熱田神宮

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熱田神宮(あつたじんぐう)  

式内社(名神大社)
尾張国三宮
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社

概要  

  • 名古屋市南部の熱田台地の南端に鎮座する。古くは伊勢湾に突出した岬上に位置していた。
  • 三種の神器の1つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀る神社として知られる。
    草薙剣は、壇ノ浦の戦いで遺失したとも、あるいは熱田神宮に保管されたままともいう。

往古は郷名村名にてもなく、ただ神宮御名よりうつりて里の名ともなりしなり、其故は日本書紀神代卷の八岐大蛇退治の條の一書に、其蛇飮酒而睡、素盞烏尊拔劒斬之、至斬尾時、劒刃少缺、割而視之、則劒在尾中、是號草薙劒、今在尾張國吾湯市村、即熱田祝部所掌之神是也としるし、かくあゆち村といひ、熱田の祝部とあるにて知るべし、ここぞ郡中の本處にて、廣く吾湯市村といひしを、成務天皇の御時、諸國の郡縣を定給ひしかば、村名を郡名におよぼして、愛智郡とはなりし也、舊事紀、古事記、六國史をはじめ、普く古書にみな熱田とかけるゆゑよしは、寬平二年十月十五日書る尾張守藤原村椙朝臣が熱田緣起に、宮簀媛命のはからひにて、社の地を占ひ、草薙の神劒を遷し奉らむと衆議ありて、その社の地を定られしに、其處に楓樹一株ありしが、自然に炎燒して、その樹水田の中へ倒れ入、光焰不銷して、其田あつかりければ、熱田と名づけしよし記したるによれり、この說御鎭座の舊地を考ふるに、少したがへるふしあれど、尾張風土記の古說なればいかヾはせむ、先その旨に隨ひつ、和名類聚抄には、諸國の郷名のうちに、文字を替へて厚田と書り、さて武家執政の世となりては、京都より鎌倉へ通ふ道筋にて、今の如く旅宿もありしよし、吾妻鏡、源平盛衰記等をはじめ、古軍書紀行などに見えたれど、今の繁昌のさまには及ばざりし也、當所地藏院の文正元年五月朔日の古證文に、今道東脇等に住みしと覺しき人の名見えたれど、皆新地なるべく、享祿の宮圖にも、南の方は陸地至て少く、傳馬町のあたりは船のつく濱ばたのやうにおしはからる、されば三四百年已前までは家並は多からず、其後追々海へ築出し、町家どもなりしかども、二百年以前には家作も麁略に、旅宿などもはか〴〵しからずありしにや、明曆二年に印行したる東海道の道中記といふものに、五十三驛のよしあしをことわりて、なるみ宿惡し、みや宿惡しと書たり、今をもて見れば、其五十三驛のうち、此宮宿にまされる驛はさらになきにて、古今の變革を知るべし、
(尾張志 - 国文学研究資料館 古事類苑データベース)

  • 建物は伊勢神宮と同じ神明造であるが、1893年(明治26年)までは尾張造と呼ばれる独特の建築様式だった。
  • 宮中の四方拝で遥拝される一社。神紋は「五七桐竹紋」。

大宮司職  

  • 大宮司職は代々尾張国造の子孫である尾張氏が務めていたが、平安時代後期に尾張員職の外孫で藤原南家の藤原季範にその職が譲られた。
  • 以降は子孫の藤原氏・千秋氏が大宮司、尾張氏が権宮司を務める。なお、この季範の娘は源頼朝の母(由良御前)である。

熱田台地  

  • 濃尾平野は、木曽三川と呼ばれる木曾川・長良川・揖斐川により形成された沖積平野であり、その土壌は古来肥沃で知られた。濃尾平野の西端には養老-桑名-四日市断層帯があり、この断層を境に西側は隆起して養老山地となり、東側は沈降して木曽三川が流れている。これにより、濃尾平野の地下には西側に位置する断層帯にむかって全体的に傾斜する構造が見られ、木曽三川は下流に至って濃尾平野の西寄りに集中する構造となっている。※名古屋市は濃尾平野のやや東寄りにある。
  • 木曽三川下流域では後背湿地が広がっているために海抜0m以下の地域も多くあり、有史以来水害がしばしば起こった。そのため、東海道も宮宿(熱田)から桑名宿までは海路であり、特に熱田側は七里の渡しと呼ばれた。
  • このような中で湿地の東端で岬のように突き出ていた熱田台地は、古来断夫山古墳なども築かれ中世には交通の要所として栄えた。
  • この熱田台地の南端に築かれたのが熱田神宮であり、台地の北端に築かれたのが那古屋城である。
  • 那古屋城は、元は駿河の今川氏親(今川義元の父)が築いたものである。永正15年(1518年)以後、尾張の東半分は今川氏の支配下にあり、尾張東部まで支配領域を拡大していた時期に今川氏庶流の那古野氏が領有し、のち斯波氏が尾張を領有した後もこの地に留まっていた。
  • のち天文元年(1532年)に勝端城の織田信秀が計略により今川氏豊を追放して城を奪い拠点をおいた。天文3年(1534年)に生まれた信秀の嫡男、織田信長はこの那古屋城で生まれたとされる。信秀自身はさらに南側に古渡城を築いて本拠地とし、那古屋城を信長に譲っている。
  • 信長はのち、当時尾張の中心地であった清州城を奪うと本拠地を清須に移し、のち小牧城、岐阜城、安土城へと次々に本拠地を移した。この那古屋城にははじめ叔父の織田信光、続いて重臣の林秀貞らが入ったが、やがて天正10年(1582年)頃には廃城とされた。50年後の慶長14年(1609年)に徳川家康がこの城の故地に目をつけ、名古屋城の築城に着手する直前には、鷹狩に使われるような荒れ野になっていたと伝えられている。
  • 中世城郭の那古野城は完全に近世城郭の名古屋城の郭内に取り込まれたため、中世の那古野城を直接に偲ばせる遺構はほとんど存在しない。ただ、名古屋城二之丸は那古野城の故地であるとされており、現在、二之丸内に那古野城址の碑が建っている。

文化財  

国宝  

熱田の来国俊
短刀 銘「来国俊/正和五年十一月日」身長25.1cm、内反り。平造、三つ棟、重ね厚く、内反、尋常の姿。なかご生ぶ、目釘孔2個。来国俊76歳の作。明治44年4月17日旧国宝指定。昭和30年2月2日に国宝指定。

重要文化財  

太刀
銘「了戒嘉元三年三月日/山城国住人九郎左」長さ二尺七寸三分強(82.6cm)、反り3.0cm、元幅3.1cm。鎬造、庵棟。少し磨上げているが長寸で腰反りが強く、踏張があり、先はやや細る。茎は少し磨上げ、中程から茎先にかけて表裏に長銘を切る。目釘穴2個。棟には大小2か所の切込痕がある。大正15年4月19日旧国宝指定。重要文化財
銘「吉光」。7寸3分。大正10年4月30日旧国宝指定。
太刀
銘「元弘三年六月一日実阿作/文禄四年乙未五月吉日松下小一郎守勝奉寄進熱田大神宮諸願成就」長さ83.7cm、反り3.7cm、元幅2.9cm。茎は生ぶ、佩表に「元弘三年六月一日実阿作」と一行に書き下し銘。刀身の鎬地には「文禄四年乙未五月吉日松下小一郎守勝奉寄進熱田大神宮諸願成就」と奉納切付銘がある。重要文化財。熱田神宮所蔵。
脇差
指表「奉納尾州熱田大明神」指裏「両御所様被召出於武州江戸御劔作御紋康之字被下罷上刻籠越前康継」。長さ35.2cm、反り0.6cm。平造、三ッ棟、身幅一段と広く寸延びの脇指。表に竹に筍を裏に梅樹を刀身一杯に彫る。茎、生ぶ、先剣形、鑪勝手下り、寄進のため目釘穴がない。家康秀忠の両御所の御前で鍛刀し、その賞として葵紋及び「康」の一字を賜り名を康継に改めたという経歴を記している。自身による奉納刀。重要文化財
熱田国信
銘「長谷部国信」長40.8cm、反り0.8cm。平造、三つ棟。姿は身幅広く、寸延びでやや深く反りがつく。表に刀樋、裏に不動の梵字に護摩箸。中心うぶで舟形短い。目釘孔1個、目釘孔の下に「長谷部国信」と長銘を切る。重要文化財
太刀
銘「宗吉作」宗吉は、来一門来国長の弟子宗長の弟子。明治44年4月17日旧国宝指定。熱田神宮所蔵
太刀
銘「宗吉作」明治45年2月8日旧国宝指定。熱田神宮所蔵
短刀
銘「国光/徳治三年(以下切)」9寸7分。大正10年4月30日旧国宝指定
太刀
銘「長光」二尺三寸八分。大正10年4月30日旧国宝指定
太刀
銘「備州長船重光」長二尺七寸二分(82.7cm)。鎬造、庵棟。長寸で反りは高く、中鋒つまる。鋩子は乱れ込み尖りぎみに浅く返る。彫物は棒樋、区際で丸止めとなる。茎は生ぶ。目釘穴4個。大正10年4月30日旧国宝指定
短刀
銘「長谷部国信」裏に切付銘「藤原友吉」。長さ22.3cm、反り0.3cm、元幅2.3cm。平造、三つ棟。小振りで反りがつき、ふくら枯れる。刃文は皆焼、帽子は突上げて尖り深く返る、彫物は表に素剣、裏は不動の梵字を彫る、茎は生ぶ。大正10年(1921年)4月30日に重要文化財指定
金銅兵庫鎖太刀
総長95.3cm、鞘長74.6cm。長64.1cm、反り2.3cm。鞘覆輪の棟に「尾州春日郡安食上庄鎮守八劔大明神清滝権現長尾天神祷奉施御劔 永仁第七暦己亥三月二十二日勧進唯心房円□」との寄進針書の銘が入る。明治37年(1904年)重要文化財指定
  • 太刀 銘国友
  • 太刀 銘則国
  • 剣 銘為清 身に熱田太神宮宗久と切付あり
  • 太刀 銘備州長船兼光
  • 剱 銘□利(包利)
  • 太刀 銘真行 身の表に元亀二年辛未八月八日大久保与九郎、裏に熱田大名神奉寄進之と切付あり
  • 太刀 無銘(伝真長

その他  

癬丸
平景清所持。千秋季光、陰山掃部助に次いで所持した丹羽長秀が眼病に悩まされたために熱田神宮に奉納したという。
脇差
銘「吉光」裏銘「亀王丸」(蜘蛛切丸と伝承)。長さ32.6cm、反りなし 元幅1.9cm。愛知県指定の文化財 「蜘蛛切藤四郎

関連項目