河瀬虎三郎
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河瀬虎三郎(かわせとらさぶろう)
実業家、数寄者、茶人、刀剣蒐集家
偉風堂、無窮亭
明治21年(1888年)~昭和46年(1971年)
この項に関して、ご子孫の方より情報のご提供を頂きました。ありがとうございました。
概要
- 明治21年(1888年)徳島市の松浦氏の生まれ。明治43年(1910年)大阪市東区の呉服商河瀬氏に婿入し、家業を継いで盛んにした。
- 家業のかたわら古美術、主に刀剣・具足を蒐集。この頃「偉風堂」と号す。
- はじめは兵庫県本山村に住していた。
重要美術品などで兵庫県河瀬虎三郎氏となっているのはこの為。
- この兵庫県本山村にいたころ、本間順治氏が知遇を得たと話をしている。
私が河瀬さんと知りあいになったのは昭和三年後(昭和3年=1928年ごろのことだと思われる)でしたね。(略)あの当時、兵庫県武庫郡本山村に住んでおられて、まだまだ当時は四十代でしたね。河瀬さんはお酒が好きで、私も嫌いなほうではないから、よくお相手をさせられましたよ。
(薫山刀話)
- 昭和16年(1941年)~17年ごろ、日本刀の蔵刀をほとんど手放してしまい、翌昭和18年(1943年)に奈良県多聞山麓に移った。茶の湯の道に進み「無窮亭」と号す。自邸に妙庵、栄西堂などの茶室を構えた。作陶にも長じ、作品を残している。
- 昭和24年(1949年)の秋から正倉院の曝涼が行われる時期に合わせて、本間順治氏が正倉院所蔵刀剣のお手入れに奈良を訪れている。その際は、この河瀬氏の住居に1週間ほど滞在して正倉院通いをしたと回想している。
- 松永耳庵(電力王松永安左エ門)や小林逸翁(阪急グループ創業者小林一三)、細見古香庵(実業家)らの茶人と親交があった。
- また晩年には文化財審議会専門委員などを長期に渡って務めた。
- この頃、本間順治氏に押形集と台帳を渡したのだという。
昭和四十三年でしたね、河瀬さんが私にご自分の旧蔵刀の押形集とお台帳をくださいましたのは、ああいう方ですから、ご自分もそう長く生きないと感ぜられたのでしょう。
(薫山刀話)
- 昭和46年(1971年)死去。
- 死後の昭和47年(1972年)に備忘録「無窮亭数奇書留・竹柏のしづく」が出版された。
- 希代の刀剣蒐集家・茶人として知られた。
刀剣
- 大西左文字
- 大磨上無銘 名物大西左文字。久留米有馬家伝来、大正14年(1925年)の売立で二千六百五十円で河瀬虎三郎氏が落札。
- 骨喰写し
- 刀 銘「南都住藤原金房兵衛尉政次」。長二尺八分二厘弱、反り八分五厘。骨喰藤四郎の写し。
- 短刀
- 銘「信国/貞治五年十月」昭和10年5月10日重要美術品指定、松尾直次郎所持(河瀬虎三郎氏旧蔵) ※代数不明
- 短刀
- 銘「藤原國廣在京時打之/天正十九年八月日」生ぶ中心、目釘孔3個。刃長九寸七分。表に梵字、裏に大黒天の彫物。
- 刀
- 銘「慶長七年國廣十二月十四日」生ぶ中心、目釘孔2個。
- 小脇指
- 銘「國廣」生ぶ中心、目釘孔1個。表に玉追い登り龍、裏に降り竜の彫物。
- 小脇指
- 銘「國廣」生ぶ中心、目釘孔3個、うち2個を鉛で埋める。表に梵字、剣、爪、裏に梵字に護摩箸の彫物。
- 短刀
- 銘「左/筑州住」昭和12年5月27日重要美術品指定、河瀬虎三郎氏所持。
- 短刀
- 銘「武蔵大掾藤原忠広/刳物埋忠七佐」昭和13年5月10日重要美術品指定、河瀬虎三郎氏所持。
- 刀
- 銘「備前国住長船與三左衛門尉祐定/為栗山與九郎作之/永正十八年二月吉日」長64.8cm、反り2cm。目釘孔2個。昭和13年5月10日重要美術品指定、河瀬虎三郎氏所持。昭和33年2月8日重要文化財指定。岡山県玉野市・個人蔵
- 太刀
- 銘「備前國長船左衛門尉藤原朝臣則光/於作州鷹取庄黒坂造/鷹取勘解由左衛門尉菅原朝臣秦佐打之/長禄参年己卯十二月十三日」長二尺二寸四分五厘、反り六分四厘。重要美術品。表裏上部に棒樋に添樋。下半に二筋樋。うぶ中心。昭和13年5月10日重要美術品指定、河瀬虎三郎氏所持。「鷹取則光」 ※寛正の則光
- 太刀
- 銘「備前国長船兼光/延文元年十二月日」昭和10年8月3日重要美術品指定中島喜与一氏所持(兵庫県河瀬虎三郎氏旧蔵)
- 太刀
- 無銘 傳行光。昭和12年(1937年)重要美術品指定。のち岩崎小弥太氏蔵
- 短刀
- 銘廣光。昭和14年(1939年)7月13日重要美術品認定。のち岩崎小弥太氏蔵
- 太刀
- 無銘 傳義弘。昭和12年(1937年)重要美術品指定
関連項目
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