本阿弥光甫
本阿弥光甫(ほんあみこうほ)
本阿弥分家、光二系4代
次郎三郎
薫治
号 空中斎
生涯
- 幼名は三太郎、次郎三郎。諱は薫治。
- 空中斎と号す。法橋、寛永18年(1641年)に法眼。
早熟
- 加賀前田利常および前田綱紀に重用された。
延寶の金澤圖を見るに、仙石町の中程の東側なる邸地を本阿彌光甫と記載す。按ずるに光甫は利常卿小松に在城し給ふ頃り、刀劒の手入方を命ぜられ、利常卿薨逝後綱紀卿も命ぜられし故に、京都より金澤滞留中の止宿として邸地を賜ひ、爰に滞在せしなるべし。
- 早熟で、15歳の時に「甲斐国江」と「新身藤四郎」、16歳で「烏丸藤四郎」、18歳で「豊後藤四郎」と天下の名物を研いでいる。
- 鑑定も上手で、前田家の重臣中川長種が差していた無銘左文字を越中郷義弘と見破り、研いだ所百枚の折り紙が付き、名物「中川江」となった。
- また「数珠丸」の拵えを寄進している。
- 當麻を正宗に極めた話がある。
又混見摘寫に、微妙公(前田利常)夫れゝ箱へ寄せ置きたる正宗等の重器の刀劒を、本阿弥光甫に手入方命ぜられし處、正宗の箱の内に當麻の腰物を入れ置かれたるを、光甫見て、是は御家に隠なき光甫の御腰物なり。然るを正宗の箱へ入れ置かせらるゝは、利常卿の御眼力つよきゆゑ也。必ず正宗に可也物と思召しての事なるべし。砥を情に入れ磨き候はゞ定めて正宗に成るべく、預り申し度しと願ふ。老中詮議の上光甫へ渡されしに、請取り京都へ歸り、種々工夫して磨き上げ、江戸の家元へ極めに遣しけるに、遂に正宗正真なりと極り、御家へ上げゝりといふ事を載せたり。
- 三条小鍛冶作の長刀の古鞘の逸話に名前が残る。
松雲公(前田綱紀)夜話録に云ふ。松雲公幼少の御時、御家に傳はりける小鍛冶の御長刀をば、御奥御寝間の御上段鴨居の上に微妙公(前田利常)の御指圖にて掛けさせられて置かれたり。其の頃今枝民部年寄女中松村・今井杯へ、必ず穢ある女中など此の御間の内へ入り申す間敷と堅く申付け置きけるに、つやと申す女中穢有之處、風と右の御間へ入りけるに、其の儘御長刀落ちて鞘はづれ、畳よりねだまで切り込みたり。然れども刄には少しも相違なし。今井・松村など殊の外恐れける。其の後、右御長刀の鞘御改被成、重々上箱へ入れ、蒦入れに被仰付、其の上にしめ縄を御はらせ、薪丸の御土蔵へ御納めに成りたり。其の頃古き鞘をば本阿弥光甫拜領仕度旨相願ひ、即ち被下けるに、或時疫病のやう成る頗はやり、本阿弥家の者共の内にも數人煩ひける處、右小鍛冶の御長刀の古鞘を戴かせ候へば、忽ち本復いたしたる由にて、本阿弥家の者共殊の外驚きけるよし、享保四年十月九日御意也と。
書物
本阿弥行状記
- 文筆の才もあり、「本阿弥行状記」の上巻は光甫が編集したもの。
空中斎秘伝書
- 承応2年(1653年)8月16日の奥書がある「空中斎秘伝書」に名を残すが、実は「竹屋家伝刀絵図目利書」の注記を集めそれを潤色したものという。光甫が筆写して門人に与えたもので、光甫の著ではない。
享保名物帳
系譜
- 家督は嫡子の本阿弥光伝が継いだ。
- 光伝とは別に、光甫の五男本阿弥光山が分家したのち加賀前田家のお抱え鑑定家となる。「寛文十一年侍帳」に「百五十石 組外 本阿弥光山」と書かれているのが初見とされる。ただし、光甫自身が「加賀大納言利家卿いまだ御小身の時より親光二に御扶持を被下」と述べており、光二の時代からお抱え鍛冶であったと見て良い。
- 光甫は三百石の扶持を与えられ、その五男本阿弥光山は光甫が隠居料としてもらっていた知行にさらに百五十石を加増されたとする。
関連項目
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