小夜左文字
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小夜左文字(さよさもんじ)
短刀
銘 左/筑州住
名物 小夜左文字
刃長24.5cm、元幅2.4cm、茎長10.1cm
重要文化財
株式会社ブレストシーブ所蔵
- 左文字の作
- 表に左、裏に筑州住。
- 享保名物帳所載
小夜左文字 在銘長八寸三分 代千五百貫 京都
光甫覚書には、元幽斎老所持、三斎老へ伝る、其節玄旨老も御存命なり、能因法師の命なりけりの歌の心を以て御秘蔵にて御名付なり
一説に遠州に浪人ありしが、死後に一二歳の男子有て後家金谷へ此脇差を売に行けるが、小夜の中山にて切れて死す、脇差も失る、母の妹男子を養育して常に右の趣を語る、成人の後掛川の研屋へ弟子に遣す、或時浪人體の者来て左文字脇差の砥を頼む、其者語りけるは何年以前小夜中山にて女一人此脇差を持来る奪ひ取しが後日心許なく思ひ殺しけると云、右脇差を見る體にもてなし、即座に母の敵を討つ、其頃は掛川の城主山内対馬守と云ふ、右の趣御聞居召出されけるとか、脇差は対馬守殿へ上る、後ち黒田(筑前)の御家にも有る、浅野但馬守殿にも有り、土井大炊頭殿にもあり、京都町人の方に今在り、寛文七には五百貫なり
なお歌は能因法師ではなく西行。幽斎老と玄旨老は同一人物で細川藤孝のこと。本能寺の変後に「幽斎玄旨」(ゆうさいげんし)と号す。
一本に長八寸一分
由来
- この左文字の所有者であった浪人の後家が殺された上に、この左文字を奪われた。その後、叔母に育てられた息子が亡き母の仇を討つために、掛川の研師に弟子入りする。盗賊が奪った左文字を研ぎに出すことがあるだろうと読んでのことであった。ある時、強盗がこの左文字を研ぎに出してきて、「これは何年も前に中山で女から奪ったもので、後腐れの無いように女も殺した」と自慢話をしたため、左文字を見るふりをして左文字で仇を討ったという。
- その話を耳にした当時掛川城主の山内一豊が、その仇討ちをしたという研師を召し抱えるとともに、この左文字も入手する。
天正18年(1590年)の小田原征伐後~慶長6年(1601年)に土佐に移封されるまでの間に召し上げということになる。なお幽斎は慶長15年(1610年)8月に死去。 - その後細川幽斎に懇願されたために譲り、幽斎はその仇討話と西行法師の歌の一節からこの左文字に「小夜」と名づけ、以後「小夜左文字」と呼び愛蔵したいう。
年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山
(新古今和歌集 西行法師)- 年老いてからこの山をまた超えることができると思っただろうか。小夜の中山を越えることができるのは、命があるからこそだ。「小夜の中山」とは静岡県掛川市佐夜鹿(さよしか)の峠で、箱根峠や鈴鹿峠と並び東海道の三大難所として知られた。
- 年老いてからこの山をまた超えることができると思っただろうか。小夜の中山を越えることができるのは、命があるからこそだ。
来歴
山内一豊
はじめ研師から山内一豊が買い上げて所有。
細川幽斎
- のち細川幽斎が懇望したため譲渡されている。
- 本阿弥光甫の覚書によると、幽斎が愛蔵した「小夜左文字」は存命中に子の細川忠興(三斎)が受け継ぎ小倉藩に伝わる。
※「名物控」によれば、幽斎存生の頃にすでに三斎が一度手放し、さらに幽斎晩年に戻ってきたために「小夜左文字」と名付けたとする。
諸家
- その後、黒田家、浅野家などに伝わる。
土井家
- 浅野但馬守から土井利勝に移り、のち四男で越前大野藩の初代となった能登守利房に譲ったとする。
- 寛文5年(1665年)6月にこの土井家から本阿弥家に鑑定に出され千五百貫の折り紙が付けられている。
京都の商人
- 土井家を出た経緯は不明だが、享保名物帳編纂の際には京都の商人が所持していたという。
柴田果
- 昭和51年(1976年)渡辺国武氏蔵
- 昭和55年(1980年)時点では奈良県の渡辺礼二氏蔵。
- 現存
ページ頭の現所蔵者情報については、公開情報である国指定文化財等データベースに従う。
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