後鳥羽院


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 後鳥羽院(ごとばいん)

第82代天皇
平安末期から鎌倉初期に在位
隠岐院
ごとばのゐん

Table of Contents
  • 高倉天皇の第四皇子、母は従三位坊門信隆の娘・七条院殖子。諱は尊成。安徳天皇の異母弟であり、後白河法皇の孫にあたる。
    坊門家は藤原北家道隆流。道隆の子の伊周と隆家は叔父道長と対立し、花山法皇に矢を射かけた罪で左遷され、後に許されるが長らく不遇の時代を過ごすことになる。当代の信隆は、平清盛の娘を妻とした関係で親平家派の廷臣としても活動し、平氏政権の興隆とともに栄達し、仁安3年(1168年)に従三位に進んだ。坊門を家名としたのは信隆の子の信清と隆清の代からであるが、家名の由来は信隆の私邸が七条坊門小路沿いにあったことによる。なお子の信清の娘・坊門信子は、鎌倉幕府の3代将軍・源実朝の正室。西八条禅尼と通称される。

 政治

  • 平家の都落ちで安徳帝も同行したために、三種の神器がないまま後白河法皇の院宣により即位。後白河法皇の死後、1198年に息子である土御門帝に譲位し院政を敷いた。
  • 徐々に鎌倉幕府との対決姿勢を強め、1221年には執権北条義時追討の院宣を出し、畿内・近国の兵を召集して承久の乱を起こすが、大軍に敗れる。
  • 後鳥羽院は隠岐島、順徳院は佐渡、土御門院も土佐に流され、高倉院の孫にあたる茂仁王が皇位に就いた(後堀河天皇)。
  • 後鳥羽院は1239年2月20日配所にて崩御しており、同年5月に「顕徳院」と諡号されるが、後ち、1242年に院号が「後鳥羽院」に改められた。
    • 諡号が改められたのは後鳥羽院のみ。後述「怨霊」の項を参照
 後三条─┬白河──堀河──鳥羽─┬崇徳──重仁親王
     │           │
     ├実仁親王       ├後白河─┬二条──六条
     │           │    │
     └輔仁親王─源有仁   └近衛  ├以仁王
                      │
                      └高倉─┬安徳
                          │                【大覚寺統】
                          ├守貞親王──後堀河──四条  ┌亀山──後宇多
                          │(後高倉院)         │
                          │               │
                          └後鳥羽──┬土御門──後嵯峨─┤
                                │         │【持明院統】
                                └順徳───仲恭  └後深草─伏見

 菊の御紋

  • 俗に「菊の御紋」と呼ばれる皇室の紋「十六葉の菊紋」は後鳥羽上皇に始まる。
  • 後鳥羽上皇がことのほか「菊」を好み、自らの印として愛用した。その後、89代後深草天皇・90代亀山天皇・91代後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、ことに「十六八重表菊(じゅうろくやえおもてぎく)」が皇室の紋として定着した。
  • 公式に皇室の紋と定められたのは明治2年(1869年)8月25日の太政官布告第802号による。

    親王家ニテ菊御紋用來候處向後十六葉之分ハ不相成十四五以下或ハ裏菊等品ヲ替へ御紋ニ不樣可致旨被 仰出候事
    (明治2年 太政官布告第802号)

    ここではまず皇室以外の親王家での十六葉の使用を禁止し、十四葉・十五葉以下あるいは裏菊などに替えることとしている。

  • 更に明治4年(1871年)6月17日の太政官布告第285号で、皇族以外の菊花紋の使用が禁止され、同第286号で、皇族家紋の雛形として十四一重裏菊が定められた。

    菊御紋禁止ノ儀ハ兼テ御布告有之候處、猶叉向後由緒ノ有無ニ不關皇族ノ外總テ被禁止候尤御紋ニ紛敷品相用候儀モ同様不相成候條相改可申事
     但從來諸社ノ社頭ニ於テ相用來候分ハ地方官ニ於テ取調可申出事
    (明治4年 太政官布告第285号)

    皇族家紋雛形ノ通被定條事
     (十四葉一重裏菊文様図)
    (明治4年 太政官布告第286号)

  • その後、大正15年(1926年)10月21日に制定された皇室儀制令(大正15年皇室令第7号)第12条、第13条によって正式に定められた。

    第十二条 天皇太皇太后皇太后皇后皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃ノ紋章ハ十六葉八重菊形トシ左ノ様式ニ依ル
     (文様図)
    第十三条 親王親王妃内親王王王妃女王ノ紋章ハ十四葉一裏菊形トシ左ノ様式ニ依ル
     (文様図)
    (大正15年 皇室令第7号)

  • 現行法において、菊の御紋(菊花紋章)は商標法により保護されており、国旗に準じた扱いを受けるため類似した商標等は登録できない。また国際的にも、工業所有権の保護に関するパリ条約第6条の3に基づいて、1967年に同条約の同盟国に通知されており、これらの国では商標登録をすることができない。

    第四条 次に掲げる商標については、前条の規定にかかわらず、商標登録を受けることができない。
    一 国旗、菊花紋章、勲章、褒章又は外国の国旗と同一又は類似の商標
    (商標法)

    第6条 商標の登録の条件,各国の商標保護の独立
    (3) いずれかの同盟国において正規に登録された商標は,他の同盟国(本国を含む。)において登録された商標から独立したものとする。
    (パリ条約)

 怨霊

  • 当時の公家社会において、後鳥羽院は怨霊化したと強く信じられた。
  • 当初後鳥羽上皇に贈られた「顕徳院」とは、俗に「徳」諡号と呼ばれており、怨霊化しそうな帝に対して贈られるものであった。崇徳、安徳、顕徳、順徳の4名の帝に対して贈られており、これらの帝はいずれも自ら望まない形で崩御している。
    聖徳太子(厩戸王、聖徳王)についても同様の諡号であるとの指摘がある。

 承久の乱

  • 承久の乱の後、鎌倉幕府は後鳥羽上皇の後裔のことごとくを配流・出家・臣籍降下させ、その系統による皇位の継承を認めない方針をとった。乱の直前にわずか4歳で譲位され践祚した仲恭天皇も退位させられている。
    仲恭帝は在位わずか78日であり、歴代天皇の中で在位期間が最も短い天皇となった。即位式も大嘗祭も行われなかったため諡号・追号がされず、長らく「九条廃帝(くじょうはいてい)」、「承久の廃帝(じょうきゅうのはいてい)」、「半帝」、「後廃帝」などと呼ばれていた。「仲恭」と追諡されたのは明治3年である。
     ”後”廃帝とは、同じく長らく「廃帝(はいたい)」と呼ばれた淳仁天皇に対して、後に廃帝とされたという意味での呼称。
  • これにより、世俗にいる皇族が安徳天皇の弟の子である当時10歳の茂仁親王だけとなり、幕府の意向で即位することとなった(後堀河天皇)。

 後堀河帝、後堀河帝中宮の崩御

  • 後鳥羽院は1239年2月に隠岐の配所で崩御するが、すでに生前から怨霊化するとの恐れが公家社会にはあったと見られている。天福元年(1233年)9月~翌文暦元年8月にかけて後堀河天皇の中宮(藤原竴子)、さらに2年前に院政を開始したばかりの当時23歳の後堀河上皇が相次いで崩御しており、これについて次のように記述している。

    女院の御事に打つゞき此事の出来ぬる。いかにも子細ある事也。後鳥羽院の御怨念。十楽院僧正などの所為にやとぞ申あひける。或人の申侍しは、誠にや有けん。かゝる事は虚言のみおほかれば、偏に信ずべきにあらねども書付侍り
    (五代帝王物語)

    藤原竴子は摂政関白左大臣九条道家の娘。後堀河天皇との間に2人の子を設けるが、3人目の皇子を身ごもった際、出産を翌月に控えた8月に容態が悪化し、「物の怪」に苦しめられているのではないかと周囲が杞憂する事態に陥った。強い陣痛を繰り返した後に皇子を産むが、逆子の状態ですでに死亡していたという。産後、胎盤が降りず体力を消耗しきった竴子は、危篤状態に陥り崩御した。
    また十楽院僧正は、天台座主就任を果たせず九条道家を怨みつつ死んでいる。

 後鳥羽院置文案文

  • さらに後鳥羽院自ら、死後怨霊化することを懸念し、水無瀬信成・親成父子に送った宸翰(手紙)の中でそうなった場合のことについて述べている。この御手印置文に押された朱の手印は現在でもはっきりと残っている。

    我は法花経にみちひかれまいらせて、生死をはいかにもいてんする也、たゝし百千に一、この世のまうねんにかゝはられて、まえんともなりたる事あらは、このよのためさはりなす事あらんすらむ、千万に一、我子孫世をとる事あらは、一かうわかちからと思へし
    (後鳥羽院置文案文)

    自分は法華経の功徳に導かれていよいよこの世を去ることとなるが、万が一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となるようなことがあれば、この世に災いをなすだろう。我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。
     この魔縁云々は、かつて崇徳院が「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん。この経を魔道に回向(えこう)す」と舌を噛み切って血書したことを意識していると思われる。この予言通り都に災いをなし、後に後鳥羽の後継が現在まで続くことになる。

 連署北条時房頓死

  • また後鳥羽院崩御の1年後に北条時房(執権時政の息子で初代連署。北条政子や2代執権北条義時の異母弟)が亡くなっているが、それにも後鳥羽院の怨霊が影響していると伝える。

    時房朝臣者、時政息、故義時朝臣舎弟也、於関東如両眼口入世務、承久已後已送廿年、今頓死之条可奇可思、人口云、去年歳暮義村(三浦義村)頓死、今年又時房頓死、偏是顕徳院御所為云々、関東中偏以御顕現云々
    (平戸記)

    「平戸記」は民部卿平経高が記した日記。前年の暮れには三浦義村が頓死し、今また時房が頓死した。人々は、これはひとえに顕徳院(後鳥羽院)の怨霊によるものだと噂したという。

 四条帝崩御

  • 後堀河天皇の第一皇子である秀仁親王は、貞永元年(1232年)10月には2歳で践祚(四条天皇)、仁治2年(1241年)1月5日に元服するが、翌年仁治3年(1242年)の1月9日に不慮の事故にあい崩御している。直接の死因は近習の人たちを転ばそうと御所の廊下に撒いた滑石を誤って自ら踏んでしまい転倒したためであったが、幼くして崩御したことから怨霊の噂が絶えなかったという。
  • これにより後堀河天皇の系統が絶えてしまったため、結局は後鳥羽院の系統となる邦仁親王(土御門天皇の第二皇子、承久の乱当時は1歳)が践祚することとなった(後嵯峨天皇)。
    承久の乱において、土御門上皇は何も関与していなかったので処罰の対象にはならなかったが、父である後鳥羽院が遠流であるのに自分が京にいるのは忍びないと、自ら申し出て土佐国に流された経緯がある。

 顕徳院から後鳥羽院

  • 後鳥羽院が崩御したあと「顕徳院」が贈られたが、すでに当時は「徳」諡号の効き目がなくなっていると考えられており、3年後に「後鳥羽院」へと改められた経緯がある。
    崇徳院の場合、讃岐に配流されたために「讃岐院」との院号で呼ばれていたが、崩御して後に不思議のことが続いたために、13年後治承元年(1177年)に「崇徳院」と諡(おくりな)された。後鳥羽院がすぐに諡され、さらに3年後に諡号が改められているのは、それほど恐れられていたためともいわれる。
     鎌倉時代初期関係系図
     
     北条時政─┬北条義時──泰時───時氏──┬経時(4代執権)
          ├北条時房  (3代執権)    └時頼(5代執権)
          └北条政子
           ├────┬源頼家─┬一幡
     源義朝  ┌源頼朝  └源実朝 ├公暁
      ├───┼源希義       └竹御所(藤原頼経室)
     由良御前 └坊門姫
            ├───┬一条高能
           一条能保 │       (土御門帝)─後嵯峨帝─宗尊親王(6代)─惟康親王(7代)
                │西園寺公経          ├──┬久仁親王(後深草帝)
                │  ├───┬西園寺実氏──姞子  └恒仁親王(亀山帝)
                ├─全子   └倫子    ┌九条教実
                ├──女     ├────┼二条良実【五摂家二条家】
        【五摂家九条家】│  ├───┬九条道家  ├藤原頼経(4代鎌倉将軍)─頼嗣(5代)
     藤原忠通─┬九条兼実─│─九条良経 │      ├一条実経【五摂家一条家】
          ├慈円   └三位保子  │      └竴子
          └近衛基実【五摂家近衛家】│ (後高倉院) ├─秀仁親王(四条帝)
                  ┌────│─守貞親王──茂仁親王(後堀河帝後白河帝─┬高倉天皇───┤    └─立子
          ├以仁王    │      ├────┬諦子内親王
          └式子内親王  ├後鳥羽帝─┬順徳帝  └懐成親王(九条廃帝、仲恭帝)
                  └安徳帝  └土御門帝
     
     
     【天皇】:高倉─安徳─後鳥羽─土御門─順徳─(九条廃帝)─後堀河─四条─後嵯峨
     【関白】:九条兼実─近衛基通─近衛家実─九条道家─九条教実─近衛兼経─二条良実─一条実経
     【鎌倉幕府将軍】:源頼朝─頼家ー実朝─藤原頼経─藤原頼嗣─宗尊親王─惟康親王
     【執権】:北条時政─義時─泰時─経時─時頼─長時─政村─時宗─貞時
    

 文化面

  • 後鳥羽院は歌人としても高名で、当時の御子左家系の歌人、特に藤原定家の作風に影響を受ける。勅撰「新古今和歌集」の編纂を命じている。

 鍛冶結番(かじけつばん)

  • 後鳥羽院の御番鍛冶が御所の鍛冶場に詰める順番。鍛冶詰番とも。
  • 詰番の内容は、1年を2ヶ月ずつ6期に分け、各期に奉行人である公卿2名、刀工2名を掲げたもの。(御番鍛冶

 師徳鍛冶

  • 自らも粟田口久国と備前信房を呼びつけ弟子として鍛刀を習われた。水無瀬離宮で鍛刀を行ったという。
    淀川の三川合流地域の西側、阪急京都線の大山崎駅と水無瀬駅の中間地点に、水無瀬離宮の跡に建つ水無瀬神宮がある。しかし建保4年(1216年)に洪水により殿舎が流されたため、さらにそこから西に500mほど離れたJRを越した地点に移したという。駐車場隅に後鳥羽上皇水無瀬離宮址の碑が残る。住所は大阪府三島郡島本町
  • 二人説、十一人説、十二人説、十三人説等がある。
    1. 二人説粟田口久国と備前信房
    2. 十一人説粟田口久国、備前行吉、備中次家、備中貞次、備中真次、備前忠国、備中為次、三条吉国、備前真則、備前宗吉、備中則房
    3. 十二人説粟田口久国、備前宗吉、三条吉国、備中真利、備中貞次、備前行吉、備中次家、備前則房、備中為次、備中真守、備前忠国、備前信房
    4. 十三人説粟田口久国、備前行吉、備中貞次、備中次家、備前真則、備前忠国、備中為次、備前信房、備中貞次?、大和家次、大和力王、豊後行平、遠州友安

 菊御作

  • また古今の名刀をこよなく愛し、全国から名工を招じ御所で鍛えさせている。また、高じたあまり自ら鍛刀を行ったという(菊造り)。

    君御手ズカラ焼カセ給ヒケリ。公卿殿上人、北面ノ輩、御気色ヨキ程ノ者ハ、皆給ワリテビケリ(承久記)

 鍛冶司

  • 後鳥羽院は、光長を日本国鍛冶惣長者、備前信房は日本国中鍛冶長者、粟田口久国は京中鍛冶長者、備前則宗・延房は備前鍛冶奉行に任じられた。

 鍛冶惣庁

  • 後鳥羽院が粟田口久国に、または久国・信房両人に、日本鍛冶惣庁の役名を与えたという。信房および延房も同じ役名を与えられたという。


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