蘭奢待


※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。

OFUSEで応援を送る

 蘭奢待(らんじゃたい)

東大寺正倉院に収蔵されている香木
天下第一の名香
全長156.0cm、最大径43cm、重量11.6kg
正倉院御物
正倉院中倉 135

Table of Contents

 概要

 黄熟香の別名

  • 正倉院宝物目録での名は「黄熟香(おうじゅくこう)」であり、世に知られる「蘭奢待」という名は、その文字の中に"東・大・寺"の名を隠した雅名である。※聖武天皇が名付けたと伝わる。

      中倉階下  (イ)號箱
    (157)黄熟香 一材  中第135號
    かつて一部を截り取りて足利義政に賜はり、後又織田信長にも賜はれり、明治天皇奈良行幸の際、一部を截り取らしめたり、それぞれの箇處に箋を附して之を示す。此の香木を世に蘭奢待と稱す、「蘭」の門構の中、「奢」の冠、「待」の旁に「東」「大」「寺」三字を暗示すと云ふ。

    「蘭奢待」の命名者は聖武天皇ともされるが「東大寺献物帳」に記載がなく(帳外薬物)、蘭奢待自体はそれよりも後に正倉院へ納められたと見られている。一方の「全浅香(紅沈)」は国家珍宝帳に所載。蘭奢待は、建久4年(1193年)の「東大寺勅封蔵開検目録」に「朱塗韓櫃二十六合 一、合納黄熟香一切 長三尺許 口一尺許」と記載されるのが初出とされている。ただし尺が違いすぎるため、紅沈のことではないかと指摘される。

    正倉院所蔵の沈香で高名なものには、この蘭奢待のほかに「紅沈(こうじん)」(全浅香(ぜんせんこう))と呼ばれる香木がある。両者は「両種の御香」とも呼ばれている。

    蘭奢待
    目録名「黄熟香」
    長さ156.0cm、重さ11.6kg
    正倉院中倉 135 黄熟香 - 正倉院
    紅沈
    目録名「全浅香」
    長さ105.5cm、重さ16.65kg
    国家珍宝帳所載
    正倉院北倉 41 全浅香 - 正倉院
    この後者の紅沈(全浅香)については、国家珍宝帳にも記載されており、天平勝宝5年(753年)付けの日付も記載されていることからいつから正倉院にあったのかがはっきりしている。しかし蘭奢待(黄熟香)についてはいつから存在したのか不明である。

 伝来

  • 香道では、蘭奢待の伝来を次のように2通り記している。
  1. 【唐より】:聖武天皇の代(724-749)に、漢朝より贈られたという。

    香道今按に云、蘭奢待、伽羅瑞一ナリ云々、聖武皇帝、漢朝ヨリ献ズ、帝崩御之後、一切之勅遺物、依孝謙帝勅、東大寺被納之、至爾今此寺第一之什物ナリ、代々ノ帝封ナリ、若披ク事有時ハ、勅使及奉行ヲ以て改之。

  2. 【天橋立より】:二条天皇の代(1158-1165)に、天橋立より出て献上されたという。

    香秘傳書に云、東大寺、伽羅、蘭奢待、芳野拾遺ニ丹後國與佐群(与謝郡)天ノ橋立ノ橋柱也、二條院ノ御宇ニ出、同國甲武山ニ隠シ埋ム、其上ヨリ蘭生ス、燻リ四方ニ満、仍勅使立テ是ヲ尋、則其ノ蘭ノ根ヲ掘取ルニ至テ、埋所ノ木ヲ得タリ、則勅シテ蘭奢待ト名付、南都東大寺ニ納ム、故ニ又名トス。

  • 宮内庁正倉院事務所の科学調査により熱帯の植物「沈香」と香気成分の組成が同じであることが確認されている。
    原植物はジンチョウゲ科ジンコウ属沈香(学名: Aquilaria agallocha、英語:agarwood)。熱帯アジア原産の常緑高木。現在、沈香と伽羅を産するほぼすべての沈香属(ジンチョウゲ科のジンコウ属およびゴニスティルス属)全種はワシントン条約の希少品目第二種に指定されている。
    ワシントン条約規制対象種の調べ方 (METI/経済産業省)植物(PDF形式:348KB)※英名で検索
     原木の沈香自体は比重0.4だが、これに樹脂が付着することで比重が増し沈むようになることから「沈香」と呼ぶ。樹脂が少ないために浮沈の定まらないものを「桟香」、水に浮かぶものを「黄熟香」と呼ぶ。沈香は、香りの種類、産地などを手がかりとしていくつかの種類に分類され、最上のものを「伽羅(きゃら)」と呼ぶ。
    柴田承二「正倉院薬物第二次調査報告」(正倉院紀要 第20号) ※PDF
  • 一般に香木は一度熱を加えると香りは弱くなるが、この蘭奢待は「十返香(とかえりこう)」といい十回聞いても香りが失せないという。
  • 正親町天皇は「聖代の余薫」と歌ったという。また明治天皇は「古めきしずか」と表現されている。

 名前「蘭奢待」の由来

  • 一般に聖武天皇が名付けたと伝わるが、「東大寺献物帳」に記載がなく(帳外薬物)、蘭奢待自体はそれよりも後に正倉院へ納められたと見られている。
  • 「嬉遊笑覽」では、「谷響集」を引いて胡国の褒称だとする。

    〔谷響集〕に蘭奢待ハ是胡國褒稱云々、〔朱子語録〕曰王導嘗甞謂胡僧曰蘭奢奢胡語之褒譽也といへれどそれにてハ待の字へ何とつゞけて心得べき憶ふに蘭奢蘭若ハ一音にて空静にして諸の忩務を離れたる處にて寺を稱す待ハ遇なり俟なり閑静の處にあひしらふべき心にて名けたるにや又普通にハその内に東大寺の文字を隠したりといへるもいはれたる事なり但し東にハあらず柬の字なれと是ハ拆字などにハある事にて母を木母といふにひとし

  • いっぽう正倉院の調査目録では、建久(1190年)年間の目録では「黄熟香」となっているものが、慶長(1596)年間の目録ではじめて「蘭奢待」の名前が登場するという。
  • しかし「節用集」や「尺素往来」に登場することから、遅くとも室町時代中期には一般に広まっていたと指摘されている。


 截り取り

  • 天下の名香である蘭奢待は、これまでに何度も截り取りが行われている。
  • 現物には3枚の付箋が貼られている。※付箋が付けられた明治に入ってから
    1. 「明治十年依勅切之」:明治天皇。尖っている左端
    2. 織田信長拝賜之為」:右2つのうち左側
    3. 「足利義政拝賜之為」:最右
  • 現在判明している截り取り箇所は38ヶ所あり、50回程度截り取られたのではないかとされている。
    米田該典 「全淺香、黄熟香の科学調査」(正倉院紀要 第22号) ※PDF
  • 記録などで判明している截り取った人物の一覧。

 藤原道長

  • 寛仁3年(1019年)正倉院を開けさせ宝物を見ている。

 足利義満

  • 室町幕府第3代将軍
  • 至徳2年(1385年)春日大社詣をした後に、正倉院に立ち寄り宝物を見ている。この時に蘭奢待の香りを楽しんだという。

    細々要記に元中二年八月、將軍足利義満、春日社に詣り、東大寺尊勝院に入て、寶器を拝覧す、此時近衛、二條、萬里小路等の諸公卿、動向したるよし記せり、この諸卿、或は北朝の勅使にてはあらざりしか、能く考ふべし、

  • 義教の際の截り取りを記す「満済准后日記」に、「此れ義満の例に従ひしなり。」と記されており、義教が父・義満の例に従って截ったことがわかる。※元中2年(1385年)=至徳2年(1385年)

 足利義教

  • 室町幕府第6代将軍
  • 正長2年(1429年)二寸截り取り。勅使は右少弁藤原豊明。

    霊宝内御碁石黒二赤一以上三被召之、沈二切二寸、許歟、同被召之了、至徳時モ如此歟、何様被任先規了

    (永享元年九月)廿三日、義教、春日社ニ参詣ス

    (永享元年)九月將軍義教、春日社参詣、寶庫の寶物を拝覧す、此時の勅使は、右少辯藤原豊明なり。凡そこれらの時より、このかた將軍家拝覧の故事となれるなるべし。

    義教永享元年九月奈良に至り春日社に参づ。此時東大寺の倉庫を開き蘭奢待を切り取れり。此れ義満の例に従ひしなり。然るに楠五郎左衛門光正なる者あり。義教に近寄り之を刺さんとし果さす。終に召捕られ京師に遂られ戮せらる。

 足利義政

  • 室町幕府第8代将軍
  • 寛正6年(1465年)9月24日、蘭奢待及び紅沈を一寸四方2ヶ所ずつ截り取り。
  • 1つは朝廷へ、1つは自分用として、さらに五分四方1つを東大寺別当のためにきったという。

    春日社参詣、於當寺、寶物御覧、御香蘭奢待なり被召上、又云、截香法一寸四方充、二箇、一献内裏、其一献將軍、又截五分四方、一箇、献別當云々、兩種御香同然

    寛正六年九月廿四日、義政、(略)宝器を正倉院に観る

    蘭奢待少シ御切有之

 後土御門天皇

  • 延徳2年(1490年)、東大寺公恵をして截りとらせている。

    僧正東大寺公恵をして、蘭奢待を截らしむ、是日、公恵、之を上る、

    正月廿九日、壬午、天晴、(略)西室僧正蘭奢待一切、被進上禁裏、先日御所望之由予傳仰者也、
    (実隆公記)

    公恵は東大寺の院家西院の院主。正親町三条実雅の猶子で、実父は飛鳥井雅世。

    三条西実隆の長男公順は、父・実隆が兄の早世によって次男でありながら家督を継いだことを嘉例として、公順は廃されて次男公条が跡継ぎとなった。12歳の時、長男公順は出家して東大寺に入った。明応8年(1499年)に東大寺別当。文亀2年(1502年)に元興寺別当。この公順の師が西室僧正こと公恵で、公順も西室公瑜を称している。

 畠山義総

  • 能登畠山氏7代当主。一向一揆を鎮圧し戦国大名として能登畠山氏の全盛期をもたらした名君として知られる。
  • 享禄元年(1528年)閏9月21日に蘭奢待下賜の礼金を献上している。

    能登守護畠山義總、蘭奢待下賜の御禮金を獻ず、

  • 天文5年(1536年)6月に禁裏秘蔵の蘭奢待を拝領している。

    六月廿日、のとのしゅごびぶつ五色・御たるの代千疋しん上申。びぶつも御くばりどもあり。

    廿日、去年濃州(能州)守護悳胤出家名也、蘭奢待名香、所望之由、以甘露寺大納言申、雖爲祕藏給之、祝著之由申、

    「悳胤」は畠山義総の隠居号。

    史料綜覧(大日本史料総合DB)では「美濃守護土岐頼藝の請に依り、蘭奢待を賜ふ、」となっているが、これは「能州」を「濃州」としてしまった誤りとされる。


 織田信長

  • 天正2年(1574年)3月27日勅許を得た信長は、東大寺に使いを送り東大寺記録では一寸四方(信長公記では一寸八分)2ヶ所を截り取っている。
    この信長による截り取りは、当時の政治状況とも合わせて広く研究が行われており、多くの記録が確認されている。例えば、信長にさらなる階梯上昇欲求があったのかどうか、また当時の正親町天皇や朝廷との関係で信長の専横的な行動があったのかどうか(いわゆる「今度ふりよに勅封をひらかれ候て」の解釈)など。当時の人物の思惑を探ろうとする研究は昔より多い。
  • なお信長は「紅沈」の截り取りも所望するが、こちらは前例がないとして断られたとされる。
    三倉御開封日記では「紅沈」の截り取りを断られたとするが、東大寺薬師院文書によれば「紅沈」も取り寄せたと記されている。「其時同日ニ重紅沈ヲモ被成御切候、右兩種の蘭紅多門山被召寄、御切候其時、香付候上リ申衆、(略)御香拝覧有テ、則大佛師成慶法眼、并備前守法橋へ被仰付、御香御切リ候」。この記述だと両方とも切り取ったかどうかは不明となっている。
  • またこの時、北倉に納められていた紅沈を自ら拝見し、蘭奢待同様に中倉に納めてはどうかと申し入れたという。

    廿八日、信長、大和多聞山城ニ到リ、奏シテ東大寺ノ蘭奢待ヲ賜フ、尋デ、帰洛ス

    三月十二日、御上洛、南都東大寺蘭奢待を御所望の旨、内裏へ御相聞のところ、三月廿六日、御勅使日野輝資殿、飛鳥井大納言殿、勅使として忝なくも御院宣なされ、則ち南都大衆頂拝致し御請申し、翌日三月廿七日、信長奈良の多聞に至りて御出で(略)三月廿八日、辰の刻御蔵開き候へ訖んぬ、彼の名香長さ六尺の長持に納まりこれあり、則ち多聞へ持参され、御成の間舞台において御目に懸け、本法に任せ一寸八分切り捕らる、御伴の御馬廻末代の物語に拝見仕るべきの旨御諚にて、奉拝の事且つは御威光且つは御憐愍、生前の思ひ出、忝き次第申すに足らず。(信長公記)

    其後又自信長以使者、紅沈ト云香在之由承、同有拝見度候由被申候間、北ノ倉ノ内ヲ尋所ニ、口一尺長サ四尺計香アリ、幷圍碁番ト、同寺ノ三人相付、多門山ヘ持参ス、従信長以使者被申様ハ、先例蘭奢待計被取出候、然者今度モ紅沈ヲバ不可給由被申、則被渡候間、請取如本奉納畢、暫後信長自身倉ノ内ヘ入、一見シテ被出畢、(略)紅沈モ天下無雙之名香タル間、端ナル倉ニハ不可被置、中ナル蘭奢待ト一處ニ可被入置、圍碁番ヲ如本北ノ倉ニ可被置、又後ニハ難知間、櫃ニ別々ニ香ノ銘ヲ書テ被入置、勅使日野殿自身御文箱ニ勅封ヲ入テ、御持参アリテ付給畢、

  • うち一片は正親町天皇に献上した。正親町天皇は一片と共にこの経緯を九条稙通に書き送っている。宸翰は昭和15年(1940年)5月3日付けで重要文化財指定(当時、九条道秀公爵所持)。現在は京都国立博物館所蔵。
    紙本墨書正親町天皇宸翰御消息〈蘭奢待云々/九条稙通宛〉 - 国指定文化財等データベース

    蘭奢待の香、ちかき程は秘せられ候、今度ふりよに勅封をひらかれ候て、聖代の餘薫をおこされ候、この一炷にて、老懐をのへられ候はゝ、可為祝着候、此よし、なを勸修寺大納言申候へく候、あなかしく、
       入道とのへ九条殿                  (花押)

    九条稙通は、左大臣・九条尚経の嫡男。母は三条西保子で、三条西実隆は外祖父にあたる。実隆より、「源氏物語三ヶ大事相伝切紙」及び「百人一首」を伝授されている。弘治元年(1555年)、従一位に叙せられるが、まもなく出家して行空、恵空を名乗る。十河一存正室となった一人娘がいたが、男子には恵まれず、二条家に嫁いだ実妹・経子の孫である兼孝を養子に迎え、家督を継がせている。公家社会にとどまらず細川幽斎、前田利益(穀蔵院飄戸斎。前田慶次)、里村紹巴、松永貞徳などとも交流があった。文禄3年(1594年)薨去、享年88。

    なお一般にこの宸翰の「今度ふりょ(不慮)に勅封をひらかれ候て」という表現から、強引に截り取りを行った信長に対して正親町天皇は不本意であったとの解釈がされてきたが、近年これは誤りではないかとの指摘がなされている。「不慮」とはこの場合、”思いがけず・意外なことに”という意味で使われているとされる。

  • 翌天正3年(1575年)5月には朝廷から毛利輝元に対して蘭奢待が贈られており、毛利家ではこれを同年8月25日厳島神社に奉納している。

    奉寄進 嚴島大明神
    右蘭奢待之事、有仔細従 禁中拝領畢、當家面目至候、雖然神秘希有之條、兩通共可致寶納也、仍寄進狀如件、
       天正参年八月廿五日
                                         右馬頭大江輝元

  • 勧修寺晴右が拝領したものは、子の勧修寺晴豊により京都の泉涌寺に納められた。

    蘭奢待、故一位(勸修寺晴右)拝領分、爲舎利焼香令奉納候訖、
        天正五年正月十四日              權中納言晴豊(花押)

  • また信長が村井貞勝に与えたものの一部を一宮城主関長安が拝領し尾張一宮(真清田神社)に納めている。

    關長安添簡縦二寸六分 横五寸七分
    信長五畿内迄自在砌、多門山御遊覧之時、南都大衆神仁合而爲馳走、云蘭奢待名香爲御神物切之給云々。則信長切之。其少分村井民部大輔貞勝被下、貞勝亦關小十郎右衛門尉長安分下。穢家依難安置、則當社明神奉献耳。
                         關小十郎右衛門尉
      天正二年甲戌五月吉日                     長安(花押)

    佐分榮清添簡縦三寸 横三寸八分
    此蘭奢待待當社御上葺之砌、大宮ニ内在之、各開之令拝見處、包紙添状計、而名香無之候。爲後日如此耳。
                         神主山三郎
      寛永八年カノトノ未潤十月吉日                   榮清(花押)

    真清田神社の由緒によれば、信長が村井貞勝に分け与え、さらに貞勝が家臣の一宮城主関長安(関成政とも。関長安の祖父・康正が真清田神社の神官であった)に与えたのち、天正2年(1574年)5月に関長安が真清田神社に奉納したものという(「関長安蘭奢待奉納状」)。この真清田神社蔵のものは寛永年間に調べた所、箱だけが残り泉涌寺には現存したというが、その後昭和までには当社に戻った。この関長安添簡によれば、截り取りは信長発案ではなく南都大衆・神人の馳走であったとする。

  • 津田宗及と千利休も茶会の折に信長より一包頂戴したという。

    同三月廿七日 南都に被成御成
    於多門山、蘭奢待御きりなされ候、堺衆モ御伴也、即御歸洛也、南都へ御動座之時、於宇治御茶被成御覧候
    森所ニテ御膳ヲ上申候
    本文注:勅使日野輝資、飛鳥井雅教二人東大寺ニ参向、信長ヨリ奉行トシテ柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、武井夕庵、松井友閑出張、義政ノ先例ニ従ヒテ一寸八分ヲ切取ル

    同四月三日畫 於相國寺御會 俄也
    (略)
    御会過テ、蘭奢侍一包拝領申候、御扇子すへさせられ、御あふぎとともに被下候、宗易・宗及両人ニ迄被下候、香炉両人所持仕候とて、易・及斗ニ東大寺拝領いたし候、其外堺衆ニハ何へも不被下候
    御あふぎハ、たてまぜの金と切はくと
    天王寺屋会記

    宗易(千利休)および宗及(津田宗及)の2名だけが名物香炉を所持していたために拝領したが、他の堺衆は何ももらえなかったと記す。宗易は「珠光香炉」、宗及は「不破香炉」。

    天正14年12月秀吉が御成になった茶会で、蘭奢待を焼くという記述がある。この時に使用されたのが、この信長から拝領したものか、それとも秀吉が別途截り取ったものかは不明。


 明治天皇

  • 明治10年(1877年)2月9日、奈良行幸の折に正倉院に立ち寄り、「黄熟香(蘭奢待)」を截り取ったうえで、親しく小片を火中に投じられたという。

    同(明治)十年二月、車駕奈良に行幸し給ひ、寶器を叡覧せさせ給ふ、此時蘭奢待を截りて、御料に供せらる、それよりさき、一月に宮内少丞櫻井純造を以て、開封の勅使となし、内務大書記官町田久成、同少食感岡谷繁實とともに奈良に往き、あらかじめ寶器を點撿せしむ、その時庫中の寶器、破損せるもの、また樂器の類を修補せらる、また六月に至りて、寶庫を修繕し、十月にいたり避雷柱、及び消防器械を設けられたり、但し堺縣令税所篤か請へるによりてなり、

    第廿八黄熟香一材、これいはゆる蘭奢待なり、長五尺余、廻り四尺一寸、重三貫百目あり。明治十年三月行幸のをり、長ニ寸、重六匁餘、勅命を以てこれをきり取らせ給ふ。

    予定にはなかったため、四聖坊の持仏堂で休まれている間に中村暁圓という興福寺の寺僧が自宅の香炉を取り寄せ、それで聞香をされたのだという。明治天皇は香炉を返す際に、若干の断片を添えて返されたという。その香炉は、中村暁圓の子・雅眞の手を経て、木工師・坂本曲齋が所蔵していた。香炉入れには「明治八(追書)年大博覧会の節東京内務省より役人下向之節蘭奢待御切取上試ニ御焼之節貸上ル仍此香呂ハ精(?)上品ト相成已来茶入ニ可用不苦候事 /(追書)勅使桜井初期奉行暁圓」と箱書きがなされているという。さらに裏書きには「碪青磁香炉入明治年間蘭奢待御試之節上ル」と書かれている。※明治10年(1877年)の誤り
  • なお明治天皇は正倉院御物の継承者であるため、蘭奢待の付箋には「明治十年依勅切之(明治10年、明治天皇の勅によりこれを切る)」と記される。

    正倉院御物の中に黄熟香あり所謂蘭奢待なり。往時足利義政織田信長にその一片(長さ各一寸八分)を賜ひしことあり。還幸後、久成に勅して之れを剪らしめたまふ。久成乃ち長さ二寸重さ二銭三分八厘の一片を上る。天皇、之れを割きて親ら炷きたまふ。薫烟芳芬(くんえんほうふん)として行宮に満つ。而して其の残餘は之れを東京に齎したまふ。

    この截香を行った「久成」とは町田久成のことである。久成は、明治5年(1872年)5月から10月にかけて行われた日本初の文化財調査とされる壬申検査を主導したほか、東京帝室博物館(後の東京国立博物館)の初代館長となる人物。薩摩藩家老小松帯刀の妻の近(千賀)が、町田久成の叔母にあたる。維新改革、廃仏毀釈の流れの中で多くの美術品が破壊、また海外に流出していくのを惜しみ、博物館創設事業に携わった。官費が不足する中で私財を用いて収集を続け博物館の所蔵品充実に尽力した。後に出家して三井寺光浄院の住職となり、僧正となる。三井寺には、久成が収めた蘭奢待の一片が今も保管されている。「東大寺蔵 蘭()待 香合以藤房卿手植付作 従四位勲三等町田久成僧正納」
             町田久長  ┌町田実種(小松清緝)
               ├───┴町田久成
    島津久儔─小松清穆─┬汲     ├──町田秀麿
              ├清猷 ┌─壽美?
              └近━━│━小松清直
               ├──┘
        肝付兼善─小松帯刀清廉━小松清緝
               ├────小松清直──┬小松帯刀
               琴          └小松重春━━従志(西郷従道7男)
    
    なお令和4年(2022年)1月園城寺で、大久保利通からの手紙を含む町田久成の遺品が見つかったが、その際に蘭奢待の切片も含まれていたという。上述の通り、町田は明治10年(1877年)実際に截り取りを行っており、その際に切片を拝領したものかと思われる。※専門家による手紙の確認は令和3年(2021年)12月。
  • 明治天皇は、さらに明治12年(1879年)6月にも勅旨をもって蘭奢待を截り取りさせている。このときは稲生真履が使者。
    稲生眞履は宮内省官僚、東京帝室博物館の学芸委員。刀剣を始めとする古美術に精通していた。三女の季子は秋山真之の妻となっており、真之も稲生の薫陶を受けて刀剣鑑定を能くした。






 伝承上伝わる人物

  • 伝承により、截り取ったまたは与えられたと伝わる人物。
  • 文学作品や武辺咄集に載るもの。

 源頼政

  • 鵺退治の恩賞に蘭奢待を賜ったという。

 新田義貞

  • この蘭奢待を鎧に焚きしめていたという話が、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目「仮名手本忠臣蔵」で登場する。

    冥加に余る君の仰。夫こそは私が。明暮手馴し御着の兜。義貞殿拜領にて。蘭奢待といふ名香を添て給はる。御取次は則かほよ。其時の勅答には。人は一代名は末代。すは討死せん時。此蘭奢待を思ふ儘。内兜にたきしめ着ならば。

 豊臣秀吉

  • 江戸時代の物語に截り取ったと記される。ただし根拠史料は見つかっていない。

    世俗の申傳へに天下を治る人一代に一度づゝ、南都東大寺の宝蔵をひらき、蘭奢待の香を一寸づゝ切取給ふといへり、これによって織田信長公、秀吉公も截取給へば、世に残りて「是ぞ蘭奢待なり」とて香の癖ある者十襲珍蔵せり、東照大権現も此例をおはせ給ひて、慶長七年壬寅六月十一日に禁中へ奏し、勅使をこひ、宝蔵をひらかせ給ふに大権現の心操、古禮を拝し、先規を祟め給へば、「聖武天皇の御違寶の蘭奢待を切取事は無下に放埒なり、先例といふとも切取べからず、宝蔵の道具ども、久しく打入て晒し改めざれば、上漏下湿の怖有、且また盗賊の侵し奪ふ事も有べし、假屋を作り、諸道具を移し、一々點儉し、帳面に合、敗壊する物あらば修補すべし」と奉行に仰付られけり
    (新武者物語)

  • なお秀吉が截り取りを行ったとされる天正17年(1589年)10月は、秀吉が南都に下向しており、東大寺でも秀吉が立ち寄ることを予想して正倉院前庭に座所を設けさらに四聖坊で茶湯の用意までしていたが、秀吉は弟・豊臣秀長の病気見舞いで訪れただけであり、翌朝にはすぐ大和郡山に出立してしまい、東大寺での準備は無駄になったのだという。

 徳川家康

  • 家康はまず、信長の截り取った蘭奢待を間接的に入手している。信長が正親町天皇に献上した一片は各所に分けられており、そのうち山科家に伝わった一片が慶長2年(1597年)に家康へと贈られている。

    (10月7日)江戸内府へ罷向了。(略)蘭奢待二色進之。一色ハ 後奈良院ゟ 正親町院ゟ拝領之分所望之間、進之。悦喜之由有之。

  • 上記(秀吉の截り取りを記す)「新武者物語」では、家康は正倉院を開けさせたが蘭奢待は截り取らなかったと記す。ただし「新武者物語」は江戸時代中期宝永6年(1709年)刊行の武辺咄集であり、記述内容の信頼性は十分ではないとされる。徳川実紀でも、足利将軍や織田信長が截らしめた故事を上げて、部下が「截られてはいかがか」と申し上げるも、家康は聖武天皇以来の名品を秘蔵するべき(當家にも武家先蹤を追ひてこれを切り給うべきかと聞きあげしに聖武天皇よりこのかた本朝の名品とて秘愛せらるるを切取るべきにあらず)と言って切らなかったと記す。
    創業記、東遷基業、烈祖成績、東大寺薬師院文書では切らなかったと記す。
  • 続いて自ら截り取ったとされるものでは、東大寺の旧記には、寛文3年(1663年)4月16日付で井上河内守及び加賀爪甲斐守宛に提出した書留に、慶長7年(1602年)6月11日に本多上野介と大久保石見守を使いとして名香を所望したと書かれているという。

    けふ東大寺の旧記冩をみるに、寛文三年四月十六日井上河内守加賀爪甲斐守に旧記を出せし書留をみるに、蘭奢待幷紅沈の名香を天正二年三月廿八日信長卿の御所望ありしことみゆ、これはよにもしる所にて、しかるに慶長七年六月十一日に 勅使烏丸辯(烏丸光広)参向にて御倉開封、奉行本多上野介大久保石見守允長者學光、名香御所望有増旧記に相見候、御倉之前ニ 勅使之御殿作事幷 勅使御馳走中坊飛騨守(奈良奉行中坊秀祐か)に被 仰付候事といふことみゆ、されは 東照宮も右之香を御所望ありしとみえし也

    慶長七年六月十一日に切しめ給ふ、勅使勸修寺殿、廣橋殿、柳原殿なり、奉行は本多上野介正純

    まず信長が所望した話を載せ、その後に慶長7年(1602年)の話を記す。この慶長7年が家康の指示によるものであろうとする。

  • 「武徳編年集成」では截らしめたとある。

    慶長七年六月十一日、神君奏聞ヲ遂ラル、勅使勸修寺右大辯光豊、廣橋右中辯總光、神君ヨリハ本多上野介、大久保石見守長安、南都東大寺ニ至テ、寶庫勅封ヲ兩辯是ヲ截テ戸ヲ開、黄熟香蘭奢待也ヲ截シム、香見柳原右少將業光也、中坊左近秀祐警護シ、幕下ノ歩卒十人監使タリ

    「烈祖成績」では、注釈に「家忠日記(追加)松榮記事竝曰、遣使截之、年譜但書開庫、不書截之、創業記所載頗詳、今從之、創業記曰、蘭奢待隠語、而其寶沈香精品黄色蘭也、亞之者曰紅沈、竝在敕封庫」と記す。

  • 「一木三名香之伝」(香道叢書)でも次のように書かれている。

    右東大寺正念院勅封之庫ニ在リ、元亀三年廿八日織田信長公経奏聞任先例一寸八分宛切玉フ、其後慶長七年六月十一日 神祖モ先例ニ倣ヒテ之ヲ切タマフ

  • 諸本で日付も一致しており、どうやら慶長7年(1602年)6月11日に截り取ったのが事実のようだ。
    徳川家関連では、この種の建前論を述べさせて神君や歴代将軍の人格を褒め称える記述があちこちに見られる。しかし東大寺旧記にも朝廷の勅使と幕府の奉行が訪れた旨がしっかりと書かれており、恐らくは勅封されている正倉院関連で幕府から何か重要な使いが送られたことは間違いないと思われる。
  • なお、この時に截り取ったものなのかは不明だが、東福門院和子(後水尾天皇の中宮。徳川秀忠の五女)所持という蘭奢待が尾張徳川家に伝来し、現在徳川美術館で所蔵されている。


 徳川綱吉

  • 截り取ったかどうかは不明だが、歴代将軍も興味をいだいていたことは確かで、家綱は寛文6年(1666年)3月に拝覧の上で修理を行った。
  • また綱吉は元禄6年(1693年)5月に黄熟香すなわち蘭奢待専用の唐櫃を収めている。※慶長17年(1612年)11月13日の調査では、蘭奢待は「鹿角但十六俣一本、紫壇二本、唐木二本、御弓但人形画有リ一張、下緒但啄木二筋、御幣、唐銅鉢大小七十八、華幔十掛」とともに大きな長持に収められていた。

    三倉御開封勘例に、寛文六年三月、權右少辯藤原資茂を勅使として、開封せしめらる、幕吏川口源兵衛檢使とし、土屋源次郎奉行たり、こは將軍徳川家綱、寶器と拝覧し、併せて修繕せんとを請へる故なるよし見え、また御開封記に元禄六年五月、御開封の事をいひて、今年三倉御開封之故者、寛文六年丙午四月三日、尾開封以來、至今年迄、凡年暦廿八年、故ニ御倉及破損之旨、從寺務宮、以南曹辯被經奏聞、則爲被加御修理、勅使、申下云々勅使權右少辯藤原輝光、幕員神尾飛騨守奉行、此時將軍徳川綱吉也

    〔蓋裏墨書〕
      三倉御修理従
      征夷大将軍右府源綱吉公
      被 仰付畢依之兩種御香
      内外櫃其外宝物小筥等
      新調被為寄附者也
       元禄六癸酉載八月七日
      御奉行兼検使
         従五位下神尾飛騨守藤原元知

  • さらに後、徳川家斉の時代には、この箱に錠前を付けてさらに管理を厳しくしている。

    天保四年の御開封御修繕なり、御開封記に、今年三倉御開封之故者、元禄六年登酉五月十六日(※つまり綱吉代の開封)、御開封以來、至今年百四十一年、故ニ御倉及破損之旨、從寺務宮、以南曹辯被經奏聞、則爲被加御修理、勅使申下、御開封之儀式被行う、十月勅使左少辯源俊明、下向、七年五月、工事訖、寶庫閉封、此時將軍徳川家齊、寶器箱寄附とあり、さてこの時も嚴重なりし事、何くれ記録ありて、町奉行は梶野土佐守良材といひし、古を好む人にして、穂井田縹助忠友ハ、この梶野に附從したりしが故に、正倉院四十五巻文書をも製せしなり、この御開封の時、忠友なかりせば、この御寶藏の古器、古文書、世間に發揮するとなからまし、實にその時、その人を得しは、この時なり、

 開封・修繕の歴史

  • 記録に残るもの。統一した記録があるわけではないため、年月が飛びがち。
  1. 宝亀10年(779年)12月6日:冶葛(やかつ)を東大寺正蔵に収む
  2. 延暦6年(787年)6月:御寶物曝涼
  3. 延暦12年(793年)6月:御寶物曝涼
  4. 延暦18年(799年)11月:御寶物曝涼
  5. 延暦21年(802年)11月:御寶物曝涼
  6. 延暦22年(803年)正月:御寶物曝涼
  7. 大同元年(806年)9月:雑物御出入
  8. 弘仁2年(811年)9月:御物の損廃
  9. 弘仁5年(814年):出入
  10. 弘仁8年(817年):出入
  11. 弘仁11年(820年):出入
  12. 弘仁13年(822年):出入
  13. 弘仁14年(823年):出入
  14. 天長3年(826年)9月:薬種を出す
  15. 斉衡3年(856年)6月:出入
    ※この後記録途絶える
  16. 延喜17年(917年):火災で講堂や僧坊が焼ける
  17. 長元4年(1031年):大風で勅封倉、南倉に被害
  18. 長暦3年(1039年):僧らが勅封倉を焼き宝物を盗む
  19. 長暦4年(1040年)9月僧長久、同類菅野清延と宝庫の銀を窺窃し捕縛
  20. 寛治4年(1090年)12月:權左中辯源基綱、美作守藤原行家を勅使とし黄金を検ぜしめる
  21. 嘉保2年(1095年):勅封倉、南倉の複数の倉が焼ける
  22. 嘉応2年(1170年)7月20日:後白河法皇と平清盛が東大寺戒壇院で受戒している。九条道家が開封したのはこの嘉応の先例によると言い、開封が行われたと思われる。
  23. 治承4年(1180年):平重衡(平清盛の五男)の南都焼討
    のち重衡は一ノ谷の戦いで捕虜となり鎌倉へと送られるが、同年6月には焼討を憎む南都衆徒の要求により引き渡された。その後、木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首された。享年29
  24. 建久4年(1193年)8月25日:源頼朝、正倉院修復。勅使右少辯藤原定経。大監物安倍泰忠。※平重衡の南都焼討後
  25. 建久5年(1194年)修復成、寶物を御倉に返納。この時、勧進上人重源が錫杖十枝を請い、与えられる。勅使は右少辯藤原資忠、随行は大監物小槻宿禰有頼。
  26. 寛喜2年(1230年)10月27日:盗人侵入。盗人顕識、同舎弟法師、并春密等を佐保山にて斬。奈良坂に(首を)懸ける。
  27. 同年12月宝庫点検。勅使右少辯平時兼、瑞光大監物中原師世。
  28. 嘉禎3年(1237年)6月:寶物を点検。勅使は藤原季頼、随行大監物守榮
  29. 延応元年(1239年)11月:九条禅定殿下道家、戒壇院にて授戒。嘉応(1169-1171)の例によりて宝庫を開き御物を拝覧す。勅使左少辯藤原顕朝、随行大監物丹波尚長。※嘉応2年(1170年)には後白河法皇と平清盛が東大寺戒壇院で受戒している
  30. 仁治3年(1242年)正月20日:先帝崩御、同3月18日当今(後嵯峨天皇)即位のために開封、王冠を召し上げらる。玉冠四頭、諸臣礼服冠26頭を取り出さる
    ※これよりさき勅封倉の鎰(かぎ)紛失し開封できなくなるが、鍛冶を召し鏘櫃を打ち破りぬという。勅使左少辯平時継、随行大監物丹波尚長。なお出した王冠類は模造した上で、同月式が終わると返納した。
  31. 建長6年(1254年)6月17日落雷。一寺大に騒動し万人群衆す。まず大勧進圓審に命じて中北兩倉の扉4枚を修理せしめ、北脇柱1本敷居などを造り替え。また下柱6本も造替。7月に右少辯藤原資定をして寶物点検。随行は少監物平久進。
  32. 正嘉2年(1258年)正月:摂政藤原兼経、東大寺にて授戒。このついでに寶物を拝覧す。勅使右中辯平高輔。
  33. 文応2年(1261年)9月:開封。勅使不明。後嵯峨天皇が南都に行幸し叡覧したためという。
  34. 弘長2年(1262年)8月:開封。1261年開封時に御袈裟を召し出したが、返納するため。勅使右少辯藤原資宣。
    ※後嵯峨院と記すが、出家して法皇となったのは文永5年(1268年)。
  35. 元中2年(1385年)8月:將軍義満、春日社に参詣。東大寺尊勝院に入り、宝庫の寶器を拝覧す。この時、近衛、二條、萬里小路などの諸公卿も同行。
  36. 永享元年(1429年)9月將軍義教、春日社に参詣。宝庫の寶器を拝覧す。勅使右少辯藤原豊明。
  37. 寛正6年(1465年)9月:室町殿(義政)春日社参詣、東大寺に入り寶物拝覧、御香(蘭奢待)召上らる。其香を截ること一寸四方ずつ、ニ箇なり、一は内裏に、一は將軍に、また五分四方を截りて一箇別当に献ず。両種御香同然。
  38. 天正2年(1574年)3月:参議織田信長拝覧、蘭奢待を截らる。但し紅沈香はきらず
  39. 慶長7年(1602年)6月:内大臣徳川家康、宝庫を修繕し寶器を点検す。勅使左少辯藤原總光、右大辯藤原光豊等をして開封せしめらる。辛櫃裏に「御修理從征夷大將軍右府家康公被仰付、造立銀、長持三十櫃、被御寄附者也」
  40. 慶長15年(1610年)7月:大風吹きて大佛殿假屋倒る。当時三僧自身出て材木などを取り置きしが、其の奉行は福蔵院、北林院、中證院兩三人これを勤むるに、この三人宝蔵の下にしば々行て、ここを切破り、庫内の寶物を盗まむ事をかたらひ、北の藏下を破りて入ぬ。その後慶長17年3月になり不思議なる寶物所々より出て枯却するよし上生院清涼院内に聞き及びければ、寶物を点検した所、奈良の代官を通じて板倉伊賀守に注進、それが駿河に居た大御所家康の耳に入り、盗人三人は閏10月21日に召し捕られ、24日に京都所司代(板倉)の前に引き出され、(中證院は慶長18年4月に籠中で死亡)慶長19年2月17日に籠から引き出され成敗なされぬ。その後慶長17年(1612年)霜月12日に柳原殿四聖坊に下向して寶物を点検す。
  41. 寛文6年(1666年)3月:徳川家綱、權右少辯藤原資茂を勅使として開封せしめる。宝庫を修繕。
  42. 元禄6年(1693年)5月:徳川綱吉により開封。勅使權右少辯藤原輝光。辛櫃の書付に「三倉御修理、従征夷大将軍右府源綱吉公、被仰付畢、依之兩種御香、内外櫃、其外宝物小筥等、新調被為寄附者也」とあり。7月中旬に修理終わり、8月7日に御閉封使右少辯藤原有富赴きたり。
  43. 享保7年(1722年)10月:御宝庫開閉のゆえよし、公武の間よりお尋の事あり。
  44. 天保4年(1833年):開封修理。元禄6年(1693年)以来141年。10月に勅使左少辯源俊明下向。10月18日開封。七年五月、工事訖、(6月20日)寶庫閉封、此時將軍徳川家齊、寶器箱寄附とあり。
  45. 明治5年(1872年)8月:宮内少丞世古延世を勅使としてはじめて宝庫を開封せしめ、数千点を点検。文部大丞町田久成、同六等出仕内田正雄などを同行。
    ※この時「水龍剣」を取り寄せられ、そのまま手元に留め置いた
  46. 明治8年(1875年)3月:宮内大丞香川敬三を勅使として開封。
  47. 明治9年(1876年)2月:奈良博覧会場に御物陳列せん事の陳情あり、これを許され同年3月に宮内権大丞堤正誼を勅使として開封。同年12月に至りて内務卿大久保利通の議により内務省属博物館に入れ博物展を開く旨進言あり。
  48. 明治10年(1877年)2月:(明治天皇)車駕奈良に行幸し給い、宝庫の寶物叡覧す。この時、蘭奢待を截りて御料に供せらる。これより先、1月に勅使宮内少丞櫻井純造を以て開封の勅使となし、内務大書記官町田久成、同少食感岡谷繁實とともに奈良に往き、あらかじめ寶器を點撿せしむ。六月に至りて、寶庫を修繕し、十月にいたり避雷柱、及び消防器械を設けられたり、但し堺縣令税所篤か請へるによりてなり。
  49. 明治11年(1878年)3月に宮内権大書記官兒玉愛二郎を勅使として開封。これは先の修復落成し、寶器を宝庫に収めしものなり。この時、堺縣令税所が請願し、前年の如く拝観の機会を与える旨請願があり、許される。
  50. 明治12年(1879年)6月:大蔵大書記官得能良介、宝庫の御物ども古文書類の拝観を願う。勅使宮内権少書記官岡保義をして開封せしめる。内務大書記官町田久成、その寶器及び古文書類を出納しぬ。7月に至りて宮内大書記官山岡鉄太郎、閉封の勅使として行向う。
  51. 明治12年(1879年)8月香港鎮台ヘンネッシー、京都及び大阪を巡遊する時、宝庫の御物を拝観せんと請い許される。(山岡)鉄太郎をしてみちびかし給う。
  52. 明治12年(1879年)11月:独逸ハインリヒ皇孫(ハインリヒ・フォン・プロイセン。ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の孫)の拝覧願いにより開封。勅使堺縣大書記官吉田豊文。
  53. 明治13年(1880年)1月:内務卿伊藤博文、宝庫の中に稠棚を設け、寶器を置き連ねんことを願い、許される。勅使をして開封せしめらる。
  54. 明治13年(1880年)2月位:伊国皇族シユック・ドシエースが請願、許される。宮内大書記官香川敬三勅使。
  55. 明治13年(1880年)5月:奈良博覧会場に御物を陳列。
  56. 明治14年(1881年)3月:法隆寺所蔵の寶物数百点が献納されてが、これも同様に博覧会場に陳列することを大阪府知事建野郷三より請願。
  57. 明治13年(1880年)4月:博物局を農商務省に管轄替。図及び書類は内務省、開閉は宮内省へと三省分掌体制となる。
  58. 明治13年(1880年)11月:英国皇孫プリンス、アルベルト、プリンス、ジョルジの請願により開封。東伏見宮嚮導、宮内権少書記官長崎省吾随行、農商務権少書記官石原豊貫、寶物出納のことに預かりぬ。
  59. 明治15年(1882年)8月:外門、塀などの経営。宮内権少書記官麻見義修、10月に庫内の棚架落成。農商務准奏任御用掛黒川真頼をして宝庫入御物の目録を整頓せしめる。ついで農商務省大輔品川弥二郎が庫内検閲。
  60. 明治16年(1883年)2月:孛国(プロイセン王国)貴族クラーフェルモノトケラス、拝覧の請願あり許される。
  61. 明治16年(1883年)6月:右大臣岩倉具視、参議井上馨等の拝観請願、許される。宮内卿徳大寺実則が開封の勅使。
  62. 明治16年(1883年)7月:宮内卿徳大寺実則及び農商務卿西郷従道、内務卿山田顕義等連署して、毎年1回宝庫を開き曝涼を請願し、許される。
  63. 明治16年(1883年)7月:大阪府知事建野郷三より請願により、宝庫の守衛を厳重にして巡査を附す。
  64. 明治16年(1883年)10月:徳大寺実則等の議を施行。以後、曝涼を例年行う。
  65. 明治17年(1884年)4月:宮内卿伊藤博文、農商務卿松方正義、内務卿山縣有朋等請願により、宝庫を宮内省に属せしめらるる事になりぬ。
  66. 明治17年(1884年)5月:太政大臣三条実美の請願により開封。
  67. 明治17年(1884年)9月:宮内大書記官山口正定を勅使として開封し、庫内に収めらるる所の宝剣三口を出し、侍従富小路敬直をして携え得らしめ給ふ。而してこれを供し奉る。
  68. 明治18年(1885年)6月:宮内卿伊藤博文の請願により拝観。聖旨を奉りて、宝剣をことごとく携え帰りて供し奉る。
  69. 明治18年(1885年)7月:宝庫の主管を図書寮に属せらる。
  70. 明治18年(1885年)10月:佛国特派全権大使コーゴルタン、宝庫の御物拝観を請願し、許される。宝庫の火除地として東大寺塔中會所坊、金珠院跡、民有地など併せて2583坪を買い上げて付属地とし、さらに外門及び塀などを修築。

 その他所蔵

 徳川美術館所蔵

香木
銘 蘭奢待
十種名香の内

 永青文庫所蔵

香木
蘭奢待
細川家伝来

 厳島神社所蔵

香木
蘭奢待

  • 天正2年(1574年)に織田信長が截り取った一片は、朝廷に献上され、さらに天正3年(1575年)5月毛利輝元へと下賜された。輝元が8月25日厳島神社に奉納したもの。




  • 名香にまつわる逸話。

 一木三銘香(いちぼくさんめいこう)

 翁草

  • 一本の伽羅(香木)に対して、3つの銘が付けられたという、神沢杜口が著した「翁草」の「細川家香木」に載る故事。
  • それによれば、ある時細川三斎こと細川忠興は、珍器を求めるために長崎に家来・興津弥五右衛門とその相役・横田清兵衛の2名を遣わしたという。ちょうど伽羅の大木が入っており、本木と末木の2つがあり、ここでいずれを買うべきかについて興津と相役横田が口論となってしまう。というのも、この時仙台藩伊達家の家来も珍器調達に長崎に来ており、同じ香木に目をつけたために競り合いになって高値になっていたためである。
  • 相役横田は、伊達家のこともあり値段も高くなってしまったため末木にしようというが、興津は譲らず、遂に横田を討ち果たして本木を購入する。興津は肥後に帰国し、三斎に事の次第を報告し切腹を願い出た。ところが三斎は、奉公のために討ったのであれば切腹すべき理由がないとして、相役横田の息子を呼び寄せ三斎の前で盃を酌み交わさせて意趣を残さないよう申し付けた。しかし三斎の死後、責任を感じていた興津は山城・船岡山の西麓で殉死をしてしまう。
  • 三斎はこの伽羅に初音僧正の古歌を引き「初音」と名付けたという。

    きく度に珍しければ時鳥いつも初音の心地こそすれ

  • 寛永3年(1626年))丙寅9月6日に、二条城に後水尾天皇の行幸があり、この時に肥後少将細川忠利に名香をご所望になられ、忠利が献上すると、天皇は「白菊」と名付けた。

    たぐいありと誰かはいはん末匂ふ秋より後の白菊の花

  • また伊達政宗は、藩士が末木を買って帰ってきたことを残念がるが、名香であったため政宗はこれに謡曲「兼平」の詞から「柴舟」と名付けている。

    世の中の憂きを身につむ柴舟やたかぬさきよりこがれ行くらん

  • つまり、元は一木であった香木のうち、本木は三斎が「初音」、献上後に後水尾天皇が「白菊」と名付けられた。また末木の方は仙台藩へと入り政宗が「柴舟」と名付けたという話になっている。

 伊達家

  • 伊達家での伝来では、寛永3年(1626年)9月に上洛した際に細川忠利から購入したのだとする。
  • 政宗は寛永3年(1626年)12月、この「柴舟」を伊達忠宗に贈っている。

    其元に而約束申候伽羅、遣申候、か様之ハ稀にて候、
    心よハく、むさと人に遣間敷候、
    名者柴舟と付申候、かね平之うたいに、
    うきを身に積柴舟のたかぬさきゟこかるらん、たかぬさきゟ匂と云心にて候、
    よびこゑハよくなく候へども、恐惶謹言、
      極月朔日 政宗(花押)
       松越前守殿
    (松平伊達越前守宛書状)

  • 政宗はこれ以外にも、伊達秀宗(宇和島藩初代)、五郎八姫を始めとして、近衛信尋、一乗院尊覚法親王、聖護院道晃法親王、西洞院時直、将軍家光などに贈っている。
五郎八姫
承応2年(1653年)に、五郎八姫が法身禅師の木像に納めたものが遺品として瑞巌寺に伝わっている。「法身像胎内納入資料 五郎八姫納入品」
伊達秀宗
秀宗に贈ったものは、宇和島伊達文化保存会所蔵。
家光
寛永12年(1635年)1月16日献上。

十六日仙臺中納言政宗卿より。柴舟といふ名香を獻りければ。御手書を賜はる。

一乗院尊覚法親王
寛永11年(1634年)8月6日。同年8月、近衛信尋に「むさし野」を贈ったのが話題になったのか、弟の尊覚法親王および道晃法親王に「柴舟」及び「太子屋」を贈っている。

六日、己丑。尊覚親王道晃親王へ名香各兩種、御書を以て進上せらる、御返書を賜ふ、

近衛信尋は後陽成天皇の第四皇子。母は中和門院(近衞前久の娘)で、同母兄弟に第三皇子・後水尾天皇、第七皇子・高松宮好仁親王、第九皇子・一条昭良、第十皇子・一乗院尊覚法親王がいる。第十一皇子・道晃法親王の母は後陽成天皇の妃・古市胤子(三位局)。
  • なお、加賀藩前田家も登場する逸話もある。それによれば、三斎が手に入れた一本の名香を3つに分割し、細川家伝来のものは「白菊」、伊達家伝来のものは「柴舟」、そして前田家伝来のものを「初音」と各家で命名したという。

 森鴎外

  • 鴎外はこれを興津弥五右衛門の遺書と言う形で著述し、乃木希典の遺言状を元にしてアレンジしている。
    「翁草」で”万治寛文の頃”・”三回忌”としている興津の殉死を、万治元年(1658年)の13回忌としたほか、肥後熊本への転封は寛永9年(1632年)であるため杵築城と修正するなどしている。

 一木四銘(いちぼくしめい)

  • この「一木三銘香」には異説が多く、混乱がある。

 「藤袴」

  • 上記一木三銘香の逸話に、さらに宮中で「藤袴」(あるいは蘭とも)という別銘を付けた話を加えたもの。

    ふじばかまならぬ匂いもなかりけり花はちぐさの色変われども

    ただし、「白菊」を伝後水尾天皇勅銘とする場合もある。

Amazonプライム会員無料体験