足利義輝
足利義輝(あしかがよしてる)
室町幕府第13代将軍
剣豪将軍
従五位下、正五位下左馬頭
従四位下征夷大将軍
参議、左近衛中将
従三位
贈従一位左大臣
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生まれ
- 天文5年(1536年)3月10日、12代将軍・足利義晴の嫡男として生まれる。
- 幼名菊童丸
- 母は関白近衛尚通の娘である慶寿院で、菊童丸はのち外祖父・近衛尚通の猶子となる。
【足利将軍家系図】 足利義教───┬足利義勝 ├足利義政────足利義尚 ├足利義視────足利義稙 │ ┌近衛稙家───近衛前久 │ 近衛尚通───┴慶寿院 ┌足利義昭(覚慶) │ ├───┴足利義輝 └足利政知───┬足利義澄───┬足利義晴───周暠 └茶々丸 │ └足利義維───足利義栄 足利将軍家:6代義教──7代義勝──8代義政──9代義尚──10代義材(義稙)─ ─11代義澄──12代義晴──13代義輝──14代義栄──15代義昭
近衛尚通の娘・慶寿院が12代将軍足利義晴の正室となり、13代将軍義輝および15代将軍義昭の生母となった。のち、永禄8年(1565年)に起こった永禄の変で義輝が討ち死にした際に、慶寿院も火中に身を投じて自害した。
- この頃の幕府では父・義晴と管領の細川晴元が対立し、義晴はそのたびに敗れる。
将軍宣下(13代将軍)
- 天文15年(1546年)7月、菊童丸(義輝)義藤と改め従五位下に敍される。11月19日には正五位下・左馬頭に叙任される。
義晴の子菊幢丸、名を義藤と改む、是日、義藤を従五位下に敍す、
- 同年12月、菊童丸(義輝)わずか11歳にして父から将軍職を譲られる。なお父義晴もかつて11歳で元服・将軍宣下を受けている。
- 将軍就任式は亡命先である近江坂本の日吉神社(現日吉大社)祠官樹下成保の第で行われ、六角定頼を烏帽子親として元服し、義藤(よしふじ)と名乗る。
足利義藤、日吉社祠官樹下成保の第に元服す、管領六角定頼、之に加冠す、
征夷大将軍足利義晴を罷む、子左馬頭正五位下足利義藤を征夷大将軍に補し、従四位下に敍す、又権大納言足利義晴をして右近衛大将を兼ねしむ、
- 天文16年(1547年)、参議に進み、左近衛権中将を兼ねる。
- 天文18年(1549年)、細川晴元の家臣で畿内に一大勢力を築きつつあった三好長慶が、三好政長の処遇をめぐって対立し晴元を裏切って細川氏綱陣営に転属する。この頃、父・善晴と共に、東山の慈照寺の裏山に中尾城を築いている。
- 江口の戦いで三好政長が戦死して細川晴元が敗れると、足利義晴と義輝らは晴元、近衛稙家と共に近江朽木谷に逃れている。
- この頃から病がちになった父・足利義晴が同年5月4日に穴太にて病没、享年40。
- 三好勢が京の東郊外に侵攻するが、細川勢は繊維に乏しく、細川晴元は戦線を離脱して越前へと向かった。続いて三好勢が京になだれ込み、義輝も中尾城を自焼して、近江堅田へと逃れた。
- 天文19年(1550年)2月、長尾景虎(上杉謙信)に「毛氈の鞍覆」および「白傘の袋」を許す。
- 天文19年(1550年)6月21日、父義晴の遺物を献上している。
【細川京兆家】 細川頼元──満元─┬持元─┬勝元──政元━┳澄之 ├持之 └成賢 ┣澄元──晴元──昭元 │ ┗高国─┰稙国 └持賢【典厩家】 ┗氏綱
- 天文20年(1551年)ごろには、政所頭人である伊勢貞孝が義輝を京へ引き戻して三好方との和睦を図ろうとするも失敗、義輝は再び朽木谷へと戻っている。
三好長慶との和睦
- 天文21年(1552年)1月、細川氏綱を管領にするという条件で三好長慶と和睦し、京に戻った。ただし将軍とは有名無実で、長慶とその家臣松永久秀の傀儡であった。細川晴元は若狭へと逃れている。清水寺近くの霊山に、新たな山城である東山霊山城を築いている。細川晴元が出没したと聞くと義輝は今出川御所を出てこの城に入り、また生母を初めとする女性たちを清水寺に入れている。
- 天文21年(1552年)6月、朝倉延景に偏諱を与え、「義景」と名乗らせる。
- 天文22年(1553年)9月、上洛してきた長尾景虎(上杉謙信)が拝謁。
- 同年(1553年)に細川晴元と協力して長慶との戦端を開くも敗退。朽木元綱を頼って再び近江朽木へ逃れ、以降5年間をこの地で過ごした。
- 逃亡中の天文23年(1554年)2月12日、名を「義輝」に改めている。
- 弘治元年(1555年)3月、伊達晴宗の子・總次郎に偏諱を与え、「輝宗」(政宗の父)と名乗らせている。
- 永禄元年(1558年)11月、六角義賢の仲介により長慶との間に和議が成立したことに伴って、5年ぶりの入洛が実現し、幕府政治を再開する。
- 永禄2年(1559年)2月2日、織田信長上洛。8日帰国。
自尾州織田上總介上洛云々、五百計云々、異業者多云々、
尾州之織田上總介晝立歸國云々
尾張統一時で、桶狭間の前年。斎藤義龍が人を遣わして信長を狙撃しようとするも失敗したという。
- 永禄2年(1559年)4月3日、長尾景虎(上杉謙信)二度目となる上洛
永禄二年秋九月三日、將軍家踏舞ノ興行有テ、景虎公ヲ營内ニ召シ、見物ヲナサシム、雅興終テ饗膳ヲ賜ル、夜陰ニ及ンテ、前嗣公(近衛前久)モ來リ玉フ、其興美ヲ盡シ、酒宴刻ヲ移シテ退出シ玉フ、冬十月十二日、將軍家ヨリ上使トシテ大館左衛門佐ヲ以テ、粟田口藤林國綱ノ御太刀、玉潤カ畫ケル平砂落雁ノ掛物、其外器物ヲ賜ル
将軍親政
- 義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。伊達晴宗と稙宗〔天文17年(1548年)〕、武田晴信と長尾景虎〔永禄元年(1558年)〕、島津貴久と大友義鎮、毛利元就と尼子晴久〔同3年(1560年)〕、毛利元就と大友宗麟〔同6年(1563年)〕、上杉輝虎(長尾景虎改め)と北条氏政と武田晴信〔同7年(1564年)〕など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行い、将軍の威信を知らしめた。
- また懐柔策として、大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、三好長慶・義長(義興)父子と松永久秀には桐紋使用を許した。さらに自らの名の偏諱(1字)を家臣や全国の諸大名などに与えた。例えば、「藤」の字を細川藤孝(幽斎)や筒井藤勝(順慶)、足利一門の足利藤氏・藤政などに、「輝」の字を毛利輝元・伊達輝宗・上杉輝虎(謙信)などの諸大名や足利一門、藤氏・藤政の弟である足利輝氏などに与えた。また島津義久、武田義信などのように足利将軍家の通字である「義」を偏諱として与える例もあった。
- 永禄年間には信濃国北部を巡る甲斐国の武田信玄と越後国の長尾景虎(上杉謙信)との川中島の戦いが起きており、義輝は両者の争いを調停し、永禄元年(1558年)には信玄を信濃守護に補任するが信玄はさらに景虎の信濃撤退を求め、義輝は景虎の信濃出兵を認め、永禄4年には信玄に駆逐され上方へ亡命していた前信濃守護・小笠原長時の帰国支援を命じている。また相伴衆を拡充し、毛利元就、毛利隆元、大友義鎮、斉藤義龍、今川氏真、三好長慶、三好義興、武田信虎らを任じた。
- 永禄5年(1562年)4月11日、嫡子輝若丸誕生。3ヶ月で夭折。
- 永禄7年(1564年)2月24日女子が誕生。生母は小侍従(進士晴舎娘)。
- 永禄7年(1564年)冬に室町の新第造作開始。
- 永禄8年(1565年)4月17日女子誕生。
最期
- 永禄7年(1564年)7月に三好長慶が病死。長年の政敵が消滅した義輝は、これを好機としていよいよ中央においても幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。
- しかし、長慶の死後に幕政を牛耳ろうと目論んでいた松永久秀と三好三人衆にとっては、そのような義輝は邪魔な存在であった。久秀と三人衆は足利義稙の養子・足利義維(義輝の叔父)と組み、義輝を排除して、義維の嫡男・義栄(義輝の従兄弟)を新将軍の候補として擁立する。一方で義輝が頼みとする近江六角氏は永禄6年(1563年)の観音寺騒動以降、領国の近江を離れられなくなっていた。
- 永禄8年(1565年)5月19日、久秀と三好三人衆は主君・三好義継(長慶の養嗣子)とともに義栄を奉じて謀叛を起こし、二条御所(二条御所武衛陣)を軍勢を率いて襲撃した(永禄の変)。義輝は名刀を振るって奮戦したが衆寡敵せず、最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり、殺害された。 享年30(満29歳没)。
公方様午前ニ利釼ヲアマタ立ラレ度々トリカヘ切崩サセ給フ御勢ニ恐怖シテ近付申ス者ナシ御太刀ヲ抛テ諸卒ニトラサシムル體ニテ重而御手ニカゝル敵數輩也サスカ武将ノ御器量コソ勇々シケレト奉譽聲タウゝタリ
(足利季世紀)十九日急に二條の第を圍み、矢砲を縱發す。義輝、左右に謂つて曰く、敵は誰と爲すと。沼田上野介馳せて門樓に登り、呼んで曰く、夜撃する者は誰ぞ矣、與に須らく名を掲ぐべきなりと。一兵前んで曰く、君の陰謀已に發覺し、爲めに三好の代官松永弾正來り攻む。更に漏るる路有るべからず、疾く應に死を決すべきなりと。沼田入りて報ず。義輝の母、慶壽太夫人涕を酒ぎ謂つて曰く、變慮に至る、將軍須らく菟るべし、渠等の訟獄する所、枉げて其の意に應じ、以て社稷を保つべし矣と。
(略)
義輝親自ら眉尖刀 を揮ひ、出でて𢫵戰す。藤道・福阿彌・輪阿彌・武田信景・杉原晴盛・朝日新三郎・摂津絲丸・谷口民部丞・西川新右衛門・匹田彌四郎・松井新次郎・西面左馬允・心藏主金阿彌等先んで進み、禦戰撃闘し、死傷する者多く、賊の一隊を郤く。尋いで義輝將に再戰せんとす。隆是・兵部・荒川晴宣・二宮彌次郎・寺司與三郎・飯田頼次・木村小四郎・松原小三郎・栗津甚三郎・同仙千代・台阿彌・松阿彌・慶阿彌・竹阿彌等諌めて之を止め、各進撃して戰ひ、多く賊兵を斬殲せり。
義輝猶ほ將に出でんとす、太夫人袂を控へて强ひて抑止するも、揮つて出で奮撃す。賊辟易す。久秀衆を励まして縱射せしめ、肉薄して登る。義輝自ら金銀資材を庭上に投げ散らすに、賊先を争うて奪略す。其の際に乗じて複た電撃し賊百餘人を斬る。賊猶ほ前み逼る。命じて火を營裏に縱ちて寝殿に自裁す。時に歳三十。
太夫人所在亦た火を縱つ。或 避け去るを勤むるも聴かず、自ら火中に投ず。侍衛殉ずる者十八人。
- この時、義輝の生母である慶寿院も殉死している。
十九日卯乙三好左京大夫義繼。松永右衞門佐久通率兵圍二條御所。將軍家奮戰之餘御自殺。慶壽尼公同投火。其餘從臣多戰死。
五月十九日午時大樹有事。御母儀慶壽院殿。御舍弟鹿苑寺殿同時。討手三好左京大夫義繼。松永右衞門佐久通以下也。
みよし(三好)ぶけ(二條武衛陣)をとりまきて。ぶけ(足利義輝)もうちじににて。あとをやきくろづち(黒土)になし候。ちかごろちかごろことのはもなき事にて候。
- 辞世の句
五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで
- この時、相国寺の塔頭鹿苑院の院主になっていた弟の周暠も松永らの命令を受けた平田和泉守に誘い出され、小姓とともに京都へ行く途中で殺害された。なお、小姓は周暠が殺害された直後に平田を殺害した。(美濃屋正宗)
- 法号光源院融山道圓
六月七日申壬此日。
從四位下源義輝。左中將。征夷大將軍。五月十九日有事。同六月七日贈左大臣從一 位。陣宣下。號光源院。法名融山道圓。上卿帥中納言。奉行職事重通朝臣。ぶけぞうくわんのせんげあり。左大臣。じやうけい山しな。ぶ行頭中將。辨右中弁なり。
剣豪将軍
- 剣術をよくし塚原ト伝から「一ノ太刀」の伝授を受けたという。
- 剣豪将軍と渾名される。すでに江戸時代の書物で自ら剣を振るったという記述が散見される。
義輝公も今は是までなりと思召ければ、辭世と思しくて「五月雨か露か涕か郭公我名を揚げよ雲の上まで」かくなん詠じ捨給ひて、御劔を抜持、かけ出給ひ、鎧武者三騎切倒し、多勢をめがけ進み給ふを、三好が郎等池田丹後、妻戸の陰に隠れ居て、御足薙て打倒し、障子を以て押伏奉り、上より鎗にて突通す、其時御殿の内、火燃え出、黑煙御所中に滿て、御首は取得ずして退きける
時に永禄八年五月廿九日、三好松永等義輝公へ清水詣を勧め奉つり、公も之に赴むかんと為られし時、松永等路次の警固と詐り軍勢を御所近く押寄、不意に鬨を作りて討入しかば、御所中の武士周章騒ぎて戰ふと雖も、俄の事故身体を堅むる隙なく近習小姓の面々思ふ程戰ひて皆々討死したりけり、されど義輝公も自分■敵を切拂ひ給ひて終に御自害あられけり
これらが史実というわけではない。ただし、当時の社会でこのように考えられていたのだという事例として挙げておく。
鷹狩り
- 鷹狩りを好み、記録に残るだけでも幾度も鷹狩り関連の記事が残る。
- 天文17年(1548年)9月17日
- 天文21年(1552年)3月18日
- 永禄3年(1560年)1月5日:山城平岡
- 永禄3年(1560年)3月1日
- 永禄4年(1561年)3月19日:山城炭山
- 永禄6年(1563年)3月1日
- 永禄7年(1564年)3月1日
- 永禄7年(1564年)11月16日
- 永禄8年(1565年)2月22日
義輝、鷹及び雉を献ず、之を皇子(誠仁)等に頒ち賜ふ、
- 永禄8年(1565年)2月27日:西岡
小説に見る義輝
- 司馬遼太郎の小説では、松永弾正に攻められた際、足利家伝家の宝刀である「大典太光世」「鬼丸国綱」「大包平」「九字兼定」「朝嵐勝光」「綾小路定利」「二つ銘則宗」「三日月宗近」「童子切安綱」などの名刀を振るい奮戦したとしている。
- なおこの、(名物刀かどうかはともかくとして)刀を取っ替え引っ替えして戦ったという文章の元と思われるのは、「日本外史」(あるいはそれが参照した「足利季世記」)であるとされる。
出傳家寶刀十餘口。更取出鬪刀。皆缺折。因發庫。盡散其珍寶于庭。
(日本外史 巻之九足利氏下 永禄八年)公方様御前ニ利劔ヲアマタ立ラレ度々トリカヘ切崩サセ給フ御勢ニ恐怖シテ近付申ス者ナシ御太刀ヲ捌テ諸卒ニトラサシムル體ニテ重而御手ニカヽル敵數輩也サスカ武將ノ御器量コソ勇々シケレト奉譽聲タウ/\タリ
(足利季世記 光源院殿御最後之事)
関連項目
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