玉纏横刀


※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。

 玉纏横刀(たままきのたち)

儀礼用太刀
伊勢神宮所蔵

  • 「玉纏御太刀(たままきのおんたち)」とも。
    日本刀大百科事典、伊勢市教育委員会文化財ページなどでは「タママキノタチ」。皇太神宮儀式帳、国華余芳では「タマキノタチ」などとブレがある。ここでは神宮での呼び名である「たままきのたち」とする。
  • 式年遷宮時に納められる皇大神宮神宝のひとつ。
  • 古くは延暦23年(804年)の皇太神宮儀式帳の宝物19種に記載されている。

    寶殿物十九種
      玉纏横刀(タマキノタチ)一柄  須我流(スカリノ)横刀(タチ)一柄

  • 室町時代の作
  • 新井白石は高麗剣(こまつるぎ)とする。
Table of Contents

 概要

  • 須我流横刀」と同じく、式年遷宮時に納められる皇大神宮神宝のひとつ。
    式年遷宮に際して調進される「御装束神宝」は、皇大神宮装束49種、皇大神宮神宝21種、豊受大神宮装束56種、豊受大神宮神宝6種からなる(延喜大神宮式)。なお皇大神宮とはいわゆる伊勢神宮の内宮のことで、豊受大神宮とは外宮のことである。
     皇大神宮神宝にはよく知られる「玉纏御太刀」や「須我利御太刀」などが含まれ、一方豊受大神宮神宝には「第一御太刀」、「第二御太刀」、「第三御太刀」などが含まれる。
  • 神宝には約60柄の太刀が含まれるが、この2柄は特に格式が高く豪華絢爛な造りであることから神宝を代表するものとして知られている。
  • なお内宮御料に納める太刀のうち、第62回遷宮時の「玉纏御太刀」及び「須賀利御太刀」の太刀身については人間国宝の天田昭次氏が鍛えている。現在知られる日本刀様式(湾刀)ではなく直刀である。また太刀拵については森本錺金具製作所の調製である。
  • 本来「玉纏横刀」は撤下神宝として埋められるものであるが、式年遷宮を理解するための文化財としてごく少数が保存・展示されている。

    神宮古神宝類
     玉纏横刀 一口、玉纏横刀 一口、雑作横刀一口、雑作横刀一口、雑作横刀一口、鉄鉾身(金銅鏑付)一口、金銅椯 一基、金銅高機(枇付)一基、金鉢高機架 一基、牡丹文八稜鏡一面、装束類布帛本様三帖(三重 神宮)
    伊勢神宮では神宝を二年遷宮ごとに調達して旧品は撤下または埋納するのを例とするが、これらは神宝の古様を知る上に貴重な資料である。横刀類と鉾は明治二年に神域の玉垣内から出土し(鎌倉~室町時代)椯以下三点の織機類は寛正三年の調進品、八稜鏡は月読宮の神宝(室町時代)布帛本様は神宝装束類の裂見本(江戸時代)である。
    ※原文ママ

玉纏横刀
13世紀中期鎌倉時代のもの。明治2年(1869年)に内宮の新殿となる御敷地で出土し、「神宮古神宝類」として昭和38年(1963年)7月1日国の重要文化財に一括指定。宗教法人神宮所蔵。
※「宗教法人神宮」とはいわゆる伊勢神宮のこと。実際には事務を取り仕切る内部機関である神宮司庁(じんぐうしちょう)で保管していると思われる。
玉纏横刀
14世紀中期南北朝時代のもの。「神宮古神宝類」として昭和38年(1963年)7月1日国の重要文化財に一括指定。宗教法人神宮所蔵。
玉纏御太刀
第59回神宮式年遷宮撤下御神宝。昭和28年(1953年)調進、平成5年(1993年)撤下。(拵のみ)神宮徴古館所蔵。
特集展示「神宮の神宝 御太刀-宝刀の魅力-」|展覧会情報|神宮の博物館

 書物に登場する玉纏横刀

  • 古くは延暦23年(804年)の皇太神宮儀式帳の宝物19種に記載されている。

    寶殿物十九種
      玉纏横刀(タマキノタチ)一柄  須我流(スカリノ)横刀(タチ)一柄

  • 神宝が21種類に増えた延喜式でも記載されている。

    玉纏横刀(タマキノタチ)一柄。
    柄長七寸。鞘長三尺六寸。柄頭横着銅塗金。長三尺八寸。片端廣一寸五分。片端廣一寸。頭頂著仆鐶一勾。徑一寸五分。玉纏十三町。四面有五色玉。五色組長一丈。阿志須恵組四尺。柄著勾金長二尺。鈴八口。琥珀玉ニ枚。金鮒形一隻。長「各」六寸。ニ寸五分。著緒紫組長六尺。袋一口。表大暈繝錦。裏緋綾帛。各長七尺。
    (延喜式)

    昭和4年(1929年)刊行の日本古典全集刊行会本による。

  • 内宮送官符

    玉纏太刀壱柄
    柄長七寸。用赤木鞘。長三尺六寸。竝黒漆打出金銀平文。身長三尺五寸。以五色吹玉三百丸。四面随玉色黏。裏玉笥箸居。柄金物口寄金壱枚。重鋳葉金一枚。身在口。褁金玉形通釘壱隻。表裏位金目貫金一隻。表裏位金着緋革九。継緒須加流金ニ口。志波利金一口。頭可布土金一枚。蟷螂形釘五隻。各表裏位金。琥珀玉三。鞘金物口金弐重。帯取山形金弐枚。各長三寸。有可部留俣并緒付金䒭。志波利金壱枚。桶尻金一枚。已上皆銅作。金銀餝着。唐組一條長一丈廣四寸。有纏帯取料錦ニ条長四尺。廻用ニ条料在志波利金四口加久金ニ枚金鮒形貳隻長各六寸廣ニ寸五分以紫小組著長六尺
     已上納袋壱口表大繧繝錦裏緋綾長五尺八寸
    (内宮長暦送官符)

  • 国華余芳

    皇太神宮神寶
      玉纏横刀(タマキノタチ)
    皇太神宮儀式帳延喜式及ヒ内宮長暦送官符等ニ神寶廿一種ノ中ニ玉纏横刀一柄アリ。柄ハ赤木ヲ用ユ長サ七寸飾ハ金銅ヲ以テシ勾金ヲ著ケ長二尺鈴八口琥珀ニ枚ヲ著ク。鞘ハ黒漆打出金銀平文長サ三尺六寸五色吹玉三百丸ヲ以テ纏ク四面玉色ニ随テ黏褁ス。阿志須恵山形金ニ枚各三寸金ノ鮒形一雙長各六寸廣ニ寸五分。紫唐組ノ緒一條長一丈廣四寸袋一口ニ納ム。表ハ大暈繝ノ錦、裏ハ緋綾帛各七尺ト見エタリ。周礼考工記ヲ按スルニ、身五其莖サヲ鋝謂之上上士服之、此玉纏横刀柄長サ三尺六寸ナルハ稍此寸法ニ同シ
    ※引用時に句読点を入れた
    (国華余芳)

    「周礼考工記」とは、中国最古の技術書とされる書物。前漢の武帝の時、河漢献王劉徳(武帝の異母兄)に「周官(周礼の原名、天・地・春・夏・秋・冬で構成された)」5篇が献じられたが、この時第6篇である「冬官」が欠けていたため、劉徳が「考工記」で補ったとされる。元々は周官とは別の独立した書物であったとされる。


 関連事項

 撤下神宝(てっかしんぽう)

  • よく知られているように、伊勢神宮では20年に一度式年遷宮が行われ、それまでの建物や神宝、装束などはすべて新しく作りなおされる。
  • 神宝については、神の使用されたものであり畏れ多いということで、可燃物は燃やし、それ以外は地下に埋められていた(撤下神宝)。
    両正宮の神宝については、明治までは正殿で20年間捧げられた後に新宮の西宝殿に移され、20年間保存された後に撤下神宝となっていた。これは本様といって次の神宝製作時に参考とするためである。もちろん図面などはないため、製作にあたっては「本様使」と呼ばれる役人が外見や構造を自ら確認し、各神宝製作の家々で伝承されている製法により再現され、次の式年遷宮に用いられた後に、神宮の宮域に埋められたり焼却されていた。
     しかし1909年(明治42年)の神宮徴古館開館以降は、正殿で20年間、宝殿でさらに20年間保管された後に、神宮徴古館やその他の博物館の企画展で展示されたり、他の神社に下げ渡されるようになった。また大正期に行われた調査と審議の結果、昭和4年(1929年)の式年遷宮での装束神宝の仕様が定められた。ここには技法や寸法、素材などについて詳細に規定された。現在はこの仕様書を元に調製が行われている。
  • その後、建物については解体されたのち、宇治橋両側に立つ鳥居に生まれ変わる。入口側(西側)が外宮御正殿、東側は内宮御正殿のものが使われる。さらに20年後に今度は追分の鳥居と七里の渡しの鳥居として用いられ、その後は関連神社(熱田神宮など)へ払い下げされる。
    現在の熱田神宮の社殿は伊勢神宮の式年遷宮の際の古用材を譲り受けたもので、昭和30年(1955年)10月に再建されている。
  • 玉纏横刀(たままきのたち)もこの撤下神宝のひとつであり、室町時代に造られたものであるにもかかわらず損傷が激しいのはそのためである。

 勿体無い(もったいない)

  • 本来勿体無いとは、「神聖なものであり我々には不相応である(畏れ多い)」「非常に大事なものであり、粗末に扱われては惜しい((かたじけ)ない)」という意味であった。
    勿体(もったい)」とはもともと仏教用語の「物体」であるとされ、それが日本語(和製漢語)の勿体へと変化し(牛篇が省かれた)、それに否定する言葉「無し」がついたものであるとされる。

    時代劇などで「殿、その御心遣いだけでもったいのうございます」などというのは、この本来の意味である。
  • つまり、ご神宝が人間に下され使われるのは「勿体無い」(畏れ多い、忝ない)。だから使わない(とても使うことは出来ない)ということである。
  • その後時代とともに言葉の意味は移ろい変わり、現代ではMOTTAINAI運動に代表されるように「(物の価値を十分に活かしきれていないため)捨ててしまうのは惜しい。だから使おう」という、より簡素化された意味へと変わってしまっている。現代日本人もその意味でつかっており、その意味では英語のwasteful(浪費的な、不経済な、むだな)と同義になるが、本来の意味やその後の行動は上記したとおり全く異なる。

 伊勢神宮式年遷宮

  • そもそも20年毎の式年遷宮は、技術の伝承をメインテーマとしている。一度きりの建造では建造担当者が死ねば伝承は失われ、再建も難しくなる。しかし常に作りなおすことで技術は確実に伝承される。※これは上記「本様」の仕組みでも理解できる。
  • そうすることにより、神々のお住まいが世代を超えて未来永劫維持され、かつ常に清浄で清らかな状態で保たれるということを目指している。
    上古の時代、人の寿命は30~40年であったとされ、世代をまたいで神殿の建造方法や各種神宝や装飾品の製造方法を技術伝承していくためには、20年毎に作りなおすことが一番効率的であったともいう。
  • そこで、神々が使用されたものをもったいない(捨てるのは惜しい)から再利用するのではなく、勿体無い(つまり、畏れ多い、忝ない)からこそ、撤下神宝(てっかしんぽう) として燃やし、地下に埋めていたのだ。
  • 伊勢神宮側の記録によれば神宮式年遷宮は、飛鳥時代の天武天皇が定め、持統天皇の治世の690年(持統天皇4年)に第1回(内宮、2年後に外宮)が行われたという。持統天皇は、その治世の後半に伊勢から三河までを訪れ、この式年遷宮の段取りを自ら指揮したと伝える。※朝廷側の記録となると平安初期まで下る。
  • 平成25年(2013年)秋、伊勢神宮では実に62回目となる式年遷宮が行われた。その中では、御杣山(みそまやま)として定められた山で200年かけて育てられた1万本以上のヒノキ材を使用した神殿が建造され、さらに新たに御装束525種1,085点、御神宝189種491点もそれぞれの神宝や装飾品を造る家々で伝承された技術により新たに造られ、そして納められた。
  • 付喪神」で使われるもったいないは、この時代とともに移り変わった後の言葉の意味であることがわかる。

AmazonPrime Video30日間無料トライアル