蘭奢待
蘭奢待(らんじゃたい)
東大寺正倉院に収蔵されている香木
天下第一の名香
全長156cm、最大径43cm、重量11.6kg
正倉院御物
概要
- 正倉院宝物目録での名は黄熟香(おうじゅくこう)で、「蘭奢待」という名は、その文字の中に"東・大・寺"の名を隠した雅名である。
かつて一部を截り取りて足利義政に賜はり、後又織田信長にも賜はれり、明治天皇奈良行幸の際、一部を截り取らしめたり、それぞれの箇處に箋を附して之を示す。此の香木を世に蘭奢待と稱す、「蘭」の門構の中、「奢」の冠、「待」の旁に「東」「大」「寺」三字を暗示すと云ふ。
建久4年(1193年)の「東大寺勅封蔵開検目録」に「朱塗韓櫃二十六合 一、合納黄熟香一切 長三尺許 口一尺許」と記載されるのが初出とされている。ただし尺が違いすぎるため、紅沈のことではないかと指摘される。
正倉院所蔵の沈香で高名なものには、この蘭奢待のほかに「紅沈 」(全浅香 )と呼ばれる香木がある。両者は「両種の御香」とも呼ばれている。紅沈は全長105.5cm、十両16.65kg。- 蘭奢待
- 目録名「黄熟香」
- 紅沈
- 目録名「全浅香」
概要
- 宮内庁正倉院事務所の科学調査により「沈香」と香気成分の組成が同じであることが確認されている。
- 一般に香木は一度熱を加えると香りは弱くなるが、この蘭奢待は「十返香(とかえりこう)」といい十回聞いても香りが失せないという。
- また正親町天皇は「聖代の余薫」と歌ったという。また明治天皇は「古めきしずか」と表現されている。
截り取り
- 天下の名香である蘭奢待は、これまでに何度も截り取りが行われている。
- 現在判明している截り取り箇所は38ヶ所あり、50回程度截り取られたのではないかとされている。
- 記録などで判明している截り取った人物の一覧。
藤原道長
- 寛仁3年(1019年)正倉院を開けさせ宝物を見ている。
足利義満
- 室町幕府第3代将軍
- 至徳2年(1385年)春日大社詣をした後に、正倉院に立ち寄り宝物を見ている。この時に蘭奢待の香りを楽しんだという。
足利義教
- 室町幕府第6代将軍
- 正長2年(1429年)二寸截り取り。
足利義政
- 室町幕府第8代将軍
- 寛正6年(1465年)蘭奢待及び紅沈を一寸四方2ヶ所ずつ截り取り。
- 1つは朝廷へ、1つは自分用として、さらに五分四方1つを東大寺別当のためにきったという。
寛正六年九月廿四日、義政、(略)宝器を正倉院に観る
土岐頼武
- 美濃の守護大名。斎藤道三と争った頼芸の兄とされる。
- 天文4年(1535年)8月修理大夫に任官、更に権威付けのため奈良正倉院秘蔵の蘭奢待の切り取りを朝廷に申請し、許可されている。
天文四年七月廿九日、美濃守護土岐頼藝ノ請ニ依リ、蘭奢待ヲ賜フ
織田信長
- 天正2年(1574年)3月27日勅許を得た信長は、東大寺に使いを送り東大寺記録では一寸四方(信長公記では一寸八分)2ヶ所を截り取っている。
廿八日、信長、大和多聞山城ニ到リ、奏シテ東大寺ノ蘭奢待ヲ賜フ、尋デ、帰洛ス
三月十二日、御上洛、南都東大寺蘭奢待を御所望の旨、内裏へ御相聞のところ、三月廿六日、御勅使日野輝資殿、飛鳥井大納言殿、勅使として忝なくも御院宣なされ、則ち南都大衆頂拝致し御請申し、翌日三月廿七日、信長奈良の多聞に至りて御出で(略)三月廿八日、辰の刻御蔵開き候へ訖んぬ、彼の名香長さ六尺の長持に納まりこれあり、則ち多聞へ持参され、御成の間舞台において御目に懸け、本法に任せ一寸八分切り捕らる、御伴の御馬廻末代の物語に拝見仕るべきの旨御諚にて、奉拝の事且つは御威光且つは御憐愍、生前の思ひ出、忝き次第申すに足らず。(信長公記)
- うち一片は正親町天皇に献上し、もう一片のうち一部を京都の泉涌寺、尾張一宮(真清田神社)に納めている。またこの時、北倉に納められていた紅沈を蘭奢待同様に中倉に納めてはどうかと申し入れたという。
真清田神社の由緒によれば、信長が村井貞勝に分け与え、さらに貞勝が一宮城主関長安(関成政)に与えたのち、長安が真清田神社に奉納したものという。この真清田神社蔵のものは箱だけが残る。泉涌寺には現存するという。
- 津田宗及と千利休も茶会の折に一包頂戴したという。
同三月廿七日 南都に被成御成
於多門山、蘭奢待御きりなされ候、堺衆モ御伴也、即御歸洛也、南都へ御動座之時、於宇治御茶被成御覧候
森所ニテ御膳ヲ上申候
本文注:勅使日野輝資、飛鳥井雅教二人東大寺ニ参向、信長ヨリ奉行トシテ柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、武井夕庵、松井友閑出張、義政ノ先例ニ従ヒテ一寸八分ヲ切取ル同四月三日畫 於相國寺御會 俄也
(略)
御会過テ、蘭奢侍一包拝領申候、御扇子すへさせられ、御あふぎとともに被下候、宗易・宗及両人ニ迄被下候、香炉両人所持仕候とて、易・及斗ニ東大寺拝領いたし候、其外堺衆ニハ何へも不被下候
御あふぎハ、たてまぜの金と切はくと
(天王寺屋会記)
天正14年12月秀吉が御成になった茶会で、蘭奢待を焼くという記述がある。この時に使用されたのが、この信長から拝領したものか、それとも秀吉が別途切り取ったものかは不明。
- 翌年5月には朝廷から毛利輝元に対して蘭奢待が贈られており、毛利家ではこれを同年8月厳島神社に奉納している。
明治天皇
- 明治10年(1877年)2月9日、奈良行幸の折に正倉院に立ち寄り、「黄熟香」を截り取ったうえで、親しく小片を火中に投じられたという。
- なお明治天皇は正倉院御物の継承者であるため、蘭奢待の付箋には「明治十年依勅切之(明治10年、明治天皇の勅によりこれを切る)」と記される。
正倉院御物の中に黄熟香あり所謂蘭奢待なり。往時足利義政織田信長にその一片(長さ各一寸八分)を賜ひしことあり。還幸後、久成に勅して之れを剪らしめたまふ。久成乃ち長さ二寸重さ二銭三分八厘の一片を上る。天皇、之れを割きて親ら炷きたまふ。薫烟芳芬として行宮に満つ。而して其の残餘は之れを東京に齎したまふ。
この截香を行った「久成」とは町田久成のことである。久成は、明治5年(1872年)5月から10月にかけて行われた日本初の文化財調査とされる壬申検査を主導したほか、東京帝室博物館(後の東京国立博物館)の初代館長となる人物。薩摩藩家老小松帯刀の妻の近(千賀)が、町田久成の叔母にあたる。町田久長 ├─町田久成 島津久儔─小松清穆─┬汲 ├─秀麿 ├清猷 │ └近 ┌壽美? ├──┴小松清直 肝付兼善─小松帯刀清廉
伝承上伝わる人物
- 伝承により、截り取ったまたは与えられた人物。
- 文学作品や武辺咄集に載るもの。
源頼政
- 鵺退治の恩賞に蘭奢待を賜ったという。
新田義貞
- この蘭奢待を鎧に焚きしめていたという話が、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目「仮名手本忠臣蔵」で登場する。
冥加に余る君の仰。夫こそは私が。明暮手馴し御着の兜。義貞殿拜領にて。蘭奢待といふ名香を添て給はる。御取次は則かほよ。其時の勅答には。人は一代名は末代。すは討死せん時。此蘭奢待を思ふ儘。内兜にたきしめ着ならば。
- さらに、この香りを焚きしめた鎧が話しの中心となる浄瑠璃「蘭奢待新田系図」も作られた。
豊臣秀吉
- 江戸時代の物語に切り取ったと記される。
世俗の申傳へに天下を治る人一代に一度づゝ、南都東大寺の宝蔵をひらき、蘭奢待の香を一寸づゝ切取給ふといへり、これによって織田信長公、秀吉公も截取給へば、世に残りて「是ぞ蘭奢待なり」とて香の癖ある者十襲珍蔵せり、東照大権現も此例をおはせ給ひて、慶長七年壬寅六月十一日に禁中へ奏し、勅使をこひ、宝蔵をひらかせ給ふに大権現の心操、古禮を拝し、先規を祟め給へば、「聖武天皇の御違寶の蘭奢待を切取事は無下に放埒なり、先例といふとも切取べからず、宝蔵の道具ども、久しく打入て晒し改めざれば、上漏下湿の怖有、且また盗賊の侵し奪ふ事も有べし、假屋を作り、諸道具を移し、一々點儉し、帳面に合、敗壊する物あらば修補すべし」と奉行に仰付られけり
(新武者物語)
徳川家康
- 「新武者物語」では、家康は正倉院を開けさせたが蘭奢待は切り取らなかったと記す。ただし「新武者物語」は江戸時代中期宝永6年(1709年)刊行の武辺咄集であり、記述内容の信頼性は十分ではないとされる。
- なお、東福門院和子(後水尾天皇の中宮。徳川秀忠の五女)所持という蘭奢待が尾張徳川家に伝来し、現在徳川美術館で所蔵されている。
その他所蔵
徳川美術館所蔵
香木
銘 蘭奢待
十種名香の内
- 源頼政、太田道灌、東福門院和子所持。蜂谷勝次郎豊光(志野流11世)極め。由緒書がつく。
永青文庫所蔵
香木
蘭奢待
細川家伝来
厳島神社所蔵
香木
蘭奢待