本多成重


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 本多成重(ほんだなりしげ)

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名
越前丸岡藩の初代藩主
飛騨守、従五位下
丹下、次郎大夫

  • 「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」のお仙本人。

生涯  

  • 父は鬼作左とあだ名された本多重次、母は鳥居忠吉の娘の長男として、元亀3年(1572年)に生まれる。
  • 幼名仙千代
    父本多重次が、天正3年(1575年)の長篠の戦いの陣中から妻に宛てた手紙として知られる「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」のお仙が成重である。

    なお結城秀康の生母於万(小督局、長勝院。築山殿の奥女中)がみごもった際、家康は築山殿の勘気を怖れて於万を本多重次のもとに預けている。結局秀康は宇布見村領主中村正吉の屋敷で誕生したため、のちの福井藩の歴代藩主は参勤交代の際、中村家で供応を受ける慣例が続いた。この縁が元で秀康の嫡男松平忠直が北ノ庄に配せられた際には、重次の子のお仙こと本多成重が付家老となっている。現静岡県浜松市西区雄踏町宇布見にある中村屋敷は国指定の重要文化財
  • 慶長7年(1602年)に近江国蒲生郡内2000石を加増され5000石となる。
  • 慶長18年(1613年)に松平忠直結城秀康嫡男)の付家老となり、丸岡4万石を領して従兄弟の本多富正と共に若年の忠直を補佐した。

    慶長十九年四月六日
    越前北莊福井城主松平忠直、駿府ニ抵リ、家康ニ謁ス、家康、忠直ノ年少ナルヲ以テ、老臣本多富正、本多成重ニ命ジテ、後見セシム、尋デ、忠直、江戸ニ往キ、(八日)秀忠ニ謁ス

    当初、結城秀康の附家老には、本多富正と今村盛次が入っていた。しかし秀康の死後に越前騒動(久世騒動)が勃発し、結果的に今村一派は一掃され、その後本多成重が附家老として加えられた。
  • 大坂の陣でも300騎を率いて真田幸村隊を破る武功を挙げ、慶長20年(1615年)閏6月19日、従五位下飛騨守に任じられる。この時家康直々に国光の刀と三吉野の茶壷を与えられたという。
  • 元和9年(1623年)2月に忠直が改易になった際には一旦江戸幕府に召し返され、寛永元年(1624年)には越前丸岡4万6300石の譜代大名に取り立てられ越前丸岡藩の初代藩主となった。
    越前福井藩は、慶長5年(1600年)に結城秀康が越前75万石に封ぜられたのが始まりで、慶長12年(1607年)秀康薨去に従い、嫡子の忠直が相続する。元和9年(1623年)に忠直が配流処分となると、弟の忠昌が越前北ノ荘(福井)50万石と附家老などを相続する。
  • 正保3年(1646年)5月19日に隠居。跡を長男の本多重能が継いだ。なお、次男本多重看は長男に分知3000石、三男本多重良は別途3000石で旗本となり、四男本多重方は松平忠昌に仕え家老、高知席首座(本多大膳家の祖)となっている。
  • 正保4年(1647年)没。

越前康継の後援者  

  • 本多成重は、初代康継の後援者となり、康継に命じて多くの刀を作らせている。
  • さらに初代康継の後、三代目は江戸系と越前系に分かれる。この後越前系康継を保護した。


越前騒動(久世騒動)  

  • 越前福井藩には、当初本多富正と今村盛次が入っていた。
    • 【本多富正】:本多富正は本多重富の子。父の本多重富は徳川家康長男の松平信康付の家臣であったが、信康切腹後に責任を取る形で蟄居となる。その後、本多富正は叔父本多重次に養育された。家康次男の秀康(後の結城秀康)が秀吉の養子になった際には、当初本多重次の子である仙千代(本多成重)を同行させているが、のち本多重富へ交代させた。その後結城秀康が功を上げ越前北之庄(後の福井藩)68万石を与えられた際には、附家老として付き従うことになる。
    • 【今村盛次】:いっぽうの今村掃部助盛次は、近江京極家の譜代出身。秀吉の養子時代からの近習で、同じく附家老として北ノ庄に入部する。
    • 【久世但馬】:さらにもう一人、秀康の寵臣となった久世但馬がおり、これが事件のきっかけとなる。久世但馬はもと佐々成政の家臣で武勇で知られ、のち秀康に召し抱えられた。結城秀康は、「父徳川家康の感状、越前北之庄68万石、久世但馬を召し抱えられたこと」の3つを大きな喜びとして語ったという。
  • 秀康が慶長12年閏4月(1607年)に死ぬと、北ノ庄藩は若い松平忠直が継いだ。
  • 慶長17年(1612年)、久世但馬の領内で百姓が殺されるという事件が起こる。久世領民であった夫が佐渡金山へ向かったまま音信不通となったために、妻が岡部領にあった実家に戻り再婚したところ、死んだと思っていた夫が佐渡から戻ったことから争いとなり、夫が殺害される。
  • 事件自体はなんということのない出来事であったが、調停に失敗した結果、これがそれぞれの領地を支配する家老を巻き込んだものとなり、本多派と今村派という北ノ庄藩を二分する騒動へと発展してしまう。
  • 藩主忠直の意向が今村一派により握られた結果、本来久世寄りであった本多富正は、久世但馬の切腹を引導するよう藩主忠直より命じられることになる。久世はこれに従わず久世の屋敷を囲んでの戦となってしまい、久世側は150名余が戦死または自害、また攻めた本多富正側も200名を超える被害が出てしまう。
  • この騒動は幕府の関知するところとなり、すでに大御所となっていた家康、将軍秀忠も出張って直接裁決を下す流れとなる。江戸城で行われた審問の結果、当初は理路整然とした今村のほうが有利になったが、富正が不利と見た本多正信は本多富正を促し、持参した書面を提出させる。これにより今村派は追い込まれ、さらに若き藩主忠直に責任があるとの言い分を述べ始めたために家康の心証を著しく害し、遂には今村一派はお預け・または配流処分となった。
  • この後、今村の代わりに送り込まれたのが本多重次の実子・本多成重であり、今村亡き後の丸岡城を預かることとなった。
  • 当時家康は江戸幕府を開き秀忠への将軍禅譲を行ったものの、なお大坂城には秀頼擁する豊臣家が健在の時期であり、親藩中でも最大の勢力である越前北之庄藩での争いを重視した結果の裁決となったとされる。
    秀吉の養子であった結城秀康には、親豊臣の家臣が多数いた。

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