており、6390圓で落札。本刀は関物、新刀の出羽大掾国路くらいという評価であった。

  • 昭和6年(1931年)の円山家の売立で出品され2131圓(2121圓とも)で落札される。
    円山琢左衛門は越後蒲原の素封家。時事新報社が大正5年に「第三回調査全国五拾万円以上資産家」というものを発表しており、同氏は「八十万円、財産種別 土地山林七十万円、有価証券其他十万円、県下の大地主の一人なり」と記されている。
  • 遅くとも昭和40年頃には黒川古文化研究所所蔵となっている。
    恐らく黒川幸七(2代)氏の没年である昭和13年までに入ったと思われる。
  • 現存。

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