村正(刀工)
村正(むらまさ)
伊勢の刀工集団。
伊勢で三代に渡って栄えた。
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- 村正の作った刀は「妖刀村正」として世に名高い。後述
- 特に名高いのが初代の千子村正である。
系譜
初代
- 右衛門尉。応永年間(1394~1428)~嘉吉にかけて活躍した。
- 彦四郎
- 伊勢千子村正。千五村正。
- 千手観音の申し子だとして「千子(せんじ・せんご)」と名乗った為という。
- 千子村正の父は美濃関鍛冶の赤坂左兵衛兼村、師である平安城長吉は山城の名工。
二代
- 文明ごろか
三代
- 文亀~永正ごろ。
- 右衛門尉。
- 村正中、最も優れる。
- 「村正」と見事な二字銘が入るが、これは棚橋という銘切師に切らせたものともいう。また正の字を草書に切るが、「匚」の中の点を二個離して打ったものと、二点がつながったものがあり、後者を三代村正が自身で切ったものともいう。
- また剣巻竜を彫ったものについては、草花の与三という銀細工師が彫ったものだという。
四代
- 天文ごろ
五代
- 天正ごろ
- 木左衛門尉
- 信長の三男、三七信孝の命により打っており、その際には、銘を「寛村」と切ったという。あるいは、家康による村正忌避の流れを受けて改名したともいう。
その後
著名作
- 妙法村正
- 刀 銘「村正 妙法蓮華経/永正十年葵酉十月十三日」。刃長66.4cm。重要美術品。小城藩鍋島家伝来
- 揚羽村正
- 権藤成卿が所持し、命名した。のち須藤宗次郎所持。のち佐藤寒山を経て岡野多郎松の所持となった。長1尺2分。反り9分6厘。目釘孔1個。無銘だが、村正二字銘をすり潰した跡がある。
- 2016年9月の桑名市博物館 特別企画展「村正」で展示されたもの。
- 太刀
- 銘「勢州桑名郡益田庄藤原朝臣村正作」。三重県指定文化財。桑名宗社(別名春日神社。三重県桑名市)所蔵
- 刀
- 銘「村正」。刃長二尺五分(62.1cm)。有栖川宮熾仁親王指料。刀剣博物館所蔵
- 刀
- 銘「勢州桑名住村正」。東京国立博物館所蔵
- 刀
- 銘「村正」。徳川美術館所蔵
- 脇差
- 銘「村正」。桑名市指定文化財。立坂神社所蔵(三重県桑名市)
- 短刀
- 銘「村正」。個人蔵
- 短刀
- 銘「村正」。熱田神宮所蔵
- 剣
- 銘「勢州桑名藤原朝臣村正作」。神館神社所蔵(三重県桑名市)、桑名市博物館保管
一派
- 刀
- 銘「正重」。三重県指定文化財。多度大社所蔵(三重県桑名市)
- 刀
- 銘「正真」。三重県指定文化財。個人蔵
- 刀
- 銘「藤正」。三重県指定文化財。四日市市立博物館所蔵
妖刀村正
- 村正は妖刀と呼ばれる。
- 伝承によれば、村正作の刀は徳川(松平)家代々に祟りをなし、ゆえに「妖刀」と呼ばれるようになったという。
清康(家康祖父)
- 天文4年(1535年)の尾張侵攻中、陣中で阿部弥七郎正豊は「父の阿部定吉が織田方に内応している」という噂を聞き疑心暗鬼に陥っていたところ、夜間、陣中の騒ぎを聞き阿部弥七郎は「父が清康に成敗された」と勘違いし清康を背後から斬りつけたという。なお家臣植村新六郎によって阿部弥七郎はすぐに討たれている。主君を失った松平家は撤退し、勢力を弱めることとなる。いわゆる「守山崩れ」である。
尾州森山にて。安部彌七が清康君を害し奉りし刀も村正が作なり
- 異聞では、夜陣で馬が暴れているのに気づいた清康が「外へ出すな」と大声で呼ばわったところ、家臣の阿部弥七郎が寝ぼけたまま敵と勘違いして斬りつけたという。
- 父阿部定吉は広忠に許されるが断絶、関係が明らかではない阿部正勝の系統は江戸時代を通じて活躍する。
広忠(家康父)
- 天文18年(1549年)家康の父広忠は、城中で乱心した近臣の岩松八弥に殺害されてしまう(隣国の刺客であるとする異聞もある)。これに使われた凶器が村正作であった。
- なおこの時に岩松を成敗したのも、清康の時と同じ植村新六郎といわれている。
信康(家康嫡男)
- 天正7年(1579年)、家康の長男と築山殿が武田方への密通を疑われ、信長からの要求で長男信康を9月15日に二俣城において切腹に処するが、このとき介錯に使われたのが村正であった。
三郎殿二股にて御生害ありし時。検使として渡邊半藏守綱。天方山城守通興を遣はさる。二人歸りきて。三郎殿終に臨み御遺托有し事共なくなく言上しければ。君何と宣ふ旨もなく。御前伺公の輩はいづれも涙流して居し内に。本多忠勝。榊原康政の兩人は。こらへかねて聲を上て泣き出だせしとぞ。其後山城守へ。今度二股にて御介錯申せし脇差はたれが作なりと尋給へば。千子村正と申す。
- なおこの時に介錯を命ぜられたのは服部半蔵正成であるが、半蔵が「三代相恩の主に刃は向けられない」と言って落涙し介錯をすることが出来ず、家康が「鬼と言われた半蔵でも主君を手にかけることはできぬか」と正成をさらに評価したという逸話が残る。
初半蔵は三郎殿御自裁の樣見奉りて。おぼえず振ひ出て太刀とる事あたはず。山城見かねて御側より介錯し奉る。後年君御雜話の折に。半藏は兼て剛強の者なるが。さすが主の子の首打には腰をぬかせしと宣ひしを。
家康
- また家康自身も、駿河今川方で人質として暮らしていた際に、この村正の短刀でケガをしたという。
われ幼年の比駿河宮が崎にて。小刄もて手に疵付しも村正なり。
- さらに関ヶ原の戦いの折、織田長孝(織田有楽斎長益の長男)が大谷吉継隊に属していた敵将戸田勝成(重政・勝重)を討ち取るという功を挙げた。家康がその槍の検分に臨んとき、家臣が鞘を払う際に取り落としてしまい家康は指を切ってしまったという。村正作だと聞いた家康が不機嫌になり席を立ってしまうと、長孝はその槍を折ってしまったという。
- そして、今後差料に村正があれば取り捨てるべしと命じたという。
此後は御差料の内に村正の作あらば。みな取捨よと仰付られしとぞ。
妖刀説の流布
- 徳川家に災いをなしたという伝説は、江戸時代には一般に流布されていた。
- その伝承を裏付けるように、徳川家に敵対する立場を取るものがこの妖刀村正を所持したとの伝承が多くある。
由井正雪
- 早いものでは、慶安4年(1651年)に幕府転覆計画が露見して処刑された由井正雪が村正を所持したという。
長崎奉行・竹中重義
- さらに外交史料集「通航一覧」の百三十九巻によると、長崎奉行の竹中重義に疑義があり、幕府により屋敷が捜索されたところ、おびただしい金銀財宝に加え、厳しく所持を禁じていたとされる村正の刀を24口も所蔵していたことが発覚し、寛永11年(1634年)2月22日、重義は嫡子源三郎と共に浅草の海禅寺で切腹、一族は隠岐に流罪を命じられたという。
采女正切腹家内闕所、其金銀財寶夥し、其中に村正之刀脇差二十四腰有之、抑村正ハ御當家三代不吉の例アリ。之ニ依ツテ暫時モ御扶持ヲ蒙ル輩ハ申スニ及バズ、陪臣ニ至ルマデ村正ヲ禁ズ。然ルニ采女正、多ク蓄ヘ置ク心ザシハ何ゾ。按ズルニ村正ハ上作ナリ。其ノ出来甚ダ良シ。然レバ其ノ当代廃シ、若シ天下他家ノ世ト成ラバ必ズソノ代、沢山ナルベシ。調ヘ置ク下心、不忠トヤ云ワン、無道トヤ云ワン、計ルニ足ラズ。此ノ刀、脇差ナクバ、自然遠島アルベシ。最モ
悪 シミ深キ処ナリ。
竹中采女正重義は竹中重利の長男。重利は竹中半兵衛重治の従弟で豊後府内藩の初代藩主。竹中重氏──┬竹中重元──┬竹中重治半兵衛───竹中重門 │ ├竹中重矩 │ ├竹中重広与右衛門──竹中重利? │ └──────娘 │ ├────源三郎 └竹中重光──竹中重利──竹中重義(采女正)
真田幸村
- 「名将言行録」には、紀州九度山に流され、徳川家打倒を誓い後に秀頼擁する大坂城へ入城した真田幸村(真田信繁)が村正を所持したと書かれている。
幕末
- また幕末になると、西郷隆盛を始め倒幕派の志士の多くが競って村正を求めた。そのため、以後市場には多数の村正のニセ物が出回ることになったという。
- 「西郷隆盛の刀」の項参照
- 短刀 銘 村正 長六寸六分
- 無銘 長二尺三寸七分
- 無銘 長八寸四分
- 三条実美
短刀
銘 村正
刃長七寸七分
太宰府天満宮所蔵
- 戊辰戦争の際、自ら東征大総督の職を志願した有栖川宮熾仁親王が村正作の脇差を佩用したといい、江戸城開城の際にも佩用したと伝わる。
刀
銘 村正
刃長二尺五分(62.1cm)
日本美術刀剣保存協会所蔵- 鎬造り。庵棟、反り浅く、中峰。鋩子は直に丸く返る。なかご生ぶ、先入山形。目釘孔1個。目釘孔下鎬地に二字銘。高松宮家旧蔵。
- 高松宮家旧蔵品
刀
銘 勢州桑名住村正
刃長66.9cm
東京国立博物館所蔵- 表に腰樋と梵字。
創作物
- 創作においても、二代目河竹新七(黙阿弥)作「八幡祭小望月賑」(縮屋新助)、三代目河竹新七作「籠釣瓶花街酔醒」などにおいて村正が登場する。※万延元年七月(1860年8月)初演
妖刀説の否定
- 現代においては、上記妖刀村正伝説はほぼ否定されている。
徳川美術館
- 尾張徳川家の家宝を多く収蔵する徳川美術館では、徳川家が村正を嫌ったというのは「後世の創作」であるとしており、実際に尾張徳川家に家康の形見として伝来したものを展示している。
「徳川美術館」は、尾張徳川家第19代当主の徳川義親によって設立された徳川黎明会により運営されている。
- それによると、家康から尾張義直に形見分けとして与えられた御物の一覧である「駿府御分物御道具帳」には、二振りの村正が記載されているが、うちひとつは明治期に手放されてしまい、行方がわからない。残り一振りが「銘村正」として所蔵されている。
刀
銘 村正
徳川家康所用
2尺2寸7分
- ただし、延享年間作成の「御天守御腰物元帳」では、「潰物(つぶしもの)になる筈(はず)。疵物(きずもの)にて用たちがたき部類に入置く事」という但し書きが付けられており、現存の見事なほどに皆焼(ひたつら)が現れている刀身にはそぐわない。
駿府御分物帳
- 家康が亡くなった際に形見分けが行われたが、その記録である「駿府御分物帳」にも村正作が二振り載っている。家康の生前には妖刀説などなかったという証明でもある。
下御腰物 一 村正 御道具なし
- またこれとは別に、上述したように尾張家にも二振り形見分けされた。うち一振りは現代まで伝来し、現在も徳川美術館で所蔵・公開されている。
http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h20/03/obj04.html村正を妖刀として恐れたという話は後世の創作で、実際には家康は村正を好み、この村正刀のように尾張徳川家に遺品として残されている。
使われ続けた村正派
- 三河に移った村正一派を「三河文珠派」と呼ぶ。
- 徳川四天王の一人、本多忠勝の所持する槍「号 蜻蛉切」にはこの三河文珠派の藤原正真の銘が残っている。
- また、四天王筆頭であった酒井忠次の愛刀(号 猪切)も藤原正真の作である。
- もともと伊勢桑名で発展した村正派はその後三河に移っている。
- 村正一派は、三河ではポピュラーな刀工でありかつ腕も確かであったため、多くの武将に愛され使われた。
- そのため東海地方で伸長した徳川家(松平家)でも入手しやすい刀であったと思われる。徳川家中で多く用いられたがために、凶器になりえる可能性が高まったということも考えうる。
暗殺説の否定
- 家康の父広忠は、「三河物語」、「松平記」、「松平家忠日記」、「改正三河後風土記」などにおいては「病死」とされており、暗殺とするのは「岡崎領主古記」など一部の説である。
「妖刀説」と徳川家
- 以上は、徳川家の不吉と村正刀の関係の否定、および徳川家で村正を用いていたことを示すものであり、過去に「村正妖刀説」が存在していたことを否定するものではない。
- 事実、村正が徳川家に災いをなしたという妖刀伝説は、江戸時代には一般に流布されていた。
村政刀を御當家にて禁し給ふ事ハ後風土記三河記等にくはしく人の知る所也
(耳嚢)
- この「耳嚢」は江戸時代中期の旗本南町奉行の根岸鎮衛が記した随筆であり、そこで「三河後風土記」、「三河物語」などにおいて記されていると記述されている。これらの記述が全くのデタラメであるならば幕府によりしかるべき措置がなされているはずだが、徳川家斉の命により改編・校正がなされた「改正三河後風土記」においても、清康は千子村正の刀で暗殺されており、信康の介錯に使われたのも村正であると記す。
ムラマサブレード
- 別名MURASAMA BLADE。
- 往年の名作RPG、Apple版「Wizardry」(1981年)でMURAMASA(村正)をMURASAMAとするTYPO(打ち間違い)があったことによる。
- 一説に、MURASAME(里見八犬伝に登場する妖刀村雨丸)のTYPOとも指摘される。
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