癬丸
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癬丸(あざまる)
脇指
無銘(あざ丸)
長さ54.7cm 反り1.5cm 元幅2.8cm
愛知県文化財
熱田神宮蔵
- 大磨上無銘。一尺八寸、元は二尺六寸とも。
- 作者については古来より古備前助平や包平、正恒、守恒などとの諸説あるが、極め難い。
- 熱田神宮では助平作とする。
備前國鍛冶助平作之。勤按。助平者一條院時人。備前國鍛工也。
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由来
- 盲目になった平氏の武将悪七兵衛景清(平景清)が所持していたという太刀。
- 景清が壇ノ浦で源氏に捕まった際に取り上げられたという。※または目の病に悩まされたため景清が熱田神宮に奉納したとも。
- 癬丸の号は、鎺元にあざの如き黒い地鉄がみられ、それが景清の顔のあざが刀身に映ったからであるという伝承にもとづく。
来歴
平景清
- 景清が尾張に潜居した際に熱田神宮に奉納したという。
- 癬丸は持ち主に祟りをなすと言われている。
千秋季光
- 信長公記「景清あざ丸刀の事」によると、経緯は不明だが戦国時代には熱田大宮司の
千秋 紀伊守(千秋季光)が手に入れていたという。 - 信長の父、織田信秀が美濃攻めをしていた際、千秋紀伊守は天文13年(1544年)の美濃加納口の戦いで戦死した。※美濃加納口の戦いは天文16年説もあり。
陰山一景
- 千秋紀伊守の討ち死に後、「あざ丸」は美濃斎藤家に属していた陰山掃部助(陰山一景)が所持していたという。
大垣の地の戦記に曰、牛谷川景清の端といふ事ありける。其故は天文十六年の九月三日、尾州古渡の城主織田備後守信秀、濃州の斎藤道三が逆意を憎み、之を攻付けんと欲して、織田因幡守を大將とし、一萬餘人の兵を率して、濃州に亂入して、在々所々を放火し、同月二十日、稲葉山の城下に取懸り、村々へ押詰て、悉く火を放つ。(略)中にも千秋紀伊守は其頃古の平家の盲士惡七兵衛が重寶の
蘚丸 といふ太刀を所持しけるに、最後の時、此太刀を帯したり。紀伊守討たれて後、齋藤方の兵蔭山掃部助、又此太刀を求めて帯したり。
- 天文13年(1544年)9月、加納口の戦いで織田方を撃退した斎藤道三は、この機に乗じて近江の浅井亮政(長政の祖父)の助けを得、11月には大垣城を取り囲んだ。この時、美濃大垣城は織田弾正忠家の支城となっていた(城主は織田播磨守寛継)。
- 大垣城攻めに参加した陰山掃部助が、寺内を焼き払うべく牛屋山大日寺遮那院に陣を張り床几に腰掛けていたところ、大垣城内(信長記では寺内となっている)から強弓で入られた矢が陰山掃部助の左目にあたった。その矢を引きぬいたところ、次の矢が右目にあたり、両目を次々に潰されたという。
此土岐蔭山掃部助は道三方の先手の將として、彼の
蘚丸 の太刀を持ちて大垣の近所、牛谷の寺内を焼拂て、敵に働かんとす。其時即ち牀几に腰をかけて諸卒を下知して居たりけるに、流れ矢一筋、寺内より飛び來りて、蔭山が左の眼へ二寸計り射込みたり。其矢を抜きて捨てければ、又矢一つ飛び來りて、右の眼を射潰されたり。一度に兩眼を盲ひたる事、是れ只事にあらずと風説しける。
丹羽長秀
- 滝川雄利(一益の婿、もしくは養子)がこの癬丸の夢を見たという話が藩翰譜に載る。
此年(天正10年)元日、雄親(雄利)夢にあざ丸をぬきて月見る今夜かなといふ句を見しといふ、あざ丸は悪七兵衛景清が太刀、今は熱田の宮に在りといふ
(藩翰譜)
唐突にこの2行のみが書かれており、その後も登場しない。
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