平景清


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 平景清(たいらのかげきよ)

  • 悪七兵衛景清、藤原景清、伊藤景清

生年不詳 - 1196年(建久7年)
通称上総七郎(かずさのしちろう、上総介忠清の七男)。
信濃守(1180年)、兵衛尉。「悪七兵衛」の異名を持つほど勇猛であった。

  • 平家に仕え、都落ちに従ったため平姓で呼ばれるが、藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏(伊藤氏)、藤原忠清の子である。
  • 壇ノ浦で源氏に捕えられ、身柄を和田義盛に、次いで八田知家に預けられ、その後断食の末死亡。
  • 実在の人物であるが、その活躍が様々な文芸・演芸作品に取り上げられ史実と脚色が入り混じっている。
  • 癬丸(あざまる)という刀を所持していたと言う。

    こゝに平家の一族惡七兵衛景清は、西國四國の合戦に討死すべきものなりしが、(略)落人となり、尾張國熱田の大宮司に、いさゝかしるべありければ、深く忍びて居たりけり。(略)大宮司聞き給ひ、「實に屈竟の時節ござんなれ。かまへて人に悟られ給ふな、急いて事を仕損ずな。片時も早く。」とありければ、北の方も悦びて、宗盛公よりたび給ふ、あざ丸といふ名劔を景清に給はり、
    (出世景淸)

  • 怪力を誇り、平家物語巻十一「弓流」では源氏方の美尾屋十郎の錣を素手で引きちぎったという「錣引き」が描かれる。
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 家系

【藤原秀郷流伊藤氏】
藤原基景──藤原基信──藤原景綱─┬藤原忠清─┬藤原忠綱
                 │〔伊藤五〕├藤原忠光
                 │     ├藤原光景
                 │     └藤原景清〔悪七兵衛平景清〕
                 │
                 ├藤原忠直〔伊藤六〕
                 ├藤原有房
                 ├藤原景家
                 └大日房能忍

 祖父:景綱

  • 祖父は藤原景綱
  • 藤原基信の子。伊藤景綱とも。
  • 平忠盛・清盛に仕えた有力家人。古市の伊藤武者と称される。
  • 藤原秀郷の流れを汲む祖父の藤原基景が11世紀頃に伊勢守に任官して以降、伊勢国に土着して伊藤を号した。父の基信は員弁郡久米郷の志知村を本拠とし、平正盛の家人となって左衛門尉に任官している。
  • 保元の乱平治の乱では子息らを率いて清盛軍の先陣を勤め、戦功を挙げて従五位下・伊勢守に任じられた。
  • 平氏の都落ちには出家して同行していないが、伊賀・伊勢で大規模な反乱(三日平氏の乱)を起こすなど独自の行動をとっている。
  • 壇ノ浦の戦いの後となる5月に志摩国麻生浦で加藤光員の郎党に捕らえられ、六条河原で処刑された。

 父:忠清

  • 父の忠清は伊藤五、のち伊藤忠清、上総介忠清と呼ばれた。伊藤六は弟の忠直。
  • 従五位下、左衛門尉、上総介
  • 忠清は平氏一門の中でも特に平重盛に近仕しており、重盛の嫡男・維盛の乳父を務める有力家人であった。
  • 忠清は、治承三年の政変(1179年)で解官された藤原為保に代わって上総介となり、従五位下に叙せられた。その際に、「坂東八ヵ国の侍の別当」として東国の武士団を統率する権限も与えられたという。そして上総の国務を巡って上総権介であった上総広常と対立するようになる。
  • この後、房総平氏惣領家頭首の上総広常が平氏に反旗を翻して源頼朝についたことがきっかけとなり、頼朝挙兵を後押しし、平家打倒の流れが加速する。
  • 都落ちには同行せず、木曽義仲との和睦を図るなど独自の動きを見せる。のち三日平氏の乱を起こし、反乱鎮圧後も逃亡を続けている。平氏一門が壇ノ浦の戦いで滅亡した後の5月、忠清は志摩国麻生浦で(父・景綱同様に)加藤光員の郎党に捕らえられ、同16日に六条河原で処刑された。

 兄:忠綱

  • 藤原忠綱
  • 平清盛のクーデター(治承三年の政変)に伴う除目により左衛門少尉に任ぜられ、検非違使宣旨も受ける。
  • 翌年5月、平氏追討の兵を挙げた以仁王・源頼政の追討(以仁王の挙兵)にあたって源兼綱らを斬り、その勲功により従五位下に叙位され、それ以後、上総大夫判官と呼ばれた。
  • 寿永2年(1183年)源義仲の追討にも参加したが、倶利伽羅峠の戦いで戦死した。

 叔父

  • 大日房能忍
  • 日本達磨宗の開祖。
  • 比叡山の学僧であったが禅に傾倒し、摂津水田(現在の大阪市東淀川区大桐)に三宝寺を建立して禅道場を開いた。能忍のもとには天台宗の主流をなす学僧に対立する別所聖などが多数集まるようになり、達磨宗と称した。
  • 建久5年(1194年)、栄西と共に京で禅宗を起こす運動を始めるが延暦寺、興福寺の訴えにより朝廷から禅宗停止の宣旨が下される。能忍は大和多武峰(現在の奈良県桜井市)の妙楽寺に拠り再起を図ったが、同年、甥の藤原景清(平景清)により暗殺されたという。

    釋能忍、號大日、平家士將景清叔父也、(略)
    一夜景清訪來、忍喜其邂逅相逢、使弟子需酒於杏家、景清疑告事於官府、乃擐劍刺殺而去、

    この時、能忍は「景清が好きな蕎麦を打て」と弟子に命じたのだが、景清は早合点して「景清を討て」と命じたのだと勘違いし、能忍を殺害してしまう。しかしそこに弟子が蕎麦を持ってきたことで誤りに気づき逃げたのだという。近くにあった池で泣きながら刀の血を洗い流したと言い、その池は涙池と呼ばれて残っていたが昭和初期に公園(大阪市東淀川区小松2丁目の小松公園)になっている。またその後冑を脱ぎ捨てて立ち去ったと伝わる場所は現在かぶと公園(大阪市東淀川区豊新4丁目)となっている。

  • 西行がこの伝承を知り、歌を読んだという。

    泪池(なみだのいけ) 吹田村(すゐだむら)にあり。〔夫木集〕攝津國
    夫木
     よしさらば泪の池に身をなして心のまゝい月やどるらん 西行
     
    俗諺に云ふ。むかし此地に惡七兵衛景清が伯父。入道大日坊とてあり。壽永の頃八島(やしま)(いくさ)敗れ、逃れきてこゝに蟄す。伯父入道眠藏(めんざう)に隠し軍勢を(たす)く。或日溫麥(あつむぎ)を早く打てといふを、景清聞誤りて、伯父入道心替して、われを討つて源氏の方へわたさんと謀ると思ひ、忍んで入道を害し、寺を逃去り、此池水にて血刀を洗ふ。これより世に惡七兵衛といふ。其後我過(わがあやまり)を知つて池水を手向けとし、亡靈を弔ふ。故に景清泪池と稱す。これ妄談(まうだん)にして土人(とじん)口稱(くしょう)にのみ遺れり。

    ただし実際には能忍は殺害されたのではなく、病死あるいは事故死であるともいう。

 伝承における景清

  • 歌舞伎市川宗家のお家芸歌舞伎十八番のうち、「景清」、「七つ面」、「解脱」がこの景清に関連する演目である。
  • またナムコのアーケードゲーム「源平討魔伝」(げんぺいとうまでん、1986年)に登場し、源氏を討つ役柄を描かれる。源平討魔伝においては、天帝が三途の川の渡し守「安駄婆(あんだばあ)」に命じ、「ぷれいや」なる異次元の者の布施により地獄から甦り、頼朝のいる鎌倉を目指す。波動剣、旋風剣を自在に操るこの男を、源平時代最強の武士とする声も高い。


 関連項目


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