獅子王


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 獅子王(ししおう)

太刀
無銘 (号 獅子王)
刃長77.3cm、反り2.7cm
附 黒漆太刀
総長102.0cm
重要文化財
東京国立博物館所蔵

  • 平安時代末期の大和の刀工の作と見られる。
    • 豊後貞秀、または備前実成ともいう。
  • 鎬造り、庵棟、腰反り高く、魳鋒。生ぶ中心、目釘孔1個。
  • 柄鮫皮包み、鞘黒漆、金具は山銅で黒漆塗り。目貫は丸に三つ巴紋。鍔は練皮木瓜形四方猪の目透し、大切刃は銅木瓜形。帯執りは茶革。緑錦包、黒糸巻、脚金物の間隔が広く、石突と青金の間隔が狭い。
  • 春湊浪話

    賴政卿鵺を射られし時、朝廷より獅子王といふ御劔を賜りし事、源平盛衰記に見えし、是は備前助平が作といふ、いかに傳へ來りしか、後は播州の赤松家の重代のものとなる、赤松左兵衞尉廣英一に云廣秀まで傳へし、是を後□村左兵衞尉といひて、慶長五年の冬同州にて廣英自害して、赤松家斷絶の後、土岐三郞は賴政の遠孫なる故に、獅子王の太刀を賜り、今も其家にありといふ

 鵺退治

  • 頼三位頼政が、退治の恩賞として近衛帝より賜ったという。
    鳥羽天皇よりの相伝ともいう。また一条天皇の時に造らせたもので、鞘に獅子の螺鈿があったともいう。またこの時、鵺にとどめを刺したのが「骨食(こつしょく)」という短刀とされる。

    第76代近衛天皇は、在位永治元年(1141年)12月7日~久寿2年(1155年)7月23日。
  • その後、二条院の頃にもという怪鳥が禁中において鳴き、しばし帝のこころを悩ました。この時も頼政が召し出され、暗闇の中見事に怪鳥を討ち取った。この時も帝の感心ひとしおで、御衣を与えたという。
    第78代二条天皇は、在位保元3年(1158年)8月11日~永万元年(1165年)6月25日。

 由来

  • 鞘に獅子の螺鈿細工があったためという。
    • ただし現在この鞘は失われており、黒漆糸巻太刀拵が附く。拵は黒塗鮫柄で糸巻は欠落しており、鎌倉末期の製作とされる。

 来歴

 頼頼政

  • 頼頼政が朝廷より賜ったもの。
    頼頼政(みなもと の よりまさ)
    頼頼政は、兵庫頭源仲政の長男として長治元年(1104年)に生まれた。摂津源氏の一族で、源頼光の玄孫にあたる。
     保元の乱平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。相国入道平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。これにより頼三位頼政と称された。
     平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。計画が露見してしまったことから準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れると、渡辺唱の介錯で腹を切って自刃した。(以仁王の挙兵)。治承4年5月26日(1180年6月20日)没。享年77。
     以仁王と頼政の挙兵は短期間で失敗したが、その影響は大きく、以仁王の令旨を奉じた源頼朝や源義仲、甲斐源氏、近江源氏などが各地で蜂起し、治承・寿永の乱の幕を開けることになる。
    上記「鵺」の逸話で、近衛天皇の御代には兵庫頭に任官されたころであり、二条天皇の御代には内昇殿を許され従五位上に昇叙したころである。従三位に昇叙するのは最晩年の治承2年(1178年)12月24日である。

 斎村政広

  • 豊臣期には、頼三位頼政の末、土岐頼政の後裔の但馬竹田城主斎村(赤松)政広が所有していた。
    ただし赤松氏は村上源氏の後衛を称しており、赤松氏に伝来した経緯はよくわからない。
  • 斎村政広は、関ヶ原の役では当初西軍に加担し細川幽斎の居城である丹後田辺城を攻めているが、石田三成が敗れると亀井茲矩の誘いを受けて徳川方に寝返り、亀井と共に西軍に与していた宮部長房の居城・因幡鳥取城を攻めている。

 家康

  • 関が原の戦い後、鳥取城を攻めた際に城下を焼き払った罪で斎村政広はひとり罪を被せられて鳥取の真教寺で自害させられ、「獅子王」は家康に没収されたという。
    斎村政広は、赤松政秀の子で官名は従五位下左兵衛佐。赤松広秀(広英)あるいは斎村政広と名乗る。名物斎村貞宗」にも名を残している。斎村政広の正室は宇喜多直家の娘であり、政広は宇喜多秀家の妹婿に当たる。
     斎村政広の供養塔が兵庫県養父市にあり、そこには「慶長五年十月廿八日、三十三歳逝、前竹田之城主赤松左兵衛広秀」と刻まれている。久松山眞教寺養父市:赤松広秀の供養塔

 土岐頼次

  • その後、土岐頼次が徳川家康に拝謁した際に、頼次を土岐家の嫡流として認め、本領を安堵されて旗本になっている。その時にこの「獅子王」を与えたという。
    土岐頼次は、斎藤道三に追放された美濃守護職土岐頼芸の次男。この時に本阿弥光徳本阿弥光瑳も拝見したと、本阿弥光甫に話している。

 異説

  • 一説に、獅子王を拝領したのは土岐頼次(二郎、左馬助、号見松)ではなく、その子土岐頼勝(左馬助・内匠頭・土佐守)が拝領したのだともいう。

    伝曰、播州斎村左衛門広秀依石田党、慶長五年庚子頼勝駈播州分捕高名、是時分捕之献大神君、同十一月二十八日広秀或左兵衛於因州鳥取而伏誅、獅子王剣以賜頼勝矣

 高家土岐家代々

  • 土岐頼次の長男頼勝の子孫は高家旗本として、また三男頼泰の子孫は旗本として幕府に仕えた。

 明治天皇

  • 明治15年(1882年)6月17日、土岐頼近から東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)を通じて明治天皇に献上された。「明治天皇紀」の15年6月17日条に高倉天皇より土岐家の始祖である源頼政に下賜されたと伝わる獅子王の刀を明治天皇に献上したと残る。

    十七日 元老院等外二等出仕土岐頼近獅子王剣を獻上したるを以て、金三百圓を賜ふ、獅子王剣は高倉天皇の源頼政に賜ひしものにして、後徳川家康の手に歸し、家康其の臣土岐頼勝に與へしが、爾来子孫に傳來して頼近に至りしものなり

    幕末の当主は土岐頼義。没年は不詳で、明治10年(1877年)頃には土岐頼近が当主となっていた。土岐頼近は天保5年(1834年)生まれ、明治2年(1869年)に太政官玄関勤番。同年12月に士族編入。明治13年(1880年)に元老院書記生。華族令の内規には元高家・交代寄合となっていたが、授爵内規では高家は一律省かれてしまう。頼近は明治11年~16年頃にかけて二度請願しているがいずれも不許可となっている。

    東久世通禧は七卿落ちで長州に逃れた尊王攘夷派公卿の1人。神奈川府知事、開拓長官を経て明治4年(1871年)には侍従長などの要職を歴任し、後に貴族院副議長・枢密院副議長に至った。東久世家は村上源氏久我家の分家で、家格は羽林家。子爵相当だったが、明治維新での功が考慮されて伯爵とされた。

 東博




 大隅廻氏蔵「獅子王の剣」

  • 大隅国の(めぐり)氏は頼政の子孫を称する。
    平安時代末期に源頼政の孫宗綱、広綱、有綱の兄弟がこの地に配流され、廻村に築城(仁田尾城)し、子孫は廻氏を称した。
  • 廻氏は、「獅子王の剣」のほか、鵺にとどめを刺したという金剛剣を伝承していた。
  • 後裔の廻頼次は、「金剛剣」を寛文13年(1673年)に大隅曽於郡福山郷福山の宮浦神社に奉納した。これは刃長七寸四分で、樋をかいた無銘の短刀であるという。

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