篠原三千郎
篠原三千郎(しのはら みちろう)
東京急行電鉄株式会社(東急電鉄)の5代目社長
服部貿易、服部時計店、田園都市、目黑蒲田電鐵、東京橫濱電鐵の取締役を歴任
- 旧字体で「篠原三千郞」とも書かれる。※サイトにより検索で同字扱いしないため注意が必要。
- 東京急行電鉄株式会社(東急電鉄)の5代目社長で、愛刀家として高名。
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生涯
- 明治19年(1886年)3月16日、岐阜県に鈴木鐵次郞の次男(6人きょうだい)として誕生。
- 明治26年(1893年)(生母の実家である)篠原國治の養子となる。養母ぶんは、西尾善右衞門長女。
- 岐阜師範学校中途退学。※このときまでは教師志望であったが東京大学進学を志した。このときの意図は養両親にも伝えず、ひそかに親友にのみ明かしていたという。
- 検定試験に合格して第一高等学校(旧制一高)へ入学。同窓には芦田均、重光葵、三宅正太郎、石坂泰三、渡辺銕蔵、正力松太郎、山田潤二、金子隆三らがいたという。明治40年(1907年)7月卒業。
- 明治44年(1911年)7月東京帝國大學法科大學獨法科を卒業。同級には五島慶太、丹羽武朝、神津康人、石坂泰三、重光葵、小笠原三九郎、正力松太郎、吉田茂らがいたという。
この一高から東大へと進んだ同級で「三木会(第三木曜)」というものが定期的に開かれており、そこには篠原のほか、五島慶太、亀山俊蔵、今村信吉、尾上登太郎、金子隆三、石坂泰三、芦田均、渡辺銕蔵、大橋八郎、田島道治、川上浩一、大屋敦、三宅正太郎、田辺加多丸(田邊加多丸、小林一三の異母弟。兄に田邊七六)らがいたという。
これとは別に「月月会(げつげつ会)」というものも定期的に開かれており、そこにも篠原のほか、三宅正太郎、山田潤二、吉村哲三、芦田均、田辺加多丸、青木栄作、窪寺?、川部佑吉、金子隆三、渡辺銕蔵、尾上登太郎らがいたという。
また関東大震災の時、たまたま篠原、芦田、三宅の3名で箱根に遊びに行き、関所跡に居たときに揺れが来たため、思わず電信柱にしがみついたという。
小林一三(阪急東宝グループ創業者)の母は甲州で五本の指に数えられる豪農小林家の長女・竹代で、父の七兵衛(甚八)はこれも一・二を争う素封家丹沢家から婿に入った人物。母は、長男・一三を生んだ年の8月に病死したため、実父は実家へと戻り、やはり素封家である下於曽の田邊家に再縁して七六、宗英、加多丸を儲けた(ほかに、かつ、碓、きよ志の3女)。つまり田邊家の3人は小林一三の異母弟(生家は異なる)ということになる。
長男の七六は衆議院議員(7期)で中央電力や姫川電力、日本軽金属の社長。次男の宗英は株式会社後楽園スタヂアム(現・株式会社東京ドーム)4代社長、新東宝の3代社長・会長。加多丸は日本勧業銀行の後、東宝の社長となった。また七六の長男・田邊圀男は山梨県知事(第49~51代。公選6~8代)、鈴木善幸内閣の総理府総務長官(29代)、沖縄開発庁長官(12代)を歴任。
新東宝(株式会社新東宝映画製作所)は、戦後昭和21年(1946年)東宝の労働争議をきっかけとして、十大スターが「十人の旗の会」を結成して組合を脱退し、「東宝第二撮影所」を母体として昭和22年(1947年)3月に設立された。翌年に株式会社新東宝。昭和36年(1961年)に倒産し、現在は国際放映株式会社となっている。※十代スター:大河内伝次郎、長谷川一夫、入江たか子、山田五十鈴、藤田進、黒川弥太郎、原節子、高峰秀子、山根寿子、花井蘭子。
- 同年逓信省に入省。管船局書紀。
逓信省 管船局
逓信管理局書紀 篠原三千郎
(職員録 明治45年)逓信省 管船局
逓信局書紀 篠原三千郎
(職員録 大正2年)逓信省 管船局
逓信局書紀 篠原三千郎
(職員録 大正3年)叙任及辭令
ヤルート島へ出張被仰付 通信事務官補 篠原三千郎
(官報 1914年12月08日)管船局は海運・船舶・船員を管掌していた部局。のち海務院、運輸逓信省海運局、戦後は運輸省海運局、現在は国土交通省海事局。ヤルート島はマーシャル諸島の主島。
- 大正7年(1918年)退官。
- 大正6年(1917年)11月服部時計店取締役。※ほか数社の取締役となっている。第一子が大正4年(1915年)3月に生まれており、恐らく大正の初め頃に結婚したと思われる。
株式會社(設立)
商號 株式會社服部洋行
本店 東京市京橋區銀座四丁目八番地
取締役ノ氏名住所
服部玄三
篠原三千郎
渡邉喜助
土方省吾
吉邨英恭
監査役ノ氏名住所
中川豊吉
津田今朝藏
(官報 1917年03月22日)株式會社(設立)
商號 株式會社服部時計店
本店 東京市京橋區銀座四丁目八番地
取締役ノ氏名住所
服部金太郎
服部玄三
吉川鶴彦
篠原三千郎
(官報 1917年11月22日)
- 大正10年(1921年)6月田園都市株式会社(現、東急/東急不動産の源流企業)取締役。
田園都市株式會社はかつて洗足田園都市にあった住宅地開発会社。理想的な住宅地「田園都市」開発を目的として大正7年(1918年)に渋沢栄一によって立ち上げられた会社である。大正11年(1922年)に洗足田園都市(現在の洗足地域)、 翌年大田区、世田谷区にまたがる多摩川台地区(現在の田園調布、玉川田園調布)の分譲を開始し、またその地の足の便の確保のため子会社により鉄道事業を営んだ。
- 昭和3年(1928年)5月目黒蒲田電鉄株式会社(現、東急)常務取締役。
- 昭和4年(1929年)5月東京横浜電鉄株式会社常務取締役。
- のち東急。
また私には篠原三千郎という友人がいる。彼は服部金太郎の婿で温厚な人で、田園都市株式會社の専務であつたが、これを目蒲に合併し、東急に合併したからこつちに入つて來た。服部金太郎が田園都市株式會社と荏原電氣鐵道の一番の大株主で、その婿だつたから入つて來たわけだ。私はこの篠原という友人を前の楯においた。そして小林一三を後のつつかい棒にした。いくら大風が吹いたところで篠原が先にいる、のれんに腕押しみたいなものだ。さつぱり倒れない。倒れかかつてくると、小林がつつかい棒をしてくれる。仕事をするときには私はそういう方式でやつてきた。
(七十年の人生 五島慶太)
- 昭和7年(1932年)東京光学機会株式会社(現、株式会社トプコン)取締役社長。
- 服部時計店精工舎(現・セイコー)の測量機部門を母体とし、昭和7年(1932年)9月1日創立。篠原三千郎は初代社長として昭和7年(1932年)9月1日~昭和19年(1944年)1月25日まで務めている。
- 昭和10年(1935年)7月帝国鉄道協会評議員。
- 昭和12年(1937年)東京商工会議所議員。
- 昭和14年(1939年)11月、小原光学硝子製造所(現、株式会社オハラ)の設立にも出資者として参加している。
この会社は遠く昭和十年、光学ガラス機会の日本の草分であった日本光学に、技術者として働いていた小原甚八氏の個人経営で始まったものの由であるが、大戦前、光学兵器が軍、特に海軍において重要視されるに至り、私の親友で現服部時計店主の服部正次社長の義兄である篠原三千郎君が、大部分を出資して株式会社として発足したものである。
(日本産業への愛着 大屋敦)
- 昭和19年(1944年)2月東京急行電鉄株式会社(東急電鉄)の取締役社長(5代目)。※昭和19年(1944年)2月21日~昭和20年(1945年)3月12日
同年2月11日付けで五島慶太が東条英機内閣の運輸通信大臣に就任している。
- 戦後公職追放を受けている
4.一般該當者名簿
篠原三千郎 東急社長
- 昭和21年(1946年)6月中央労働委員会委員。
- 昭和24年(1949年)内外徳田証券株式会社(現、東海東京証券)取締役社長。
- 昭和26年(1951年)6月朝日火災保険株式会社(現、楽天損害保険株式会社)監査役。
- 昭和26年(1951年)8月日本ベークライト株式会社(現、住友ベークライト株式会社)監査役。
- 昭和26年(1951年)8月東京急行電鉄株式会社相談役。
- 昭和28年(1953年)3月31日没。67歳。
- 五島慶太の弔詞
君ハ東京急行電鉄株式会社ノ前身タル田園都市株式会社、目黒蒲田電鉄株式会社ノ創立発起人トシテ、又取締役トシテ克ク創業ノ苦難ヲ切リ拓キ、続イテ私ガ目黒蒲田電鉄株式会社、東京横浜電鉄株式会社ニ関係スルヤ、推サレテ両社ノ常務取締役ヲ経テ、昭和十一年専務取締役ニ就任シ、私ノ片腕トシテ夙夜努テメ捲ムコトヲ知ラズ、其ノ緻密ナル計画ト剛胆為ス所可ナラザルナキ霊腕ト相俟ツテ業績ハ逐次昂リ、其ノ発展振リハ実ニ大正、昭和ニ亘リ日本私鉄界ノ一偉観タルヲ失ハズ、我ガ東京急行電鉄株式会社今日ノ大ヲ顕現セシメタル功績ハ水遠ニ記録サルベキモノナリ
斯クテ昭和十九年二月、私ガ運輸通信大臣トシテ入閣シタル後、私ニ代リ社長ニ就任サレ、終戦直前ノ未曾有ノ混乱ト難局ニ処シテ日夜魂ヲ砕キ、克ク社業ノ隆昌ヲ図ラレタルモ、昭和二十二年五月公職追放ノ身トナラレ、同二十五年十月追放解除ト共ニ爾来相談役トシテ、陰ニ指導ニ努メラレ、今日ニ至ル(略)
君ハ此ノ間、株式会社服部時計店取締役、東京光学機械株式会社取締役会長、小原光学硝子製造所取締役会長、内外徳田証券株式会社取締役会長、朝日火災保険株式会社監査役、日本ベークライト株式会社監査役外、東急系諸会社等十数社ノ重役ヲ歴任シテ才腕ヲ発揮セラレ、実業界ニ残サレシ功業ハ、足跡燦トシテ斯界ノ巨星タリ、又東京商工会議所議員ニ当選スルコト二回、或ヒハ復興金融金庫副理事長、中央労働委員会委員、労務法制審議会委員等トシテ公務ニ尽瘁シ、財団法人東横学園理事長、財団法人女子教育振興会理事トシテ女子教育振興ニ心ヲ致シ、財団法人服部報公会常務理事トシテ学術振興及ビ社会福祉ノ増進ニ尽シ、財界ハ云フモ更ナリ、各界ニ亘ツテ国家社会ニ貢献セラレシハ世人ノ均シク知ル所ナリ(略)
茲ニ謹ンデ会社ヲ代表シ弔詞ヲ捧グ
昭和二十八年四月四日 東京急行電鉄株式会社
葬儀委員長
取締役会長 五島慶太
刀剣趣味
- 学生時代から歌舞伎ファンで、中年より刀剣、書画、陶器を趣味としたという。
- 刀剣の一部は郷里にも置いていたようで、戦後進駐軍が刀狩りを始めた頃にはこれを心配する手紙を送っている。
万一進駐軍等持去る危険ありたる時は、村長立会の上先方の所属部隊氏名を確め、且受取を取りし上なうては絶対渡さぬ様願上候 以上
国宝七本 貞継 正恒 光忠 国宗 則房 守次 国俊(無銘)
重美七本 光忠 為衛 国包 雲次 助次 来国俊 景安
- 「篠原三千郎氏を偲ぶ」(東京急行電鉄)で本間順治氏が言葉を寄せている。
爾来、剣界に於ける篠原さんと私の交りは長く深く、其の間の思い出は多いが、其の中でも面白かつたのは、篠原さんが其の頃時めいた飛行機の中島喜代一さんから、名刀二振を強奪された一件である。
ことのおこりは、私を講師とする親和会なる愛刀家の連中の忘年会が、星ヶ丘茶寮で開催された際である。参会者の中には、中島喜代一、篠原三千郎、渡辺三郎、大塚栄吉(以上故人)、山田復之助、坂本修作、伊藤与三郎氏等の、実業界の錚々がおり、宴酣なころ、図らずも中島さんに対する集中攻撃が始まつたのである。云ひ出したのは誰であつたか記憶しないが、篠原さん、渡辺さんあたりが大いに闘将振りを発揮して論戦を展開した。まづ、「中島さんは、剣界に於いてはこの会の誰よりも後輩でありながら、その蒐集振りは物凄く、あたかも渡洋爆撃の感があり、名刀独占を企てるに於いては、我々が至極迷惑である。」と云へば、中島さんは、「お説の如く、自分は皆さんの大後輩で、何もわからず、これから大いに勉強するつもりであるが、多忙のために外で名刀を見ることが殆ど出来ない。それで勉強するには買つて見るより外に仕方がない。それで買つたものをいつまでも独占するつもりは毛頭なく、これだけは保存したいと云ふ気がおきる程に目が利かないのである。」と答弁した。
これにからんで誰かが、「それではもう勉強ずみのものがある筈である。それを割愛してほしい。」と迫る。中島さんが大きくうなづいて、「承知した。皆さんの欲しいものは譲る。」と云へば、また誰かが、「その時はお安く願ふ」と、なかなかに達者である。中島さんは、「それも承知した。私は皆さんより先に拝見したものがあるから、その見料として、原価から一割差引く。」と、えらい言明をしてしまつた。
そして、やがて新春の一日、杉並区久我山の中島邸で、連中が譲り受けるためのご蔵刀拝見の会が催されたのである。その時には流石に気がひけたか、誰かが「中島さん、ほんとうに譲つて下さるのですか?」と念を押したら、中島さんは「腹の中には皺がよつても、顔は決してしかめませんよ。」と、天晴至極なことであつた。
篠原さんが、国宝の古青江守次と助次の大小を強奪、即ち譲り受けられたのはその翌日で、使者は中島、篠原両家で可愛がられてゐた刀屋、金沢の石黒久呂君であつた。
当時肩書を「国立博物館調査課長、文化財保護委員美術工芸品課長」としている。
- 同書では、逆に刀を手放す際の話も載っている。
ところが、終戦後には篠原さんも名士のご他聞に漏れずにパージにかかられ、暫らくご不遇で、所謂筍生活をいささかされたようで、其の間やむなく蔵刀の若干を逐次処分されたのであるが、国宝・重要美術品の中でも、玄人眼で順位をつけた場合の下位のものから、まことに順序よく払はれるのを見て、ひそかに感嘆したのであつた。この処分の順序については、私に少しの意見をももとめられなかつたのである。
病床につかれた後にも、小康を得られた時には愛刀を見られたとのことであるが、病勢が悪化する数週間前に博物館の佐藤貫一君を呼ばれて、「愛刀は生きてるうちに然るべきところに譲るべきだと思ふ。出来れば博物館で買つてほしい。その金で床の中でも楽しめる懸物でも買ひ度い。」と話されたとのことであるが、その頃すでに再起不能を悟られたのであろう。ご逝去の数日後に、刀剣協会の理事会があつたが、篠原理事ご自筆の委任状が届いてゐた。おそらくは絶筆に近いものがあつたろう。席上で協会顧問石渡信太郎翁が「私はまだ愛刀を売り度くはないから、当分は生きるでしょうね。」と、ひどく淋しく笑はれた。
- 所持刀剣
- 短刀
- 銘 国吉。刃長一尺一分。昭和23年(1948年)4月27日重要美術品認定。
- 太刀
- 銘 国行。刃長二尺四寸八分五厘。昭和23年(1948年)4月27日重要美術品認定。
- 刀
- 無銘 伝友成。刃長二尺三寸七分。昭和16年(1941年)4月9日重要美術品認定。
- 太刀
- 銘 正恒。刃長不詳。昭和17年(1942年)12月16日重要美術品認定。
- 太刀
- 銘 基近造。刃長二尺三寸二分弱。昭和16年(1941年)9月24日重要美術品認定。
- 太刀
- 銘 信房作。刃長二尺一寸。昭和16年(1941年)4月9日重要美術品認定。
- 太刀
- 銘 為清。刃長二尺三寸六分五厘。昭和16年(1941年)12月16日重要美術品認定。
- 刀
- 無銘 伝光忠。刃長一尺八寸九分強。昭和10年(1935年)8月3日重要美術品認定。
- 刀
- 銘 備前国長船与三衛門尉祐定作/天文四年八月吉日。刃長二尺三寸四分。昭和23年(1948年)4月27日重要美術品認定。
- 太刀
- 無銘 古青江。刃長二尺四寸三分。昭和13年(1938年)5月10日重要美術品認定。
- 刀
- 無銘 伝青江。刃長不詳。昭和17年(1942年)12月16日重要美術品認定。
- 刀
- 無銘 伝弘行。刃長二尺四寸三分。昭和17年(1942年)5月30日重要美術品認定。
- 刀
- 銘 国広。刃長二尺ニ寸九分。昭和23年(1948年)4月27日重要美術品認定。
- 刀
- 銘 於南紀重国造之。刃長二尺三寸四分。昭和23年(1948年)4月27日重要美術品認定。
- 旧所持品
- 刀
- 無銘 伝国俊。刃長二尺四寸六分。昭和9年(1934年)3月20日旧国宝指定。のち吉野泰造。
- 太刀
- 銘 来国俊。刃長二尺四寸八分強。昭和15年(1940年)2月23日重要美術品認定。昭和30年(1955年)2月2日重要文化財指定。指定時所持者渡辺国武氏。のち渡辺礼二氏。
- 太刀
- 銘 貞継。刃長二尺三寸六分二厘。昭和9年(1934年)3月20日重要美術品認定。昭和13年(1938年)7月4日旧国宝指定。指定時所持者加藤陽三氏。
- 太刀
- 銘 助綱。刃長二尺四寸五分五厘。昭和13年(1938年)5月10日重要美術品認定。昭和37年(1962年)6月21日重要文化財指定。植田文次氏。
- 短刀
- 銘 則重。刃長八寸五分五厘。昭和8年(1933年)7月25日重要美術品認定。認定児所持者杉山茂丸氏。昭和24年(1949年)2月18日旧国宝指定。指定時所持者篠原三千郎氏。のち木村芳美氏。
- 太刀
- 銘 正恒。刃長二尺四寸五分六厘。昭和10年(1935年)5月10日重要美術品認定。昭和12年(1937年)5月25日重要文化財指定。指定時所持者岡山美術館。
- 太刀
- 銘 守次。刃長二尺四寸三分。昭和6年(1931年)1月19日旧国宝指定。指定時所持者杉山茂丸氏。のち篠原進氏。
- 刀
- 銘 奥州仙台住山城大掾藤原国包/寛永五年八月吉日。刃長二尺四寸五分弱。昭和13年(1938年)5月10日重要美術品認定。昭和33年(1958年)2月8日重要文化財指定。指定時所持者田口儀之助氏。のち田口輝雄氏。
系譜
妻
- なお篠原三千郎の先妻は、服部時計店(現セイコーホールディングス)の創業者である服部金太郎の五女・服部セイ(晴子)。
- セイ夫人は明治25年(1892年)10月生まれ、大正8年(1919年)死去。※生年からして、恐らく長女(第一子:恐らく静子さん)・次女(第二子:恐らく逸子さん)がこのセイ夫人との子であると思われる。
- また後妻である夏子夫人は、北海道の松尾留太郞の二女。
松尾留太郞の長女は本郷嘉之助(札幌水力電気株式会社社長、札幌電気鉄道取締役、札幌製氷株式会社取締役など)の夫人。
子ども
- 大正7年(1918年)刊の「人事興信録 5版」では次のようになっている。
篠原三千郎 株式會社服部時計店、駿豆鐵道株式會社各取締役、岐阜縣平民
養父 國治 嘉永六、九生、現戸主
養母 ぶん 嘉永五、七生、岐阜、平、西尾善右衛門長女
妻 セイ 明二五、一〇生、東京、平、服部金太郎五女、東京女學館出身
君は岐阜縣人鈴木鐵次郎の二男にして明治一九年三月十六日を以て生れ、同二十六年三月當主國治の養子となる、同四十四年東京帝國大學法科大學獨法科を卒業し現時前傾會社の重役たり、家族は尚長女靜子(大四、三生)二女逸子(同五、一〇生)あり(東京、麹町、平河町五ノ二五)
- 長女・逸子(加藤陽三氏夫人)。東京女学館卒業。この縁か、加藤陽三は刀剣所持者としても名前が出ている。
どうも生年にブレがあるようで、ある本には「嗣子進(昭和二年生)長女静子(大正四年生)二長逸子(大正五年生)三男省三(昭和三年生)三女桂子(昭和五年生)」とするものがあるが、どうもこれが一番正しいように思われるが一番稀な記述となっている。
ただし「静子」という娘がいたことは確かで、同窓の三宅正太郎が大正15年(1926年)に北京から静子あてに送った手紙(ゴジョウブデスカ。オヂサンモゲンキデス。)もある。また葬儀には「加藤陽三氏、長女加藤逸子さん」が並んで参列している。
また「篠原三千郎氏を偲ぶ」で”20年程前”とされる家族写真(桂子の七五三か)には、すでに加藤陽三夫人となっている長女逸子、長男進、次男省三、次女桂子となっており、静子および2人目の男子(名前不詳)は恐らくだがこの頃までに早世されていたのかもしれない。桂子の七五三と仮定してこの写真が撮られた時期を昭和11年(1936年)とすると、三千郎死去の17年前で、逸子が数えで20歳、進が9歳、省三が8歳、桂子が7歳となるため、無理のない年齢となる。
- 次男・篠原省三(田畑麦彦)昭和3年(1928年)3月生まれ。中学から慶應義塾。毎日新聞社、東映映画勤務。のち作家、実業家。
田畑麦彦こと篠原省三氏は、昭和3年(1928年)篠原三千郎とナツ(夏子。後妻)の間に三男として生まれ、平成20年(2008年)に80歳で没。名前が示す通り三男として生まれたが、恐らく次兄(名前不詳)が早世されたかで、省三氏を「次男」として記録しているものが多い。
夫人は作家の佐藤愛子(のち離婚)。
- 幾本かの日本刀を相続している。
- 刀 無銘 則房。二尺ニ寸九分。
- 刀 無銘(貞宗)(幅広ト号ス) 二尺三寸二分五厘 ※「御掘出貞宗」のこと。ただしこれが篠原三千郎氏からの相続分なのか、篠原省三氏が自ら購入したのかは不明。
- 次女・桂子。学習院大学教授・渥美昭夫氏夫人。
※本によっては「三女」とも書かれている。また桂子の生月について3月と書かれているものもある。上記の家族写真を見るに、桂子、省三はほぼ同年代に見え、少なくとも10年も離れているようには到底見えない。夏子夫人との立ち位置を見ても、(先妻ではなく)夫人との間に生まれた子であると思われる。恐らくは大正5年という生年は次女(逸子か)のものではないかと思われる。
渥美昭夫の兄は鹿島建設会長・渥美健夫で、渥美健夫の長男・渥美直紀の妻は中曽根康弘の二女・美恵子。
その他
- 実兄・鈴木順蔵
- 鈴木鐵次郞の長男。大正8年(1919年)4月~大正10年(1921年)2月まで東野村助役。大正10年(1921年)2月~大正12年(1923年)9月まで村長。東野村産業組合の長。
- 長男が弘道氏。
- 実弟・市岡郷三
- 鈴木鐵次郞の三男。大正2年(1913年)に賀茂郡福地村の市岡家を継いだ。明治39年(1906年)岐阜農林学校卒、東京中学。第一高等学校を経て大正4年(1915年)6月に東京帝國大學法科大學獨法科を卒業。
- 中川法律事務所に入り、大正14年(1925年)弁護士として独立。昭和12年(1937年)日本特殊塗料株式会社を起業。監査役を経て常務取締役。
- 夫人は市岡家の静枝。長男・正毅(東京物理学校卒、東京光学機械)、次男・正造(東京帝国大学医学部)、長女・禮子(静心=聖心?女学院)、
- 謡曲、笛を能くした。昭和7年(1932年)10月以降、多摩川能楽堂を管理。
多摩川能楽堂は、かつてあった田園調布の遊園地「多摩川園」内の施設。
- ※また「篠原三千郎氏を偲ぶ」(東京急行電鉄)では、「叔父篠原三千郞」として鈴木弘道氏(キヤノン尚光社常務:現、キヤノン商事)、「伯父篠原三千郞」として伊藤邦彦氏(東急車輛株式会社:現、東急車輛製造)がそれぞれ遺族として寄稿している。
- 同書では、「篠原さんの故郷を訪ねて」として郷里岐阜東野村(現、恵那市東野)を訪れており、そこで一族の名前が出ている。
筆者がお目にかかつたのは、篠原春子さん(姪・郷里の篠原家の当主)、伊藤たつさん(実姉)、市岡郷三氏(実弟)、鈴木弘道氏(甥)、鈴木きみさん(義姉)、篠原義次氏(分家の当主)、伊藤唯治氏夫妻(姪夫婦)、山田貞子さん(姪)(略)の方々であつた。
関連項目
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