烏丸光広


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 烏丸光広(からすまみつひろ)

江戸時代前期の公卿・歌人・能書家
正二位権大納言
号 烏有子、腐木

Table of Contents

 生涯

  • 天正7年(1579年)に准大臣烏丸光宣(儀同三司光宣)の長男として生まれる。
    烏丸光康は烏丸冬光の次男で、足利義晴に仕えた。子の烏丸光宣の正室には12代将軍足利義晴の娘(義昭の姉)を迎えており、将軍家との関係は親密であった。特に義昭の節朔衆として、子の光宣共々、度々登場している。しかし光宣の正室であった義晴娘が産後の肥立ちが悪く死去すると光宣は蓄電してしまい、烏丸家は閉門処分となってしまう。まもなく処分は解け出仕が認められている。
  • 正室は鶴姫。
    江戸重通の娘で結城晴朝の養女。結城秀康の未亡人。烏丸光宣が准大臣になるのは慶長16年(1611年)11月17日。「權大納言正二位藤光宣、六十二賀茂傳奏、十一月十七日叙従一位、同日任准大臣」。その4日後、死去。「二十一日、准大臣従一位烏丸光宣薨ズ」。
  • 光広は天正9年(1581年)、わずか3歳で従五位下に叙され、さらに弁官や蔵人、慶長4年(1599年)には従四位下蔵人頭を経て、慶長11年(1606年)1月参議に任じられて公卿に列している。

    (慶長4年6月27日)藏人烏丸光廣、丹後宮津に遊ぶ、是日、長岡幽齋(玄旨)、和歌會を張行す、

  • この間、慶長5年(1600年)には細川幽斎から古今伝授を受けている。
  • その後も昇進し、慶長13年(1608年)には従三位、翌年には 左大弁に遷任している。
  • しかし慶長14年(1609年)に猪熊事件(侍従猪熊教利による女官密通事件)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙り、官を止められて蟄居を命じられた。

    (7月4日)是より先き、典侍広橋氏、権典侍中院氏、掌侍水無瀬氏、唐橋氏、命婦讃岐等と、烏丸光広、大炊御門頼国、花山院忠長、飛鳥井雅賢、難波宗勝、徳大寺実久、中御門「松木」宗信等姦淫の事露る、是日勅して広橋氏以下を、各、其家に錮し、光広以下の官位を停む、

    (11月7日)家康、叡旨を奉じ、花山院忠長を蝦夷に、飛鳥井雅賢を隠岐に、大炊御門頼国、中御門「松木」宗信を薩摩に、難波宗勝を伊豆に流し、烏丸光広、徳大寺実久の罪を宥す、

  • 慶長16年(1611年)4月に勅免されて還任し、慶長17年(1612年)に権中納言に転任して翌年に正三位に昇叙。

    (慶長16年4月1日)前参議烏丸光広、前右近衛権少将徳大寺実久の罪を赦して、其官を復す、

  • 元和2年(1616年)2月には権大納言に進み、同6年(1620年)1月正二位に昇った。
  • 寛永15年(1638年)7月13日に薨去。享年60。法名 法雲院泰翁宗山

    権大納言正二位烏丸光広薨ず、

 公武の交渉担当

  • 後水尾上皇からの信任厚く、公武間の連絡上重要な人物として事あるごとに江戸に下り交渉を行った。

 文化人

 和歌・古今伝授

  • 光広は和歌や書を得意とし、細川幽斎から古今伝授を受けた二条派歌学を究め、将軍・徳川家光の歌道指南役をも勤めている。

 茶道

  • 名物茶器を含む茶器も所持している。

      烏丸殿
    一、香炉 付 香合 ホテイ
    一、肩衝 北野
    一、墨跡 無準
    一、天目
    (天正名物記)

 著作

 古筆鑑定

  • 光広は古筆の鑑定にも長けており、自ら古筆の蒐集もしていた。手鑑や茶会の床の掛物として古筆切の鑑賞が盛行すると、その筆者が誰であるのかということが重要になり、古筆鑑定の需要が生まれた。当初古筆鑑定を行うものは大村由己、鳳林承章のほか烏丸光広もこれに携わっていた。
    古筆了佐(こひつ りょうさ)
    光広の古筆鑑定を継いだのが後に古筆了佐(こひつ りょうさ)と名乗る平沢弥四郎である。弥四郎は父の宗休とともに烏丸光広に入門して和歌を学んだ。同時に古筆鑑定についても学び、のち秀次より「古筆」の姓を名乗るよう命を受け、古筆鑑定を生業とする古筆家初代となる。

    鳳林承章(ほうりん じょうしょう)は勧修寺晴豊の六男。鹿苑寺住持、相国寺九十五世。

 交流

  • 本阿弥光悦や俵屋宗達など江戸の文化人と交流があり、また、清原宣賢に儒学を学び、沢庵宗彭・一糸文守(いっしもんじゅ)に帰依して禅をも修めている。
    清原宣賢は公家で学者。吉田兼倶の三男で、のち明経博士だった清原宗賢の養子となる。正三位少納言。娘の智慶院は三淵晴員に嫁いで細川藤孝(幽斎)を産んでおり、もうひとりの娘清原マリアは細川家に奉公して明智珠(後の細川ガラシャ)の侍女となり、洗礼を授けている。
  • 「細道屏風」をはじめとした俵屋宗達作品の賛を書いている。「吉備大臣入唐絵巻」には奥書を残す。

 平将門

  • 寛永3年(1626年)勅使として江戸にいた光広は平将門の伝説を知り、帰京して天皇に「将門は朝敵に非ず」と奏上。これにより、将門は朝敵の汚名を返上した。

 遊郭通い

  • 光広は屋敷の前を通る牛飼を事あるごとに止め、その牛を雇って遊郭に通っていた。しかも、車の上に毛氈を敷き、酒肴を設けて自若として通っていたという。

 系譜

【日野家】                ┌日野富子 ┌冬光
日野資康─┬日野重光─日野義資─日野重政─┴日野勝光─┴日野政資─日野内光
     └烏丸豊光─烏丸資任─烏丸益光─烏丸資敦─烏丸勝光━烏丸冬光─┐
      【烏丸家】                         │
┌───────────────────────────────────┘
│
│                
│                ┌─六角広賢…【高家六角家】
└─烏丸光康烏丸光宣烏丸光広─┴─勘解由小路資忠…【勘解由小路家】
              ├────烏丸光賢──裏松資清…【裏松家】
            村上頼勝娘    ├──┬烏丸資慶────┬─烏丸光雄
             細川忠興 ┌─まん  └やや(正受院) └─房(松井直之室)
               ├──┴─細川忠利  │
             明智玉子    ├──細川光尚─┬細川綱利
              小笠原秀政─千代姫      └細川利重

 嫡男:中納言烏丸光賢

  • 母は、父烏丸光広の側室である村上頼勝の娘。
    村上頼勝は、丹羽長秀、秀吉などに仕えた武将で、堀秀政の与力を経て堀秀治に仕える。堀秀治の越後転封に従い越後本庄城(村上城)9万石を与えられる。秀吉薨去の際、左文字を与えられている(村上周防守)。関ヶ原では東軍に与して本領安堵され、越後村上藩主となったが、子の村上忠勝の代に改易された。
  • のち細川忠興の娘まんと結婚し、烏丸資慶を産んでいる。
    なお烏丸光賢の娘ややは、従兄の肥後熊本藩第2代藩主・細川光尚に嫁しており、烏丸家と細川氏の縁戚関係は深い。

 次男:六角広賢

  • 六角を名乗る。
  • 正妻は桂昌院の異母兄である本庄道芳の養女で、さらに広賢の長男である六角広治は正室として本庄宗資の娘(桂昌院の兄系)を娶り高家六角家初代当主となった。
         ┌─勘解由小路資忠【勘解由小路家】
         ├─烏丸光賢【烏丸家】
    烏丸光広─┴─六角広賢【高家六角家】
            ├────六角広治
    本庄宗正─┬─本庄道芳養女 ├───六角広豊
         ├─本庄宗資─┬─娘
         │      ├─松平資俊(松平本庄家)
         │      └─牧野康重
         │
         └─桂昌院(玉)
            ├────徳川綱吉
           徳川家光
    
    

 子:資忠

  • 藤原北家日野流・勘解由小路家を興した。

 関連項目


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