村雲江


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 村雲郷(むらくもごう)


無銘 伝義弘(名物 村雲江)
長2尺2寸5分(68.2cm)、反り2.1cm
重要文化財
個人所蔵

  • 郷義弘の作。「村雲郷」
  • 享保名物帳、追加の部所載の村雲江。

    村雲郷 磨上長二尺二寸二分 代金三百枚 松平美濃守殿

    • 長さ諸説あり。
  • 行の棟、表裏棒樋をかき流す、鋩子は一枚風。中心大磨上無銘、目釘孔4個。
Table of Contents

 由来

  • 村雲とは刀身の「沸(にえ)」の出来のことで、この刀を見た秀吉が、まるで湧き出る雲(群雲)のごとく見えると言ったことから、そう名づけたといわれている。

 来歴

 秀吉

  • 秀吉の所持。
    本阿弥光徳が江州から掘り出してきて秀吉に見せたところ叢雲のような刃紋だといったので刀号としたという。

 前田家

  • のち前田家へ伝わる。

 将軍家

  • 5代将軍綱吉の時に徳川将軍家に伝わる。
  • 徳川実紀の元禄15年(1702)4月26日に、将軍徳川綱吉が加賀前田綱紀の江戸屋敷に御成になり、その折に綱吉へ郷の刀(村雲江)と新藤五国光会津新藤五)の指添えを献上したと伝わる。

    廿六日加賀守綱紀がもとに始てならせ給ふにより。綱紀つとめて御迎にまうのぼり。(略)御さかづきのとき郷の刀。新藤五國光のさしぞへ。

    けふの賜物、綱紀に備前國宗の御太刀・銀三千枚・時服百・繻珍百卷・天鵞絨五十卷、御盃のとき島津正宗の御刀・吉光の御さしぞへ、内々より師匠坊肩衝の茶入、又左衞門(前田吉徳)に備前長光の御太刀・令五十枚・時服五十、御盃のとき貞宗の御刀、(略)
    献物は、綱紀より備前長光太刀・鞍馬一疋・金三百疋・時服百・緞子五十卷 いろ繻子五十卷・猩々緋三十間・綿五百把、御さかづきのとき郷の刀(村雲江)、新藤五國光のさしぞへ、内々より茶壺[きつや 肩衝]・徐熈の畫幅・箱肴、又左衞門より助長の太刀・銀三百枚・羽二重百疋、御さかづきのとき左文字のかたな、

 柳沢家

  • のち綱吉の側用人柳沢吉保家に伝わる。
  • 享保名物帳編纂時は柳沢家(松平美濃守)。

 窪田平兵衛

  • 明治4年(1871年)7月に売立にだしたという。十把一絡げで出品したものを越後新発田の旧藩士窪田平兵衛が手に入れ、その内の1本を本阿弥家に鑑定に出した。本阿弥家で留帳を調べたところ、「村雲江」だと判明したという。
    新発田藩の窪田平兵衛というと家老に窪田平兵衛武文がいる。ただしこの逸話の人物かどうかは不明。文化11年(1814年)生まれ、明治12年(1879年)没。号 節斎。明治維新では新政府側の立場を取ろうとするが、奥羽越列藩同盟の圧力に抗しきれず、やむなく加盟。混乱の中、新政府軍に合流することで新発田の地は戦火にならなかった。人物アーカイブ窪田 平兵衛武文

 伊藤悌治

  • 明治20年(1887年)頃、大審院評定官の伊藤悌治に250円で売っている。
    伊藤悌治(いとう ていじ)は明治から大正の司法官。大審院判事。安政5年(1858年)生まれ、明治16年(1883年)東京大学法学部卒業。判事を経て明治25年(1892年)東京控訴院部長、明治27年(1894年)大審院判事。大正8年(1919年)12月18日没。

    昭和初期の書籍ではまだ「伊藤悌治所蔵」となっている。しかし次の所蔵者であるとされる高木復も明治の人で大正3年(1914年)に亡くなっており、さらに昭和9年(1934年)時点で瀬戸保太郎所蔵であることもわかっているため、おそらく伊藤悌治はかなり早い時期に譲渡したものと思われる。

 高木復→内田良平→瀬戸保太郎

  • のち伊藤悌治の遺族がこれを処分し、高木復、内田良平を経て瀬戸保太郎所持となる。
    内田良平は、旧福岡藩士で武芸の達人として知られた内田良五郎の三男として生まれる。頭山満の玄洋社の三傑といわれた叔父の平岡浩太郎(玄洋社初代社長)に従い上京して講道館に入る。黒龍会主幹、大日本生産党を結成し総裁。昭和7年(1932年)の血盟団事件、昭和8年(1933年)の神兵隊事件などの黒幕とされる。

    瀬戸保太郎は関西の広告王と称された人物。

 中島喜代一

  • 昭和27年(1952年)3月29日重要文化財指定。島田和昌氏蔵。

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