田中光顕


 田中光顕(たなか みつあき)

土佐出身の政治家
陸軍少将、宮内大臣、元老院議官、会計検査院長

  • 初名は浜田辰弥。通称を顕助(顯助)、号は青山。
  • 刀剣趣味で知られる。愛刀家。
Table of Contents

 生涯

  • 天保14年(1843年)、土佐藩の家老深尾家々臣である浜田金治(充美。浜田光章の長男)と金沢正敏の娘である献の長男・浜田辰弥として、土佐国高岡郡佐川村(現・高知県高岡郡佐川町)に生まれた。叔父に那須信吾(浜田光章の三男)。
    濱田家は家老深尾家1万石の家臣(御勝平役兼御勘定役)で、格式は新小姓、二人半扶持。いわゆる郷士である。

    那須信吾は浜田光章の三男として生まれ、郷士・那須俊平の娘婿となる。土佐勤王党に加わり、坂本龍馬とも親交があり、龍馬脱藩の際には那須の家に一晩泊まり、国境の韮ヶ峠まで送っている。文久2年(1862年)に吉田東洋を暗殺して脱藩。翌年8月の天誅組の変に参加し、軍監を務める。五条代官所を襲撃、その後高取城攻撃を目論むも失敗に終わり、天誅組は熊野方面に退却する。信吾らも十津川郷へ退却する。十津川郷士の離反を受けて河内方面への脱出を試み、主将・中山忠光を脱出させるため決死隊の隊長となる。敵陣を大混乱に陥れたものの銃撃を受けその場で絶命した。享年35(満33歳没)。首は京都に運ばれ、翌10月、吉村寅太郎ら12名の隊士の首と共に粟田口に晒された。武勇に優れた怪力の持ち主で、身長は六尺(約180cm)近くあり、「天狗様」と称されたという。 走ることにおいては馬より速いとまで噂されたといい、片道2日かかる高知城下まで25里の道程を1日で駆けたとの逸話がある。なお田中光顕は、吉田東洋暗殺の際に信吾の頼みにより結果を佐川の深尾鼎(当主・深尾重先)の元に知らせる役目を果たしている。
  • なお佐川を出て脱藩する時に「田中顕助(顯助)」と名前を変えている。これは「濱田」と、祖父が「中村」家から養子にきていたため、両方から一字ずつ取ったとのだという。※十津川郷の田中邦男の家にいたからという説については本人が否定している。

 土佐勤王党

  • 文久元年(1861年)に高知に行き、武市瑞山の門に入る。
  • 土佐勤王党に参加している。
  • 文久3年(1863年)2月藩許を得て、橋本鉄猪、井原應輔、鳥羽謙三郎と上洛、4月に帰国。
  • 八月十八日の政変を契機として土佐勤王党が弾圧されると謹慎処分となり、翌元治元年(1864年)8月には同志を集めて脱藩する。この時、叔父の那須信吾から贈られた長船祐春二尺七寸の刀を差して国を出たという。

    國を脱走する時に那須信吾から貰つた刀を差して居た。信吾は遺物(かたみ)のつもりで呉れたのであらう。長い刀で二尺七寸あつた。長船の祐春といふ銘のある物であるが、それを差して國を出たのぢゃ。
    (伯爵田中青山)

    ただし那須信吾は田中光顕より前、文久2年(1862年)4月吉田東洋を暗殺した直後に脱藩しており、恐らく暗殺の前に深尾鼎への使いを頼まれた時に(信吾が死ぬかも知れないから)遺物として贈られたものではないかと思われる。

  • 同年9月には長州三田尻に入り、11月には幕府征長軍牽制のため海路大坂に入る。
    当時、大坂から本多大内蔵というものが来ており、彼から、将軍家茂が大坂城に入っており近々長州征伐軍を指揮するという噂があると聞き、城に火を放てば周章狼狽し、全国の志士へと伝わることで倒幕の挙兵が沸き起こるという算段を立てていた。
  • 12月には同志を募るために中国、四国、近畿を遊説している。慶応元年(1865年)正月大坂に戻ったところ、新選組の襲撃を受け、十津川郷へと潜んでいる。そこも危ないとなってさらに奥、上湯川へと逃れたという。そこで薩摩脱藩浪士・梶原鉄之助(脱藩前は"左近亟嘉右衛門"だという)と出会う。そうするうちに7月に京都の中岡慎太郎から京に出てこいという連絡があったため、梶原に懇願して佩刀を交換してもらったという。これが後に高杉晋作に渡る「安芸国佐伯荘藤原貞安」であったという。※自身談で「友安」だとも書いているが貞安が正しいという

    それで出て行くに臨んで梶原(かぢはら)に向つて()ねて世話になつたが、是が生き別れでもう再び()へないかも知れない、だから其の刀を記念に是非譲つて貰ひ()いと頼んで交換して貰つた。さうしてそれを差して京都に上つた

  • 中岡は長州に下るといい、7月下旬それに従う。※この時坂本と中岡は薩長同盟に動いていた。
  • 長州で高杉晋作と出会い、晋作が佩刀をせがんできたため弟子になることを条件に刀を渡したという。

    それで中岡といっしょに高杉に會つて話をすると、高杉が一寸(ちょつと)刀を拝見と云ふ。()う云ふ刀を持つて居るかと云ふのである。先づ刀で人物を見るんぢゃね、(略)それでどうか御覧をと云つて見て貰つた。さうして僕の刀を見て非常に高杉は欲しがつた。結構な刀だ、どうか譲つて呉れと云ふ。それは困る、梶原から無理に貰つた刀だからお譲りする事は出來ないと云つたから、今度は高杉が中岡に頼んで何とか田中に話をして貰つて呉れとのことで中岡から話があつた。それで僕も考へてそう云ふ事ならばお譲りするが、交換條件(かうくわんでうけん)として一つ貴方の弟子にして貰ひ度いと云つた。(略)すると、それは弟子などゝ云ふ事は出來ないと云ふ。けれども貴方は松蔭先生の高門弟(かうもんてい)である。貴方が松蔭先生から聞いたヾけの事を教へて貰へばよいと云つたならば、弟子にする(わけ)には行かないが、兎に角お世話しやうと云ふ事になつた。高杉の方では弟子ではないと云ふが、此方(こつち)は弟子のつもりである。それから高杉が僕を世話すると云ふ事になつた。何しろ木戸(木戸孝允、桂小五郎)、山縣(有朋)、井上()なども高杉には一目置いて居るのだから其の高杉が世話して居る人間だと云ふので皆大事にして呉れた(わけ)ぢゃ。

    高杉はこれを手にするや鞘を拂ひて暫くの間熟視した後、誠に見事な刀だ、是では平素御心掛の程察し入るが、誠に御無體な御相談だが此刀を拙者に譲つて下さるまいか。との意外な申出に、僕は御譽(おほめ)に預かつては汗顔至極であるが實は此刀は自分の買求めしものではなく(略)君の心掛といひ尚更感服仕る。どうか御兩所の心掛と此名刀とを合せて拙者が貰ひたいものだと(しき)りに懇請されるから、僕も此時()し夫ほど懇望されるなら此刀を贈ることを條件にして高杉の弟子にして貰はうと、夫なら御望(おのぞみ)(まか)せて此刀を差上げる事にしよう、其の代り自分を貴殿の弟子にして貰ひたいと相談すると、高杉は夫は(とて)も出來ないが、兎に角御世話を申上げますといふたので、其の刀を高杉に贈ると、高杉からは別に一刀を購ひ求めて僕に贈つてくれた。(略)たヾ惜しい事には高杉の死後其の刀が何處へいつたか分らなくなつた事である。

    高杉が弟子入りを断るのは、国家の為に働く同じ同志なので師匠と弟子という関係ではないという事を言っている。
  • のち高杉は本刀を珍重し、長崎の上野彦馬撮影局でこれを帯びて写真を撮り、その写真を田中に送っている。

    別後如何、不相變(あひかはらず)御强忍(ごきやうにん)被爲在候儀と奉愚察(ぐさつ たてまつり)候、弟事も浪遊(らういう)罷在候、御笑殺(せうさつ)可被下度、御約束の寫眞差出候御落手(らくしゆ)被下候、
                   東 行 狂 生 拝
     顯 助 田 中 君 坐 下

    「東行狂生」は高杉晋作の数ある変名の一つ。「田中顯助」は田中光顕の通称。高杉晋作といえば、椅子に座った姿勢で右の脇まで届くようなかなり長い刀を差している写真が有名だが、この刀が本刀であるという。
  • 「青山余影 : 田中光顕伯小伝」によれば、裏銘「永禄六年八月吉日」だという。

    兒今秋七月於京師薩之脱士より名劍を得たり、彼の備前の長刀(※那須信吾からもらった長船祐春)は薩人に與へたり、作は佐伯莊藤原の貞安とあり、裏銘に永禄六年八月吉日とあり、言分なき名劍にありし所、先生(※高杉晋作)の懇望に任せ贈り申し候、其の代りに一の名劍を求めもらい候、價は三十兩なり、少し氣に入不申故、過日賣拂ひ別に心に叶ひ候劍を求め申し度、過日先生に相談仕候、大に尤もなりと許され申候、

    つまり、脱藩時に那須信吾からもらった長船祐春と交換で、「安芸国佐伯荘藤原貞安/永禄六年八月吉日」の刀を薩摩脱藩浪士から受け取るが、その後高杉晋作に懇望されてそれを贈り、代わりに30両の刀をもらうが、少し気に入らなかったためそれを売り、代わりの刀を求めたということになる。なお田中がかいている通り、高杉に贈った刀はその死後どこに行ったのかは不明。
  • 第一次長州征伐後に大坂城占領を企図したが、新撰組に摘発され慶応元年(1865年)1月8日に「ぜんざい屋事件」を起こして再び大和十津川へ逃れる。※土佐勤王党による大坂城乗っ取り計画を察知した新選組による浪士襲撃事件
  • 薩長同盟の成立に貢献して、薩摩藩の黒田清隆が長州を訪ねた際に同行した。
  • 第二次長州征伐時では長州藩の軍艦丙寅丸に乗船して幕府軍と戦っている。後に帰藩し中岡慎太郎の陸援隊に幹部として参加。
  • 慶応3年(1867年)11月15日、中岡が坂本龍馬と共に暗殺(近江屋事件)されると、その現場に駆けつけて重傷の中岡から経緯を聞いている。
  • 中岡の死後は副隊長として同隊を率い、鳥羽・伏見の戦いの前に12月高野山を占領して紀州藩を威嚇(高野山挙兵)する。
    • 彼ら陸援隊を中心とする部隊は、土佐藩邸から無断で銃百丁を持出して12月8日に京を船で出発して大坂に出て、12月9日に堺(12月9日に王政復古の大号令)、12月10日に河内三日市、12月12日に高野山へと入った。
    • 高野山金光院を本陣に定め錦旗を掲げ、侍従・鷲尾隆聚を擁して100名程度で挙兵し、紀州藩を始めとする周辺の諸藩に使者を送り王政復古した朝廷への恭順を迫った。これを知った者達が続々と参集し、軍勢は1,300人程度まで膨らんだ。16日、紀州藩では抵抗することなく鷲尾に使者を送って朝廷への恭順の意を示し、周辺国の諸藩も朝廷に服した。
      この高野山挙兵は伊藤俊輔(博文)と大久保一蔵(利通)からの密命を受けたもので、彼らは京都での幕府軍との激突に備えて紀州藩の動きを強く警戒していたことから、侍従・鷲尾隆聚を擁して高野山での陽動を目論んだ。
  • 年を越して慶応4年(1868年)1月3日~6日にかけての鳥羽・伏見の戦いで高野山に滞陣し、紀州・大和方面の諸藩を牽制して大坂の旧幕府軍との連携を断った。新政府軍が勝利した後の1月16日(1868年2月9日)に鷲尾らは高野山を引き払い京都に帰還した。

    高野山で挙兵したことがあったのか、と今の人々には、この出来事について無関心のようである。だが、これは見ようによっては、維新史上、重大な一部を占めている。大激戦はなかったが、戦略上、どうしても見逃してはならない。わが義軍は、華々しき戦争には及ばなかったが、紀州牽制という第一目的は、完全に達成することができた

  • その後戊辰戦争で活躍した。
  • 慶応4年(1868年)9月8日、明治改元。

 維新後

  • 維新後は新政府に出仕。
  • 明治2年(1869年)、当時官選兵庫県知事初代を務めていた伊藤博文の推薦で、7月兵庫県権判事に任命され、西宮支庁に務めた。
  • 明治2年(1869年)4月伊藤博文が中央に戻されるのと同時に、田中光顕も東京へ移り、会計監督司知事に任命されている。
    明治2年(1869年)8月17日任命、明治4年(1871年)1月27日免。ただし同職は当初会計官に設置されたが、明治2年(1869年)7月8日に大蔵省が創設されると大蔵省に引き継がれ、同年8月11日民部省に転属したものの明治3年(1870年)7月10日に大蔵省管轄へと戻っている。監督司は明治4年(1871年)7月27日に廃止されるが、明治13年(1880年)には会計検査院が創設され、事務が引き継がれた。
  • 明治4年(1871年)11月からの岩倉使節団では理事官(大蔵省)として参加し欧州を巡察した。※大蔵省戸籍頭。会計事務としての同行。公金は50万ドル、官費とは別に私金も給付されており、それが例えば木戸の場合で支度料540両、別段手当500両、合計1040両(一時金)、ほかに月手当250ドルであったという。
    • なお一行がアメリカ、サンフランシスコに到着した時に南貞助というアメリカン・ジョイント・ナショナル・エージェンシーの臨時雇の元長州人(高杉晋作の従兄弟で義弟。維新前から渡米していた)がやってきて、彼らに旅費や私金を持ち歩くのは危険なため銀行に預けないかと勧誘にやってきたが、田中はこれに数点質問した後、必要ないと公金の預け入れを断っている。
    • しかし木戸や大久保は私金については自由だということで預けるのだが、やがて10月にロンドンへ到着すると件の南貞助とイギリス人銀行員がやってきて同銀行が破産して支払業務停止になったと告げる。結局預けた人間は泣き寝入りすることになってしまったという。
    • 木戸日記にも記されている。

      (明治五年)十月十日雨、終日室居。(略)六時過ぎ伊藤来って、南貞助の寄留せるアメリカン・ジョイント・ナショナル・バンクの困難を告げ、為其、南貞助並びに同人同居の英人某に面会し、その趣一々承得せり。呆然其所致、如何とも難致、依て使節一統談合の上、吉田外輔へ探索吟味を託せり。此のバンクへ日本書生と使節一行の金を預けしもの不少、余も亦其一人也。

      同行者福地源一郎は次のように皮肉っている「條約は結び損ひ金は捨て世間へ大使何と岩倉」「爪に火をとぼして溜た金を捨て流石鹽田は辛き目に遭ひ」「山口と知らで預けた臍繰を外務にされて何と少輔」。
       また大倉財閥の設立者である大倉喜八郎は、当時民間人として初の欧米経済視察を行っており、欧州滞在中に岩倉使節団とも交流している。大倉も四萬圓の現金を所持しており預金を勧誘されるが銀行が七分もの高い利子を付ける事を怪しみ預けなかった。その後ロンドンで発覚した時に、兵部省理事官として使節団に随行していた山田顕義が面会を求めてきて「今から岩倉大使のところに借金の談判に行くのだが断られたら乞食をして帰らなければならない。そのため二萬圓だけ貸してくれないか」と相談に来たという。しかし結局は山田の旅費は大蔵省から出ることに決まり貸すことはなかったという。
       なお「南貞助」はWikipediaに項目もあるのだが、この件については一言も述べられていない。
  • 陸軍省会計監督、1年半後に第五局副長、のち同局長(経理局長)、明治12年(1879年)10月に陸軍省会計局長。明治14年(1881年)10月陸軍少将。
  • 参事院技官、明治17年(1884年)6月に恩給局長。

    明治十七年六月五日
    兼任恩給局長官  参事院技官陸軍少将正五位勲二等 田中光顕

  • 明治18年(1885年)従四位。
  • 明治19年(1886年)10月20日従三位。
  • 明治20年(1887年)には子爵を授けられて華族に列している。5月会計検査院長。

    明治二十年五月九日
    依勲功特授子爵 従三位勲二等 田中光顕

  • 元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監(7代、1889-1891)、学習院院長(6代、1892-1895)などの要職を歴任した。

    明治十八年七月三十日
    田中参事院技官兼恩給局長官ハ昨廿九日左ノ通仰付ケラレタリ
       参事院技官兼恩給局長官 田中光顕
    内閣書記官長子爵土方久元不在中内閣書記官長兼任被仰付候事

    明治十八年八月八日
    田中内閣書記官長外壹名ハ一昨六日左ノ通仰付ケラレタリ
    報告書取調委員長被仰付候事 内閣書記官長 田中光顕

    内閣書記官長は現在の内閣官房長官の前身。太政官制において中村弘毅 、井上毅、土方久元、田中光顕が随時置かれており、内閣制度発足後の第一次伊藤内閣での初代内閣書記官長が田中光顕。

    警視総監(大警視、警視長)は、初代の川路聖謨から2代大山巌、3代樺山資紀、4代大迫貞清、5代三島通庸、6代折田平内まですべて薩摩閥で占められているため、驚きを持って迎えられたという。郵便報知新聞「今度の改革中にて、チョット世人の意想外に出でしは警視総監の更迭なり。頃日政府改革の噂紛々として流出し、様々の下馬評を生じたれども、警視総監の椅子については音沙汰もなく、たといこれあるも、そのにわかに薩人以外に移らんとは思いもよらざるの風情なりしかば、今度田中光顕氏が総監に任ぜられたるを聞き、世人が意外の感を起すもまた無理ならぬことなり。」、時事新報「警視総監の更任は、実に世人の意想外なるべし。警視庁は川路大警視依頼、長官の任に鹿児島県人以外に出でたることなく、今日まで他県人の手に落つべしとは、世人の夢想せざるところなり。ここに総監の任、はじめて田中光顕子という他県人の手に落ち、警視庁沿革史に特筆すべき出来事を生じたり。」
  • 明治20年(1887年)5月14日、元老院議官兼内閣書記官長陸軍少将従三位勲二等子爵田中光顕、兼任会計検査院長兼内閣書記官長如故。内閣書記官長は明治21年(1888年)5月28日に依願免。
  • 明治24年(1891年)3月11日任宮中顧問官兼帝室会計審査局長 警視総監陸軍少将従三位勲二等子爵 田中光顕。4月30日貴族院議員辞職。
  • 明治31年(1898年)に宮内大臣。約11年間にわたり同じ土佐出身の佐々木高行、土方久元などと共に、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。
  • 明治25年(1892年)10月20日兼任学習院長 宮中顧問官兼帝室会計審査局長従三位勲二等子爵 田中光顕
  • 明治28年(1895年)宮内次官、明治30年(1897年)に英照皇太后崩御に際しての大葬使次長心得。
  • 明治31年(1898年)宮内省大臣。
  • 明治40年(1907年)に伯爵に陞爵するが、明治42年(1909年)6月に収賄罪疑惑の非難を浴びて宮内大臣を「依願免」で辞職し、政界を引退した。
    日清戦争の賠償金のうち帝室に献上された二千万圓は、直接宮内省が受け取ったのではなく、大蔵省から書類が交付されていただけで現金は日本銀行に預け入れされ、帝室では年々利子を受け取っていた。しかし二千万圓が帝室に献納されるまでの間の半年間の利子分50万圓をどこが受領するかで議論があり、結局国庫納入ではなく帝室所有に決まった。しかしこの50万圓を帝室では受領していないとなり、どこかに消えてしまったのだという。そこで宮内大臣田中光顕に嫌疑が係ることになったという。
  • 大正7年(1918年)に臨時帝室編修局総裁。

 政界引退後

  • 政界引退後は、高杉晋作の漢詩集『東行遺稿』の出版、零落していた武市半平太の遺族の庇護など、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。また志士たちの遺墨、遺品などを熱心に収集し、それらは彼が建設に携わった茨城県大洗町の常陽明治記念館(現在は幕末と明治の博物館)、旧多摩聖蹟記念館、高知県佐川の青山文庫にそれぞれ寄贈された。
  • また明治34年(1901年)には日本漆工會の2代目会頭に就任、久能山東照宮の修理をはじめ漆器の改良などの文化事業を積極的に行っている。
  • 晩年は静岡県富士市富士川「古渓荘」(現野間農園)、同県静岡市清水区蒲原に「宝珠荘」(後に青山荘と改称)、神奈川県小田原市に南欧風の別荘(現在の小田原文学館)等を建てて隠棲した。
    古渓荘は明治42年(1909年)完成も移り住んだのは大正3年(1914年)。まもなく水源地で争いがあったため、大正7年(1918年)には蒲原町の「宝珠荘」(後の所有者が青山荘と改称)へと移ったという。
     田中光顕は、県知事や町長にも土地買収を依頼し、国道1号線をまたいで両側に2万7千坪の土地を確保し(現在は1万6千坪あまり)、そこに建坪940坪の邸宅を建築した。昭和9年(1934年)満州国皇帝・愛新覚羅溥儀に献上するという話があったが先方から辞退になり(領土割譲になるという話も出たという)、昭和11年(1936年)に講談社の初代社長野間清治氏が譲り受け、現在は一般財団法人野間文化財団が所有(「野間別荘」とも呼ばれている)。価格は当初100万圓を予定していたものの、野間氏と意気投合したことから「営利事業で使用しない」との条件で半値以下で売ったと伝わる。平成17年(2005年)国の重要文化財私邸。国重要文化財「古谿荘」保存修理事業を実施しています。 | 静岡県富士市

    宝珠荘(青山荘)は、大正7年(1918年)に古渓荘から移り住み、97歳で亡くなるまで住んでいた。敷地は2万坪あったという。蒲原にアルミニウム工場設立に尽力した関係から、現在は別荘と庭園4000坪を日本軽金属が所有し、迎賓館として使用されている。なお日本軽金属の副社長だった竹田氏の娘は田中光顕の孫・光季氏と結婚している。青山荘(せいざんそう) | しみずふるさと探訪 | JAしみず
  • 昭和3年(1928年)には昭和天皇の即位記念として、坂本龍馬の「エヘンの手紙」を含む維新志士の資料50数点を御物として寄贈している。
  • 昭和維新運動に理解を示し、昭和11年(1936年)の二・二六事件の際には、事件を起こした青年将校らの助命願いに浅野長勲と動いたが、叶わなかった。
  • 昭和14年(1939年)3月28日、静岡県蒲原町(現静岡市清水区蒲原)の別荘の青山荘にて、風邪から肺炎を併発し95歳で没した。

 系譜

┌那須信吾
┴浜田金治(充美)
   ├───浜田辰弥(田中光顕)━━┯田中遜──┬光中(明治43年6月生、昭和7年没)
 金沢正敏娘   │         │     ├光素 明治45年6月 伯爵
         │         │     ├豊子 明治39年5月 村田五郎
         │         │     ├春子 明治42年2月 井原かまの養子
         ├長尾よね     │     ├正子 大正2年2月 手島秀雄妻
       後藤志か        │     ├光保 大正4年2月
                   │     ├藤子 大正7年5月 長谷川武雄
                   │     ├光季 大正10年6月
                   │     └光常 大正13年5月
                   │
                   ├圭(昭和5年没)
                   ┣テツ(大橋槇長子、藤井行徳妻)藤井家は半家、子爵
                   ┗うめ(大橋時言子、三輪清吉妻)

実子は、明治5年(1872年)7月に長女・圭が生まれたが昭和5年没。後は養子。養嗣子の田中遜(ゆずる)は土佐藩士・井原昻(岩神昻)の子で明治21年(1888年)に田中光顕の養子となる。のち昭和7年(1932年)8月に伯爵を襲爵。法学者、実業家、華族。衆議院議員、伯爵。

 逸話

 ぼうふら

  • 明治天皇は側近に綽名を付けられていたといい、田中光顕には「ぼうふら」というあだ名があったのだという。

    此ほど東京に居る内、元の侍従澤宣元君に逢つた時の話だが、明治天皇には側近の者にいろ/\の綽名をお附け遊ばしておつたそふで、僕には「ぼうふら」といふ綽名があつたことを始めて澤君より聞いた。何でも是は僕が歩く時の足どりがぼうふら(、、、、)に似ておるとのことだといふのだが、數ならぬ吾々の態度が陛下のお目にとまつたことは誠に有難いことで、是から孑々(けつ/\)山人(さんじん)とでも別號を用ひやうと思つておる。

    孑孑は「けつけつ」と読み、ボウフラの別名。

 蕉雨園(しょううえん)

  • 警視庁長官を辞した頃、田中光顕は小石川関口にある「蕉雨園」へと移った。これは目白御殿とも呼ばれていたという。7500坪。
  • 明治24年(1891年)建築、大川喜十郎(念仏喜十)棟梁。建築費が当時十八萬余圓だったという。田中光顕は、この目白邸もまた富士川岩淵の「古渓荘」も自ら意匠設計したという。明治20年(1887年)台の半ばに土地を購入。
    • 数寄屋邸宅集成 第1巻 (書院のある家) - 国立国会図書館デジタルコレクション
      松尾芭蕉が延宝5年(1677年)から数年間過ごしたという関口芭蕉庵も当時取り込んでいたという。なお芭蕉庵は昭和13年(1938年)に焼失。現在のホテル椿山荘と永青文庫との間、胸突坂の右手。渡邉治右衛門の手を経て、昭和5年(1930年)に講談社社長・野間清治氏が所有していた。「古渓荘」と同様に、現在は野間文化財団が所有しているのではないかと思われるが詳細不明。非公開。

 長尾よね

  • 女傑として知られる「長尾よね」の義理の親と言われている。長尾欽弥と婚姻した際の戸籍謄本には「田中光顕後藤志かの庶子女」と記されていたという。また光顕の孫娘を妻とした内務官僚の村田五郎(夫人豊子が田中光顕の孫娘)は、よねのことを「叔母さん」と呼んでいたとも言う。
  • 田中光顕自身、ワカモト製薬の長尾社長のことを娘婿と呼んでいるところがある。

    あそこ(旧多摩聖蹟記念館辺り)には私の娘婿になるワカモトというのが居るので、ちょいちょい行く。私は聖蹟記念館を水戸にも一つ大きいのを建てた。それから郷里の佐川に一つ、都合三つ建てゝ、持っていた貴重品は皆それへ寄付して終ったよ。

    娘婿は長尾欽弥だが「ワカモト」(若素)という会社(商品)名で覚えているようだ。当時93歳。

  • 田中光顕の葬儀には長尾よね夫妻も参列している。

    老公(田中光顕)の霊柩は、令嗣遜伯(※田中遜)、令孫光保、光季、富士子嬢はじめ村田五郎氏夫妻、長尾鐵彌氏夫妻、井原俊二氏夫妻、深尾隆太郎男らにまもられ、わたくしどもも同席して清水驛を出發した。沿線の各驛には、由比といはず、蒲原、岩淵、富士といつぱいの見送人であつた。もちろん各驛とも列車は通過である。(略)
    午後八時、老公の遺骨を載せた列車は東京驛についた。驛頭には、畏くも東伏見宮家より御差遣の高橋別當をはじめ、徳川圀順公、徳富蘇峯翁夫妻、岡澤中将、土方寧博士その他佐川會、東京靑山會、水戸史談會等々數千名の出迎があり、十數分間も列車から出ることが出來ないほどであつた。老公の遺骨は直ちに澁谷區氷川町の當主田中遜伯爵邸に入る。

    村田五郎は愛知県の人。父・義教。明治32年(1899年)4月生まれ。昭和17年(1942年)家督。高文合格後、大正12年(1923年)東大政治科卒。内務省に入省。富山県警、東京府内務部、大分県警察部長、軽視聴衛生部長、官房主事、(厚生省誕生で社会・衛生・体育・保険などが分離)厚生省体育課長、内務省警保局外事課長、福岡県総務部長、内務省地方局振興課長、国務大臣秘書官、昭和16年(1941年)群馬県知事、内閣情報局次長。昭和19年(1944年)退官。

 志士の女性関係

  • 維新の志士の女性関係について語っている。

    (中岡は)長太樓(ちやうだらう)と云ふ者の娘を愛して居つた。其處の下宿に中岡も居り、僕も居つた。中岡は謹嚴な男であつたが、中々女好きであつた。中岡ばかりでなく其の頃は誰でも皆何時殺されるが分らないから、皆なやれ/\と云ふので盛んに發展したものであるが、僕だけである藝者(げいしや)女郎(ぢよらう)落籍(みうけ)などしないのは。木戸なども三本木の藝者幾松と深くなつて終ひには是が奥様である。伊藤の女房も福岡の内縁の女房も皆藝者である。是等の連中の話ならいくらでもあるが、マア天機漏らすべからずとするかね。

    長太樓(長太楼)とは、馬関西細江町(現、山口県下関市細江町)の長府屋太兵衛の娘のこと。「長府屋」という屋号は馬関には多かったため、ほかと区別するために太兵衛の家は通称長太、または「長太樓」で通っていた。

    ただし公平を期すために書いておけば、田中光顕も前妻・伊輿子、後妻・小林孝子がいるが、それ以外に上記長尾よねの母「後藤志か」との関係もあったようである(厳密には芸者ではなさそうだし落籍などはしていないようだ)。私生児とされているが、自ら娘婿などと言ってはいる。
     なお当時の事実や考え方を述べているだけであり、21世紀の現在とは価値観や考え方が大きく異なることに注意が必要。ここに書いているからと言ってこうした関係性を肯定しているわけではない。

 古典籍

 日本刀

  • 若いときからの刀剣趣味で知られ、今村長賀高木復とともに本阿弥成重の門下で知られる。

    けれども僕などは貧乏士族であつて、とても家には良い物は無いのだから、欲しくても容易に手に入らなかつたのぢゃ。ちょうど佐川で僕の心安い者に鞘師があつた。是は鞘師だけが専門ではない、鞘を作つて身を入れて夫れを塗る、塗師もやるのぢゃ。其處に行くと矢張り方々から刀が來て居るから其處で刀を見る事が出來た。從つて夫れからだん/\刀と云ふ趣味を覺えたのぢゃ。

 日本刀の好み

  • 備前伝や京物など、太刀姿のよいものを好んだという。

    刀は姿一つだからね。私は一体理屈の多い男でね、刀剣についても理屈がある。刀は反りの高い古備前とか、粟田口の様な形でないといかんという持論だ。甲州物や関物、あの形は好かん。私は備前刀が好きだ。そこで今村長賀を世話して刀剣会というものを作った。あれは、私が作ったのだ。今ぢゃ盛大になって結構ぢゃ。

  • 品格論続き

    ()うしても馬に乗つて三軍を指揮する刀と云ふものは()だ人の首を打落すと云ふだけのものであつては足らないと思ふのである。即ち品格があつて、反りがあつて、小さくて、さうして鍛えがよくて焼刄(やきば)も良くなければならない。つまり輕くなくてはいけないと云ふのである。長くて輕くなければならない。つまり馬と馬の間で闘ふのであるからして距離があるから短くてはいけない。又それには重くてはいけない。重い長い物ではとても使へない。そこで小さくて輕くて折れず曲らずでなければならない。それには第一(はがね)を選んで鍛えをよくしなければならない。それが古刀(こたう)などゝ云ふものになるとそれがあるのぢゃ。輕くて小さくて長くて鍛えが非常によく、折れず曲らず、それでなくちゃいけないと云ふ僕の刀の議論ぢゃ。今村(今村長賀)などは相州傅の幅の廣い大きな物で、兩手で使ふと云ふ様な物が好きなのぢゃ。それは田中は取らない。そこで議論は合はないのぢゃが、後には到々今村も僕に屈して仕舞つたのぢゃ。

 廃刀令後

  • 廃刀令が出た後、日本刀は二束三文で叩き売られることになったが、それを買い集めている。

    すると刀と云ふものは無用の長物で賣つても買手は無いと云ふ事になつた。諸藩などからどん/\出して來る。それを出すと()うなるかと云ふと、目拔(目貫)の金とか鍔の金とか云ふものゝ値打位で中味は三文の價も無い様になつた。(略)
    そこで明治十一年頃陸軍の會計監督(くわいけいかんとく)をして居る、當時の部下に今村長賀と云ふ一等軍吏が居つて、是が名高い刀劔好きである。それを呼んで、今日廃刀令は布かれて居るが、自分はどうも之をまるきり捨てゝ仕舞ふのは惜しいと思ふのである。(しか)し自分は刀劔は好きではあるけれども鑑定は出來ない。お前は立派な鑑定家であるから、是から一つ何とかしてよいものを見出して集めやうではないかと云ふと、それは結構でございますと云ふので、そこで東京では町田平吉と云ふ刀劔屋が居る。下谷にね、それが澤山買込んで來る。明治四年から廃刀令になつたのであるが、澤山買込んで來てそれを外國にも出すしそれを店先に山の様に積んで居る。其處に見に行つた。見せて呉れと云ふので段々見ると、其のがらくたを山の様に積んで居る内に中々良い物がある。是迄見る事が出來なかつた様なのがある。なんぼかと聞いて見ると、二圓とか二圓五十銭とか云ふ、さう云ふ物を引拔いて、よさゝうな物を取つて歸つた。其の頃下谷に本阿彌平十郎(本阿弥成重)と云ふ者が居つて是が刀劔の鑑定や研(をし)て居る。其處へ行つて見て貰ふと矢張りよい物だと云ふ。其處で僕なども鑑定の稽古をしたのだ。それで時々其處(町田平吉)に行つて引拔いて來て其處(本阿弥平十郎)で見て貰つて居た。今村は相州傅黨(相州伝党)で正宗などが大好きである。僕は其の方は嫌ひで、もつと品格のある良い物が好きなのぢゃ。それで少し反りのある細身の物は是は田中さん向きの物だ。幅の廣い相州物是は今村向きのものだと云ふ様に其處で僕達は決めて居たのぢゃ。(僕は)どうしても總ての物に品格が無ければならない。僕は品格論ぢゃ、刀と云ふものは人の首を斬るものぢゃ、それならば鋼鐵を一本薄く研いだ者を持つて行つても人間の首位落ちるだらう。それではいかんのぢゃ。何うしても三軍を指揮するのには寶刀でなければならぬ。その寶刀なる物は折れず曲らず切れるのみならず、位のある物でなければならない。

 岩崎弥之助を刀剣の道に誘う

  • 岩崎弥之助を刀剣の道に誘う話。

    ()ふいふ風で、僕のところにはいろ/\(めづ)らしい刀が集まつて來る。時には金拵への太刀などで素晴らしい物も出て來るのであるが、自分達の力では買えない、買へなければ(それ)が皆外國に行つて仕舞ふ。それを止めなければならないと云ふので、僕が岩崎彌之助を()いたのぢゃ。そこで()う々々考へるのぢゃが貴様一つやらぬかと云ふと、やりませうと云ふので、あれは僕が刀好きにしたのぢゃ。(しか)しあれも元々刀が好きで、私もどうかして朱鞘が欲しいと思つて居るが、何うしても手に入りませぬと云ふ様な話で、もう廃刀になつて居る時だから、宜しい、やりませう。僕の所に來いと云ふので元園町(麹町元園町、現麹町区)の宅に岩崎を連れて來て刀を見せたのぢゃ。さうして歸りがけに途中今村に向ひ「もう僕は刀は止す、もう駄目だ」といふから、今村が「なぜそんなことを言ふか」と聞くと、「田中さん所であんな良い所の刀を見ると迚も自分では及ばない」と非常に失望をして居た、といふことを聞いたから、そこで僕は其の内によい刀も手に入るだらう。まだ是からであると勸めると同時に、岩崎に一文字の刀を遣つたので、岩崎もそれでは又始めやうと云ふ事になつた。

    後に岩崎は田中光顕と共に一文字助宗を献上しており、これは明治天皇の佩刀となっている。

 中央刀剣会

  • 明治33年(1900年)の「中央刀剣会」設立の際には、谷干城、松浦詮、西郷従道、犬養木堂(毅)、一木喜徳郎、寺内正毅、榊原鉄硯らと発起人となっている。

    さうして刀劍會を拵へやうと云ふ話の出たのは大分後であるが、何うしても研ぎ、鞘、柄巻きは傅が亡びて行く、それを何うしても保存しなければならないと云ふので、刀劍會を拵へて僕に會長になれと云ふ。なつてもよいが、自分は宮内大臣であるからして宮内省から金を出しては具合が惡るいから、誰か他人にやらせようと云ふので他の人を會長にしたいという譯で谷將軍を勸めて會長にした。
    宮内省から一萬圓下さつた。傅を絕やしてはならないと云ふのは、二十年目毎に大神宮が御改築になる。其の時に御寶物が皆改まる。そこで刀劍も要る。それで刀劍を保護するものが無くては困るから何うしても刀劍會と云ふものが無くては困ると云ふので、御手許金を賜はる事になつたが、一度に一萬圓やつて無くされては困ると云ふので、年々千圓づゝ十年賜はる事になつたのぢゃ。それで先づ柄巻をする者も、鍛へる者も、研ぐ者も續いて居るのぢゃ、まあ一寸そんな様なものだね。刀の事は………。

    • 要するに神宮式年遷宮の例を持ち出して技術の継承を目的としていると指摘している。

 関係刀剣

福岡一文字助宗
「助宗」二字銘。土岐家旧蔵の一文字助宗を明治28年(1895年)1月14日に明治天皇に献上している。刃長二尺三寸三分。鼈甲柄のサーベル拵。
  • 明治28年(1895年)日清戦争の折に、戦勝を祝して天機奉伺に広島の大本営に行幸された際に、当時学習院長だった田中光顕が宮内省総代として伺候している。※当時宮内大臣は土方久元。
  • この時にこの助宗を献上しようと考えていた所、岩崎弥之助が私も古備前助平を献上しようと言い出したのでこれを二つ返事で引き受ける。さっそく二刀を献上すると、明治天皇はより健全だった岩崎献上刀を軍刀拵にして佩用されたという。しかしかなり重かったため、晩年には田中献上の元幅八分の助宗を軍刀にされていたという。

    其の後陛下は此の助平を御刀にされた。だから是は岩崎として非常に榮誉であつた。併し是は非常に重い刀である爲に、御晩年に僕の献上した細い、軽い助宗を御軍刀にされた。是は僕として非常に有難い事である。

鶯丸友成
明治40年(1907年)11月の茨城県陸軍特別大演習の際に、田中光顕伯爵が明治天皇に献上している。田中は宗重望伯爵(宗重正の長男)より買い受けたという。

其の恩賞として大膳太夫は感狀と共に足利家重代の鶯丸と號して居る友成の刀を貰つたのぢゃ。それを小笠原家で代々寶物にして居たが其の後それを賣物に出した。それを伯爵の宗重望が持つて居たが、それを賣出した時に僕が買つたのぢゃ。今言つたやうな次第で其の刀が結城に大變關係があるから、之を大本營に持つて行つて献上した。
(伯爵田中青山)

先の助宗を献上した後、明治40年(1907年)9月に伯爵に陞爵している。その際に二万圓の御下賜金を拝領している。その御礼の意味もあったとされる。
この鶯丸は「御物調書」では歳旦祭使用刀剣と記されている。

備前国友成太刀鶯丸と号す)
歳旦祭(宮内大臣田中光顕献上)

この時、自詠を添えている。

みいくさは戦ふ毎に勝山の 城につたへし太刀たてまつる
大前にささぐる太刀のつかの間も われはわすれじ君がめぐみを

信房
三字銘。古備前信房。刃長二尺一寸。鎬造。
太刀
豊後行平
短刀
新藤五国光
脇指
尾州長船祐光。刃長一尺八寸強。「嘉吉」年号。
太刀
無銘 相州広光。大磨上。刃長二尺四寸二分半。表裏樋。福島正則の家臣四天王の吉村又右衛門宣充の佩刀という。福島家家老で1万石。
※吉村宣充(1576-1650)。のち伊勢桑名藩主松平定綱に1万石で仕えているが、それを聞いた吉村の旧臣が150名も集まったという。なお吉村宣充は死ぬ前に「自分は武功があったため1万石を頂戴したが、せがれにこのまま継がせるわけには行かない」と言い家禄を五千石返上して死んでしまった。そこで仕方なく息子には三千石を賜ったという。※息子将監に1500石、同心料200石、足軽30人小頭2人。三男権左衛門に1500石、足軽20人小頭2人、四男外記へ700石、与力3人。

七十に餘、八十に及び申候故、身は心に叶ひ不申、心は身に叶ひ不申候。身心共によはり申候。加様に御座候ては、物毎に堪忍之精無御座候へば、自然の儀御座候へ共、御用に立間敷と迷惑仕候。云々。哀れ私自分に被下置候五千石差上げ、世忰共影に罷在度望に御座候。何の御奉公の道もなく、如此年をよらし、御懇を供に仕り成候御事、口惜奉存候へ供、御重實に不相成身にて、月日をかさね申候程、彌冥加につき可申と、是のみ迷惑仕候。云々。

終に臨み子将監を誡めて曰く、「余武勇を以て大禄を得たり。今汝は勇なく功無くして、我が遺領を承くべからず。若し新に賜ふことあらば、小禄をも辭すべからず」と、遺書して教誨備に到る。

吉村又右衛門宣充墓 桑名市 指定文化財
吉村家は代々桑名藩(定綱系久松松平家)家老を務め、幕末の吉村宣範も家老、御政事惣宰となっている。この吉村宣範は、明治新政府への降伏を主張。藩主松平定敬の命により明治元年(1868年)閏4月、山脇隼太郎正勝および高木貞作に殺害(上意討ち)されてしまう。家名存続は許され、森三木太郎が養子に入り、吉村三木太郎を名乗る。この三木太郎は、女優の鶴田真由の母方の曾祖父にあたる。※鶴田さんの母が三木太郎孫の吉村順さん。
脇指
信国。中岡慎太郎が最期に差していた脇指(短刀)。田中光顕が贈ったものという。いわゆる朱塗の短刀で、田中光顕が西郷に琉球朱(というが実際には支那の朱だという)が素晴らしいので世話をしてくれと頼んだところ、半年くらい後に紙に包んで送ってくれたため、それで大小の拵を塗ったのだという。のちそのうち短刀を中岡に贈ったのだという。

これは御維新前の事である。薩摩の朱は中々よい。聞いて見ると其の朱は琉球産であるとのことである。それで、僕が大小を拵へる時に大西郷に、貴方の方の朱は大變よいと思ふが、どうか琉球朱を一つ世話して呉れないかと云ふと、宜しい併し少し時間がかゝるから少し待つて居つて呉れと云うふ。それから半年許り待つて居たが、大西郷から朱を紙に包んで送つて呉れた。それを以て大小刀を塗つた。それは琉球朱と云ふが、何、支那と交易をして居たのぢゃ。琉球を中に置いて支那と交易して居たのぢゃ。そこで支那の朱を使つて居たのぢゃ。それから後に其の短刀の方は──朱鞘で銘は信國だ──中岡(愼太郎)が是非呉れと云ふから遣つたが、中岡はそれを持つて京都河原町の醤油屋で新選組の者が斬込んで來た時一刀を受けた儘殺されて居る。それは非常な記念物である。所が其の後の始末ぢゃが………坂本の始末は長岡謙吉がして居る。………中岡の始末は是非僕がやらなければならないが、中岡の物も長岡が掻廻して仕舞つた。それで僕は面白く思はなかつたのであるが、後に其の短刀は片岡利和が貰つたと云つて持つて居た。元來中岡の物などは郷里に送つてやらなければならない筈ぢゃからね。

片岡利和は片岡源馬のこと。土佐藩士・永野源三郎の次男として生まれたが、砲術師範・那須橘蔵利家の養子となって那須盛馬と称した。土佐勤王党。田中光顕らと共に脱藩。のち母の姓・片岡を名乗る。坂本中岡暗殺後は田中光顕の下で行動している。Wikipediaでは出典不明ながら中岡の刀を田中より譲られたとしているが、田中自身は納得が行ってなかったようである。維新後は軍防局管轄軍曹、東京府少参事、明治天皇の侍従。度々北海道視察を行い、千島列島北端の占守島に到達して、湾の名前を片岡湾としている。男爵、錦鶏間祗候、貴族院議員。

突然二人の男が二階へ駈上つて來て斬り掛つたので、吾輩は兼て君(卽ち伯 ※田中光顕)から貰つて居た短刀で受けたが、何分手許に刀が無かつたものだから不覺を取つた。

坂本は(うしろ)の刀を取つて拔かうとしたが間に合はないで今井信朗(いまゐしんらう)が「エイツ」と斬り下した一(たう)のため刀を持つたまゝ倒れた。坂本の横から「何者ぢゃ名を名乗れ」と振り返り片手ではあるが中岡は起き直つて聲をかけた。その時二番目に進んで來ました高橋某が斬りつけて來ましたが、殘念ながら大刀が次の間に置いてあつたので前にた(はさ)んだ田中顯助(※田中光顕)から贈られた信國の鍛へた小刀を拔く間もなく、鞘込みでやつと受たが最初の深手のため遅れをとり右小手を深くやられ腕がブラ/\になりました。振返つて來た今井は再び又二ヶ所を斬り、その中又一名上つて來る、二人は倒れて動かなくなりました。

短刀
銘「具󠄁視󠄁遭復古之運 叨辱賞典 田中子亦與有力焉 此刀以酬之」。岩倉具視から贈られた短刀。明治3年(1870年)1月6日、岩倉は日比谷門外の私邸に香川敬三、大橋慎三らを招き祝宴を張る。この時固山宗次に打たせた短刀を出席者20余名にくばるが、田中光顕はその時大坂におり出席できなかった。しかし後日岩倉より短刀を贈られている。

時に伯(※田中光顕)は職を大藏に奉じて大阪に在勤し、此饗宴に列する能はざりしと雖も、岩倉より短刀を贈與せらるゝ榮に預かつたのである。

 関連項目


Amazon Prime Student6ヶ月間無料体験