越前康継(刀工)
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康継(やすつぐ)
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概要
- 近江長浜下坂浜の生まれで、下坂市左衛門と名乗った。
- 初期作品では「肥後大掾(大掾)下坂」の銘を刻む。
下坂鍛冶
- 下坂浜の鍛冶は、臨済宗妙心寺派の古刹平安山良疇寺の門前町に住したが、天正13年(1585年)の天正地震により門前町は湖底に沈んだ。
- 天正13年、城主堀秀政が越前北之庄に転封となったため、それに従い北之庄へ移住した鍛冶が多かった。残った鍛冶には秀次家老の田中吉政に召し抱えられたものもいた。
結城秀康お抱え
- 大坂の役には二度とも従軍する。元和元年(1615年)閏6月16日、家康は落城の際に焼けた刀の再刃を命じている。
閏六月十六日、今度大坂城兵火故、銘物之刀脇指悉焼、其後尋出之、今日召鍛冶下坂、再焼之試、令焼淬給、○家康、コノ焼刀ヲ井伊直孝ニ賜フコト、本月十九日ノ條ニ見ユ、参看スベシ
- 秀康の推挙により、後に徳川家康・秀忠父子に召し出され江戸で鍛刀、その際「康」の字を拝領し康継と名乗り、刀に葵紋を切ることを許された。「御紋康継」、「葵下坂」と称される。
- 福井藩主結城秀康からも四十石の合力米のほか、屋敷を与え諸役御免の特権を与えている。
- その後本多成重(飛騨守)の支援を受け多くの刀を作っている。
- 元和元年(1621年)9月6日江戸にて病死。
大坂御物の再刃
- 大坂夏の陣で落城した大坂城内にあった焼身の名刀の再刃(さいじん)を家康に命じられる。
閏六月廿九日、今度大坂兵火故名物之刀脇指悉焼、其後尋出之、今日召鍛冶下坂、再焼之試、令焼淬給、先日吉光刀号骨喰者河内土民拾得之本阿弥言上之処被帰下幕下 上之少刀可被拵之㫖被仰令取之給黄金五百両銀二千両拝領之
(駿府政事録)元和元年閏六月十六日 將軍家伏見より二條御所に渡御。(略)今度大坂城兵火故、銘物之刀脇指悉焼、其後尋出之、今日召鍛冶下坂、再焼之試、令焼淬給
(駿府記)
- 脇差
- 指表「奉納尾州熱田大明神」指裏「両御所様被召出於武州江戸御劔作御紋康之字被下罷上刻籠越前康継」。長さ35.2cm、反り0.6cm。平造、三ッ棟、身幅一段と広く寸延びの脇指。表に竹に筍を裏に梅樹を刀身一杯に彫る。茎、生ぶ、先剣形、鑪勝手下り、寄進のため目釘穴がない。家康秀忠の両御所の御前で鍛刀し、その賞として葵紋及び「康」の一字を賜り名を康継に改めたという経歴を記している。自身による奉納刀。重要文化財。熱田神宮所蔵。
- 刀
- 銘「以南蛮鉄於武州江戸越前康継/慶長十九年八月吉日」昭和16年9月24日重要美術品指定、尾張黎明会所蔵。
- 刀
- 銘「以南蛮鉄於武州江戸越前康継/慶長十九年八月吉日」昭和12年2月16日重要美術品指定、高島恭子氏所持。
- 刀
- 銘「於武州江戸越前康継/以南蛮鉄末世寶二胴本多五郎右衛門所持」昭和14年7月13日重要美術品指定。岸本貫之助氏所持。
- 刀
- 銘「以南蛮鉄於武州江戸越前康継/二ツ銅数度末世ノ剣是也本多飛騨守成重」昭和14年9月6日重要美術品指定。吉田由道氏所持。
- 短刀
- 銘「以南蛮鉄於武州江戸越前康継/本多飛騨守成重所持内」昭和17年(1942年)12月16日重要美術品指定。木村寵氏所持。
- 刀
- 銘「肥後大掾藤原越前康継」昭和16年9月24日重要美術品指定、木村貞造氏所持。
- 刀
- 銘「以南蛮鉄於武州江戸越前康継/二ツ銅及度々末世剣是也本多飛騨守所持内」昭和15年2月23日重要美術品指定、黒川福三郎氏所持。
- 刀
- 銘「以南蛮鉄於州江戸越前康継/二ツ銅落末世剣是也本多飛騨守所持」昭和15年2月23日重要美術品指定、黒川福三郎氏所持。
- 刀
- 銘「以南蛮鉄於武州江戸越前康継/奥州会津所生荒井平衛門」昭和15年2月23日重要美術品指定、足立康継氏所持。
- 刀
- 銘「以南蛮鉄於武州江戸越前康継/青岡弥平次所持之」昭和16年4月9日重要美術品指定、花崎源次郎氏所持。
- 刀
- 銘「以南蛮鉄於駿州越前康継/濃州所生藤原藤野小形部自珍」昭和13年5月10日重要美術品指定、五十嵐松治氏所持。
- 刀
- 銘「以南蛮鉄於武州江戸越前康継 安政六年六月十一日於伝馬町雁金土壇払 山田佐吉試之 同年十一月廿三日於千住太々土壇払 山田吉豊試之」土方歳三が会津藩主から拝領した刀。
- 刀
- 銘「於武州江戸越前康継/以南蛮鉄末世宝二胴本多五郎右衛門所持」
写し
正宗
短刀
若江正宗写し
銘 なんばんかね わかえまさむね
裏 越前国康繼 本多飛騨守所持内
刃長 八寸七分、内反ごころ
元幅 八分四厘、茎長三寸六分五厘
徳川美術館所蔵
- 昭和35年(1960年)7月25日第5回重要刀剣指定。槇本源蔵氏旧蔵。
- これと別物で中心に「關ヶ原陣中 わかゑまさむね寫」と入るものもあるという。昭和初期には田村家蔵。槇本源蔵氏旧蔵。
貞宗
- 渡辺国男氏旧蔵
- 昭和35年(1960年)7月25日第5回重要刀剣指定。岡本虎次郎氏旧蔵。
- 昭和35年(1960年)7月25日第5回重要刀剣指定。石倉保助氏旧蔵。
- 昭和35年(1960年)7月25日第5回重要刀剣指定。田辺俊一郎氏旧蔵。
- 安宅貞宗写し
刀
銘 越前国康繼/あたきさたむねのうつし
宗近
- 海老名小鍛治写し
短刀
海老名小鍛治写し
銘 なんばんかね 三条こかち迫
裏 越前国康繼 本多飛騨守所持内
刃長九寸八武、反り二分強
徳川美術館所蔵
- 岡本武夫氏旧蔵。
- 目釘孔4個。
- 裏に梵字、鍬形、蓮台を彫る。生ぶ中心。
吉光
- 目釘孔2個
- 骨喰写し
薙刀直し脇差
銘(葵紋)以南蠻鐵於武州江戸越前康繼 骨喰吉光摸
刃長一尺九寸二分強、反り五分五厘
- 東京国立博物館所蔵
- 刃長一尺九寸二分八厘
- 岡本保和氏旧蔵
系譜
二代
- 初代の長男。
- 通称は右馬三郎、市左衛門、市之丞。
- 刀銘ははじめ康継、若くして入道康悦と称す。
- 秀忠は二代がお気に入りで、神田紺屋町に屋敷を与え、江戸詰を3年、福井を1年とするよう命じた。また往復には伝馬八頭使用の朱印状を与えている。
- さらに小納戸役という名目で将軍の近習に加えられ、夜勤や鷹狩にもお伴した。
- 大坂の役も二度とも従軍している。
- 寛永元年(1624年)松平忠昌が福井藩3代藩主となると、知行二百石を加増され、刀を打たせた褒美として時服を与えるなど厚遇した。しかし江戸定詰を命じられ江戸移住を願い出ると、忠昌は立腹し二百石の加増分を取り上げようやく許可した。
- 正保3年(1646年)2月15日病没
- 安宅貞宗を再刃したという。
- 二代の作に「以鏗於武州江戸作之」というものがあり、鏗は「鏗鉄(こうてつ)」で、南蛮鉄を意味する。
- 若江正宗写し
短刀
銘 わかゑまさむねうつし 於豊原 下坂/本多飛騨守所持之内
刃長 八寸八分強、反りなし
元幅 九分四厘、茎長三寸六分五厘
- 土岐英二氏旧蔵。豊原は本多飛騨守の丸岡城郊外の地。
- 獅子貞宗写し
短刀
銘 以南蠻鐵越前康繼
刃長 一尺ニ寸九分強、反り三分五厘
元幅一寸○五厘、茎長三寸九分
- 田辺俊一郎氏旧蔵
江戸系と越前系
- 二代臨終の時、二代の子右馬助はまだ十七歳だったが、二代の弟四郎右衛門は名前が売れていた。それを心配して親友の阿部四郎五郎に後事を託す。
- 阿部四郎五郎は、二代の跡は嗣子に継がせ、弟四郎右衛門は福井にある知行と屋敷を与える旨の斡旋を知り合いに依頼している。この知り合いが旗本の本多五郎右衛門で、その叔父が本多飛騨守成重であった。
- 本多飛騨守成重は康継の庇護者であり、かつ越前福井藩の附家老として越前丸岡城を預かっていた。
- これにより、右馬助の江戸系(江戸三代)と四郎右衛門の越前系(越前三代)に二分されることになる。
江戸三代
- 二代の嫡子
- 通称は右馬助、市之丞。
- 江戸三代の右馬助は成人して市之丞を名乗り、寛文8年(1666年)37歳の作がある。
- 延宝3年(1675年)に三代の作に四代が追銘しているため、すでにこのころ三代は死んでいたと見られる。
- 江戸系はこの後11代栄之丞康継のときに明治維新を迎える。
越前三代
- 二代の弟四郎右衛門は、福井藩のお抱え鍛冶となり、名を市左衛門と改めた。
- 天和3年(1683年)正月朔日没
- 以後、9代康継のときに明治維新を迎えた。
越前四代
- 市左衛門康意
- 貞享3年切米二十石
- 享保9年没
越前五代
- 市左衛門
- 寛延元年没
越前六代
- 武右衛門、市左衛門
- 安永4年隠居
越前七代
- 武右衛門、四郎右衛門
- 寛政12年隠居
越前八代
- 市之丞、市左衛門
- 天保3年隠居
越前九代
- 市之丞
- 明治2年隠居(廃業)
本多飛騨守
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