松平忠輝


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Table of Contents

 松平忠輝(まつだいらただてる)

徳川家康の六男
母は茶阿局
幼名辰千代
従五位下上総介、従四位下左近衛権少将
越後少将

 所持道具

  • 忠輝は、次の刀や笛を所持したと伝わる。
三日月正宗
武田家が滅びた後、家康より拝領。のち水戸家へ伝わる。
星月夜正宗
同様に武田家滅亡後に拝領。のち水戸家へ伝わる。
式部正宗
将軍家より拝領、のち松平大和守家へ伝わる。
無布施経真長
二尺五寸三分。のち前田家に伝来した。
波泳ぎ兼光
小早川秀秋ののち家康より拝領されたのか所持しており、のち立花家に伝来した。
油小路忠吉
諏訪大社に寄贈され、その後盗難された油小路忠吉。寛文7年(1667年)に諏訪大社に寄進したという。詳細は綱切丸の項を参照 ※綱切丸自体は忠輝寄進ではない。
乃可勢
織田信長愛用の一節切。豊臣秀吉、徳川家康と伝わり、家康が死期に際して茶阿局を介し忠輝に形見として託したという。諏訪市の貞松院に現存し、同市の有形文化財に指定されている。

 生涯

  • 天正20年(1592年)1月4日江戸城にて誕生。生母は家康側室の茶阿局。

    神君御鷹野の時、母子、夫父の敵を御詮議被レ下候様にと申上る。彼母子を上意にて駕篭に乗て岡崎城に帰御也、彼寡女御寵愛に依て男子二人を産す、松千代・辰千代君と号、双子也、松千代は御早世、辰千代君は後二十五万石を領し、上総介左少将忠輝卿と号す。

  • 一説に容貌が特異であり実父家康に嫌われたという。

    世に伝ふるは介殿(※忠輝)生れ給ひし時、徳川殿(※家康)御覧じけるに色きわめて黒く、まなじりさかさまに裂けて恐しげなれば憎ませ給ひて捨てよと仰せあり(藩翰譜)

  • 捨て子のしきたりで側近本多正信に拾わせ、下野栃木長沼城主皆川広照に預けられて養育された。
  • 慶長3年(1598年)に家康と面会。
    • 家康はこの時にも恐ろしき面貌といったという。

      恐ろしき面魂かな、三郎が幼かりし時に違ふところなかりけり

      面貌怪異、三郎ノ稚顔ニ似タリ

      三郎とは、家康の嫡男で自害させられた(岡崎三郎)松平信康のこと。生母は築山殿。なお同様に双子説があるという結城秀康も嫌われたという話が残る。当時の風習で畜生腹(あるいは畜生孕:ちくせうはらみ。盛胎、垢胎、狗兒胎。)と呼んで忌み嫌った時期があった。

  • 慶長4年(1599年)1月、家康の七男同母弟の松千代が早世、その後を受けて長沢松平家の家督を相続し武蔵国深谷1万石を与えられる。
    長沢松平家は長沢城を本拠とした松平家の庶流で、十八松平のひとつ。家康の従兄弟松平康忠が徳川十六神将の一人に数えられる。文禄2年(1593年)にこの康忠の子である松平康直が嗣子無きまま病没したため、まず家康の七男・松千代を養子とした。しかし松千代が夭折したため、松千代の同母兄である家康六男の松平忠輝が養子となった。ただし松千代を経由せず、忠輝が直接継いだとする説もある。
     なお長沢松平家の庶流として、松平清直は松平忠輝の付家老を務めている。また弟の松平正世も忠輝に仕えたが、忠輝改易後は越前松平家に召抱えられ、子孫は越前国福井藩重臣の松平主馬家として存続した。

 元服

  • 慶長7年(1602年)に元服して上総介忠輝を名乗る。12月下総国佐倉5万石に加増移封される。

    是より先、徳川家康、常陸水戸を上野館林の榊原康政に與へんとす、康政、固辭するに依り、下總佐倉の武田信吉を水戸に移し、武藏深谷の松平忠輝を佐倉に移封す、

  • 上総介忠輝は武術を好み、騎射人に勝れたという。

    辰千代君は後に従四位下上総介忠輝卿と号す、此人素行行跡実相強、騎射人に勝れ、両腕自然に三鱗有り、水練の妙神に通ず、故淵川に入て蛇竜、山谷に入て鬼魅を求め、剣術絶倫化現の人也

  • 慶長8年(1603年)2月、信濃国川中島12万石に加増移封される。また育ての親である皆川広照を飯山城に入れている。

    家康の第六子忠輝を下總佐倉より信濃松城に移し、十二萬石を與ふ、

    幕府、下野皆川城主皆川広照を、信濃飯山城に移し、松城「松代」城主松平忠輝の傅と為す、

 従四位下左近衛権少将

  • 慶長10年(1605年)4月11日、従四位下に叙し左近衛権少将に任じられる。

    松平源忠輝 慶長十年四月十二日従四位下右少将

    四月十一日、天晴、禁中へ乍父子参了、将軍御末子上総介殿御参内了、四足門ヨリ也、鬼間ニ入給、(略)今日従四位下右近少将拝任也、實名忠輝、十二三歳計也

    四月十一日、晴、今日大樹息松平上総介忠輝昇殿、被任叙従四位下少将、

    ただし、忠輝は生涯を上総介で通したという。

  • 慶長10年(1605年)5月に秀忠が征夷大将軍宣下。家康は、大坂城の秀頼に秀忠に対して挨拶するよう運動するが大坂方が拒否したため、やむなく5月10日に忠輝を大坂城に遣わしている。

    是より先き、家康、高台院浅野氏を以て、秀頼の上洛を促す、生母浅井氏聴かず、為めに訛言あり、是日家康、第七子忠輝を大坂に遣し、秀頼を訪問せしむ、

    五月八日、是日神君ヨリ高台院(ねね)湖月尼公ヲ以テ、秀頼ノ上洛ヲ催サル、母堂淀殿一圖許容ナシ、巷説ニ福島加藤等、秀頼ノ上京ヲ静止スル旨必干戈起ルヘキ歟ト、洛商等危殆ヲ懐クト云々、
    十一日、台徳公ノ御名代トソ、少将忠輝朝臣大坂ニ赴ク、秀頼厚ク饗ス

  • 慶長11年(1606年)12月24日、忠輝は伊達政宗の長女・五郎八姫を正室として娶る。

    同年十二月廿四日、政宗川中島少将殿へ婚禮仕候、與伊達安房成實、貝桶原田甲斐宗次役仕候、此節政宗家来伊達右近定宗等十餘人、台徳院様へ御目見、御腰物御時服等拝領仕候

  • 慶長14年(1609年)10月、附家老として付けていた皆川広照及び山田重辰、松平清直が、忠輝粗暴に付き家康に訴えでたため忠輝も駿府に駆けつけた。この時家康は忠輝の言葉を容れて逆に広照らが家老として不適格だとし、山田を切腹、皆川を改易(智積院にて謹慎、剃髪)、清直を減封とした。※忠輝が越後高田に移封されると、清直は再び再任され5千石を与えられた。

    是より先き、松平忠輝の老臣皆川広照山田重辰等訴ふるところあり、是日、家康之を裁し、重辰に切腹を命じ、広照及び松平清直を改易に処す、

  • 慶長15年(1610年)閏2月、越後高田藩主(越後福島城)に任じられ、川中島12万石とあわせ計75万石の太守に任じられた。4月4日に五郎八姫移徙。※石高は、実際には信州14万石と改易された堀忠俊遺領45万石の約60万石と見られている。

    家康、信濃松城「松代」城主松平忠輝を越後福島城に移す、川中島の封地故の如し、

    • 慶長18年(1613年)4月、付家老・大久保長安が中風(脳卒中)で死ぬと「多数の財宝を横領していた」として大久保家は闕所となる。
  • 慶長19年(1614年)3月居城を高田に移している。前田利光(利常)、上杉景勝、蒲生忠郷、伊達政宗、真田信之、村上義明、溝口宣勝、仙石秀久、佐竹義宣、南部利直らが命じられている。同年7~8月には完成したようで人夫が引き上げている。

    越後福島城主松平忠輝、居城を高田に徙さんとす、幕府、東北諸大名に、其造築を命じ、是日工を起す、

  • 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では留守居役。

    (慶長19年10月17日)是より先、徳川秀忠、松平忠輝を江戸城留守居たらしむ、是日、忠輝、埴科郡松城を発せんとす

  • 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では自ら志願した上で大坂に出陣し、舅・伊達政宗の後援の下に大和口の総督を命じられた。しかし伊達政宗が戦功を上げたのに対して、忠輝はさしたる戦功を上げることができなかった。
  • さらにこの行軍時に、将軍旗本を無礼討ちしたことについて問題となる。

    是より先、越後高田城主松平忠輝の老臣花井義雄、忠輝が長坂信時を殺害せしことについて、安西正重と相争ふ、幕府之を裁し、義雄を改易に処し、是日、忠輝を伊勢朝熊に配す、

 家康死後

  • 元和2年(1616年)4月、家康薨去。今際の際に秀忠・義直・頼宣・頼房らを枕元に呼びながら、忠輝だけは呼ばなかったという。

    忠輝、いそぎ発途して駿府へ参られ、宿老もて御気しき伺はれしに。家康は以の外の御いかりにて。城中へも入るべからざる旨仰下され。御対面も叶はざれば。少将(忠輝)せんかたなく御城下の禅寺に寓居して。御気のひまを伺ひて。謝し奉られんとする内に薨去

    松平忠輝、徳川家康の病を訪はんとし駿府に至るも許されず、是日、武蔵深谷に赴く、尋いで、同国藤岡に移る

  • 忠輝は三島蒲原まで至るが、上州藤岡に戻るよう命じられ、ついで秀忠より江戸邸に入り命を待つよう命じられた。

    上總殿、同七月八日、藤岡より江戸之御下屋敷に御出御座候、同九日達上聞、將軍様へ御詫言も不被成、思召儘ニ江戸へ御越被成候事、重々御不届ニ被思召候間、御國御上可被成由、近藤石見守、神尾刑部少、爲上使被遣、翌日又右之兩人爲上使、伊勢之朝熊へ御越可被成と被仰付、二度目之御上使之時、少將様仰分之御誓紙被遊、石見守刑部少ニ爲御見被成候、辰七月十日申剋、江戸御立被成、其日は品川妙国寺と申寺ニ御泊、十一日に藤澤御泊、十二日ニ小田原御泊、爰に而御法躰被遊、

  • 家康死の3ヶ月後である元和2年(1616年)7月6日、2代将軍の兄秀忠より改易を命じられ、伊勢国朝熊に流罪とされた。

    幕府、松平忠輝を伊勢朝熊に配し、その所領を没収す、尋いで、真田信之等をして、忠輝支配の諸城を請取らしむ

    正室の五郎八姫は、改易の後江戸へ帰され、父政宗の屋敷で10数年過ごした後、仙台に下った。仙台では西館と呼ばれる仙台城本丸西館に住んだことから、西館殿とも呼ばれた。寛文元年(1661年)5月8日死去、享年68。「上總殿御前ハ、政宗息女ニ而御座候付而、則政宗ニ御預被成候、御前之御腹ニ御子なし、御袋様ニ附居申候、」

  • 忠輝は家康より拝領した相国寺の茶入と波游ぎを天下の名物として返却しようとするも、これも叶わず土井利勝に預け江戸を出たという。
  • 当時忠輝は24歳、ここから約68年間の長い配流生活が始まる。

 配流生活

  • 7月12日に江戸を離れ、小田原で剃髪した。18日掛川、22日朝熊に着、朝熊山頂にある金剛證寺に入った後、まもなく山麓の妙高庵に移っている。ここで約2年間過ごした。

    七月廿五日、勢州朝熊岳へ御著被成、瑞泉院被成御座候、御精進被遊候而被成御座候間、近藤石見守、此由江戸御老中へ申達候得者、左様候ハゞ麓へ下し奉り可然由ニ而、辰八月五日ニ麓へ御下り被成、妙高庵と申寺ニ被成御座候、

  • 元和4年(1618年)3月には飛騨国高山に移された。ここでは天照寺に入ったという。ここで8年間過ごしている。
  • さらに寛永3年(1626年)には信濃国諏訪に流され、その後この場所で58年間を過ごした。
    諏訪藩では、忠輝受け入れのために南ノ丸を整備している。現在は市街地にある高島城だが、当時は諏訪湖に突き出す形の水城で「諏訪の浮城」と呼ばれていた。現在高島公園に残る本丸の南西側、諏訪市役所の駐車場あたりにあったとされる。駐車場の片隅に松平忠輝公神社と名付けられた小さな祠が残る。
  • 忠輝は従四位下・右近衛少将の位階官職のまま配流されており、「刀脇差所持仕り候儀御赦免」として入城した。付き添いは侍11人、軽き者8人、又者8人、女11人(侍の妻女)、下女6人、計44人の所帯であった。さらに諏訪群内から奉公人などが集められ、南ノ丸には80人を超える人数が入っていた。
  • 89歳のとき延宝8年(1680年)5月には病床に臥しており、この時医者井手苔庵も呼ばれている。この時、周囲も覚悟したようで棺桶まで用意され、細々した手順も定められている。

       上總介様自然之義御座候時御取仕廻可申覺
    一、御正体入れ候箱 檜節無、長五尺、横二尺五寸、高二尺
    一、上箱 檜無節、長五尺五寸、横四尺、高三尺
    一、御正体は塩にて強く詰め置き、御検使が御覧の時は沐浴して台の上に蒲団を敷き新らしきご蓙の上に置き、御正体の上に白ねりを掛け、御覧の時は除きて御目にかける。
    一、御正体沐浴は御検使の御差図を受け、御覧以前になす。
    (略)
    一、御寺は貞松院。
    一、御廟所は寺裏の明地に致し、御通り道筋は方丈の裏より泉水の前を通る様にする。

  • この時は快復したが、天和3年(1683年)には再び病床に臥し、井手苔庵が呼ばれた。近臣らに看取られながら死去。
  • 天和3年(1683年)7月3日、幽閉先である諏訪高島城(南の丸)にて卒す。92歳。すでに5代将軍徳川綱吉の治世となっていた。
    • 7月5日六ツ時に早馬が江戸の諏訪藩邸に着き、藩主忠晴はただちに老中大久保加賀守に許可を得て検使・服部久右衛門と打ち合わせた上で帰国、8日の午後申の下刻に諏訪着。服部も翌9日暮六ツに着。10日の朝六ツ時に忠晴と服部は南ノ丸に出向いて遺骸を確認。すぐに報告の使者が江戸に出された。服部はその日のうちに諏訪を発し、忠晴も翌11日朝四ツ過ぎに江戸へと発った。13日老中への報告、旅費三分被下。
    • 貞松院での法事は10日~12日まで公儀の指図通り三日間行われた。
  • 墓所は長野県諏訪市諏訪の貞松院にある。
    流罪の一因として、舅伊達政宗の影響力をそぐため、また付家老大久保長安と近い間柄であったためともいわれるが、真相は不明。

 遺物

  • 天和3年(1683年)に忠輝が死んだ際に「上總介御道具貞松院被遣候覺御香奠御布施覺」という書類が作られている。

        上總介殿御道具貞松院被遣候覺
    一、左文字御刀  一腰
    一、來國俊小脇差  一腰
    一、長刀  一腰
    一、鑓  一腰
    一、挟箱  一腰
    一、乗馬代金壹兩  一腰
    一、御香代  金五兩

  • さらにその処分方法も記されている。

    一上總介殿御道具之覺ト有之帳之内ニ
     一、來國俊小脇差  一腰
       今度御寺貞松院江越申候
     一、左文字御腰物  一腰
       加賀肥前守殿ヨリ被遣候
       今度御寺貞松院江越申候
     一、御鑓  二筋
       此内一筋今度御寺貞松院江越申候
       殘る一筋此方ニ御座候
     一、御長刀  二振
       此内一筋今度御寺貞松院江越申候
       殘る一筋此方ニ御座候拵なし
      右帳末ニ
        天和三年癸亥七月十九日
          久世半左衛門 印
      茅野兵庫殿
      志賀七右衛門殿
      諏訪十郎左衛門殿

  • 諏訪藩の大納戸日記にもいくつか登場する。
    • 延宝3年(1675年)7月5日:酒井雅楽頭様、土屋但馬守様、稲葉美濃守様、久世大和守様へ御出被遊、是は上総介様久国御腰物拂ニ被遣ニ付
    • 延宝4年(1676年)2月11日:上総介様御道具波游之御腰物久国御脇指右長左エ門持参 ※波泳ぎ兼光と久国短刀
    • 延宝8年(1680年)9月25日:南ノ丸御長屋村井宮内左衛門居所より火事出来長屋四通焼失
    • 天和3年(1683年)7月2日:未ノ刻諏訪方より飛脚来ル。上総介様御服中惡敷被成御座旨即刻大久保加賀守様御出被仰入
    • 同年同月3日:亥の下刻大熊半助諏訪方より参候。上総介様御服中気御勝不被遊ニ付而也
    • 同年同月4日:卯ノ上刻上総介様御機嫌ニ付大久保加賀守様へ御出被遊同下刻御歸
    • 同年同月5日:今三日六時上総介様御逝去被遊候付、早馬牛山源左衛門井手八右衛門卯ノ下刻参上則八右衛門御老中へ参上申上ル
    • 辰ノ上刻大久保加賀守様へ御出右ノ上総介様御逝去ニ付而也、同下刻御歸外之御老中様江は御出ニ不及候由、加賀守様被仰に付而御歸也
    • 巳ノ下刻御奉書来ル則御登城御歸ニ大久保加賀守様へ御立寄即刻御歸是は上総介様御卒去之段上聞立歸候御拝領

 

  • 忠輝改易時の越後高田旧領の請取には、当時信州松本を領していた小笠原忠真も命じられており、その際に(伊達政宗より婿引出にもらったという)忠輝の愛馬2匹を買って連れて帰ったと記されている。

    松本には、右近様(※右近大夫。小笠原忠真)御馬屋に、かなつづ、かゞやと申名馬貳疋御座候シ、此馬は越後少將様之馬也、伊達政宗ゟ御婿引出ものに被進申候由、右之馬共ハ名は出たる在所の名の由、右近様松代御請取の上位に御座候時、少將様之厩別當に、馬左衛門と申者有之候、是に色々御手を入らせ、此方に御買被成候、

  • 忠真はのち明石に転封されるが、この馬たちも連れていき厩に入れていたという。そのうち老馬となったため1匹は松平阿刕(蜂須賀)に譲り、かがやの方は本多美濃守に譲ったという。

 系譜

  • 改易される前、忠輝には子があった。
  • 生母茶阿局の女中・お竹どの(竹の局)との間に生まれた子で、徳松と呼ばれた。
  • のち忠輝が流罪になった際、同行を許されず母子ともに武州岩槻藩主阿部重次の預かりとなる。

    お竹とのと申上臈は御腹ニ上總殿御子御座候、徳松殿と申候、是はお竹とのともに、岩附に御預被成候、

    三河阿部氏のうち、阿部正勝流の嫡男で宗家の阿部正次の嫡男・阿部重次。阿部宗家は、その後、丹後宮津、下野宇都宮を経て備後福山に入り、廃藩置県まで10代161年間在封した。幕末の老中首座・阿部正弘は福山藩7代藩主。

  • 寛永9年(1632年)5月27日、徳松は城内の居宅に火を掛けて自殺したと伝わる。享年19。
  • なお生母のお竹どのはその1ヶ月前の4月13日に亡くなっている。
  • 2人の墓はさいたま市岩槻区の快楽山浄安寺にある。

 赦免

  • 流罪とされた忠輝が徳川宗家より赦免されたのは、死後300年経った昭和59年(1984年)であった。
  • 忠輝の菩提寺である貞松院の住職山田和雄が300回忌での赦免を思い立ち、徳川宗家18代目当主の徳川恒孝に願い出て実現した。

 関連項目


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