二条城
二条城(にじょうじょう)
旧二条離宮、元離宮二条城
慶長8年(1603年)築城
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概要
- 現在は、城内全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。
- さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録された。
様々な二条城
- 二条の地には、13代義輝の二条御所武衛陣以後、様々な城郭形式の邸宅が建てられた。
- 足利義輝や織田信忠の最期の地として、また家康が将軍宣下を受け慶喜が大政奉還を行った地として、歴史上「二条城」という名称で何度も登場するが、それぞれ場所は異なっている。
- 【二条御所武衛陣】:13代足利義輝の造営。斯波武衛家邸宅跡。
- 【二条御所(旧二条城)】:15代足利義昭のために信長が造営。二条御所武衛陣付近。
- 【二条御新造(誠仁親王御所)】:織田信長の邸宅。のち誠仁親王の御所。信忠自害の地。
- 【二条第(妙顕寺城)】:聚楽第完成まで秀吉の政庁。
- 【元離宮二条城】:関ケ原の後に家康が造営した城。現在の二条城。
二条御所武衛陣
- 「武衛」とは代々兵衛府の督や佐に任じられた斯波氏の職名「兵衛府」の唐名武衛を由来とする。
- 斯波氏5代の斯波義将が勘解由小路に邸宅を構えてのち、同邸が長く斯波氏の本邸となった。「武衛家の邸宅(陣)」即ち「武衛陣」と呼ばれ、洛中洛外図にも「ぶえい」として登場する。
斯波高経
斯波義将の父は、室町幕府創業の元勲である斯波高経。斯波高経は、「鬼丸国綱」の伝承において「尾張守高経」「尾張修理大夫」として登場する人物。新田義貞が所持した「鬼切」及び「鬼丸国綱」を分捕り、足利尊氏からの提出命令を拒んだ逸話が残る。
- 武衛陣は、応仁の乱の頃には数多くの櫓を備え堀を巡らすなど合戦に備えて要塞化が推し進められる。実際に洛中の諸大名の屋形はもちろんの事、将軍の邸宅である室町第までもが焼失する中、武衛陣は最後まで持ちこたえたとされる。12代当主斯波義寛の時代頃まで武衛家の本邸として使用されたようであるが、肝心の武衛家自体が在京を断念し、領国であった尾張国の清州城へ本拠を移すと、やがて放棄されてしまったとされる。
斯波家
斯波家は義寛の父の義敏の頃は越前・尾張・遠江3ヶ国の守護職を兼ねていたが、越前では朝倉家の台頭を許し、遠江においても駿河の守護今川氏の侵攻を受けて急速に勢力を失った。さらに尾張においても孫の斯波義統の頃には守護代織田家の三奉行のひとつ、弾正忠家の織田信秀が斯波家を凌ぐ勢力を持つようになった。
- 永禄2年(1559年)、足利義輝はこの斯波氏の屋敷跡(武衛陣)に城を築き、居城とした。足利将軍家の御所であった室町殿(花の御所)は、それまで何度か小規模なものながらも再建が繰り返されていたが、この「二条御所武衛陣」を造営・移転したために廃止された。
- 二条御所武衛陣は堀も備えていたが、永禄8年(1565年)完成寸前に三好三人衆らの襲撃を受け、義輝は落命した(永禄の変)。
京公方様御館ノ四方ニ深堀高壘長關堅固ノ御造作有リ未タ御門ノ扉以下ハ不出来カゝリケル所ニ松永弾正三好日向守同下野守石成主税松山安藝守同新太郎等一味同心ノ族清水参詣ト披露シ勢ヲ集メ永禄八年五月十九日二條御所武衛陣ノ御構エ奉押寄
(足利季世記)
- 変後、跡地には真如堂が移され、義輝追善の六斎踊が挙行された。
- 次項の15代義昭のための二条御所(旧二条城)も、ほぼ同じ位置に造営された。
二条御所(旧二条城)
- 「公方様御構」、「公方之御城」、「武家御城」、「烏丸中御門第」ともいう。のち「古二条城」などと呼ばれた。
- 15代足利義昭は、永禄11年(1568年)に信長に奉戴されて上洛、将軍就任後は最初は旧細川氏綱邸に入るが、のち六条本圀寺を居所とする。
公方様御上洛アリ故細川右京太夫氏綱ノ舊宅ヲ御座所ニシツライ御移リアリ、同十月廿二日御参内アリ征夷将軍ニ御補任アリケリ
公方様ハ六條ノ本圀寺トテ法華宗ノ大寺アリ彼寺ヲ御所ト定ラレ御移リト聞エシ
- しかし翌12年(1569年)、三好三人衆による襲撃を受けてしまう(本圀寺の変)。
(永禄十二年)同正月十一日朝 宗寿會 了雲 道叱 宗及
炉 つり物 手桶
床 鴨繪カケテ、 只天目、台なし
去六日ニ、於山城桂河、公方様衆与三好方一戦アリ、三好方打マケ候、阿州從堺出申、依其故、堺中從十二日サワギ出候也、去年十月比ヨリ、堀ヲホリ、矢倉ヲアゲ、事外用意共イタシ候事無専、堺津中之道具、女子共迄、大坂・平野へ落シ申候也、
- この報を受けた信長は、さらに防備の整った城の必要性を認識し、新たに義昭のために二条御所を造営する。この時、本圀寺の建物は取り壊され、さらには屏風や絵画などの本国寺の貴重な什器類までもが運び去られたという。これは当時の住職が松永弾正と通じていたためとされる。
將軍義昭公六條の本圀寺に御坐在しに三好等の亂有し後、信長室町の御所を造営し奉る、然るに本圀寺は只今迄は公方の御坐在し事故、此節は定て褒美に預るべき物と皆々思ひ居たるに、案の外彼寺の坊中を破却し近衛殿へ参らせ公方の御坐所をも毀ちて幕府近習の士抔に賜ひしかば、人々あきれて何事ぞ上意に背きしにやと云しが、さには非ず實は松永弾正事彼宗旨なる故住持の僧と密に計り公方を窺ひける事ども露顕したり。故にかくは罰せられし。
- 二条御所の場所は、義輝の二条御所武衛陣のあった地を中心に、北東に拡張して約400メートル四方の敷地に、2重の堀や3重の「天主」を備える城郭造邸宅(旧二条城)を築いた。この時信長は、細川藤賢邸にあった「藤戸石」を自ら指揮して運ばせている。
同年二月ヨリ二條勘解由小路武衛陣ノ前ノ御所構ヲ東北ヘヒロケ堀ヲホリ石垣ヲタゝミ如先規ノ御所ヲ造ラルゝ人足不足ニテ諸侍衆自身荷土普請也、四月六日公方様御入城アリテ六箇年御座候也
足利義輝邸遺址の北西25mほど。「旧二條城跡」の石碑と平安女学院による説明板が残る。
- 信長と義昭との関係が悪化し、槇島城の戦い後に追放されると、旧二条城に残った天主や門は天正4年(1576年)に解体され、安土へと運ばれ築城中の安土城に転用された。
- その後、この武衛陣跡地は将軍や大名の邸宅として使用されることは無くなった。現在はその多くが学校法人平安女学院の校地となっている。
二条御新造(にじょうごしんぞう)
- はじめ信長の宿所として造営され、のち整備されて誠仁親王の御所となった建物。
- 信長は、上洛後に旧二条城からさらに下った「二条殿(押小路烏丸殿)」と呼ばれていた二条家の屋敷跡に「二条御新造(二条新御所)」を築いている(現在の京都国際マンガミュージアムの一帯)。
四月晦日 二条殿御屋敷幸空間地にて在之、泉水大庭眺望面白被思食、御普請の様子條々 村井長門守に被仰聞
烏丸御池駅の北西、京都国際マンガミュージアムの西側、両替町通沿いに、「二条殿跡(誠仁親王御所)」の石碑が残る。
- この地は、元は禎子内親王(陽明門院)の御所があったとされ、中納言藤原家成の邸宅となり、鎌倉時代には後鳥羽院の仙洞御所(押小路殿)となった。貞応元年(1222年)に焼失するが、後嵯峨院によって新たな御所が造営され、のち二条家代々の邸宅となる。※二条家祖である藤原良実の邸宅であったという説もあるが、実際に二条家が入手したのは良実死後の永仁年間であるとされる。南北朝期には北朝天皇の御所となり、光明天皇及び崇光天皇の践祚の儀が執り行われている。
- 応安元年/正平23年閏6月13日に雷雨の押小路烏丸殿の池から白龍が昇天するのを目撃したという話があり、これを聞いた中巌円月がこの池を「龍躍池」と命名したという。現在の御池の地名は、この龍躍池にちなむともいう。
- 度重なる火災で焼亡するなどして荒れ果てていたが、二条晴良のとき上洛してきた信長により召し上げられ、天正4年(1576年)に二条御新造の造営が開始される。
二条晴良・昭実父子は、これより前に信長のはからいにより報恩寺の新邸に移徙しており「(天正四年)四月九日、報恩寺へ二條殿被移初云々(略)然者明日十日に悉移徒云々」、この地は空き家となっていた。
- 同年9月には主殿が落成し、翌天正5年(1577年)11月信長は京都での宿所を二条御新造へと移している。「二条殿御池城」、「二条古城」とも呼ばれている。
(天正四年)八月九日、右大將家(信長邸)作事、罷向見之、寢殿大概出來、驚目者也、御成之間柱計立了
九月十三日、村井(村井貞勝)所へ罷向、左督同道、二條之主殿驚目者也、長州は公方西之御館江州へ被引之、見舞罷了、則彼所へ罷向對面了
九月廿四日、武家御城之内桃木植生廿本計令堀之、此方之土居に栽之、昨日南之御門、今日東之御門崩之、江州安土へ引之、石専彌方々取之云々、
十月廿五日、村井長門守所へ罷下、右大將屋形作事見之、葉室宮笥に白餅鬚籠被出之、次同名將監、垣河、落合等に同被遣之、路次公方之御城にし堀、上京衆に申付埋之、見物
- 信長は2年ほどここを宿所として用いていたが、天正7年(1579年)には儲君誠仁親王の新御所として造営を開始、11月に親王へと提供された。この後は「下御所」、「二条新御所」、「二条御所」などと呼ばれている。
- 天正10年(1582年)6月の本能寺の変では、隣(二条衣棚)の妙覚寺に宿泊していた織田信忠は本能寺(現在の元本能寺町)へと向かうが、明智方に阻まれたためこの二条御新造に篭って明智方と戦ったのち、自害した。
妙覚寺(みょうかくじ)
妙覚寺は永和4年(1378年)に日実によって四条大宮の地に創建された日蓮宗本山で、文明15年(1483年)に足利義尚の命により二条衣棚へと移転している。天文法華の乱で消失し堺に避難するが、天文11年(1542年)に後奈良天皇の法華宗帰洛の綸旨により帰洛し、天文17年(1548年)再び二条衣棚の地に再建された。信長は、道三の四男にあたる十九世日饒との繋がりからか、上洛後の宿舎を妙覚寺としていた。ただし日饒は、信長上洛7年前の永禄4年(1561年)入滅。
本能寺(ほんのうじ)
本能寺は応永22年(1415年)に日隆によって創建された法華宗本門流の大本山。次第に寺域を拡大し、天文年間の8世日承上人の頃には、西洞院大路、油小路、六角小路、四条坊門小路にわたる方1町(4町々、現在の元本能寺町のあるエリア一体)という巨大な寺域を得ていた。信長は日承上人に帰依しており、上洛中に三度ほど宿所としていたが、天正10年(1582年)6月に明智光秀の軍勢に囲まれ、自害に追い込まれた(本能寺の変)。のち秀吉により天正19年(1591年)には現在の寺域(中京区下本能寺前町)へと移転させられている。
- この時、信忠は三法師を前田玄以に託し落ち延びさせており、その際に「徳善院貞宗」を与えたという。※居住していた誠仁親王と家人や公家たちは、戦闘を中断した上で御所へと逃げ込んでいる。
誠仁親王
誠仁親王は正親町天皇の嫡男。皇位を継ぐことが確実視されていたが、本能寺の変後、天正14年(1586年)7月に急死してしまう。誠仁親王の第一王子は後陽成天皇となり、第五王子の興意法親王は織田信長の猶子となっている。
八条宮智仁親王
第六王子の智仁親王は始め秀吉の猶子となるが、のち八条宮を創設し初代となる。慶長5年(1600年)には細川幽斎から古今伝授を受け、ここから御所伝授が始まっている。兄の後陽成天皇は、実子の良仁親王を廃して弟の智仁親王(八条宮)に譲位しようと考えていたが、秀吉の猶子となっていたことを問題視した徳川家の反対を受けて皇位は良仁親王の弟の政仁親王(後水尾天皇)が継ぐこととなった。その後水尾天皇に入内したのが東福門院徳川和子(秀忠の娘)である。徳川秀忠 ├────徳川和子 崇源院(お江) ├─────明正天皇 ┌後水尾天皇──┬後光明天皇 │ ├後西天皇 │ └霊元天皇 ├近衛信尋〔近衛信尹養子〕 正親町天皇 近衛前子 ├高松宮好仁親王〔初代高松宮〕 ├────誠仁親王 ├────┴一条昭良〔一条内基養子〕 万里小路房子 ├───┬後陽成天皇───覚深入道親王(良仁親王)〔仁和寺〕 勧修寺晴子 ├空性法親王〔四天王寺別当〕 ├良恕法親王〔天台座主〕 ├興意法親王〔織田信長猶子〕 └智仁親王〔豊臣秀吉猶子、初代八条宮〕
秀吉の二条第(妙顕寺城)
- 秀吉は、信長在世中にも二条御新造の隣接地に屋敷を有していたが、天正8年(1580年)に信長によって没収されてお気に入りであった前関白・近衛前久に献上されている。
- 天正11年(1583年)、本拠地を大坂に定めた秀吉は京都における拠点として「二条第」を構えた。妙顕寺を移転させその跡地に建設されたことから「妙顕寺城」とも呼ばれる。同年9月11日取り壊しが行なわれ、12年4月14日より普請が開始される。12年8月11日、大坂より上洛した秀吉は妙顕寺城へと入っている。
信長の二条御新造と、家康の元離宮二条城の中間地点である小川押小路にあったとされる。京都府京都市中京区古城町376に「豊臣秀吉妙顕寺城跡」の石碑が残る。
- 聚楽第完成まで秀吉の政庁として使われ、普段は前田玄以が在城した。周囲に堀を巡らし天守もあったという。
聚楽第
聚楽第は天正14年(1586年)2月に着工、翌天正15年(1587年)9月に落成。九州征伐後に秀吉は聚楽第へと移り、政庁とした。天正16年(1588年)5月には後陽成天皇の行幸を迎えている。天正19年(1591年)、家督および関白職を秀次に譲ると聚楽第も秀次の邸宅と成る。しかし秀吉は、文禄4年(1595年)7月に秀次を高野山に追放して自害に追い込むと、翌8月から聚楽第を破却し、その部材は指月伏見城および支城である向島城に運ばれた。
元離宮二条城
- 現在「二条城」(元離宮二条城)と呼ばれる建物は、関ヶ原勝利後の家康が慶長6年(1601年)12月ごろから大宮押小路に築いたものである。
- 建造当時は、「二条亭」や「二条新御所」、「二条新屋敷」などとも呼ばれていた。
- 徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終わりの場所でもある。
家康
- 慶長8年(1603年)、家康は伏見城において征夷大将軍補任の宣旨を受け、3月12日に竣工間もない二条城に入城、同月25日、室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、御所への行列を発した。それに続き、27日に二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。
この将軍就任の手順は2年後の慶長10年(1605年)に家康の息子の2代将軍秀忠が、元和9年(1623年)に孫の3代将軍家光が踏襲するが、曾孫の4代将軍家綱以降は行われなくなった。
- 慶長16年(1611年)3月28日に、二の丸御殿において家康と豊臣秀頼の会見(二条城会見)が行われている。
(慶長16年3月)廿八日(略)又京にては秀頼公二條城にまうのぼらる。(略)秀頼公は唐門外にて下乗あり。 大御所玄関前莚道まで出むかへまたひ。御主座は北に設らる。(略) 大御所まづ御盃を遣はさる。其時左文字の御刀(大左文字)。鍋藤四郎の御脇差をひかせ給ひ。此外大鷹三聯。馬十疋をくらせらる。其御盃返し進らせらるゝとて。一文字の刀(南泉)。左文字の脇差(太閤左文字)を捧げらる。此外秀頼公よりは眞盛の太刀。黒毛馬一疋。金三百枚。猩々緋三枚。緞子廿卷進らせらる。此間高臺院の方こなたにおはし御對面ありて。同く御杯まいる。秀頼公又義直卿へ光忠の太刀。頼宣卿へ守家の太刀。各金百枚づゝそへて進らせられ。(略)清正は饗席につかず。はじめより秀頼公の側をはなれず。御三獻はてし時。大坂の母君も待わび給ふべし。はや御暇をと申せば。大御所げにもとて歸路をうながし給ふ。かくて二三の間まで送らせ給へば。秀頼公蹲踞ありて。これまで出御恐懼にたへざる旨のべらる。有樂いかにも右府申さるゝ如しと取合せらる。 大御所いかで御送り申さではあるべきとて。また玄關の筵道まで出まし。互に座につき給ひ。慇懃に一拜して秀頼公はまからる。
- 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、家康はこの二条城から出陣している(秀忠は伏見城)。
秀忠
- 元和6年(1620年)、秀忠の娘である徳川和子が後水尾天皇へ入内する際にも、この二条城から長大な行列を作り、後水尾天皇のもとへ入内した。
家光
寛永3年(1626年)9月6日、後水尾天皇の行幸。
- 唐門は金地院崇伝(以心崇伝)に与えられ、寛永4年(1627年)8月7日に南禅寺金地院へと移された。のち慶応4年(1868年)に豊国神社が再建された際に移されている現在国宝。※元は伏見城にあったもので、家康が二条城へと移したもの。
- 行幸殿を始めとした建物は、寛永5年(1628年)に仙洞御所造営にあたって移築した。
- その他、東福門院、女三宮、九条家、知恩院などへも二条城の建物が移築されている。
幕末まで
- 寛永11年(1634年)7月、秀忠の死後に家光が30万7千の兵を引き連れ上洛し、二条城に入城した。
- これを最後に二条城が将軍を迎えることは途絶え、幕末の動乱期までの230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消す。
- 寛文2年(1662年)5月、寛文3年(1663年)12月に京都に大地震があり、二条城も損害を被っているが、このときには将軍家綱の命により修理を行っている。
- 寛延3年(1750年)8月26日、落雷により天守閣が炎上、消失する。このときにも修繕が行われたのか、宝暦2年(1752年)2月17日に大番12名に対して時服を賜っている。宝暦6年(1756年)12月20日には普請奉行の稲垣出羽守正武および大番組頭河野源右衛門通頼に恩賞が行われている。
- 天明8年(1788年)正月晦日に団栗辻子から起こった天明大火により、仙洞御所や二条城まで火が広がり、二条城でも本丸内殿舎などが消失している。
- これ以降、二条城の本丸御殿が修造されることはなく、二の丸御殿のみが残されていた。
家茂
- 文久2年(1862年)、14代将軍徳川家茂の上洛にそなえ、荒れ果てていた二条城の改修が行われる。二の丸御殿は全面的に修復し、本丸には仮御殿が建てられた。
- 同年2月13日江戸発、3月4日入洛して二の丸御殿に入る。3月7日に在京諸侯を従えて参内、孝明天皇に拝謁している。
- 当初は10日間の予定であったが、京都政変のさなかでそれがならず、さらに閏3月11日には賀茂行幸、4月11日には石清水行幸があったことから、将軍家茂はその後4月21日に大阪へと下った。
- 同年5月21日に上洛、二条城に入り18日に参内している。24日に東帰の暇を給う。
- 将軍家茂は、元治元年(1864年)、慶応元年(1865年)にも上洛して二条城と大阪城を行き来している。
- 将軍家茂は、慶応2年(1866年)7月20日に大阪城で薨去。
慶喜
- 慶応3年(1867年)9月、慶喜が周囲の説得により将軍職を継ぐことを決め、宿所を若狭小浜藩邸から二条城に移す。10月には大政奉還し、将軍職返上、12月には朝廷より辞官納地命令が二条城に伝達された。
明治後
- 明治元年(1868年)正月、朝廷は二条城に太政官代を設置する。
- 同年2月3日明治天皇が行幸し、関東親征の大発令を行った。同年4月には太政官代は宮中に移されている。その後は兵部省の管轄となる。
- 明治4年(1871年)3月13日に二条城は京都府の管轄へと移され、同年6月26日に京都府庁舎となる。
- 明治6年(1873年)6月26日に陸軍省所管となるが、京都府庁はそのまま設置されていた。
- 明治17年(1884年)7月28日、二條城は宮内省の所管となり、「二条離宮」と改称している。
宮内省甲第壹號 京都二條城ヲ離宮ト被定、自今二條離宮ト稱候條、此旨告示候事。
明治十七年七月二十八日
宮内卿 伊藤博文
- 翌明治18年(1885年)6月、京都府庁は現在地である上京区下立売新町(京都府中学校(現在の府立洛北高校・附属中学)があったが、中学校が上京区寺町通荒上口下ルに新築移転した跡地。)に移転し、明治23年(1890年)11月二条離宮は世伝御料とされた。
此まで京都府廳たりし舊二條城は愈々離宮と定まりしに付き、過日より下立賣の中學校跡を修繕せられ、來る五日に府廳は同所に引移り、翌六日に離宮を宮内省市廳に引渡され、引續き大修榮に着手せらるゝよし、然るに離宮の周圍にある外堀は此までも夜中など往來人の過りて陥いる者少なからず、殊に近來は水もほせて見苦しければ、此を埋立てんとの事なりしかども其の入費も容易ならず、さればとて此後通行人の間違ひなど有りてはよろしからず、寧ろ馬場の往來を留る方がなど云ふ人もありしが、左ありては又た二條口、堀川口、千本口を始めとして、猪熊、大宮、日暮の諸口を塞ぎ、往來の不便も少なからざるべしとて、唯今は未だ何とも取極らざる由に云へり。
- 明治26年(1893年)~明治27年にかけて、今出川御門内にあった旧桂宮御殿を本丸内に移築している。
桂宮御殿は弘化4年(1847年)8月に修造されたもので、嘉永7年(1854年)4月に内裏が炎上した際には孝明天皇の仮皇居となり、安政2年(1855年)11月に新内裏が造営されるまで使われた。のち孝明天皇の妹和宮が安政7年(1860年)2月~文久元年(1861年)10月に関東へ下るまで住まいとしていた。さらに明治5年(1872年)に明治天皇が九州四国へ巡幸する際、6月1日に臨御している。
- また大正天皇の皇太子時代、京都行啓のたびに二条城御殿に立ち寄っており、大正4年(1915年)の即位式も二條城二の丸御殿で行われた。
- 昭和14年(1939年)7月27日、世伝御料から解除されることが発表され、10月25日には宮内省から京都市に下賜された。
- それ以後「元離宮二条城」という名称となった。
- 京都市に移管された後の昭和14年(1939年)10月28日、二の丸御殿の6棟を含む24棟が国宝保存法に基づく「国宝」(旧国宝)に指定され、昭和19年(1944年)には本丸御殿4棟が追加指定された。これらは新法施行に伴い重要文化財指定になっている。
名称 二條城
所有者 京都府京都市
所在地 京都府京都市中京區五百四十一番地
(昭和14年文部省告示第四百三十五號)
- 戦後、昭和27年(1952年)3月29日、二の丸御殿 6棟が文化財保護法に基づく国宝(新国宝)に指定された。
- 平成6年(1994年)12月、古都京都の文化財を構成する17の遺産の1つとして、世界遺産に登録された。
関連項目
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