加藤清正


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 加藤清正(かとうきよまさ)

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名
肥後熊本藩初代藩主
通称 虎之助、主計頭
従五位下・主計頭、従五位上・侍従兼肥後守、従四位下

Table of Contents

 概要

  • 永禄5年(1562年)6月24日、刀鍛冶・加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村に生まれる。
    父・加藤清忠は、斎藤道三に仕えていたが負傷したことがきっかけで同家から離れ、尾張津島の鍛冶屋清兵衛の娘・伊都(大政所の従妹)を娶り、刀鍛冶となった。清正が幼いころに、38歳で死去したと伝わる。また祖父は加藤小次郎清信であるという。

 秀吉の子飼い

  • 幼くして父を亡くし、母とともに縁者であった秀吉の生母である大政所(天瑞院なか)の元を頼る。
  • 天正元年(1573年)に秀吉が近江長浜城主となると小姓として仕え、天正4年(1576年)には170石を与えられた。
  • 秀吉の出世とともに数々の戦いで功を挙げ、賤ヶ岳の戦いでは七本鎗として名が喧伝され、3000石を与えられている。
  • 天正13年(1585年)、秀吉の関白就任時に、従五位下・主計頭に叙任される。

 大名

  • 九州平定後に肥後を領した佐々成政が天正16年(1588年)2月に改易されると、肥後半国19万5000石を与えられる。

    (4月7日)是より先、秀吉、蜂須賀家政、加藤清正、福島正則、生駒近規等に命じて、肥後の地を検せしむ、是日、清正、正則、吉川広家に其状況を報ず、尋で、家政、近規も亦、之を報ず、

    (閏5月15日)秀吉、肥後を二分し、之を加藤清正及び小西行長に与へ、清正を隈本(熊本)に、行長を宇土に鎮せしむ、

  • 肥後隈本城へ入城し、天正18年(1590年)ごろから改修を加えはじめ、慶長5年(1600年)頃からは本格的に北側にある茶臼山全域への拡張を開始、慶長11年(1606年)の完成の際に「熊本」と改めたとされる。
    旧隈本城は、現在の熊本城の南方、国立病院機構熊本医療センター及びさらにその南側にある県立第一高等学校の一帯であったとされる。付近には「古城町」の地名が残る。慶長5年(1600年)10月末、黒田官兵衛を新城に迎えるために天守内部の作事を急がせる手紙が残る。
  • 清正は信心深い性格で知られ、早くより日蓮宗信者となっている。天正13年(1585年)には亡父のために大坂城近くの難波に東光院日真(京都妙伝寺12世)を開山として寺院を建立しており、熊本入り後にはこれを熊本へと移転させ本妙寺としている。
  • 文禄・慶長の役では数々の逸話を残している。

 秀吉死後

  • 慶長3年(1598年)に秀吉が薨去すると、石田三成などいわゆる文治派への反発などから五大老の徳川家康へと接近し、慶長4年(1599年)には家康の養女清浄院かな(水野忠重の娘)を娶っている。
    清浄院かな
    三河刈谷城主水野忠重の娘。天正10年(1582年)生まれ。18歳で加藤清正と結婚し、大坂屋敷に入っている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前、西軍から逃れて熊本へ脱出し、同地で瑤林院八十姫を生んでいる。
     清正死後も熊本にあって重きをなし、2代忠広を支える。忠広の室には将軍秀忠の養女・崇法院(蒲生秀行と家康三女振姫の娘)を熊本に迎え、また清正の長女・あま姫(本浄院)を徳川譜代の重臣・阿部正次の嫡男・政澄の室に出し、さらに亡夫と家康との生前の約束である八十姫(瑤林院)と徳川頼宣の結婚を履行させるなど、加藤家と徳川家の絆を結ぶことに尽くした。
     加藤家改易後は、清正の菩提寺である京都本圀寺前に住し、清正の菩提を弔いつつ過ごした。明暦2年(1656年)死去。享年75。本圀寺に埋葬された。
  • 慶長5年(1600年)母伊都が死去。清正は三回忌となる慶長7年(1602年)にその菩提供養のため発星院日真を開山に妙永寺を創建し、菩提を弔っている。
  • 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い前、薩摩領内で起こった庄内の乱に横槍を入れていたことが発覚したために清正は国元に居たものの、家康への弁明が奏功して黒田家とともに九州での東軍として出陣。小西行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを開城、調略し、九州の西軍勢力を次々と破り、戦後の論功行賞で、小西旧領の肥後南半を与えられ、52万石の大名となっている。
  • また関が原前に大坂から脱出させた清浄院は、その後慶長6年(1601年)に熊本で瑤林院八十姫を生んでいる。
  • 慶長8年(1603年)3月23日に従五位下に叙され、豊臣姓を下賜される。

    熊本城主加藤清正、松江城主堀尾忠氏、福岡城主黒田長政、土佐浦戸城主山内一豊、柳河城主田中吉政等を、並に従四位下に叙し、松山城主加藤嘉明の子明成等数人を、並に従五位下に叙す、

    (3月26日)三位結城秀康、従四位下加藤清正等参内し、太刀馬代を献じて叙任の恩を謝す、

    以下、引用文内での位階がずれている。主計頭は従五位下、侍従兼肥後守は従五位上、のち従四位下に叙される。

  • 同年3月27日、伏見の邸全焼。

    九月二十七日、晴、伏見主計屋形、悉焼失、

  • 慶長9年(1604年)閏8月18日帰国、翌慶長10年(1605年)3月19日伏見へ。

    加藤清正、伏見を発し肥後に還る、

    加藤清正伏見に抵る、

  • 慶長10年(1605年)4月16日、従五位上・侍従兼肥後守に叙任される。

    清洲城主松平忠吉を左近衛権中将に任じ、従三位に叙し、熊本城主加藤清正を侍従に任ず、其他任叙各差あり、

  • 慶長10年(1605年)8月20日伏見を発って熊本へ。※翌慶長11年(1606年)8月18日には京都本圀寺にて生母の菩提を弔っている。

    加藤清正、伏見を発して肥後に還る、

  • 慶長11年(1606年)には、榊原康政の嫡男・康勝に娘の本浄院あま(古屋(こや)とも)を9歳で嫁がせている。同年5月14日に康政が毛嚢炎を煩い病死したため、三男・榊原康勝が跡を継ぐが、清正は後見人となっている。

    慶長十一年三月、當時肥後國主加藤主計頭息女年九歳關東に下向、榊原式部大輔息爲可嫁也、正月七日、九州ヲ出、同廿六日、至大坂著船、此間在京、三月九日ニ岐阜ニ著、(後略)

    本浄院あま
    生母は清正の側室浄光院、竹之丸殿。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣後に榊原泰勝も亡くなったため、本浄院あまは実家である加藤家へと戻っている。のち大坂城代阿部正次の嫡男・政澄に再嫁した。寛永4年(1627年)に後の老中阿部正能を生み、同年に30歳で死去した。墓所は池上本門寺の阿部家墓地にある。
     なお生母浄光院も江戸に居たと見られ、寛永2年(1625年)没。娘である本浄院あまの墓と同じ基壇に寄り添うように並べて建てられている。
  • 慶長12年(1607年)1月27日、次男忠正(幼名熊之助)が江戸にて病没。9歳。

    加藤清正の第二子忠正、江戸に歿す、

  • 慶長14年(1609年)3月6日駿府および江戸へ。前日5日には高台院を見舞っている。

    加藤清正伏見を発し、駿府及び江戸に之く、

 徳川家臣として

  • 慶長15年(1610年)、尾張名古屋城の天下普請には天守台石垣の普請助役として参加している。

    六月三日 加藤肥後守、依願天守一圓ノ御普請相勤之

  • 慶長15年(1610年)9月、八十姫婚姻の話が出る。

    是月、家康、加藤清正の女を娶りて頼将「頼宣、」に配せんとし、其傅三浦為春を肥後に遣し幣を納る、

                阿部政澄
                  ├───阿部正能【大多喜藩→武蔵忍藩】
               ┌本浄院あま(初榊原康勝室)
               ├加藤忠正(早世)
          加藤清正─┴加藤忠広(改易)──加藤光広(高山藩お預け)
            ├───瑤林院八十姫
          清浄院かな  │
    養珠院お万        │         ┌徳川吉宗
      ├──┬──────徳川頼宣       ├徳川頼職
    徳川家康 └徳川頼房  │  ├──徳川光貞─┴徳川綱教
                │ 中川氏         │
                │         鶴姫(綱吉娘)
                │
                ├────┬松平頼純【伊予西条藩初代】
               越智氏   └因幡姫(茶々姫)
               池田忠雄    ├─────┬池田綱清【鳥取藩2代】
                 ├───池田光仲    └池田仲澄【鹿奴藩初代】
         小笠原秀政─┬三保姫
               └蜂須賀忠英
    
    なお徳川頼宣は慶長8年(1603年)11月に水戸20万石を与えられ、慶長14年(1609年)12月に駿府50万石へと転封されている。元和3年(1617年)正月22日に婚儀。紀伊国和歌山55万5千石に転封されるのは更に後、元和5年(1619年)7月である。
     頼宣との間に子は成さなかったが、瑤林院は徳川光貞と茶々姫を実子同様厳しく育てたという。寛文6年(1666年)1月24日逝去。遺骸は池上本門寺で荼毘にふされ、夫頼宣が自ら瑤林院の霊柩を護って和歌山へ帰り、城近く吹上要行寺に埋葬している。のち光貞は、瑤林院への報恩と追福のため要行寺を改め、広大な白雲山報恩寺を造営して徳川家菩提寺とし、篤くこれを祭祀している。
  • 慶長16年(1611年)3月24日、二条城で行われた秀頼と家康の会見にも護衛役として両家の仲を取り持つ動きを見せている。
    ただし清正は縁組が決まっていた頼宣の御供として出席が許されている。しかし短刀の逸話などが残るように秀頼に付き添っていたものと見られ、実際会見後の秀頼は伏見の加藤屋敷に立ち寄り饗応を受けている。「二十八日、快晴、秀頼公御上洛、七歳ノ時、伏見ヨリ大坂ヘ御移徙已五、今日初也、鳥羽マテ大御所ノ若公兩人御迎、其外大名罷出、歴々群衆、近代ノ見物云々、御城へ入御、重畳御振舞御機嫌云々、一時計アリテ御城御出、直ニ豊國ヘ御社参、大佛作事柱ヲ立テ御見物以後、伏見ヘ御越、加藤主計ヘ御成云々、乗船還御無事、珍々重々、」
  • 5月2日に大坂を発って国元へ戻る。しかし清正はこの帰国途中に発病し、「舌不自由」になってしまったという。ただし、5月15日熊本着、27日に熊本城にて発症したともいう。
  • 同年6月24日熊本で死去。享年50。清正の遺骸は熊本城北の岩上中尾口で荼毘に付され、現在の発星山本妙寺(熊本市)にある浄池廟(じょうちびょう)に葬られた。また後日、遺骨の一部が掘り返され、生熊九郎助によって加藤忠広のいる出羽丸岡に運ばれ金峰山天澤寺に葬られた。
    家康による毒殺説が有名だが、実際にはかなりの期間が空いていることがわかる。そもそも頼宣の舅にあたる清正を、この時期に殺害する積極的な動機がない。※この時期は許婚の状態。婚儀自体は清正の死後である元和3年(1617年)に行われている。

 清正死後

  • 兄の虎熊、熊之助(忠正)が早世していたため、跡は三男で11歳の加藤忠広が継いだ。しかし牛方馬方騒動など重臣の対立が発生し、国政は混乱していく。
    牛方馬方騒動(うしかたうまかたそうどう)
    江戸時代初期に肥後熊本藩加藤家で起こったお家騒動。
     清正没後、若年の忠広が跡を継ぐことに対して幕府は5条件を提示したといい、その1つに肥後内牧城代であった加藤右馬允正方を家老として麦島城代に取り立てるというものがあった。藩内は次第にこの正方派と、おなじく家老の加藤正次一派に分かれて主導権争いを始め、正方派を右馬允から”馬方”、正次派を”牛方”とあだ名したことから騒動の牛方馬方という名がつく。
     遂には、正方派の下津宗秀が、元和4年(1618年)忠広の舅であった玉目丹波守(初代)や加藤正次らを幕府に訴えることで一大事件へと発展する。将軍の前で御前公事が行われるが、正方派は先の大坂の陣の折に正次一派が城内に兵糧を送っていた事実などを暴露すると、正次一派は処分されてしまう。
     勝訴した正方は、肥後松江への築城(後の八代城)を行い、元和8年(1622年)に完成させると筆頭家老となり、藩政に重きをなす。しかし世継の加藤光広が、諸大名の名前と花押を記した謀反の連判状を作り家臣をからかうという、過ぎた座興を行っていたことが発覚すると、加藤家は諸処の理由をあげられ改易されてしまう。加藤正方は京都本圀寺に隠棲し、片岡風庵を名乗る。かつての家臣である西山宗因と連歌をたしなんで両吟千句などを著作し、また後には大坂で相場を張って巨利を博したことから世間からはその出来事を風庵相場と名づけられた。
  • 寛永9年(1632年)5月22日、加藤忠広は江戸参府途上で品川宿で入府を止められ、池上本門寺にて上使稲葉正勝より改易の沙汰があり、出羽庄内藩主・酒井忠勝にお預けとなった。

    肥後熊本城主加藤清正卒す、子虎藤嗣ぐ、幕府、虎藤の幼なるを以て、藤堂高虎及び使番牟礼勝成、小沢忠重を遣し、之を巡按せしむ、明年、虎藤、駿府及び江戸に抵り、家康、秀忠に謁し、名を忠広と改む、

    三月廿四日、加藤肥後守清正息男虎之助出御前、黄金五十枚、銀百枚獻之、

    六月十四日、加東肥後守自江戸歸來出御前、御刀國次、御脇指國光、賜之、則歸國云々、

                        ┌本浄院あま(→榊原康勝室・阿部政澄室)
                        ├加藤忠正
                   加藤清正─┴加藤忠広(改易)
                    ├────八十姫
           ┌水野忠守  ┌かな     │
    水野忠政   ├水野忠重──┴水野勝成  徳川頼宣(紀州徳川家)
      ├────┤      ┌松平康元
    於富の方   │久松俊勝  ├松平康俊
      │    │  ├───┴松平定勝(久松松平家)
      ├───┐└於大の方
    松平清康  │   ├────徳川家康(徳川宗家)
      ├─────松平広忠
    青木貞景娘 │   
          │ 松平政忠
          │  ├─────松平康忠(長沢松平家、近江膳所藩)
          └─碓井姫
             ├────┬酒井家次──酒井忠勝(酒井左衛門尉家、出羽庄内藩)
            酒井忠次  └本多康俊(伊奈本多氏)
    
  • 藩主・加藤忠広は出羽庄内藩主・酒井忠勝にお預けとなり、出羽国丸岡に1代限りの1万石を与えられた(出羽国丸岡藩)。出羽丸岡には、母・正応院(玉目氏)や側室、乳母、女官、20名の家臣とともに50人が移り住んだという。のち祖母(正応院の母)も呼び寄せ22年間の余生を過ごした。
  • 忠広の死後、廃藩となり家臣のうち希望した6名が庄内藩に召し抱えられ、残りは出国した。忠広夫妻の墓地は、鶴岡市の金照山本住寺にある。
    • 加藤忠広の長子・加藤光広(豊後守、光正)は、飛騨国高山藩主・金森重頼にお預けとなり、堪忍料として月俸百口を給され天照寺に蟄居したが、1年後の寛永10年(1633年)に病死。自刃説、毒殺説などがある。
    • 次男・正良は沼田藩真田氏にお預けとなり、藤枝姓を名乗った。母である忠広の側室・法乗院と過ごしていたが、父・忠広のあとを追って自害。これで加藤氏の後継者は絶えた。なお正良の娘・献珠院は忠広の死から6年後に許され、叔母の瑤林院(忠広の姉、徳川頼宣正室)のはからいで旗本・阿倍正之の五男・正重に嫁したが、約3年後、正重が家督を相続直後に32歳で死去した。
  • この加藤家のあと肥後熊本を任せられたのが細川家で、八代城にはすでに隠居していた三斎こと細川忠興が入城している。忠興の死後、幕府の意向もあり八代には松井氏が城代家老として入っている。松井氏については松井江#松井興長を参照のこと
  • 江戸藩邸は、改易後収公され、井伊直孝へと与えられている。

    七月十二日戊申彦根城主井伊直孝居屋敷ヲ櫻田市内麹町區ニ、中屋敷ヲ赤坂喰違市内麹町區ニ賜フ。共ニ舊加藤忠廣邸也。
    井伊直孝邸 櫻田邸・赤坂喰違邸共ニ六月加藤忠廣除封ト共ニ上収セラレタル者ノ如ク、直ニ井伊直孝ニ給賜ス。寛政呈譜之ヲ八月トシ、寛永日記・大猷院御實記之ヲ七月十二日トス。未タ孰カ是ナルヲ知ラズ。
     七月十二日 暑天
    一、加藤肥後守上屋敷下屋敷井伊掃部頭に被下之




 加藤清正の刀剣など

加藤国広
娘・八十姫(瑤林院)が紀州徳川頼宣へ輿入れした際に持たせた。重要文化財、三井記念美術館所蔵
加藤左文字
清正死後に遺物として紀州徳川家に贈られたもの。御家名物#加藤左文字参照
肥後江
婿引出として郷義弘を頼宣に贈ったもの。
日光助眞
秀吉没後に家康に献上。家康の死後に日光東照宮へ納められたことから日光助真との号がつく。国宝、日光東照宮所蔵。
※後述遺物の太刀と思われる
紅葉狩
備前兼光三尺三寸の大脇差。江戸城普請の際、自ら人夫を指揮して大石を運ばせた時に指したと伝わる。清正死後に遺物として将軍秀忠に献上した。
※ただし後述するように秀忠には太刀長光来国光脇指とされ、別の時に献上されたと思われる
祐定の短刀
銘「備州長船祐定作/永正十三年二月日」。二条城会見の際に、懐に忍ばせていたと伝わる短刀。大左文字#清正の短刀を参照
宗近太刀
三条小鍛冶宗近作。長三尺五寸。長女あま姫(本浄院)は、のち阿部正次の嫡男・政澄へと再嫁している。その時に持参したという。幕末まで阿部家に伝来している。昭和14年(1939年)の「豊太閤展覧会」で伯爵阿部正直蔵(備後福山藩10代藩主の子)。

 駿府御分物刀剣元帳」所載刀剣

分類記載名分与名物備考
上々御脇指光包将軍家加藤肥後上ル
中之御脇指正宗水戸加藤肥後
被下物之御腰物枩浦國行尾州加藤肥後(加藤清正
日光へ助真さね日光助真加藤肥後
太刀もり家光忠両作尾州加藤肥後(清正)
もり光尾州加藤肥後(清正)
助眞駿州加藤肥後
助守水戸加藤肥後
  • ※上記と重複の可能性あり
  • ※(清正)記載のないものは、子の加藤忠広の可能性あり

 同田貫

 清正の槍

  • 加藤清正所用という槍が3本、瑤林院八十姫婚儀の際に紀伊徳川家に贈られ、同家に伝来した。明治10年(1877年)2月、徳川茂承より旧上野帝室博物館へ献納。ただし現在祐定作の大身槍は失われているのか、東博所蔵品に見当たらない。
    • 片鎌槍(無銘) 文化遺産オンライン ColBase
    • 大身槍(關兼重) 文化遺産オンライン ColBase

      一、關兼重作(大身) 長二尺二寸
      一、備前祐定作(大身) 長二尺四寸五分
      一、無銘(片鎌) 長一尺八寸
      祐定の槍は銘「備前國長船與左衛門尉祐定/永正九年二月日」

      加藤清正所用槍 三筋 帝室博物館藏
      十字槍は片鎌にして身は、中央の刄の長さ一尺二寸五分、鎌は一方に於いて長さ三寸八分、他方に同じく九分を出せり。柄は青貝造、長さ十尺九寸あり。身の莖に朱漆して書して「加藤清正息女瑤林院様御入輿之節御持込」とあり瑤林院は即ち徳川頼宣夫人なり。
      他の二筋の大身槍は、一は身兼安作、平三角穂、刄長さ二尺三寸、柄長さ八尺三寸六分あり。ニは身、備前長船祐定、永正()年二月日の銘あり。刄長さ二尺四寸五分、柄長さ前と同じ。

      和歌山御城御玄關脇ニ、數鎗數竿あり、誰預りとも、何役の支配といふもなけれハ、其由緒志るものなし、是ハ清正行列に用ひたる熊毛の投さやにてありしと、古老に覺へたる人ありしと語り傳ふ、御當家二十本の御長柄熊毛投さやハ、全く彼鎗を御用ぎ被成事也とそ、凡加藤家の寶器并ニ感書なとの類、數多御取傳へ被成候事むへなり、(中略)清正侯大身槍二本一ハ關兼重作、中心ニ加藤清正息女瑤林院様御入輿ノ節御持込ノ十八字ヲ朱書ス、一ハ備前長船祐定、永正元年三月ト在銘、中心同上、無銘片鎌槍一本、中心同上、及法華經題目ノ旗一旒ハ、從來和歌山城天守閣上層ニ御秘蔵アリシカ、維新後明治十年二月、東京帝國博物館へ御獻納、當時同館ニ陳列セラレアリ
      元治元甲子歳、和歌山ニ祇役ノ時、此名器ヲ拝観、大様ヲ模寫ス、因ニ依テ左ニ附記ス

 金照山本住寺

  • また鶴岡市七日町の金照山本住寺には清正の遺物が残る。これは、子の加藤忠広が出羽庄内藩お預けとなって丸岡村に蟄居したことによる。忠広が承応2年(1653年)に死んだ後、遺物の武具類は幕府に没収されたものの、この3点については本住寺に寄贈されたのだという。

    一、鐵の棒
    是は清正巡檢の時に携へたる物にて金象嵌にて表に南無妙法蓮華經、裏に渡海安全、ト刻てある征韓の役の道具と見ゆる。
    一、鐵陣笠
    一、郷義弘刀 長一尺九寸二字銘、裏に「渡海安全大願成就加藤清正」ト切てある。

    同寺では、現在も7月下旬に「清正公祭」が行われ、あわせて加藤家ゆかりの遺品が展示される。また家康・秀頼の二条城会見の際に、清正は扇子に仕込んだ短刀を忍ばせていたと言い、その短刀も同寺に伝わったとするが、現存するかどうかは不明。

 遺物

   秀忠公へ
太刀 長光  御脇指 來國光 御茶入
 
   家康公へ
太刀 助真  御脇指 正宗 圜悟墨跡
 
   右兵衛殿へ ※尾張義直
御脇指 貞宗
 
   常陸介殿へ ※紀伊頼宣
太刀 左文字  御脇指 來國俊 御茶入ほし
 
   上總寺(ママ)殿へ
御脇指 延壽
 已上。
當麻脇指 本田(ママ)佐渡守  兼光脇指 本田(ママ)上野守

 加藤忠広

   加藤肥後守殿加藤忠広
  正宗 シノキ 長刀直シ二尺一寸一分
  本国次 シノキ 磨上二尺三寸はかり
  行光 シノキ 磨上二尺三寸はかり
黒 吉光  八寸はかり
本阿弥光瑳名物刀記

  • 忠広が死去した際に、幕府は江戸から多賀外記(当勝)を検死役として派遣しており、家臣らは忠広が所持していた道具について一覧を作成して差出している。

       刀・脇差之覚
     
    一、正宗 小脇差 壱腰
    一、吉光 小脇差 壱腰
    一、左文字 小脇差 壱腰
    一、則光 小脇差 壱腰
    一、則重 小脇差 壱腰
    一、来国光 小脇差 壱腰
    一、広光 小脇差 壱腰
    一、秋広 小脇差 壱腰
    一、行光 小脇差 壱腰 此行光、死骸桶に入置候得共、取出し指上申候
    一、兼光 小脇差 壱腰
    一、長義 大脇差 壱腰
    一、高田貞行 中脇差 壱腰
    一、藤島 大脇差 壱腰
    一、ミよし 大脇差 壱腰
    一、了戒 大脇差 壱腰
    一、左定吉 大脇差 壱腰 折紙あり
    一、片山 中脇差 壱腰 代金二枚ノ札あり
    一、左定吉 小サ刀 壱腰 折紙
    一、江 小サ刀 壱腰
    一、正宗 刀 壱腰 折紙
    一、左安吉 刀 壱腰 折紙
    一、則重 刀 壱腰
    一、筑前広行 刀 壱腰 折紙
    一、吉房 刀 壱腰
    一、左文字 刀 壱腰 折紙
    一、平安城 刀 壱腰
    一、兼光 刀 壱腰
    一、了戒 刀 壱腰 札有
    一、青江 刀 壱腰 札あり
    一、無銘島田 刀 壱腰
    一、延寿 刀 壱腰 此延寿、死骸桶に入申候得共、取出し指上申候
    一、小一文字 刀 壱腰
    一、青江 刀 壱腰
    一、来国俊 太刀 壱腰
    一、一文字こしらへ何も金浦 ゑふ 太刀 壱腰
    一、さやくろぬり、すふくなしかたやま 志津 鑓 壱本
    (後略)

    外ニ杉村丈夫家蔵之内、左之通。
       御刀脇差之覚
    一、上り申候正宗 小脇差 一腰
     拵之書面加藤氏所蔵帳ニ無異文、以下十二口皆同
    一、上り申候吉光 同 同
    一、上り申候左文字 同 同
    一、上り申候来国光 同 同
    一、上り申候広光折紙 同 同
    一、折紙左定行上り申候 同 同
    一、折紙正宗上り申候 同 同
    一、折紙左安吉上り申候 同 同
    一、折紙筑前広行上り申候 同 同
    一、折紙左文字上り申候 同 同
    一、折紙兼光上り申候 同 同
    一、折紙了戒上り申候 同 同
    一、折紙青江上り申候 同 同
    一、一文字 ゑふ・こしらへ何も金 同 同
    一、さやくろぬり、すふくろなしかたやま 志津 同 同
    承応ニ年癸巳閏六月廿六日 萱野正左衛門
                            杉村文大夫
                            加藤頼母
                            加藤主水
                            石原源左衛門
                            石原平右衛門
                            長谷川権左衛門
                            末松吉左衛門
      御上使
        多 賀 外 記様

 逸話など

 築城の名手

  • 加藤清正は築城の名手として名高い。
  • 関わった城には、熊本城を始めとして肥前名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城などがある。
  • また単に築城だけではなく、その地にあった治水事業を行ったことも知られており、熊本県内には現在も清正の指揮による遺構が数多く残っている。中でも、白川流域かんがい用水群、及び菊池のかんがい用水群については、国際かんがい排水委員会のかんがい施設遺産に認定されている。

 日蓮宗徒

  • 熱心な日蓮宗の信徒であり、本妙寺をはじめとする日蓮宗の寺を数多く創設した。また池上本門寺の表参道にある石段坂(此経難持坂)は清正の寄進によるものとされる。また同寺の大堂も清正が母の七回忌供養の際に建立したものであった(1619年に焼失)。
  • この影響を受け、娘の八十姫(瑤林院、徳川頼宣正室)もまた熱心な日蓮宗徒で、生母・清浄院の死後、京都本圀寺に埋葬し、加藤家墓地として整備している。瑤林院の墓は、和歌山市の報恩寺(日蓮宗)にあるが、これは側室の子で二代藩主となった光貞が母・瑤林院を偲び要行寺を改めて造営したもので、のち紀州徳川家の菩提寺となっている。

 関連項目


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