東大寺献物帳


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 東大寺献物帳(とうだいじけんもつちょう)

天平勝宝8年(756)から天平宝字2年(758)の間に東大寺の盧舎那仏に品々を献じた際の献納品の五巻からなる目録
それぞれ、巻頭の記載内容などから国家珍宝帳種々薬帳、屏風花氈等帳、大小王真跡帳、藤原公真跡屏風帳とよばれている。
東大寺正倉院北倉に伝来する

  • 光明皇太后が、聖武天皇の遺品の数々を正倉院に納めた際の目録。
    聖武天皇は、天平勝宝元年(749年)7月2日、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位し太上天皇となっている。天平勝宝4年(752年)4月9日、東大寺大仏の開眼法要を行い、天平勝宝8年(756年)5月2日に崩御。
     「光明皇后」は通称。生前は光明子と呼ばれ、自らは「藤三娘(とうさんじょう)」と署名している。天平元年(729年)に立后。天平宝字2年(758年)8月1日に「天平応真仁正皇太后」の尊号を受ける。
Table of Contents

 概要

  • 聖武天皇の七七忌(なななのかき)(四十九日)にあたる天平勝宝八歳(756年)6月21日、国家珍宝帳および種々薬帳が収められた。
  • 続いて、7月26日には屏風花氈等帳、天平宝字二年(758年)6月1日の大小王真跡帳、天平宝字二年(758年)10月1日には藤原公真跡屏風帳がそれぞれ収められた。
  • これらの品々を納めた2年後、天平宝字4年(760年)6月7日に光明皇太后は崩御した。


 屏風花氈等帳(びょうぶかせんとうちょう)

  • 天平勝宝八歳(756年)7月26日。
  • 屏風や花氈など、聖武天皇と自ら(光明皇太后)の愛用品を東大寺大仏に追納した際の目録。
  • 正倉院北倉 159
  • 屏風花氈等帳 - 正倉院

 大小王真跡帳(だいしょうおうしんせきちょう)

 藤原公真跡屏風帳(ふじわらこうしんせきびょうぶちょう)

  • 天平宝字二年(758年)10月1日。
  • 光明皇太后が、父である藤原不比等の書を屏風仕立てにしたものを納めた時の目録。
  • 正倉院北倉 161
  • 藤原公真跡屏風帳 - 正倉院




 正倉院の一般公開

  • 正倉院は天皇の持ち物であり、長らく一般人が中を見るのは当然の如くできなかった。
  • 信長(当時は従三位・参議)が蘭奢待を望んだとされる際にも、帝の許可がなければ開けることはできないと断られ、都に許可を取ったという。

 明治期:限定公開

  • 明治時代には、有位帯勲者や海外の来賓などごく一部の許可を得た者を対象に観覧が許されていた。

 大正期:民間篤志家

  • この状況が変わったのは大正期に入ってからで、大正6年(1917年)12月に帝室博物館総長兼図書頭に命じられた鴎外森林太郎が、明治22年(1889年)から年に一回秋に行われていた虫干しにあわせて、民間篤志家(研究者)にも公開するよう働きかけたことがきっかけとされる。

    正倉院御物の秋季曝涼中、一定の資格者に拝観を許されるのは、明治四十三年からの事である。資格の制限は厳しいが、別に大正九年、特別拝観の道が開け、一定の標準によつて、無格者にも之を許される事になつた。正倉院は帝室博物館の所管だが、時の博物館總長は森鴎外、奈良博物館長は久保田鼎、宮内大臣は中村裕次郎男だつた。皆故人である。私(高田十郎)も新納忠之介氏の觀めで出願し、幸に許されて初めて此寶の山に入つた。後に聞くと、此年此特典に浴したのは、全國で唯二人、私の外に關東に一人あつたさうだが、名は未だ分らない。

    高田十郎は明治~大正期の教育者・民俗学者。兵庫県赤穂郡の光葉久吉の子として生まれるが、高田しづ江と結婚して高田姓となる。明治38年(1905年)早稲田大学高等師範部歴史地理科に入学し、同40年に卒業。奈良県師範学校教諭、私立正気書院、奈良県巡査教習所講師、私立育英学校講師などを兼ねた。「大和名所案内」や「奈良県風俗誌」の編纂委員を務め、大和考古学会を設立して幹事となっている。上記第1回の正倉院御物特別拝観以後、7回参加したという。著書として、「奈良百話」、「随筆民話」、「奈良随筆」など。

  • この時期正倉院は、上野の帝室博物館の管轄下にあった。鴎外はこの仕事に心血を注ぎ、大正11年(1922年)7月に現職のまま亡くなるまでの間、大正7年(1918年)~大正10年(1921年)まで毎年秋に奈良に赴き、調査や修理の監督、博物館の指導などにあたった。
  • 鴎外の正倉院訪問は、秋の開封および、大正11年(1922年)に来訪したイギリス王太子(後のエドワード8世)の英国皇太子拝観と合わせて5度に渡った。
    元々は皇太子時代の昭和天皇が大正10年(1921年)3月~9月の間に訪欧しており、当時同盟国であったイギリスにも立ち寄って英国王ジョージ5世や英国首相デビッド・ロイド・ジョージらと会見している。この時バッキンガム宮殿で晩餐会が開かれ、王太子エドワードとも会談している。この返礼として大正11年(1922年)4月に来日したものである。
     1936年に即位したエドワード8世は、2022年に崩御した女王エリザベス2世の伯父であり、いわゆる「王冠を賭けた恋」の主でもある。
  • このときに奈良で鴎外が利用した官舎の門だけが残っており、現在は奈良国立博物館北隅の散策道の一角に「鴎外の門」として残っている。
    官舎は昭和20年(1945年)代に取り壊され門だけが残っていたが、平成11年(1999年)に周辺の散策道が整備されたのに合わせて修理され、銘板が建てられた。揮毫は当時の大安寺貫主・河野清晃による。
  • ただこの時期はあくまで研究者が対象であり、それもかなり限定された者が対象となっていたに過ぎなかった。

 昭和期:一般公開

  • 正倉院宝物は、第二次世界大戦中に戦火を避けるため奈良帝室博物館に保管されていたが、昭和21年(1946年)に正倉院に戻そうとした際に奈良市民からの「戻す前に一度見せて欲しい」との嘆願に応えて、一度きりの展覧会「正倉院御物特別拝観」を開いた。すると長蛇の列が博物館を取り巻き、入場まで半日以上かかる大盛況となった。

    昭和二十一年秋、戦後の混乱と耐乏生活のさ中に第一回展を開催した「正倉院展」は、戦火からの罹災を避けるため、奈良帝室博物館の収蔵庫に疎開していた正倉院宝物の校倉返納に先立つ一般公開であった。(略)文化に飢え、文化の一端に少しでも触れたいと願う人々は、入館を待って日没後までなお長蛇の列をなし、観覧時間を延長することもしばしばであったという。

    一日最高一萬三千人──二十二日間に十五萬三千四百六十六人という人波をあつめてまるでお祭り騒ぎであつた正倉院特別展観も無事閉幕ガツチリおろした鉄扉に嵐のすぎた跡のような淋しさを冷くただよはせた奈良帝室博物館の假倉内に、他の同僚出陳御物三十二點とともに千二百年來眠つてゐた正倉院本倉へ歸り納まる日を待つている。
    (略)
    思へば長い日陰の脇道中であつた。「正倉院御物いよ々公開」と御勅許が發表されたのはこの九月中秋明月の頃であつたらうか。それは今春いちはやくも總會の決議に「正倉院の公開」を決議、六月八日宮内省へ陳情した奈良縣觀光協會の一投石が在來一部有位帯勲者に限られた正倉院を大衆の前に公開する導火線となつたのであるが──この二十二日の顔見世は愉しくもありまた随分氣疲れな道行きでもあつた。

  • 敗戦直後の打ちひしがれた空気の中で「生きる希望や力をもらった」という声が寄せられ、翌年以降も正倉院展を開くことになったという。
    正倉院展は、上記の通り第1回が奈良帝室博物館で行われたが、過去数度(昭和24年、昭和34年、昭和56年)だけ東京で開催されている。正倉院展は、2023年11月で75回を数えた。

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