成瀬隼人正


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 成瀬隼人正家(なるせはやとのしょうけ)

大名
犬山藩藩主家
成瀬隼人正家は、犬山藩3万5千石の藩主で尾張藩の附家老の家柄

成瀬正成──成瀬正虎──成瀬正親──成瀬正幸
Table of Contents

読みについて
本来、「隼人正」は「はやとのかみ」と呼ぶ。しかし今日一般的に「なるせはやとのしょう」が広まっており、当サイトでもそれを踏襲する。
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【成瀬隼人正中屋敷柳原志水甲斐守巾下白壁町図】(目録)

 初代:隼人正正成

戦国時代から江戸初期の武将、大名
従五位下・隼人正
尾張犬山藩の初代藩主
尾張藩附家老

  • 尾張藩の附家老とされ、尾張犬山藩の初代藩主となった。

 生涯

  • 初代は三河成瀬氏の成瀬正成。永禄10年(1567年)、成瀬正一(入道一斎)の長男として生まれる。母は熊谷若狭守直連の妹。
    正成の父は成瀬正一(入道一斎)。正一は徳川氏を出奔して武田氏に仕え、諸角豊後守(虎定)の組下となる。第四次川中島の戦いでは、石黒五郎兵衛と共に討ち取られた諸角虎定の首級を取り返し、武田信玄より黒駒の地を与えられ直参となる。ついで北条氏康に仕えて依田肥前守信守の手に属した。のち徳川氏に帰参して家康の旗本となり、長篠の戦いや関ヶ原の戦いに参陣し、最後は伏見城留守居役に任ぜられた。
     この父成瀬正一の逸話に登場する”石黒五郎兵衛”こと石黒将監は、天正10年(1582年)に武田家が滅亡すると家康に降り、所領を安堵され、井伊直政の家臣となったという。
  • 通称は小吉、隼人正。
  • 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにて初陣を果たす。小姓組に属し、勇敢に敵陣に飛び込み兜首ひとつを挙げる。この功積により家康より500石と脇差(明智兼光)を賜る。

    長久手の戰に高名し。備前兼光の御脇差をたまはり。

  • 天正13年(1585年)には、根来衆50名を与えられ17歳にして一軍の将となる。この鉄砲隊が、後に「根来組」と呼ばれることになる百人組の部隊である。

    この日根來右京進盛重和泉國の代官を命ぜらる。こは其はじめ紀伊國根來寺の僧にて。成眞院に住し大納言坊と號す。さきに豐臣太閤根來寺を燒亡されし後。この僧一山の法師等をひきゐて濱松にいたり拜謁せしかば。還俗せしめられ。成瀬吉右衞門正一(正成父)に屬せらる。是今の世にいふ根來同心の濫觴なり。元和元年四月廿七日より愛染院長算と同じく。根來同心五十人を引つれ伏見城を守りしに。長算はほどなく死しければ。盛重一人にてこれを所屬とし。守衞したり。しかるに今度五十人の者等は。江戸に召て成瀬伊豆守之成(正成次男)が所屬とせらるゝが故に。盛重はかく命ぜられしとぞ。

  • 天正18年(1590年)の小田原征伐でも戦功を挙げ、下総国葛飾郡栗原4,000石を与えられた。江戸では四谷に屋敷地を与えられている。このとき組下の根来組を内藤新宿に配し、甲州街道の防衛にあたった。
  • 朝鮮出兵を控えての大坂での馬揃えでは、豊臣秀吉の目に留まり、5万石で召抱える旨を言い渡されたが、二君に仕えずとして涙を流し、「どうしてもというのであれば腹を切る」と固辞したという逸話が残る。
  • 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、家康の使番を務める傍らで根来組100人を率いて麾下の先鋒を務め、功績を挙げる。この時の功により米津清右衛門正勝とともに堺奉行に抜擢された。
  • その後、奉行職を解かれて家康の老中(家老)となり、本多正純、安藤直次らと共に政務の中枢、江戸幕府初期の幕政に参与した。
    堺奉行は、従弟の細井喜三郎に根来衆10人を付けて執務させたという。
  • また、幕府直轄領であった甲斐国内に2万石、のち三河国加茂郡内に1万石を与えられて3万4,000石の大名となった。
  • 慶長8年(1603年)2月の上洛にも供奉しており、25日には参内している。
  • 慶長12年(1607年)閏4月18日、従五位下・隼人正に叙任される。これが成瀬隼人正家のはじまりである。
  • 慶長12年(1607年)閏4月26日の義直移封時に傳役となり、行政を定めた後駿府に帰参している。

 尾張藩附家老

  • 慶長12年(1607年)に徳川義直が尾張藩主に任じられた際には平岩親吉が附家老として尾張に移り、藩政を執行したが、平岩は慶長16年(1611年)に嗣子なく死去する。成瀬正成は家康から乞われてこの後を受け、犬山藩主、尾張徳川藩の附家老となった。

    成瀬隼人正正成には尾州犬山城をたまはり。 故平岩主計頭親吉が家士悉く所屬とせらる。

  • この時家康は、成瀬正成に対して「もし義直に逆心があった時はその旨を自分に知らせるように」と言い聞かせ、それを遵守するための起請文を書かせようとした。しかし成瀬正成は、自分を尾張家の家老に据えるからには、自分の主は義直一人である。もし義直が謀反を起こしたら、自分も家来としてそれに従う、それゆえこのような起請文を書くことは出来ない、と家康の命令を断ったという。
  • 慶長15年(1610年)、家康より話があり、徳川義直の補佐役となる。
  • 慶長16年(1611年)には甲府の領地を尾張国内へと移され、さらに知多郡の亀崎村、乙川村、成岩村、吹越村の四村を賜っている。
  • 同年2月家康の上洛時に義直も同道しており、2月11日はじめて名古屋城に入城。17日に入京している。
  • 慶長16年(1611年)4月二条城会見の後に豊臣秀頼を大坂城に送り届ける義直に供奉しており、正成も貞宗の刀を拝領している。この貞宗は、正成の死後に遺物として献上される。

    四月二日義直卿に從ひ大坂城に登る。豊臣秀頼より貞宗の刀を與へらる。
    (寛政重脩諸家譜 成瀬正成)

    貞宗は寛永二年正成の遺物として家光公に献す

  • 異説では正成が拝領したのは左文字の刀ともされるが、成瀬家の家伝通り貞宗が正しいと思われる。

    供奉せし竹腰山城守正信へ信國の刀。成瀨隼人正正成左文字の刀。安藤帶刀直次に助眞の刀。水野對馬守重仲へ一文字の刀。三浦長門守爲春に長光の刀をたまひ。

  • 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には平岩親吉の麾下の兵も率いたとされる。冬の陣後、尾張藩の附家老であった平岩親吉が嗣子なく断絶したため、家康より特に乞われて附家老に任じられ、犬山城を与えられた。
  • 元和2年(1616年)、秀忠より則重を拝領。

    二年台徳院の御前にめされ、大坂御陣のとき佩させたまふところの則重の御脇指をたまふ。

    同年秀忠公正成を御前に召され御懇の上意ありて則重の御脇指を陣鞘共に賜ふ、是は大坂御陣中帯せられし御脇指なり今に傳へて家にあり

  • 遅くとも元和3年(1617年)には犬山城を与えられ、三千石を加えられる。先に拝領していた三河下総の領地1万4千石は二男伊豆守之成に賜っている。
  • 元和6年(1620年)尾張義直より1万石を加えられる。
  • これより先、家康より左文字の刀、青江および国広の脇指、平安城長吉の槍を拝領する。

    これより先正成東照宮より左文字の御刀青江及び國廣の御脇指平安城長吉の御鎗ならびに御鞍二口御陣笠其外茶壺茶碗等をたまふ。

  • 寛永元年には大病を患っている。

    成瀬隼人正正成大病により。土井大炊頭利勝御使してとはせらる。

  • 寛永2年(1625年)59歳で死去。法名は白林院殿前布護直指宗心大居士。
  • 死に臨んで「大御所(家康)の眠る日光に行く」と言い出して聞かず、やむなく家臣達が籠を担いで日光に向かっている振りをしたという逸話が残る。

    十七日尾張中納言義直卿の老臣成瀬隼人正正成卒去す。特旨によりて江戸中音樂を停廢すること三日なり。

  • 名古屋城より南に、白鷺の群れる林があり、義直はそこに正成の菩提を弔うための白林寺を建立したという。

    義直卿抂駕御参詣あり御愁傷甚しかりしと云ふ又尾州名古屋に於て正成の爲に一寺を建立あり東海山白林寺と云ふ

    同三年正月十七日棟上也、喝堂和尚を招請して住持とす、寺領は尾州愛知郡名古屋村の内百石を賜ふ

  • 明暦3年(1657年)に火災で消失するが、嫡子正虎が再興している。

    明暦三年白林寺焼失木像をも焼く嫡子正虎是を再興す書院並に庫裡は光友卿建立なり

  • 跡は嫡男の成瀬正虎が継いだ。

 系譜

 二代:隼人正正虎

小平次、半左衛門
従五位下・隼人正

  • 寛永2年(1625年)4月29日襲封の挨拶。

    尾の老成瀬半左衞門正虎時服金馬代奉りて。襲封を謝し奉り。父隼人正正域が遺物貞宗の刀を献ず。

    正成の遺物として豊臣秀頼より賜ふ所の貞宗刀を家光公に献し、義直卿へは秀忠公より拝領の則重の脇指を差上ぐ、此御品は其後敬公御遺物として正虎へ賜ひ今に傳へて家にあり

    寛永二年二十六日大猷院殿義直卿の邸に成せたまふのとき時服十領白銀二百枚を恩賜せらる。三月父遺跡を継、この月父が遺物貞宗の刀を献ず。三年八月十九日従五位下隼人正に叙任す
    (寛政重脩諸家譜 成瀬正虎)

  • 慶安3年(1650年)7月尾張光友の襲封の挨拶の際

    尾張宰相光友卿襲封の謝恩とて拜謁せられ。(略)隼人正正虎はじめ。家司等みな拜し奉る。隼人正正虎はこと更に召て。馬を好むよし聞召たりとて。岩沼總五郎と名付られたる青馬を給はりしとぞ。

 三代:隼人正正親

  • 2代藩主尾張光友から、成瀬正親(成瀬正成の孫、成瀬正幸の父)と竹腰正晴(おなじく尾張藩の附家老、美濃国今尾藩主)の両附家老は尾張家では格別であるため、重要事項以外の雑務を免じ、さらに藩主の在府時は書状への加判も必要ないとされている。

 四代:隼人正正幸

  • 元禄8年(1695年)5月朔日、初御目見得

    尾邸の老成瀬隼人正正親が子小吉正幸初見し奉る。

  • 元禄16年(1703年)12月28日襲封の挨拶。

    尾の老成瀬因幡守正幸より。亡父隼人正正親が遺物備前國政充の刀を獻じ。

  • 尾張徳川家家に伝来した名物後藤藤四郎」に逸話が残る。
  • 元禄の末ごろに老中から、尾張藩付家老である成瀬隼人正正幸に対して、次の尾張藩主出府の際には、木曽の御料林を幕府に献上し、かつ江戸出府の手土産に「後藤藤四郎」を献上するようとの内示があった。これに対して成瀬は、千代姫様の思し召しも測りがたい上、そんなことであれば藩主も出府しますまいと撥ね付けた。これを聞いた正幸の父成瀬正親は、わしもこれで安心して冥土にいけると喜んだという。
  • 雪村(せっそん)の鍾馗磨剣の図でも同様の話が残る。

    或時奧醫等御前にありて。何くれの物語せし中に。誰にか有けむ。成瀬隼人正正幸が家に。雪村の鍾馗磨劔の圖を藏したり。ことさらにうるはしく見えたり。これを御覽に備へ。御心に應じなば獻りたしといひたるよし申ければ。故もなく人の珍寳を取事。我が好まざる事なりと宣ひしかば。大に畏服して退きぬ。其後程へて。何となく。成瀬が家の雪村の畫。御覽あるべしと仰下されければ。進覽せしに御けしきにかなひ。御みづから臨摸し給ひ。原圖は永くその家に祕藏すべしとて返し下されぬ。

    奥医師らが8代将軍吉宗の御前で話していたとき、誰かが成瀬の家に雪村の見事な絵があると申し上げたのを機に、さっそく台覧に供することとなった。正幸が、もしお気に召されたのでしたら献上いたしますと申し上げるが、吉宗は故もなく人の宝物を取り上げるのは好まないとして返している。しかし程なくして再び見たいとの仰せがあり、その時自ら模写した上で、原本は成瀬の家で秘蔵すべしと戻している。

 五代:隼人正正泰

  • 初御目見得

    尾の老成瀬隼人正正幸が子半左衞門正泰初見し奉る。

  • 享保17年(1732年)12月

    尾藩の老二人卿のこひにより叙爵をゆるさる。成瀬半左衞門正泰は隼人正と稱す。

 九代:隼人正正肥

  • 犬山藩の第9代(最後)の藩主。
  • 丹波国篠山藩主・青山忠良の三男として生まれる。正室は8代当主成瀬正住の娘。
    兄弟には、青山忠敏(次男・丹波国篠山藩6代藩主)、井上正誠(四男・常陸国下妻藩11代藩主)、大関増徳(五男・下野国黒羽藩14代藩主)、青山忠誠(十男・兄忠敏の跡を継ぎ子爵)、青山忠惇(十一男)らがいる。
  • 華族制度発足後は男爵となり、明治24年(1891年)4月23日には子爵に陞爵した。

 10代:成瀬正雄

  • 子の成瀬正雄が襲爵した。
  • 明治2年(1869年)-昭和24年(1949年)

 11代:成瀬正勝

  • 明治39年(1906年)-昭和48年(1973年)
  • 成瀬正雄の長男。
  • 東京帝国大学国文科卒。
  • 国文学者。雅川滉の筆名で作家、文芸評論家として知られる。
  • 妻は旧松尾藩主太田資美の長男で子爵である資業の娘文子。

 12代:成瀬正俊

  • 昭和5年(1930年)-平成20年(2008年)
  • 成瀬正勝の長男。母は文子。
  • 学習院大学文学部卒。
  • 昭和47年(1972年)に父正勝が死去すると、第12代犬山城主となる。
  • 平成16年(2004年)4月1日、愛知県教育委員会の認可を受けて財団法人犬山城白帝文庫が発足、犬山城は財団法人犬山城白帝文庫に移管した。
    平成25年(2013年)に公益財団法人犬山城白帝文庫へ移行。

    犬山城の別名白帝城にちなむ。木曽川沿いの丘上にある犬山城の佇まいを、中国・長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで荻生徂徠が命名したという。
  • 愛知県犬山市初の名誉市民。
  • 長女は財団法人犬山城白帝文庫理事長の成瀬淳子(成瀬家13代当主)、長男は成瀬正浩。別の息子の成瀬正祐は元ホトトギス社勤務の貸本漫画研究者。

 犬山城

  • 成瀬氏の居城犬山城は、昭和10年(1935年)に旧国宝指定、昭和27年(1952年)には新国宝に指定され、天守が国宝指定された5城のうちの一つとなっている。
    他は姫路城、松本城、彦根城、松江城(2015年指定)。

 刀剣

  • 成瀬家に関係する刀剣。
七つ星正宗
成瀬正成が尾張義直に献上したと思われるのが「七つ星正宗」(火焔正宗とも。在銘の正宗脇差)である。「尾張家老成瀬隼人正から献上」とされ、時期的には初代の成瀬正成の可能性が高い。のち津山藩松平家伝来。
成瀬行平
享保名物追加の部。豊後行平の脇差。尾張徳川家家老で犬山城主の成瀬家に伝来。刃長九寸二分五厘。
小玉正宗
尾張徳川家に伝来した短刀で、「是ハ右兵衛督様御拝領 成瀬隼人正より請取」と書かれている。右兵衛督様とは初代尾張義直、成瀬隼人正は成瀬正成と思われる。
亀井左文字
亀井家伝来の刀。慶長5年(1600年)頃に亀井茲矩は家康の麾下へ移ってきた際に、井伊直政と成瀬正成が懇意に面倒を見たことの礼として、左文字を贈られたという。

關原御陣以前、龜井武藏守茲矩権現様へ属し、奉度旨、井伊兵部大輔直政、正成迄申込み右兩人の推擧を以て権現様御手に属し奉り、野州宇都宮への御供有之已後始終御味方被致正成厚く取持候に付、格別懇意の旨龜井家申傳有之由(龜井家記録抜書)此時の事にもあらん、御禮に家にも換るべき品を贈りたしとて左文字の刀を贈らる龜井左文字とて今家に傳ふ

左文字短刀
銘「左安吉作/正平十二年二月日」成瀬正雄子爵所持。光悦折紙が附く。財団法人犬山城白帝文庫所蔵。昭和15年(1940年)5月3日旧国宝重要文化財)指定。国指定文化財等データベース:銘左安吉作/正平十二年二月日
二代目の成瀬正虎は、寛永10年(1632年)5月に尾張二代藩主の徳川光友が徳川家光にお目見えの時に付き添いしており、その際に家光から左文字の刀を拝領したとする。その左文字と思われる。

廿三日尾張大納言義直卿の長子五郎八のかた初見の禮とられ。銀三百枚。時服廿。太刀目録獻ぜらる。御盃賜はり。正宗の御脇差さづけらる。家司成瀬隼人正正虎も時服十獻じ拜し奉り。これも御手づから左文字の御刀を賜ふ。

ただし正虎は翌6月に暇乞いの際にも左文字を賜っているがいずれのものかはわからない。

七日(略)隼人正正虎いとま給はり左文字の御刀を下さる。

明智兼光
脇差 銘「本明備州長船兼光/天正□年八月吉日日向守上之」。犬山城白帝文庫蔵。小牧長久手の初陣の折に、成瀬正成が徳川家康公より褒美として拝領。成瀬家では、「明智兼光」の名で伝来。由来は銘にある「日向守」による。
吉光
光山押形」所載、成瀬隼人正所持、千貫。
平安城長吉の作。

 関連項目


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