安宅切


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 安宅切(あたきぎり)


銘 備州長船祐定/大永二年八月日
あたき切 脇毛落(金象嵌)
名物 安宅切
二尺二分(長61.2cm、反り2.4cm)
重要文化財
福岡市博物館所蔵

  • 銘は、表「備州長船祐定」、裏「大永二年八月日」で、これは作者の祐定が1522年に作刀した際に入れたもの。
  • 中身は鎬造、丸棟、先反り、中鋒延びごころの刀。鋩子は、表は小丸、裏は掃きかける。
  • なかごは棟を磨り、先刃上り栗尻、鑢目切、目釘孔3個。
  • 中心に「あたき切脇毛落」の金象嵌銘がある。これは截断銘と呼ばれるもので、後世試し切りを行いその結果を金象嵌で入れたもの。
    脇毛落とは両腕を上げた状態で脇と脇を結ぶラインを断ち切ったという意味。
  • 鞘を青漆と金霰鮫で大きく色分けし、金具に各種の地金を用いた豪華な作り。
  • 鎺に「小判明寿」の針書があり、拵が埋忠明寿監修であることがわかる。また明寿と如水の死亡年から慶長3年から9年の間の製作と判断できる。

 由来

  • 「御当家御重宝故実」によれば、天正9年(1581年)の羽柴秀吉による淡路由良城攻めのときに、黒田孝高がこの刀にて城主の安宅河内守(安宅清康あるいは安宅貴康)を討ち取ったのでこの名がついたという。

    安宅切 祐定 弐尺弐歩 孝高公御陣刀之由安宅切の名其謂不詳、天正九年十一月孝高公阿波より淡路へ御渡海、三好の一族安宅河内守か居城由良ノ城を責給ひ、安宅没落ス、此安宅世に隠れなき剛強の勇士也、彼を孝高公御自身打取被成たる御刀なるへしと云々

    しかし、安宅河内守は降伏して安土に上り信長に拝謁しているため、別の人物を切ったものと思われる。

    安宅河内守がいずれなのかわからないが、その父とされている安宅冬康は一般に「あたぎ ふゆやす」と読まれ、安宅氏を斬ったとすれば読みは「あたぎ-ぎり」であることが本来だと思われるが、ここでは「日本刀大百科事典」にならう。

 来歴

  • 黒田家伝来。
  • 「黒田新続家譜」でも次のように記す。

    安宅切 祐定 弐尺弐歩
    天正九年十一月、黒田勘解由孝高、阿波より淡路え渡海、三好之一族安宅河内守居城由良の城を攻、安宅没落候由、安宅河内守世ニ聞え候剛強之勇士ニ而候を、勘解由孝高自身討取たる刀ニ而候故、安宅切と名付置候事。
    (黒田新続家譜)

  • 昭和57年(1982年)6月5日に重要文化財指定。
  • 現在は、福岡市博物館所蔵

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