留守居役
留守居役
- 江戸時代の諸藩における江戸留守居役。「聞役」「聞番」、あるいは「公儀人」「御城使」などとも呼ばれた。
御三家では「城附」(本丸留守居と西丸留守居があった)、大藩では主に「公儀人」(公儀使)、小藩で主に「留守居」が用いられる傾向があった。須原屋の「武鑑」では「城使」で統一される。
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- ※幕府の江戸城留守居役もいたが、元禄年間には栄誉職化したため、ここでは取り上げない。
- また諸藩では江戸留守居に加えて、蔵屋敷を置いた大坂での大坂留守居も多くの藩が設置しており、京留守居も置かれていた。特に幕末には政治の舞台が京都へ移るに従い京留守居役の比重が高まった。また一部の主に九州諸藩では長崎留守居を設置していた。
江戸留守居役
- 江戸留守居とは、諸藩にあって御城使として江戸城中の蘇鉄の間に詰め、幕閣の動静把握、幕府から示される様々な法令の入手や解釈、幕府に提出する上書の作成を行っていた。また藩主が江戸藩邸にいない時に藩邸の守護にもあたった。
- ※4代家綱より、幕府は規式・典礼の整備とそれによる将軍権威の確立と大名統制を目論んだ。文治政治が進むにつれ幕府が極度な前例主義に陥っていく中、その前例を知り前例に則って滞りなく大名の生活を支える必要があった。留守居制が成立すると、幕府は大名家との連絡・交渉事の一切を諸藩留守居役を通じて行い、藩主の名代・使者として家老などが登城を許される他は、原則として他の家臣による幕府との接触を禁じた。
- また歳首・五節句・朔望・参勤・就封などの年中恒例儀式は大名自ら習熟するものであったが、勅使・院使の饗応、朝鮮通信使の接待、京への上使、日光名代、上野・増上寺参詣など不時の公辺勤については、留守居の指導や助言なくては遂行することは非常に困難であり、それを支えるという重要な役目が留守居役であった。※いわゆる江戸有職(武家有職)と呼ばれる物事。
- また幕府より出される法度の理解や執行、諸藩への連絡についても一藩の留守居役だけでは補いきれず、それを主人同役(同席組合)や親類(近親組合)、近所組合などの留守居役で集まって情報交換を行いつつ遂行していくことも求められた。※この調整作業自体は幕府も認めている
- さらに世情動向を探知し、江戸で発生した異変や珍事についてもそれを見聞し、内容に応じて自藩の担当者に適切な指示を与えるという任務も重要とされた。
加州は大藩のことなれば、在勤の人江戸を知らひでも随分よきことなれども、一体世上の風俗移り易りて、今の江戸風、江戸有職といふもの出来て、是を知らねば其国貧になりて漸々に衰徴すること也、如何と云ふに、日本中の政令は江戸より出ることなれば、四方のはずれまで江戸の命令を承けて政事を取扱ふゆへに、江戸は諸国の源也、源の好悪を早く知りて一世の民の心のはこびを知らねば導びかれぬゆへ也、故にどのよふなる大藩にても御城使(※留守居)といふものを置きて、江戸風を聞出して各国の侯、大夫へ告げ知らすること其官の任也
(海保青陵「東贐」)
- 多くの諸藩留守居は物頭級(小藩にあっては番頭級)の有能な家臣から選ばれた。また、一部の藩では家老、用人、側用人が兼務する場合もあった。なお、武鑑上では全ての藩で用人より下座扱いである。
留守居組合
- 留守居は、主に留守居組合を形成しその組合の寄合に参加することで情報交換を行っており、その寄合は初期は「宅寄合」として藩邸長屋で行われていたが、藩主から茶酒・菓子などが振る舞われ、また歌舞・音曲自由の特典も与えられていた。
- 藩邸で開催する場合にはその藩の負担となることから、後には茶屋・青楼で行われる「茶屋寄合」が盛んになる。これは「懇会」とも呼ばれ、各地の茶屋や吉原の引手茶屋などが用いられた。
そもそも留守居役組合の発端は、「武営政諸録」に書かれている説が起源とされ、それによれば4代将軍(5代綱吉の方が辻褄が合うという)の時に朝鮮通信使来日に際して、幕府側の記録が焼失していたがため、老中・阿部忠秋が諸藩留守居役を召集して諸家に残る信使関係の記録の書上げを命じたことによるとされる。
この時、美作藩森家の留守居役であった山田弥左衛門がたまたま幕府の信使関係の役人(水野右衛門大夫の番頭・石原勘左衛門という)と懇意であったことから、諸家の留守居役が山田の下に参集して相談したという。しかしこれはあまりに多人数であったため、主人である森忠継(2代長継の世継であったが早世)がいくつかの組に分けたことから始まるという。
いっぽうで寛政元年(1789年)8月に老中の下問に応えて各席組合から結成時期を報告しているが、この時、雁間・菊間については不明と返答している。そして帝鑑間の組合は、始まりを秀忠ないし家光の寛永年間の事とし、慶安に一時中断するも承応年間には復活したと回答している。また他の柳間および大広間は、4代家綱の代としている。
この帝鑑間の回答は、留守居組合ができるまえ、寛永頃に桜田近辺に上屋敷を持っていた丹羽(二本松藩)、内藤(棚倉藩)、小出(出石藩)、金森(高山藩)、松井松平(岸和田・播磨山崎藩)、仙石(上田・出石藩)、浅野(赤穂藩)、浅野(三次藩)の8家の留守居が向組を結成し、定期的に寄合を催したとされ、それを留守居組合の起源としているとも指摘される。
- 留守居茶屋(聞番茶屋)として有名なのは、日本橋室町横丁の百川楼、明和頃には深川洲崎の升屋祝阿弥(望汰欄)、安永頃の大橋南の中洲新地にも留守居茶屋があったという。
吉原の引手茶屋としては、大広間留守居が南部(庄七)、長門屋(松蔵)。溜間詰留守居が「たわらや」(いよ)、長崎屋(長兵衛)。帝鑑間留守居が尾張屋(太郎兵衛)、同上(五兵衛)。柳間留守居が信濃屋(善兵衛)、「みなとや」(佐兵衛)、山口巴や(久助)。雁間留守居が永楽屋(美代)、森田屋(庄八)であったとされる。
- 留守居組合には、同席組合(江戸城中での伺候席を同じくする)や、小組(国持大名両家と中小大名数家というが詳細不明)、近親組合(親類関係の大名家)、近所組合(向組とも。江戸屋敷で近隣の留守居役で構成。ただし江戸中期以降は同席組合に吸収)などがあったという。
「朋誠堂喜三二」こと平沢常富の久保田藩は、同席組合のうち、大広間組合の一つ(黒田・藤堂・蜂須賀・鍋島・山内・佐竹・宇和島伊達・立花・宗。後に島津・仙台伊達・細川・毛利・鳥取池田・有馬・上杉・津山松平を加えた17家)に入っていた。
この大広間組合は安永4年(1775年)に「大名の官位順の席次に正すべきという島津家の提案に従った「八家組合」(島津・伊達・細川・毛利・鳥取池田・有馬・上杉・津山松平)と、それに従わなかった「九家組合」とに分裂した。平沢の久保田藩は後者に属した。そうは言っても実務上不便であったことから、月に二度三十間堀に17家参集しての寄合が持たれたという。※なお平沢常富が刀番から留守居助役へ代わったのが安永7年(1778年)11月。
- また寄合の他に「留守居廻状」でも伝達がなされており、これは留守居組合内で廻状を送達することで情報交換を行った。
- さらに「留守居書状」によって、二家間で書状を授受し情報交換をおこなっていた。
- 幕府は「不慥成儀書付相廻」「無益之雑説を廻状」しないようわざわざ警告しており、それら不確かな情報も含めて廻状を行われていたとされる。
組合を設けなかった伺候席
- 【大廊下席】:
- 大廊下は御三家と限定された一部大名のみという特殊性があった。特に御三家については将軍家親族という立場もあり幕府内部の情報が入手しやすかったことに加えて、その留守居にも特別の権限が与えられた。毎日江戸城に詰める権限が与えられ、坊主部屋に詰め所が与えられていた。
- また他家の留守居が蘇鉄間までしか進めなかったのに対して、御三家の留守居のみは大廊下上部屋入口まで伺候できたことから、幕府諸役人との接触が密であった。このため、御三家内で情報連携することがあったとしても、他家の留守居役との連絡・調整を行う必要性は薄かったとされる。
- また御三家ではない大廊下席として越前松平、加賀前田などがあるが、前田家の場合は分家である富山・大聖寺の両家が留守居組合に加入しており、さらに「廻状之列」と呼ばれる留守居廻状により情報伝達を行っていたとされる。越前松平家についても、支藩である糸魚川藩(福井支藩)、母里藩(松江支藩)、広瀬藩(松江支藩)が同様の位置付けであったとされる。また御三家の紀州藩についても同様に西条藩および矢田藩が、また水戸藩についても守山藩および常陸府中藩も同様で、こうした支藩が同席組合で得た情報を本藩へと連携したと考えられている。
- 【溜間席】:
- 溜間詰という役職に任ぜられたものの控所であり、平時には5・7日に一度交代で登城していたが、登城の際には将軍に謁見するとともに幕政の枢要に参画していた。溜間には老中も席を与えられており、ここで幕政の審議が行われたと見られている。
- 初期には家門もしくは譜代の門閥大名が任じられており、中期ころまでに彦根井伊、会津松平、高松松平の三家が本席(定席)の家と決められ、それに「飛席」の1人を加えた4人が慣例となった。
- 彼らは直接幕政に参加しており、わざわざ他家の留守居役と情報交換してまで入手したい情報もなく、組合などは形成されなかった。
- しかし幕末になるとこの慣行が破られ、溜間大名の留守居役による組合が結成された。これは溜間大名の増加とともに、幕末期に増加した政治課題に対して政治顧問として幕政への役割が重大化したためと見られている。
当初本席三家だったのが、明和9年(1772年)には松山松平家、寛政5年(1793年)には松平定信(陸奥白河)、嘉永3年(1850年)にはさらに4家(忍藩松平下総守、姫路藩・酒井雅楽頭、小浜藩・酒井修理大夫、佐倉藩・堀田備中守)が加わり9家となった。慶応3年(1867年)には12家を数えるに至った。
留守居組合寄合の禁止と再開
- 幕府が諸藩の留守居役による暗躍・工作活動を嫌い、江戸城登城を禁止した時期も数次に及ぶが、不便であるためまたすぐに解禁されるなどしていたことは、その微妙な立場を物語っている。
吉原ノ中ノ町ヘ、長上下デ寄合フノ、四ツ谷新宿ノ青楼ニ於テ寄合ヲスルノ、芝居ノ手打ニ出ルノト云様ナル、大ソレタル不行跡ヲナシタル故ニ、御老中ヨリ沙汰アリテ、皆々戒メニ遇ヒシナリ
- 寛政元年(1789年)9月に留守居組合に対して寄合を禁じたものの、寛政(1789~1801)末年には「近頃は相ゆるみ候向も有之哉ニ相聞」「諸家留守居役、茶屋杯ニて折々参会有之」などと書かれている。文化(1804-1818)年間の末には、寄合の公然とした活動が再開されている。
- 幕府による留守居役関連の取締り。
- 寛文4年(1664年)5月:町中表店に茶屋を構え給仕女をおいての商売を禁止
- 延宝6年(1678年)11月:新規の茶屋禁止(家綱)
従来の茶屋も給仕女を2人に限定し、妾・嫁・娘といえども客席に侍ることを禁止。茶屋女の衣装も布か木綿に限り、営業時間も朝六ツから暮六ツとした。 - 天和元年(1681年)12月20日:奢侈取締り(綱吉・堀田正俊)
- 天和2年(1682年)8月:茶屋給仕女など召し抱え禁止など三カ条(綱吉・堀田正俊)
これは大老・堀田正俊によるものだったが、その後正俊が江戸城中で暗殺されると、幕閣が政務を行う場所は将軍の応接所である中奥御座之間から、表と中奥の間に新たに設けられた御用部屋に移された。これによって生まれた距離を埋めるための側用人が力を持つようになった。 - 宝永4年(1707年)2月:留守居廻状について(綱吉)
諸大名之留守居とも、不慥成儀書付廻し候、向後書付之品により及御詮議候ハヾ、越度可罷也候、且又仲ケ間寄合仕候様子、其上場所不宜も有之様ニ風聞候、向後左様成儀仕間敷旨被申付尤候以上
- 宝永7年(1710年)6月:留守居廻状について(家宣・新井白石)
諸大名留守居之者とも、公儀向之勤ニ付ては、間違無之様ニ可申合儀ニ候得共、無益之雑説を廻状認候て申触候様ニ総文候、向後左様之儀不仕様ニ、入念堅可被申付候以上
- 享保20年(1735年)8月:大名・旗本の遊里への出入りの禁止(吉宗)、同年9月新規の役人が前任者に古役に過分の贈物饗応の禁止(吉宗)
- 元文5年(1740年)5月:(吉宗)
三奉行、大目付、目付に対し相互参会の際に浄瑠璃・三味線などの音曲禁止 - 寛保3年(1743年)6月:茶屋・遊所の寄合取締(吉宗)
近来諸大名留守居共、所々茶屋等ニて出会、猥成遊興仕由風聞候、向後茶屋等ニて之出会ハ相止させ可被申候、主人座敷長屋等ニて出会候様ニ在之可然候、且虚説ケ間敷儀を申触候沙汰も有之候、此段別て如何成儀候条、左様無之様堅可被申付候、将又組合仲間一統之様ニ相成、主人も取扱にくきやうニも有之由、ケ様之儀は猶更致させ被申間敷事候間、前条之趣とも向後無之様ニ、入念急度可被申付候、以来如何之儀在之候ハヾ、主人可為不念候、
「組合仲間一統」とは、藩主が決めるべき内容(例えば外交・人事など)を留守居役の組合で団結することで、独断したりあるいはひっくり返す事があったためという。 - 寛保3年(1743年)秋:横領などを働いた留守居10人余の処罰
寛保三癸亥秋、御大名衆留守居役の内、偽て主用の由にて金銀を借用し、後露顕して右役人切腹、或は証人切腹、欠落の者も有之、或は死罪、其屋敷々々法に行ふ、右の仲間十人余と聞ゆ、依て聞番茶屋停止被仰付、
- ※安永・天明期はすなわち田沼時代であり、目立った大名留守居の取り締まりは行われなかった。
- 安永3年(1774年)3月:吉宗の寛保3年(1743年)の再達
- ※安永4年(1775年)4月:薩摩藩島津重豪による、留守居組合における席次などの悪習打破
これにより、大広間組合は「八家組合」と「九家組合」へと分裂した。 - ※天明4年(1784年)2月長州藩毛利治親による、留守居組合の茶屋寄合禁止
ただしこの提案に賛成したのは徳島藩・蜂須賀治昭のみであった。また徳島藩でも2年後には一部緩和を行っている。 - ※こうした諸大名の取締りが限界を見る中行われたのが寛政の改革である。
まず寛政元年(1789年)6月に安永3年同様の法令を発した上で、7月25・26の両日に大広間・帝鑑間・柳間・雁間・菊間の五席の留守居組合代表を呼び出し、解散を問うた。しかし揃って解散が不可の回答をしたため、幕府は留守居組合結成の時期および必要性の根拠を後日提出するよう命じた。回答は8月4・5の両日に行われた。 - 寛政元年(1789年)9月、留守居組合寄合廃止令(松平定信)
これにより、留守居茶屋の半数が転業を余儀なくされたという。しかしわずか6ヶ月後の寛政2年(1790年)3月には寄合同様の会合を催した廉により、笠間藩主牧野貞長および留守居・安堵源左衛門が処罰されるという事件が発生した。
松平定信は寛政5年(1793年)7月に老中を退任する。「寛政の遺老」たちにより継続が図られるも、寛政7年(1795年)3月には組合寄合復活の兆候に対して再度寛政元年の禁止令の再達を行っている。さらに寛政12年(1800年)5月にも口達を行っているが、そこでは組合中に通達せよとしており、半ば組合復活を黙認することになってしまっている。
廻状の例
- 伊達騒動
- キリシタン禁令
- 幕府は寛文元年(1661年)7月、キリシタン禁令を交付した。この第三条に五人組を定めて宗門改めを義務付けるとしたが、これについて蜂須賀藩留守居役は「右申渡書之内、三カ条目之御文言、是迄終ニケ様之被 仰出無御座、別而被入御念御紙面ニ候条、重々御吟味被為 仰付候様奉存候」と注意を促している。つまり幕令を咀嚼して具体的な実施方法を伝達する役目も負っていた。
関連項目
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