数珠丸恒次


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 数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ)

太刀
銘 恒次
数珠丸
刃長82.1cm、反り3.0cm、元幅4.0cm、先幅2.0cm
重要文化財
本興寺所蔵(兵庫県尼崎市)

Table of Contents
  • 備中の刀工青江恒次が打ち鍛えた名刀。
  • 2尺7寸7分。本造り、中心うぶ、目釘孔1個。目釘孔上に「恒次」の二字銘。後の恒次とされ、これは建長(1249)ごろの恒次であるとする。
  • 天下五剣の一つで、享保名物帳にも記載されている。

    珠数丸恒次 在銘長二尺七寸七分 無代 身延山久遠寺
    宝物の太刀也。由緒不知。後の恒次なり。光甫物数寄の拵、蓮華の紋にして、四分一すりはがし也

    法主大上人之御太刀ト云(享保八年本)

    なお「数珠」と「珠数」は同じ意味で一休宗純の昔から表記のブレがある。文学作品で見ても、青空文庫で「数珠」と「珠数」を検索するとほぼ同じ出現回数となっている。ここでは混乱を避けるため、引用文中を除き文化財登録に従い「数珠丸」とする。

  • 詳註刀剣名物帳

    この太刀は、昔し日蓮上人初めて身延山を踏査する時、当時山林に草賊棲みて往々旅客を脳()す。上人ひとり登りたまふは危しとて止めたれども日蓮聞入す此に於て山の麓南部と云地に住る郷士この太刀を日蓮に贈りて護身の用とす、日蓮太刀の柄へ珠数をかけて山へ登り恙なく踏査して草庵を結びたりと云ふ。故に珠数丸とは呼ぶなり。日蓮遷化同山の宝器となりて今も身延にあり。本阿弥光甫日蓮宗の信者にて太刀の拵を寄附せしものなり、この太刀は貞治の恒次なりと云ふ。

  • 享保名物帳では「光甫物数寄の拵」とし、本阿弥光悦の孫の光甫好みの拵えであったという。ただし現存するものには別の拵がついている。
  • また詳註刀剣名物帳では今は久遠寺にはないと書いている。

    「補」この恒次は今は身延山に無之由なり(詳註刀剣名物帳

    後に分かる伝来によれば、大正中頃には(紀州徳川家から?)ある華族の家に伝わり、杉原祥造氏が買い取る時期と重なると考えられる。

 由来

  • 日蓮宗(法華宗)を開いた日蓮は、鎌倉幕府や諸宗を批判したとして文永8年(1271年)に捕らえられた後に佐渡へ流罪となる。文永11年(1274年)春に赦免となり、その後、波木井実長の招きに応じて身延に入山する。波木井(南部)実長より身延山を寄進され身延山久遠寺を開山する。「数珠丸」は、この前後に寄進されたものである。
  • 寄進した人物には二説ある
    1. 波木井三郎実長より寄進された ※実長は南部氏ともいう。後述
    2. 北条弥源太より寄進された


 波木井三郎実長説

  • 日蓮上人(立正大師)が身延山を開山する時に、麓の信徒大檀那、地頭波木井三郎実長より寄進されたもので、破邪顕正の剣として剣の柄に数珠を巻いて佩いていたためにこの名がついたという。
  • 一般には、こちらの波木井氏寄進説が流布している。

 北条弥源太説

  • この波木井氏寄進とは別に、日蓮上人が入山する3ヶ月前に北条弥源太が大小二振りを寄進しており、上人がこれに次のような返信をしている。この時の大刀が数珠丸であるともいう。

    又御祈祷のために御太刀同く刀あはせて二つ送り給はて候、此の太刀はしかるべきかぢ(然るべき鍛冶
    作り候かと覚へ候、あまくに(天国)或は鬼きり或はやつるぎ(八剣
    異朝にはかむしやうばくや(干将莫耶)が剣に(いかで)か ことなるべきや
    此れを法華経にまいらせ給う、殿の御もちの時は悪の刀
    今仏前へまいりぬれば善の刀なるべし、譬えば鬼の道心をおこしたらんが如し、あら不思議や不思議や、後生には此の刀を
    つえとたのみ給うべし、けはしき山あしき道つえをつきぬればたをれず、殊に手をひかれぬればまろぶ事なし
    (善悪二刀御書)

    北条弥源太は、鎌倉幕府の執権北条氏の一族という。

  • しかしこの太刀三条小鍛冶宗近の作と伝わり、備中青江恒次作ではなくなる。同時に久国作の短刀も寄進されている。

    太刀 三条小鍛冶宗近作 二尺一寸 一腰
     蓮祖の所持諸弘通の節之レを帯す、北条弥源太殿より之レを献ず
     
    劔 久国作 九寸五分 一口
     蓮祖弘通の節笈中に入る
    (富士大石寺明細誌)

 来歴

  • 数珠丸恒次は、日蓮上人の三遺品として身延山久遠寺に保管されていた。
  • 江戸期になり、本阿弥光甫はこの拵えを蓮花にした四分の一すり剥がしの金具付きにして奉納している。
  • のち紀州徳川家に伝わるが、時期は寛永末ごろ(1645年まで)とされる。
    徳川頼宣(紀州家祖)および徳川頼房(水戸家祖)の母であるお万の方(養珠院)は、熱心な日蓮宗徒であった。実父は勝浦城主正木頼忠だが、養父の蔭山長門守氏広の家系が日蓮宗であり、その影響を受け日蓮宗に帰依したと思われる。
     一方家康は言わずと知れた浄土宗であり、慶長13年(1608年)に江戸城で行われた「慶長宗論」では事前に日蓮宗の僧を襲わせ、結果浄土宗側が勝利した。家康のやり方に抗議し日蓮宗の日遠(にちおん)は、身延山法主を辞し家康が禁止した宗論を上申する。激怒した家康は日遠を捕まえて駿府の安倍川原で磔にしようとしたため、お万は「師の日遠が死ぬ時は自分も死ぬ」と、日遠と自分の2枚の死に衣を縫った上、日遠よりも三尺高く磔るよう2人の息子を通じて願い出ている。
    「於満様御答ニハ難有御言葉、自分ガ則チ今ノ細工モ日遠ヘ選別ノ此二品ナリ、此白練リノ袴ハ日遠カ死後ヲ隠サン爲、又女中ニ申付シ黄ノ袴ハ其節自ラ着用仕ラン爲ナリ、夫ニ付御両所(頼宣・頼房)ヘ折リ入テ御願御座候、自分トテモ御賢察ノ通リ法華経宗門殊ニ久遠寺日遠事年久シク信仰仕リ候ヘバ、自分ヘモ御惜シミ掛ルハ必然ナリ、左アレバ自分事モ日遠同罪磔成敗ニ行ハルヽ様御前(家康)ヘ御取成下サルヘク候ト御願アリ」※便宜のため読点を付けた
     驚いた頼宣・頼房(ただし満年齢で当時6歳と5歳)がすぐに家康に面会してお万の言葉を伝えると、お万の覚悟の程を知った家康は考え直し、仕方なく日遠を赦免している。この行動は当時話題になったと見え、お万は後陽成天皇による「南無妙法蓮華経」と認めた宸筆を受け取っている。
     家康死後の元和5年(1619年)8月、お万は身延山で法華経一万部読誦の大法要を催し、満願の日に七面大明神(七面天女)を祀る七面山(しちめんさん)に向かった。なお身延七面山は女人禁制であったが、このお万の登頂以降禁制は解かれた。このため、お万の方は七面山女人踏み分けの祖とも称される。1653年(承応2年)、お万の方(養珠院)死去。遺骨は、遺言により大野山本遠寺に葬られた。また日遠は 寛永19年(1642年)示寂しており、養寿院の墓所は、この心性院日遠の墓の傍らに建立された。
  • または、明治維新後の明治初年、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中、寺宝を護るために紀州家に持ち込まれたともいう。
    久遠寺を寛永頃に出たとするのは松平頼平子爵の説とされ、一方高瀬羽皐は少年の頃(明治初年)に身延山で本刀を見たと語っている。いずれも確証のある話ではない。
  • 大正9年(1920年)10月に宮内省の刀剣御用掛の杉原祥造氏(兵庫県尼崎市出身)が、某華族の競売の中から発見し、私財を投じて海外流出を防いだという。
  • 身延山久遠寺に数珠丸を返納しようとしたが、引き取り条件が合わず難航する。真贋で揉めたと言う。
  • のち杉原氏の自宅前にあった本興寺に奉納の相談があり、大阪の篤信者である紙問屋の北風熊七翁から1万円(当時)の寄進があったため、大正11年(1922年)1月に山納されたという経緯がある。
    本興寺は兵庫県尼崎市にある法華宗本門流の大本山。室町幕府の管領細川満元が夫人の懐妊に際して男子誕生を祈願し、無事男子が生まれた礼として建立された。のち尼崎に上陸した三好長慶の保護を受け、弘治3年(1557年)には後奈良天皇の綸旨を受け勅願寺となっている。
  • 大正11年(1922年)4月13日、旧国宝に指定される。

    丙種 刀劍
    太刀 銘恒次(数珠丸) 一口
    兵庫県尼崎市別所村 本興寺
    (大正11年文部省告示第三百六十八号)

  • 現在も本興寺所蔵となっている。




 北条弥源太寄進刀(三条小鍛冶宗近作)の来歴

  • なお、北条弥源太が寄進した三条小鍛冶宗近作も盗難にあっている。こちらは昭和15年(1940年)6月14日夜に宝蔵の錠前が破壊されていることを発見し、内部を調べたが重宝に異常なしとして放置された。
  • しかし翌年4月15日に虫払いに際して長持を調べたところ、大聖人所持「三条小鍛治宗近の宝刀」、富田家寄進「波平行安」ほか計8点が紛失していることが発覚した。警察に届けるのも「警察署にすら盗人の逃げ入る当節である」ため秘匿するよう言われたという。

    総代は驚愕惜く處を知らず、是を宗務当局に申込むと、此又驚くべく当局は警察署にすら盗人の逃げ入る当節であると放言し、之を秘密に付すべしと命ぜり、依て爾来何等かの措置をとるものと信じ、隠忍今日に及びたるに、今以て其の様子も見えざるは奇怪と申す外なし。

  • その後は不明。


 エピソード

  • 佐藤寒山によると、備中古青江の恒次ではなく。古備前正恒の子、恒次が作者であると言う。
  • 土浦藩主土屋相模守子爵家にも、銘恒次とある太刀が残されている。




 波木井三郎実長(はきい さねなが)

  • 日蓮上人に青江恒次を寄進した「波木井三郎実長」については諸説あるが、甲斐源氏の流れという点では変わりがない。
  • 伝によれば、清和源氏新羅三郎義光の末裔に南部三郎光行という人物があり、光行は新羅三郎義光の後裔遠光の三男というところから、南部三郎光行と呼ばれていたという。この光行の三男または六男が実長であり、南部六郎三郎、南部六郎、甲斐国波木井(はきり)に住したことから波木井三郎などとも呼ばれていたとされる。
    文治5年(1189年)に藤原清衡を滅ぼした源頼朝は奥州統治に乗り出し、中でも南部馬の牧場を整備させるために遠光の三男、南部光行を派遣する。光行は実長を甲斐に残し、糠部一戸に行朝、三戸に実光、四戸に宗朝、九戸に行連、七戸および久慈に朝清を配置し支配した。こうして光行は奥州に地盤を築き、南部氏の祖となった。日蓮上人に青江恒次を寄進した「波木井三郎実長」は、その光行の子だが甲斐に残った流れとなり波木井と称した。
新羅三郎義光─新羅三郎義清─信義─┐
┌────────────────┘
└新羅三郎遠光─南部三郎光行─┬─一戸行朝【一戸氏】
               ├─南部実光【三戸氏→盛岡南部氏】
               │
               ├─波木井実長───┬実継【八戸氏・遠野南部氏】
               │  (六郎三郎) └波木井長義──長氏【波木井氏】
               │
               ├─七戸朝清【七戸氏、久慈氏】
               ├─四戸宗清【四戸氏】
               └─九戸行連【九戸氏】

清和源氏、新羅三郎義光の裔。義光の子信義、信義の子遠光、遠光の三男光行を南部三郎と称す。頼朝の奥州戦及び大仏供養の随院たり、光行五男あり、次男実光その家を継ぐ、実長はその三男なり。六郎又は六郎三郎と称す。波木井・御牧・飯野の三箇荘を領す。波木井に居りしが故に波木井殿と呼ぶ
(本化聖伝)

  • 当時、甲斐の国は山梨、八代、巨摩、都留の四郡に分けられており、波木井実長はこの巨摩郡の内の南巨摩(波木井・御牧・飯野)三郷の地頭であり、波木井(はきい、はきり)に居を構え一族が住んでいたために、自然にその地名をとり、波木井実長と呼ばれるようになったという。

 日蓮との関係

  • 文永6年(1269年)頃、鎌倉で日蓮の辻説法を聞き、これに深く感銘し日蓮に帰依した。
  • 文永11年(1274年)、佐渡流罪から戻った日蓮を甲斐国身延に招き入れ、西谷の地に草庵を構えて保護した。
  • 弘安4年(1281年)、十間四面の堂宇を建立寄進して「身延山妙法華院久遠寺」と命名、また実長も出家し法寂院日円と号した。

 七面天女(しちめんてんにょ)

  • 建治3年(1277年)、日蓮が身延山山頂から下山の道すがら、現在の妙石坊の高座石と呼ばれる大きな石に座り信者方に説法をしていたところ、信者の中に一人の妙齢の女性がいた。
  • 日蓮が、その女性に「あなたの本当の姿を皆に見せてあげなさい」といったところ、たちまち緋色の鮮やかな紅龍の姿に変じ「私は七面山に住む七面大明神です。身延山の裏鬼門をおさえて、身延一帯を守っております。末法の時代に、法華経を修め広める方々を末代まで守護し、その苦しみを除き心の安らぎと満足を与えましょう」と言い終えるや、七面山(しちめんさん)山頂の方へと天高く飛んで行った。
  • 日蓮は七面大明神を祀るべく考えていたが、遂に叶わず入滅する。
  • その後、日蓮六老僧の一人である日朗上人が日円(実長)と共に七面山に登頂している。永仁5年(1297年)9月19日に影嚮石(ようごうせき)と名付けた巨石の前に祠を結んで七面大明神を祀り、「影嚮宮」(ようごうのみや)と名付けた。これが七面山奥之院の開創とされる。
  • さらに後、元和5年(1619年)にはお万の方(養珠院)が女人として始めて七面山に登頂している。

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