前田綱紀


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前田綱紀(まえだつなのり)  

加賀藩4代藩主
3代藩主前田光高の長男
母は徳川家光の養女で水戸藩主徳川頼房の娘清泰院
正四位下・左近衛権少将兼加賀守
左近衛権中将、参議、従三位、肥前守

生涯  

  • 寛永20年(1643年)11月16日、江戸辰口の藩邸で生まれる。

世継  

  • しかし、父前田光高は正保2年(1645年)4月に31歳の若さで死去した。
     浄光院
      ├──────保科正之───────┬保科正経
    ┌徳川秀忠               ├保科正容───────常姫
    │ ├─────┬徳川家光       └松嶺院摩須姫      │
    │崇源院江   ├千姫    ┌松平頼重  │          │
    │       ├東福門院  ├徳川光圀  │          │
    ├徳川頼房───│──────┴清泰院大姫 │          │
    │       └天徳院珠姫   ├──前田綱紀──前田吉徳─┬前田宗辰
    │ 寿福院千代保  ├────前田光高        │   ├前田重煕
    │   ├────前田利常【加賀前田家】       │   ├前田重靖
    │ 前田利家                     │   ├前田重教
    └徳川義直────────徳川光友───徳川綱誠──松姫   └前田治脩
    
  • このため、6月13日に綱紀がわずか3歳で家督遺領を相続することとなり、藩政に関しては祖父の前田利常が後見することを、幕府より命じられている。

    正保二年四月光高卒したるを以て、六月十三日將軍は松平信綱・酒井忠勝を遣はして家督を續がしめき。承應三年正月十二日犬千代柳營に於いて首服を加へ、正四位下左近衞權少將兼加賀守に任ぜられ、偏諱を賜ひて綱利と稱す。

    寛永16年(1639年)に家督を光高に譲って小松に隠居していた。

  • 幼少期の綱紀は、戦国武将の生き残りであった祖父・利常と、智勇を兼備していた父・光高の影響を受け、また利常が孫に尚武の気風を吹き込もうと養育したため、かなり腕白に育ったという。
  • 承応3年(1654年)1月12日、利常に伴われて江戸城に登城して元服し、第4代将軍徳川家綱より偏諱を授かり綱利と名乗った(のち綱紀に改名)。同時に正四位下に叙され、左近衛権少将・加賀守に任官される。

    正月十二日松平犬千代首服加へられ、御名の一字給はり、正四位少將に叙任し、加賀守綱利後綱紀に改む。と稱す。よつて綱利より國安の太刀・金五十枚、綿五百把さゝげ奉る。御盃に來國次の御脇差給はる。祖父の中納言利常卿も太刀秀光)・金十枚・時服十さゝげ謝し奉る。一門の輩もおなじ。

    松平加賀守正四位下少將被仰付候條、口宣儀傳奏衆へ被申入調候之様尤に候。恐々謹言。
      正月十二日         阿部豊後守
                        松平伊豆守
                        酒井雅楽頭
      板倉周防守殿

  • 上屋敷にて祝儀。祖父利常より太郎作正宗愛染国俊の脇差を拝領する。

    御上屋敷にて御一門御出入衆、千秋萬歳の御祝儀萬々之儀、神田の御屋敷へ入らせられ(略)、御祝儀半の時分、蓬莱山の御盃の臺中納言様より加賀守様へ進ぜらるゝ。其時太郎作正宗の御腰物・愛染國俊の御脇差を、岡田将監披露にて御頂戴あそばさるゝ。百塚の侍従利次公より來國行御腰物、安藝侍従光盛より二字國俊、弾正忠光廣より長谷部國重を被進。少将様より公方様へ粟田口國安、中納言様へ一文字、淡路様へ新藤五國廣、安藝様へ長吉、弾正様へ二字國俊、何茂御脇指を御進上なり。利常公より公方様へ、備前秀光の御脇指に御樽肴にて上させらる。

  • 万治元年(1658年)7月27日、綱紀は保科正之の娘・摩須と結婚する。

    利常は會津侯保科正之に女あるを聞き、迎へて綱紀の夫人たらしめんと思へり。正之は二代將軍秀忠の庶子にして、三代將軍家光の異母弟に當り、而して綱紀は家光の養女大姫の出なるが故に、幕府に夤縁せんとする藩の政策としては、このこと實に至妙なりと言はざるべからず。况や正之は居常學を好み道を行ひ、賢君の譽ありしものなるに反し、利常は齡將に古稀に近からんとし、幼孫の補導必ずしも完きを期すべからざりしを以て、藩侯の傅育と藩政の監督とを擧げて婦翁に託せんとしたるは、頗る時宜に適したるものなりしなり。而して正之も亦綱紀の食祿天下に並ぶものなく、殊に天資明敏の人なるを以て、又得難きの佳壻なりとし、直に利常の交渉に應じて、七月廿七日摩須姫を入輿せしめたりき。(略)將軍には女子なく、三家は余の好む所にあらず。唯保科氏に至りては、その家貴冑より出で、才識亦非凡、仰ぎて綱紀の岳父たらしむるに毫も遺憾あることなし。

    保科正之は、徳川家光の異母弟。家光の没後に幼少の家綱を補佐して幕政を主導していた大老であり、血統・経歴に問題はなかったが、所領は23万石で加賀藩とはかなりの開きがあった。しかし利常が、徳川将軍家に子はなく、徳川御三家も頼りないとして、将軍家の血統に当たり人物・器量も抜群だった正之の娘をあえて選んだという。

  • 万治元年(1658年)12月27日、正四位・中将に叙任され、将軍家の諱一字拝領し綱利と名乗る。
  • 寛文元年に初入部。

    寛文元年六月二十九日老中阿部忠秋、本郷の藩邸に就きて綱紀に暇を賜ふの命を傳へ、綱紀は七月八日江戸を發し、下街道を經て十九日金澤に入れり。この年綱紀齡十九にして初めて入部したるものにして、士民歡喜して之を迎へたりき。(略)九月十八日綱紀は小松城に往けり。(略)綱紀小松に至りし翌日、直に耆宿の臣九里正長を隨へて郊外淺井畷に赴き、二世利長の軍が丹羽氏と苦鬪したる戰蹟を探り、詳かに當時の事情を聞き、爾後金澤に在ること僅かに二旬にして、十月八日再び參覲の途に就き、廿五日を以て江戸の藩邸に入れり。

  • 摩須は10歳で嫁ぎ、寛文6年(1666年)に18歳の若さで亡くなったが、綱紀はその後に継室を迎えることはしなかった。

藩政改革  

  • 万治元年(1658年)10月に利常が死去すると、岳父の保科正之の後見を得て様々な藩政改革を行なっている。
  • さらに、寛文の飢饉の際には生活困窮者を助けるための施設を設置して、後に授産施設も併置した。
    当時これは「非人小屋」と呼ばれたが、金沢の人々は綱紀への敬意から「御小屋」と呼んだ。「御救い小屋」という呼称もある。なおこの小屋には非人階級以外の生活困窮者も多数入っており、その中には「非人清光」の名で知られる加州清光も含まれている。
  • さらに前田家家中の職制を整備し、年寄役である「加賀八家」を置いている。

    當時寄合に參加する所の老臣八人ありて、本多政長・長連頼・横山忠次・小幡長次は大事を決し、前田孝貞・奧村庸禮・津田孟昭は交番して尋常の國政を視、今枝近義は多く江戸の事を執り、各政務を分掌すると同時に又互に合議知照を要すと定めたりき。

  • のち加賀藩家臣の叙爵を賜っている。

    綱紀は本多政長を請ひて安房守たらしめ、前田孝貞を佐渡守たらしめき。孝貞は後佐渡守を改めて駿河守と稱す。是の時老中牧野成貞は、幕府が漸を追ひて加賀藩の諸大夫を四人に増加するの意あるを傳へたりき。綱紀大に悦び、後柳澤吉保を介して速かに前約を履行せんことを求めしに、八年十二月更に一人を増すを許されて長尚連を大隅守となし、十五年四月綱吉の本郷邸に臨まんとするに先だち、叙爵の臣を四人たらしむべきを命じたりき。是より先、本多政長及び前田孝貞は共に退老せしを以て、綱紀乃ち尚連の外に本多政敏を安房守、前田直堅を近江守、横山任風を山城守たらしめんと欲し、請ひてその許可を得たり。この後叙爵の臣四人あること加賀藩の常制となる。

  • また隣国の福井藩との争いである「白山争論」に決着をつけ、この時、母の冥福を祈って白山比咩神社に剣 銘「吉光」(現国宝)を奉納している。
  • 元禄11年(1698年)6月、幕府より、六女直姫(前田利子)と関白二条綱平の嫡男吉忠との縁組を命じられる。
    • 同年9月結納。加賀藩は、宝永7年(1710年)二条家の御殿を造営した他、金銭を献上するなど二条家への援助を行い、これは婚礼後も続いた。正徳2年(1712年)7月13日金沢を発し、22日京に到着。26日婚礼を行っている。長女の辰君(淳子)は有栖川宮職仁親王の妃となり、次女の永君(舎子・青綺門院)は桜町天皇の女御となり、最後の女帝・後桜町天皇を産んだ。
      富姫が八条宮智忠親王に輿入れした際の前例にならい、前田孝行の娘誠姫(寿君)を綱紀の養女とし、正徳4年(1714年)三条西公福に嫁がせている。

晩年  

  • 元禄2年(1689年)には第5代将軍徳川綱吉から御三家に準ずる待遇を与えられ、100万石を誇る最大の大藩として、その権威を頂点にまで高めた。

    元祿二年八月九日將軍は前田氏の家格を進め、自今五節の佳辰に當りて謁を白書院に賜ふべきを命ぜらる。蓋し白書院に於いて謁見の禮を行ひ得るものは、從來尾張・紀伊・水戸三侯のみに止り、封境の大なること天下に冠たる前田・島津等の諸氏は、或は黒書院に於いてし、或は大廣間に於いてし、その他柳營當直の居室、賜與存間の禮皆甚だしく差等ありしが、綱吉は綱紀を優遇するの意を明らかにせんが爲に、初は月次の登營に親藩と室を同じくすることを許し、尋いで親藩を饗する時には必ず綱紀をしてこれに列せしむることゝし、今や更に白書院賜謁の令を下して全然三家と同格たらしめたるなり。

  • 享保8年(1723年)5月6日、家督を四男の吉徳に譲って隠居する。
  • 隠居後は祖父前田利常に倣い、幕府にも小松城で老後を過ごすことの許可を得るが、体調のすぐれないまま江戸藩邸にて翌享保9年(1724年)5月9日に82歳で死去した。

寛政重脩諸家譜  

  • 正保2年(1645年)8月21日襲封の挨拶で、新藤五國光の御脇指たまう。父の遺物、秋田正宗の刀を献ず。家綱に戸川国次の脇指を献ず。
  • 承応3年(1654年)正月12日。諱賜い、「綱利」と名乗り、正四位下少将、加賀守と称す。
  • 13日これを謝し奉るのとき、来国次の御刀を賜う。
  • 万治元年(1658年)閏12月10日祖父遺物の朱判正宗の脇指を献ず。
  • 寛文8年(1668年)閏8月25日綱吉のとき、初めて入国の暇乞いのさいに貞宗の御脇指を賜う。
  • 元禄15年(1702年)4月26日渡御ありて、国宗の御太刀正宗の御刀、吉光の御脇指を賜う。綱紀より備前長光太刀郷義弘の刀、會津新藤五の脇指を献ず。
  • 宝永4年(1707年)12月28日従三位。
  • 宝永5年(1708年)4月26日吉徳に松姫君嫁せらるるを謝し奉るとき、景光の御脇指を拝賜。
  • 11月登営、来国光の御脇指をたまい。綱紀より一文字の太刀、備前長光の刀、光包の脇指を献ず。家宣に備前國助久の太刀を奉る。
  • 宝永6年(1709年)2月晦日、綱吉遺物来国次の御脇指たまう。
  • 7月12日家宣の代に初めて入国の暇乞いの時、来国光の御刀賜う。
  • 正徳3年(1713年)7月11日家継の代に初めて入国の暇乞いの時、来国次の御刀を拝賜。
  • 享保2年(1717年)7月28日備前國正恒の御刀拝賜。これ吉宗の代初めて入国の暇乞いによるものなり。
  • 享保8年(1723年)5月9日致仕。6月15日肥前守。
  • 8月22日家重に正宗の刀を献上し、小次郎君(徳川宗武 田安家)に来国光の脇指、小五郎君(徳川宗尹 一橋家)に當麻の脇指献上。

刀剣  

乱光包
加賀八家本多政重の所持。前田吉徳の正室に将軍綱吉の養女松姫を迎えた際に、「津田遠江長光」とともに将軍家に献上。重要文化財。刀剣博物館所蔵
津田遠江長光
信長から明智家臣津田遠江守重久所持。「乱光包」と同時に献上。
島津正宗
元禄15年(1702年)将軍綱吉が前田綱紀邸に御成の際に拝領。のち綱紀隠居の後、遺物として将軍家に献上。京都国立博物館所蔵
長左文字
元禄15年(1702年)将軍綱吉が前田綱紀邸に御成の際に献上。山形県指定文化財。蟹仙洞所蔵
朱判正宗
万治元年(1658年)綱紀襲封の御礼に、祖父利常の遺物として献上。
村雲江
元禄15年(1702)将軍徳川綱吉が加賀前田綱紀の江戸屋敷に御成の際に、「会津新藤五」とともに献上。重要文化財。個人所蔵
秋田正宗
一名に「石井正宗」とも。正保2年(1645年)8月、父前田光高の遺物として献上している。

関連項目  


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