本間順治


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 本間順治(ほんまじゅんじ)

日本刀研究家、文学博士
1904年(明治37年)4月16日 - 1991年(平成3年)8月29日
号 薫山

  • 日本刀のとりわけ古刀研究における権威であり、多数の著作がある。
Table of Contents

 生涯

 生まれ

  • 山形県飽海郡(現 酒田市)酒田本間氏の生まれ。
    酒田本間氏は、「本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に」という唄が流行るほどの財産を築き上げた一族で、絶頂期には三千町歩もの田地を所有したとされる。反あたり1石と換算すれば3万石相当となる。それだけではなく、天明の大飢饉の際には本間光丘が本間家の備蓄米二万四千俵を放出された結果、同藩ではひとりの餓死者も出さなかったといい、さらに寛政期には北海警備のために大砲10門を献上している。山形県酒田市には、この本間光丘を祀る光丘神社がある。
┌本間光丘
└本間光治──弥十郎光敬─┬光長
             └外衛光暉─┬長男  
                   ├光美──源吉光輝─┬光弥──光正
                   └光訓─┬光勇   │
                       └光三   └妹
                              ├──┬本間祐介
                        服部弥惣──敬治 └本間順治
                                    │
                              ┬○───夫人
                              └夫人
                                │
                   三矢静──三矢維顕──┬三矢宮松
                              └三矢重松
  • 酒田本間氏の第8代本間光弥氏の妹は、鶴岡藩士服部家から敬治を婿養子を迎えており、その子が本間順治氏である。
    8代本間光弥は明治9年生まれ。本立銀行頭取や信成合資社長を努めて地域経済発展に寄与したほか、光丘神社を創建し、光丘文庫を設立するなど社会事業にも貢献した。光丘の名は、酒田本間氏第3代本間光丘に由来する。
     酒田本間氏の9代目には光弥の長男光正が継ぐが、出征することとなり従兄弟(順治の弟)の本間祐介が後事を託されて後見人となっている。のち光正は昭和20年(1945年)3月に亡くなる。
  • 本間順治氏の父・本間敬治、および曽祖父・本間光美も愛刀家であったという。

    おおぢぢの名は光美であるが、旧藩の連中は外衛さんと呼んでいた。この外衛ぢぢは当時下屋敷にすんでいたが非常な愛刀家であり蒐集家であって蔵刀二千口を超過した。(略)
    外衛ぢぢの記録によるとこれらの刀の中で最も高価に購入したものが、三百円の助真光忠の在銘刀で、土佐吉光短刀七十銭が最下級ではなかったか。ぢぢは二万円の予算をたてて蒐集したとのことであるが、つかい切れなかったときいている。ともかく、外衛ぢぢがこれだけのものをのこしてくれたことが、曾孫のワタシを刀の専門家にまでしたおおもとである。

 國學院大学生

  • 本間順治氏は、大正12年(1923年)國學院大学文学部国文科に入学。翌年には在学中だが神津伯の元で刀剣鑑定学を学び、築地刀剣会で研鑽を積む。この時、同郷の先輩である三矢宮松に相談して紹介を受けたという。
    三矢宮松は、明治13年(1880年)鶴岡の生まれ。三矢家は庄内藩の士族で、祖父は藩校で典学を務めた。宮松は東京帝国大学から内務省入省。各県警察部長、内務部長を歴任。大正13年(1924年)9月、朝鮮総督府警務局長、大正15年(1926年)帝室林野局長官。根津美術館館長。戦後に文化財保護委員会専門審議会委員。愛刀家でもあり、「太閤御物刀絵図」中村本を所蔵していたことがあり、また国会図書館所蔵の「観智院本銘尽」に三矢宮松が解説を付けたものが便利堂から出版されている。

 文部省国宝調査嘱託

  • 昭和3年(1928年)に同大学を卒業後、文部省宗教局国宝調査室に国宝調査嘱託として勤務する。
  • 昭和の初め頃、長尾よねの世話により桜新町の長尾邸の近くに居住した。のち、よねの刀剣購入の際には度々相談に乗っていたという。
  • 昭和20年(1945年)8月、ポツダム宣言を受諾した日本は、一切の武器をGHQへと引き渡すこととなる。この情報を中島喜代一から入手した本間順治は、日本刀の保存に向け運動を行い、美術品としての価値を認めさせることに成功する。
  • 佐藤寒山「日本名刀物語」にも次のように書かれている。

     思いつめた私どもは、なんとかして刀剣を護らねばならない、救わねばならないと文字どおり東奔西走、進駐軍に嘆願やら説得やらで、八方手を尽くした。その第一線に立ったのが本間博士であり、及ばずながら私(佐藤寒山)も全力を挙げた。

    • この経緯は、「赤羽刀」の項に詳しい。
  • この頃、国宝保存会および重要美術品等調査委員会に諮問する原案のうち、刀剣に関してはもっぱら本間氏が作成したという。

 東京帝室博物館調査課長

  • 戦後、東京帝室博物館(昭和22年5月に国立博物館となる)にて鑑査官として兼務する。
  • 同館調査課長。
  • 昭和22年(1947年)5月、本間家の別荘「清遠閣」と庭園「鶴舞園」を開放して本間美術館が設立されると、その初代館長となる。
  • 昭和23年(1948年)2月日本美術刀剣保存協会が設立される。事務所は東京国立博物館内に置かれた。初代会長は細川護立氏。
  • 昭和25年(1950年)、文化財保護法が施行され、同時に文部省の外局として文化財保護委員会(現 文化庁)が設立されると、その初代美術工芸課長となる。

 文化財保護委員会専門審議会委員

  • 昭和35年(1960年)文化財保護委員会美術工芸課長退任。以後は専門審議会委員。
  • 昭和40年(1965年)本間美術館が財団法人化され、本間順治は理事長となり、本間祐介が館長となっている。
  • 昭和45年(1970年)細川護立の後を受け、日本美術刀剣保存協会の第2代会長となる。
  • 昭和43年(1968年)文化財保護委員会は文化局と統合し、文部省の外局として文化庁が発足する。
  • 昭和56年(1981年)日本美術刀剣保存協会の会長職を退く。
  • 平成3年(1991年)死去、87歳であった。

 号 薫山

  • 号の由来として、弟子の渡邉妙子(佐野美術館館長)は、本間自身の話として以下のように述べている。
  • 本間は刀を見て納得した時に鼻をクンクンと鳴らす癖があり、文化財保護委員会の同僚から「クンさん」という綽名を付けられ、これが「薫山」の由来となったという。

 両山

  • 本間順治(号 薫山)は古刀、また後輩の佐藤貫一(号 寒山)が新刀研究の権威であり、両者の号より「両山」と称される。
  • また日本美術刀剣保存協会が主催する「新作名刀展」では、特賞として高松宮記念賞、協会会長賞のほか、薫山賞、寒山賞の4つがある。

 関係する人物

  • 長尾よねに刀剣関係の相談を受けており、近くに住んでいたという。大の相撲好きであった中島よねの相撲観戦に何度も付き合ったという話が残る。

    ところで私には困ったときによく相談をした、有名な女傑がいたのですよ。これは「わかもと」という製薬会社の会長長尾欽弥氏の奥さんの長尾米子さんという人物です。宮内大臣を十年もやっておられたことがある田中光顕伯と縁の深い方のようです。(略)その長尾のばあさんのところへ私が飛んでいって、こういう大変なことになったのでと相談したのです。(略)当時長尾のばあさんも五十六、七才ですから、あまりばあさんでもなかったのですがね。
    (薫山刀話)

  • 終戦後しばらく、井の頭線の富士見丘にあった中島喜代一邸の離れを借りていたという。


 系譜

  • 子息の本間紀男(としお)氏は、彫刻家、仏像彫刻研究家。
  • 昭和7年(1932年)1月東京の生まれ。
  • 小学校の時に酒田に疎開し、終戦後東京に戻り東京芸術大学 美術学部彫刻学科入学。卒業後は専攻科(現 大学院)に進む。
  • のち東京芸術大学美術学部大学院保存技術講座の副手、非常勤講師、常勤講師。昭和51年(1976年)に助教授。
  • 昭和39年(1964年)佛教造形研究所が設立され、初代所長となる。
  • 昭和59年(1984年)東京芸術大学より博士号授与。
  • 平成27年(2015年)3月21日没、83歳。

 関連項目


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